遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



一昨日 バナナフィッシュ(アニメ)を 見終わったのでなんとなく...

 

 バナナフィッシュの主人公アッシュ は 17歳 金髪に翡翠の目を持ち 

 秀麗な美と 冷徹さを兼ね備えた殺しのプロ IQ200 の 天才

 幼少期から 小児性愛の被害をうけ 男娼として 政財界の重鎮たちの

 欲望の相手として働かされ 身も心も深く傷ついていた。アッシュ

 を見出したコルシカ・マフィア大ボス パパ・ディノは その美貌と才能に

 ほれ込み アッシュを庇護 且つ愛人とし 金融・政治・策略 のすべてを教え 

 将来の後継者にと目論んでいた。

 ところが アッシュは パパ・ディノを裏切ることに為る。

 そのきっかけは 兄が戦地でバナナフィッシュという人間の精神をコントロー

 ルする 薬物兵器によって 廃人にされた事 そのバナナフィッシュに

 パパ・ディノとホワイトハウス 米軍が 深くかかわっていることを知った

 からである。ディノ・ゴルツィネはバナナフィッシュを梃子に政商として

 のし上がろうとしていた。そこに中国マフィア 李一族がからみ 事態は

 混沌。そんな折 アッシュは 英二という日本青年に出逢う。

 英二と出逢ったことで アッシュの氷のような孤独が 溶けてゆく。

 

さて 小児性愛といい ババナフィッシュという 精神コントロール薬といい

まさに 旬 今 現実に起きているモノガタリデス。

コロナの前に小児性愛がありました。エプスタインメモによれば 王族・政財界

エンターティンメント界など その名を知らぬもののない ひとたちが 小児性愛

に惑溺したことが明白になった。このエプスタインメモは2024年1月 公開

されたが 日本では公表されなかった。なぜなら 国の重要人物が関わっていた

ためである。また 2020年にはじまった つくられたパンデミックは 世界中

のひとに のちの 人間ロボット化計画のトリガーとなるクスリを供与するため

のものだった。

 

今から30年前に 小児性愛と人間の精神を思いのままコントロールする薬をセット

でものがたりにした 作者の創造力に感服する。

 

しかし この性愛とは遠く離れた至上の愛のものがたりは 同時に大きな欠点を有する。

それは 作者が 主人公アッシュ を愛するあまり というか アッシュが勝手に

歩き出したことに対しぎゅっとタズナをしぼれなかったことにより。

客観性を失い アッシュを 神に 偶像にしてしまったことである。

そのことで 起きたのは 他の登場人物の 装置化であった。 チンピラたち以外は

すべての登場人物が アッシュに 心奪われ 愛するにしても 憎むにしても 

ただアッシュのためにのみ 行動するように見える。そして 憎悪とは 愛のもうひとつの

名前にすぎない。

しかし アッシュの 視線は ひたすら 英二を 追うばかりである。

アッシュの孤独 絶望 深い傷痕は 英二でしか 癒されない。アッシュは英二

のために 仲間と幾多の危険を冒して手に入れたパパディノを倒す証拠の書類でさえ 

自分の命さえ 差し出すことも いとわない。

この 英二を元の世界(安全な日本 本来の英二の場所)に戻すために 別離れる と

いうのは 献身のようでいて 実に 傲慢な 仕儀ではないのかと思う。

そこに 英二の意志の入る隙はない。選択の余地はない。強引なアッシュの 自己完結......

 

究極 アッシュの 平安 全き癒しは 自らの 死 でしか 贖われない。

生きている間は ダレかのことばを借りれば 『魂の伴侶』を 渇望し もがき

苦しむだけだからだ。

 

原作は しばらく 読んでいないので アニメだけに 限定するなら この

ものがたりは ボーイズラブ などという ものではない。

私見では 英二は 少女の 少年化 代替 である。

少女によって 救われるのは ありきたり 過ぎるので..... また 作者の趣味

時代の風潮もあったのだろう。

また このものがたりは 少女漫画の 定石を もうひとつ 踏んでいる。

それは 平凡な 少女が たぐいまれなる 高貴な 少年に愛されるという

読者のごくふつうの少女たちの心をくすぐる 要件を備えているということで。

 

他の 登場人物の 装置化 といえば エースをねらえ の 岡ひろみもそう

である 宗方コーチのピグマリオンである ひろみは だれからも愛される。

なまえは忘れたが 高校生チャンピオンの 少年にせよ カメラおたくの同級生

にせよ 後輩たちにしろ オーストラリアのコーチにしろ みなが ひろみに

かしづくのである。ひろみも 一見 ごくふつうの少女 宗方コーチの言によ

れば 才能あふれる強豪西高テニス部のなかで なにも!?とりえがないことが

目を引くのである。そして 宗方コーチといえば どうしようもない....病に倒れ

先がない己のテニス人生を 意味のあるものにすべく ひろみを鍛え上げる。

『男の支えのない女は弱い』『女をだめにするような愛し方はするな』が彼の名言

なんだ!! つうの!? えらそうな......

 

なぜ 少女漫画家は 天才が 傲慢な 人間ではない この世に存在しえない男が.....

好きなんだろうね.....

アッシュの弱点は 英二..... じゃなくて もうちょっと ほしかったね。

 

風と木の詩 まで 行きつけないが 竹宮さんは どの漫画であっても

主人公大好き 耽溺してしまうというか一体化 .... つまり それは 自己愛 なんだと思う。

その 作者の自己愛 の 匂いが 好きな コアなファンは 多くいるけれど

わたしは そうではない。 少女漫画そのものが ものがたりそのものが

好きなので 撓んでしまう 色がついてしまうのは 興覚めなのだ。

 

萩尾望都さんも エドガー では しくじったのではないか。

むかし 読んだ 小松左京のことばが 忘れられない ものがたりが(登場人物が)自分の

意志を持って 奔り出したとき ものがたりを制御するには渾身の力が必要だと....

 

ものがたりは 作者の ものなのか? わたしは そうは 思わない。

時代を映し 時代を超える普遍性を持つ ものがたりが 今日も生まれますように。

 

誤解されないよう つけたすと バナナフィッシュも エースをねらえ も

少女漫画史を 照らす 名作に 間違いはない。

 

 

 



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少女漫画の黎明期 牧美也子先生と 一世を風靡した わたなべ先生。

男性の漫画家は 比較的 短命ですが 女性漫画家 強し!!

牧先生も ご存命です。

 

貸本屋まんが 時代から 活躍されていました。

週刊マーガレット カメリヤ館 ミミとナナ 従妹マリア さくら子すみれ子など

双子モチーフが多かった。

洋画の 換骨奪胎 つまり リメイクがお上手でした。

洒落た画風で 少女たちの胸をときめかせましたが 往年は キワドイレディス

コミックも。幅広い作家さんでした。



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一度だけの大泉の話 を 読んでから 萩尾望都さんの 漫画を

読む気持ちが失せてしまって......

それは たいせつにしていた 遠い昔の記憶のなかの 一輪の

瑞々しい白薔薇の 香りが 消えてしまったような カサカサ

した枯れ花になってしまったような さみしさでした。

萩尾さんの痛みは わかるけれど なぜ ここまで 赤裸々に

描く必要があったのか....

銀幕のスターの 日常や闇を 知る必要がないとおなじに漫画家

の生身の闇も知りたくはなかった。

竹宮恵子さんと増山さんのこと 竹宮さんが岡田史子さんに伝えた

苛烈なことば.... 岡田さんの存在がなかったら それこそ 花の

24年組とかいう つくられた惹句で称揚された 一時代を

切り拓いた 少女漫画家たちの作品も あれほどのあざやかさ

清冽さは 持たなかったでしょうに....

 

こんなことを書くのも ●●靖生 という評論家がSF少女漫画史大全?

とかいう 本を出すと知ったので....

買うのはまっぴらでございますが この方は萩尾さんの大ファン

なので いったいなにを書くのかな ひいきの引き倒しになりま

せんように 公平な評論でありますように 無垢な読者に恣意的な

情報をあたえませんように と 祈るばかりで ついよしなしごと

を 記してしまうのです。

 

萩尾望都の あそび玉は SF漫画の傑作ですが わたしは岡田さん

のガラス玉が彷彿としてくる。SFではないのですが その透明感

震えるようなリリシズム

少女漫画 とは 透明な もの それが前提だとわたしは思うの

です。萩尾さんの作品でしたら 秋の旅 雪の子 かわいそうな

ママ など....... メッセージは不要です。

SFでしたら ラグトーリンの話ですね。SFマガジンに描いた少女

娼婦のはなしも 好きです。

 

少女漫画は 朝露 のようなもの

漫画家が おばさん心になってしまったら もう 書けない

たとえ 勲章を もらおうと 絵が見た目うつくしかろうとね

儚いから うつくしい  ブラジャーなんか 出した ポーの一族

なんて 見る気もしない。山口百恵のように 表から消えて

いただいたほうが 永遠に 伝説として 残るでしょうに......

 

SF少女漫画で好きなのは 大島さんのジョカへ 男性失格 

四月階段 とか 

佐藤史生さんの 夢見る惑星 ワンゼロ 原作ありですが タオピ

静霊王など

 

澄んだ水のような 岸辺にゆれる花のような 可憐であるが 全世界

を映し 全世界をうてなに抱く そのような 少女漫画は もう存在

しないのかも知れない 

 

少女漫画は ある意味 文学と同等か それ以上です。

わたしの場合 文学で 人生は 変わらなかったが 少女漫画で

変わりました。その作品の名は 「海にいるのは 」でした。

 

あぁ 語りのテキストを 書くつもりが .... また やってしまった。



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体調が 悪くて 今日は 呪術廻戦 を 読んでいた。

(余計 具合がわるくなるだろうって 言われそうだが まさに)

漫画 好きなんです   手塚治虫 石の森 牧美也子 わたなべまさこ

の頃から…… なので 明治のマーブルチョコのアトムシール集めていたし

明治製菓 がね  毒ワクチン つくって 子どもたちに打つ

治験 5000人 許せないです。手塚先生 泣くと思う.....

ブラックジャックも 怒るよ。それにしても なんなの? 菅田将暉

「ブラックジャック 金取って病気治すから 声優断る」って!?

自分は 洗剤CM   (香害 水汚染)損保ジャパン(ビッグモーター)

で ガッチリ稼いでいて ブラックジャックの真髄も知らんで

バッカじゃない! 君たちはどう生きるか パッとしなかったのは

菅田が アオサギ の声だったのが大きい とわたしは思う。

アメリカで一位だそうだが 声優が よかったのだろう。

一生さんが ブラックジャックで ほんとうに よかった。。

あ スミマセン 脱線しました。

 

……   SFも 純文学も なんでも 手当たり読み耽りましたが

水野英子 西谷祥子 から 萩尾望都 大島弓子 山岸涼子の時代

文学なんぞ 目じゃなかったですね。日本は 🗾日本は🇯🇵

驚くべき 国だったのです。 カミ 神 の 文化ー

 

鬼滅までは なんとか ついてきたのだが 呪術廻戦 20巻は

キツかった。この 漫画 軸が ないんだもの

なんのために 戦うか が 主人公にしてブレブレ 大義がなくても

個人的理由 でもいいのですが その都度 コロコロ変わる

今っぽいといえばそうでが それでいいのかー

ーそれに 作者が ご都合主義的すぎ  全能の神! タブーが無い

例えば 物語世界をつくるにあたって

その世界のルール というものがあるはず  作者さえ 従わなくて

は ならぬものがね。それがまあったくゼロ 状況に応じて後出し

ジャンケン感が ハンパない。

この作者は 多分だが 人間が 嫌いなんじゃないかな と 思った。

フルフルフルベ 十種 トクサの神宝 中途半端な パクリしちゃって…

それで なんですか

「日本の人間を 彼岸に渡し 人ならざる者へ 変えるための…」

って 死滅回遊のテーマ なんだが これも 安直なパクリか!?

今 実際に 起きてることなのですよ。

「日本の人間を 彼岸に渡し 人ならざる者へ 変えるための」

政府のムーンショット計画そのもの 💉 含めてね

 

漫画って 本来 風刺だったんです  権力者へのね

この作者は どこまで 描くつもりなんだろう?

フルフルフルベ  って 再生なんです。

魂も 体も 震わせることで 再生 新生を促す かなりの

真言です。

 

日本の人間を 彼岸に……

それは 戯言でも 謀略論でも ないのです。



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まだ 復刻版が 手に入ります。

 

夢みる惑星【愛蔵版】 2

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個人的には 萩尾さんの 銀の三角 を 超えます。

ひとつの異世界の構築において テーマが現代につながる点において

登場人物のひとりひとりが その生い立ち 人間性を 語っている

ことにおいて.....

主人公である 大神官イリス その父 母 弟タジオン 舞姫シリン

王子カラ 大臣 前大神官エル・ライジア 暗殺者 武器商人 端役

に いたるまで 生き生きと生き その運命が 情念が 意思が

ひとつひとつの旋律として 王国アスカンタの大陸崩壊という 

主旋律によりそい からみあって大河の奔流となってゆくさま.......

圧巻 そして読後のともに旅をしたような 清涼感 .... 

佳い作品がどれもそうであるように ムダがなく 余分なものもない。

香気あふれるものがたりです。

ハリウッドは 気が付かないのかな.... 気が付いてほしくないけどね

 

コピー&ペーストに長けてしまって 書く力もなくなりましたが

いつか 夢見る惑星 について 書いてみたいと 思います。

 

作者の佐藤史生さんは 早逝されました。

漫画家も売れるまではたいへん.... 割のいい(時給の高い)アルバイト

をなさいました。漏れ聞くところ アスベスト関係だったようです。

3.11の前の年 2010.4.4 57歳でした。

闘病もあり 執筆期間は そう 長くは なかった......

もうすこし 長命であられたら .... もっと描きたかったであろう

ものがたりの種子を抱いたまま 逝かれたのだろうと胸が痛みます。

ご冥福を祈ります。

 

ワン・ゼロ も 傑作です。

 

パンデミック 政治 についての記事は 転載自由ですが 少女漫画につきましては 無断の転載 コピペ 固くお断りいたします。



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すべては岡田史子からはじまった。

それは群青の空一面にひろがる花火....つぎつぎと打ち上げられ まなうらに 光の跡をのこし消えてゆく花火

 

 

このブログで”私的少女漫画史”というタイトルで少女漫画の歴史を語ってきたのだが 2010年6月 少女フレンドの漫画家たちで終わり 終着点 帰結点 である 花の24年組について 書くことができなかった。...12年の空白...なぜ億劫になってしまったか 先延ばしにしたかというと 花の24年組の代表のようにいわれる竹宮恵子にひっかかりがあったのだ。わたしは 竹宮氏を花の24年組のひとりとして 認めていない。

わたしにとっての 24年組とは 『少女漫画の歴史を受け継ぎながら 生と死に真正面から取り組み 文学や演劇に強い影響を与え 新しい地平を拓いた独創的な漫画家たちのことである。』

 

ジャンルとしての少年アイの創始者という 竹宮恵子の場合 サンルームにて 1970年12月少女コミックに掲載された。が これは岡田史子のポーヴレトから強い影響を受けた作品ではないだろうか 1976年 風と木の詩連載開始 しかしこの作品には 児童虐待ポルノとみられても仕方ない描写があった。9歳の少年に対するそれは 出版社が子ども向けの雑誌に掲載させてよいものだとはわたしには思えなかった。寺山修司・中島梓はじめ 批評家たちが持ち上げるのも不可解であった。

 

同性愛というジャンルでいうなら 山岸涼子は1971年りぼんコミックで 白い部屋のふたりという少女たちの愛のものがたりを書いている。本当は少年で描きたかったのだが編集部の反対により少女にかえたそうである。1972年別冊セブンティーンに掲載された『ゲッシング・ゲーム』は、少女漫画雑誌初の男性同性愛の話である。

大島弓子では1971年 男性失格 が性転換を描いた作品 その後1973年 ジョカへで リメイク。同年 つぐみの森 寄宿学校の教師の少年に寄せる愛 1976年 七月七日に も間接的な同性への愛のものがたりである。

萩尾望都の場合は 1971年11月 11月のギムナジウム 1973年 あそび玉 ポーの一族 小鳥の巣 で ギムナジウム(全寮制の高等中学)のものがたりを描いている。

 

しかし 花の24年組の前に 岡田史子がいた。

花の24年組 すべては岡田史子からはじまった。それは長い漫画の歴史のなかで今までにないまなざしだった。強いていうなら 石ノ森章太郎 西谷祥子に垣間見られた 生きることへの不安 生のさなかにある死への渇望 かすかな希望 両者の場合 作品の主人公をとおして いはば薄めたかたちで 見える それが 岡田の作品には岡田史子の命そのものが真夏の草いきれのなかに横たわる蝶の屍のように色濃く投影されていた。

1967年 太陽と骸骨のような少年 ポーヴレト 1968年 ガラス玉 サンルームの昼下がり ここに記した作品だけでなく 作品ごとに筆致を変えた 詩のように美しく目を背けずにはいられない ものがたりがある。

 

漫画を生業とするもの 漫画家を目指すものにとって それは超新星の出現 ノヴァだった。実はわたしも漫画家を目指していた。この文章の末尾に 各漫画家の作品目録のリンクを貼っておく。岡田史子の登場した1967年before afterの各作家の作品を読めば一目瞭然である。お涙ちょうだいの少女小説の系譜 大島弓子は悲劇の女王だった 山岸涼子のスポコンもの 家族の学校のご近所ものがたり 海外の映画や小説から着想を得たものがたり 才能はあれどごくふつうの少女漫画を描いていた漫画家たちが北国の春の訪れのように一斉に開花した。それは目を奪う光景だった。

 

岡田史子は 天才だった。

短い漫画家生活のなかで生み出された 生と死にまつわる不安と絶望そして微かな希望 光と闇で織りなされたタピストリの断片を 萩尾望都 大島弓子らは はひろいあつめ 自分の内的な宇宙とつなぎあわせ 自分のものがたりに仕上げていったのだと思う。

それは 生きることはなにか を 問うものがたり 空洞の痛み 魂の飢え 魂の渇き をかかえ さすらうものがたり はるけき彼方にその空洞を痛みを渇きをなげかけ 自分の身に 引き受けるものがたりのかずかずだった。ときに他者のまなざしに ふれあう指先に 渇きは癒される そこに人生の真実があることを知る 至福が訪れる しかし 旅はつづくのだった。

僥倖のように主人公になげかけられる愛 ささげる愛は 性別を超え 年齢を超え 時空を超える あらゆる障碍を超える..... 性愛もときに語られたが それが目的でも大事なのでもない。少年愛 とは 少女漫画というきらめく多面体の一面にしか過ぎない。ここに述べた漫画家 そして ほかの影響を受けた漫画家たちは喜び勇んで未踏の地を走り抜けた ときに傷つきながら 斃れる者たちもいた。この岡田が火をともした革命の結果として 大島弓子は乞うるばかりであった文学に影響を贈り物を与えた 吉本ばなな 嶽本のばらはじめ 枚挙にいとまがないほどに。萩尾望都は演劇に影響を与えた。

 

花の24年組は 岡田史子から はじまった。

あるとき 竹宮恵子から 岡田史子に手紙が届いたという。「あなたは漫画家に向いていない」 岡田史子は 筆を折り ふるさと北海道に帰った。

 

付記の1

竹宮氏の作品には致命的な欠陥がある。それは自己撞着というか 自分の作品の主人公に耽溺し惑溺し 客観的なある意味 冷徹な目でのものがたりの構築がおろそかになってしまっていると感じるのだ。これはほぼすべての竹宮作品にいえる。小説でも漫画でも作者の作品を貫く透徹した視点は必須である。

萩尾さんの作品群のなかで わたしがポーの一族に肯んじないのは 萩尾氏のエドガーに向けるまなざしにそれを感じるからである。たとえば池田理代子氏 山本鈴美香氏の作品にもつくりあげたキャラクターへの偏愛の匂いがあって 素晴らしい作品であるのに 残念だと思う。吉田秋生さんのバナナフィッシュにもそれを感じる。

おっと 罪の香り .. 抜き足差し足忍び足 自分のつくったキャラを溺愛すること それは自己愛に通じる。しかし 一部のファンがそうしたキャラクターを好むのも事実だ。ジャニーズや韓国タレントのように。大島さん とくに山岸さんには そうしたところはカケラもない。

日出る処の天子が あれだけの長丁場 構成の揺らぎも見せずに 最後まで到達したことにわたしは感嘆する。小松左京がかって語ったように 中盤 拡散してゆくものがたりを疾走するキャラクターをぐいぐい引き絞る それは男性作家にさえできないひとがいるほどの精神の力仕事だ。物語の揺るぎない構造と自立したキャラクターがあって 厩戸の最後のセリフが生きる。超能力者である厩戸は毛人に去られたあと「わたしは偏頗な人間だ」と述懐するのだ。そう超能力を持つとはそういうこと 力を握る欲望とはそういうもの そして DSが推奨する LGBTは 少年愛も含めて不毛 なにものも生み出さない。

昨年の今時分 萩尾氏の ”一度きりの大泉の話” を読み 衝撃を受けた。それは竹宮氏とマネージャーの増山氏が萩尾氏を訪ね 「盗作をしないでほしい」と言ったというくだりである。少女漫画の歴史について わかっている方なら また今回 拙文を読んでいただけたらおわかりだと思うが それはない。寄宿舎がテーマの映画を一緒に観たとしても 作品はおのずから違う。たとえ原案が同じであったにせよ 作者の生まれだち 性格 知識 智慧 技術で 異なるものがたりになる。仮にインスパイアされあったとしてもお互いさまだと思う。

なにより萩尾望都は少年同志の愛を描いたわけではないからだ。

岡田史子さんのエッセンス 香気は 竹宮作品にはない。継承した萩尾望都の詩情 大島弓子の哲学もない。竹宮氏の本来の持ち味はむしろ庶民性とぬくもりにあると思っている。それも漫画にはたいせつな要素だ。

 

付記の2

竹宮恵子氏の作品の主要ないくつかが 増山法恵氏の原作といい また多くの作品に強い影響を持つという。私的な観測だが 二人三脚というよりむしろ 竹宮氏が増山氏の分身であったような気がしてならない。増山氏のwikiを見て その思いを強くした。増山氏は漫画家を目指していたが絵が描けなかったという。わたしもそうだった。溢れ出る物語をカタチにできない それは翼をもがれた鳥。代わりの翼を求めるか ダレかの背に乗って飛ぶしかない。

増山さんは翼が欲しかったのではないか。それは一度きりの大泉で萩尾氏が語っている「増山氏の媒体になりたくなかったので離れた」ということばが裏打ちしているように思う。今回 私的少女漫画史その10を書いたきっかけは 竹宮氏の大島弓子評と岡田史子さんの対談から竹宮氏が岡田史子さんに送った手紙の内容を知ったから そしてなんとかまどかというひとの的外れな書評を読んだからである。竹宮氏が書かずともよかった手紙をどのような気持ちで書いたのか 送ったのか 命を漫画に込めて描いていた岡田さんがどのような想いで 手紙を受け取ったのか 重く 痛い。

昨年 増山法恵さんが亡くなったと昨夜知った。一度きりの大泉 出版 の一か月余りあと。 持病があったという 二度目の接種を受ける前だったという。増山さんの冥福を祈る。

付記の3

わたしは フクシマ三部作を読んだあと 萩尾氏を追うことをやめた。フクシマと縁が深く 幾度か南三陸に通い ガイガーカウンターが鳴き叫ぶのを 聞きながらひとりで山越えをし 被災者から聞き書きをし フクシマを考え続けてきた自分にとって あれはなかった。菜の花も大仏も絵空事 擬人化された核種に至っては笑うしかなかった。もっと突き詰め昇華したものがたりを出してほしかったし 全体に香りが失せていた。

後年の柳の木は好きな作品だったが 元ネタをみつけて それも その10が書けなかった理由のひとつだったのだろう。秋の旅 11月のギムナジウム 雪の子 モードリン セーラヒルの聖夜 かわいそうなママ 小夜の縫うゆかた 半神。雪の中の花火のように美しいものがたり……すべてに終わりがくる。誰にも描けなくなる日が来る。肉体も肉体に支えられた精神も老いて弾力を失ってゆく。

他の記事をアップしながらであるが 一日がかりで書き上げて なんとか総括できて わたしのなかで 大泉サロンは終わった。あとは 大島弓子さんだけ……

 

付記の4

わたしの翼は語り だった。ものがたりは溢れるように生まれる。しかしそのものがたりをどのように伝えるか は別の話である。LTTA   ラーニングスルージアート でストーリーテラー マーサ三宅と出会ったこと RADA英国ロイヤル演劇アカデミーでイランさんやニックさんから学んだこと 演劇を学ぶことは伝えるための力になった。なかでも 蜷川さんが重用した 伝統芸能が輩出した役者 壌 晴彦氏が ひとりの演劇青年に 語ったことば。「あなたは芝居が好きなんじゃない。芝居をしている自分が好きなんだろう。それがあなたの演技から見えるんだよ。すぐ この場で芝居をやめなさい」語り部としての自分が決してわすれてはならない座右の銘である。だが これはすべての表現活動に通じると思う。

全ての芸能の原点は 神への捧げものだった。そのためには 自分を捨てなくてはならない。何もかも忘れて 一心不乱に 向かうこと 漫画でも語りでも 踊り でも。すると たまさか 神が宿られることがある。己の限界を超えた ものが 生まれる。至福とともに。

付記の5

少女漫画におけるSFは 佐藤史生にはじまった。夢見る惑星は金字塔。佐藤さんは アルバイトに行った工場でアスベストを曝露したことにより闘病ののち 亡くなったという。佐藤さんは戦死したのだとわたしは感じている。透き通った理路正しい冬の夜空のような作風だった。冥福を祈る。

  

付記の終わり

それにつけても 岡田史子は 『ギフト』 だった。岡田さんの冥福を心から祈る。そして 大島氏 山岸氏 萩尾氏をはじめとする 当時の漫画家たちに深い感謝をささげる。もしコミケにかかわらなかったら 少女漫画たちのあまたの挑戦にであわなかったら わたしの人生は彩の乏しいものになっていただろう。語り部という今世での役目のひとつは果たされなかったであろう。

岡田史子の火花をわたしも受け取って 自分のことばで自分のものがたりを語る唯一の語り部として 今日も 語りにゆく。私感では 岡田史子に端を発する 少女漫画革命は 1970年代で終わり 爛熟期に入り 今は長い低迷期。次なる天才は現れるだろうか。

 

岡田史子 目録

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%8F%B2%E5%AD%90

 

萩尾望都 目録

https://www.hagiomoto.net/works/

山岸涼子 目録

http://www.kategories.com/yamagishi/fsakuhinlist.htm

大島弓子 目録

http://www2t.biglobe.ne.jp/~autumn/sakuhin.html

竹宮恵子 目録

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%AE%AE%E6%83%A0%E5%AD%90

 

パンデミック 政治 についての記事は 転載自由ですが 少女漫画につきましては 無断の転載 コピペ 固くお断りいたします。

 

 



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今年の夏のコミケは通算100回目なのだそうだ。それにしても なぜ コミケはお盆のさなかにやるのだろう?まるで 逝った人たちを偲ぶように 召喚するかのように.....今 思えば コミケは遅ればせにきた わたしの青春だった。

ことの起こりは浦和駅の今はない線路下の喫茶店だった。そこで会ったのがコミケの初代代表を務めた原田央男さん、原田さんはモトのトモという萩尾さんのファンクラブを主宰していて わたしは大島弓子さんのファンクラブを……そんなことから 岩崎一樹さんや コミケ二代目代表米澤嘉博さんや アニメバルディオスやヒカリアンの監督になった廣川和之さんや いろいろな人と交流することになる。

わたしがはじめて行ったのは太田産業会館だと思っていたけれど、どうやらコミケの前身?の日本漫画大会だったらしい。 参加したのは 1973年8月4日(土)~5(日) に開かれた第二回 場所は新宿・四谷公会堂。だれかが大島弓子さんのジョカへ第二回 二色ゲラ刷りを出版社からもらってきて歓声が上がった。宿泊は駿河台ホテルで 真夜中の道 ホテルまで肩を組んでアニソンをたからかに歌って帰った高揚感がよみがえる....

翌日もそのままの勢いで 水野英子さんのファンの部屋に泊まった。水野さんのアシスタントをしている長身の看護師さんもいっしょだった。そこで紹介された岩崎一樹さんは同人誌の花形だった。.....やおい 美青年美少年の恋愛感情+○○みたいな作品を同人誌に画いていた....やおいは1975年沢田研二主演のドラマ 悪魔のようなあいつ から始まったと言われているが とんでもない この頃の同人誌は ボーイズラブで溢れていた。

個人的には風と木の詩はちょっと違うと思うが 商業誌においても 山岸涼子の白い部屋のふたりは少女同志の愛の物語だし もりたじゅんのうみどりは 兄妹の愛の物語 日出ずる処の天子の歴史上の人物 厩戸とエミシ……LGBTどころじゃない50年前の少女漫画は垣根なし タブーなし百花繚乱の愛の世界だったのである。気恥ずかしいが言わせてもらうと そのひとなくては生きることの闇を越えられない魂の片割れを求めるものがたり それぞれ孤独な偏波な人間が真っ当に生きるためのよすがを求めるものがたり 男女のみならず恋愛のシバリ 障碍を越えることで 撰ばれ 至上のモノとなった愛のものがたりだった これが私感である。

 

 11月のギムナジウムの声優のオーデションも四谷公会堂で開かれた。オスカー役の女子大生が実によかった。それから繰り出したのは新宿の雑踏....70年代の新宿は猥雑なエネルギーに満ち満ちていた。マンモス地下喫茶カトレアは小学校の校庭くらいの広さがあって、みなから離れてそのすみでわたしたちは越し方 ゆくすえを語り合った。深い井戸の底には 天上につながる道があった。(あのとき 11月のギムナジウムに参加しなかったとしたら わたしは 生涯のツトメと定めた"語り"に25年後 足を踏み出しただろうか。)

その翌年1975年 コミケの第一回が開かれ 750名が集まり ダイナビジョン 11月のギムナジウムが 上映された。しかし 参加者の多く少女たちが群がったのは同人誌 ファンジンだったのではないか。

 

コミケの二回目も行ったような気がするが印象は定かではない。一樹さんに誘われ晴海にも行ったような気がするが コミケは熱狂的な二次制作者の場になっていった。それはそれで意味があったとおもう。二次制作者の中からスターも生まれ デビューを果たす人たちも現れた。だが 正直 わたしは"パロディ"、"二次制作"も"やおい"も好きではなかった。求めていたのは 新しい地平。花の24年組 大島弓子 萩尾望都 山岸涼子 が文学をも軽く乗り越えた芳醇で精緻な世界のその先。

 

コミケのあの熱狂を支えた コミケを立ち上げた人たちの想いはどこから生まれたのか?

1971年暮れ COMが潰れた。COMは手塚治虫が発刊したマンガ専門誌でCOMのグラコンは新人の登竜門だった。喪われたその場を取り戻そうとする エネルギーが 漫画大会を産み コミケに繋がったのではないか。そして 底流には 70年安保の敗退 が ありはしないか 1972年2月の浅間山荘事件が ありはしないか。それは 絶望という二文字では 言い表せない なんとも形容し難い恥辱 汚辱だった。

それは連合赤軍だけの問題ではなかった。学生たちの安保反対のカタチはさまざまであったけれど 運動そのものの中に矛盾があること 権力の濫用 弱者と強者の関係 そういった汚濁 軽侮すべきものが身のうちにあることを突きつけられざるを得ず、それは二重の敗北だった。最大の悲劇は日本の健やかな右翼 健やかな左翼が死んだことにあると思う。。一部の運動家は権力の側へ走ったりした。一言でいうと人間がぶっこわれた。そんな人間を複数知っている。

より誠実なひとたちにとって 埋め合わせになる何か 手立てが必要だった。それが コミケだったりオタクだったりではなかったかと 50年を経て思うのである。

 

安倍元首相の岳父 岸信介首相は 60年安保反対 反政府 反米 デモを抑えるために児玉誉士男にヤクザを集めさせ 住吉連合も参じた。安保は自然成立となったが岸は退陣せざるを得なかった。70年安保 岸の弟である佐藤政権は機動隊を強化 学生たちは機動隊との戦いと内ゲバに疲れ果てて行った。その後安保は自動延長になる。だから80年安保は存在しないのだが 橋本治等は 80年代のサブカルチャーを称して 80年安保 と言った。 劇団スバルの座長は10年前 オレたちは 文化で闘う と 言った。

だが どうだ? コミケに集まる二十万は 文化で闘っているの? 遺伝子改変注射は何回打ったんだろう。国から殺されそうだ と知っているのだろうか…… コミケ1回目と同じ 100回目の節目も "この国の曲がり角"だ。"運命の分かれ道" だ。

 

米澤嘉博さんも 亜庭さんも 廣川さんも 一樹さんも すでに旅立った。

原田さんも含めて みんな貧乏だったけど熱くておもしろかった。漫画に アニメに 場をつくることに 命懸けだった。 知る限りで 二人は客観的に視て無慚な死だった。それとも納得し満足して死んで行ったのだろうか? 悔いはなかっただろうか? ひとはなにかになにものかに自分の存在を懸けて生きる それだけでいいのだろうか?

 

国会を埋め尽くす デモ 60年前 国民はこのように闘って 首魁岸首相を引き摺り落とした。

50年前 若者は 権力に 自らの弱さに 首うなだれ サブカルチャーを生み出した。

あぁ わたしは 彼処 あの時代 あの場所にいられて よかった。

そして思う。全共闘世代の橋本治 が いみじくも語ったように 2022の夏 わたしたちは別の安保を戦っているのかもしれない。ネットで畑で仕事場でサブカルチャーで闘っているのかも知れない。あの時の落とし前をつけるために。自分のいのち つづく命を守るために。投石でメガネを割られスゴスゴ帰ったあの日のリベンジだ。今度はまけない。

 

wiki

おたくとは、愛好者を指す呼称で、1980年代日本サブカルチャーから広まった言葉である。元来の「お宅」は相手の家や家庭を指す敬称の二人称代名詞であるが、ある特定のサブカルチャーの愛好者を指し示す、現在使われている言葉としての「おたく」の起源は、1983年コラムニスト中森明夫コミックマーケットに集うSF漫画アニメなどの若いファン達がお互いを「おたく」と呼び合っていた現象を揶揄して、彼らを「おたく」として分類したことにある。

 



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今日  片付けをしたら  いろいろと懐かしいものが....

銀の花びら 星の竪琴   水野英子さんの漫画です。昭和45年の初版  その他 ワタリ 忍者武芸帳   LALA   フラワーコミック プチフラワー  たぶん発刊の時からの。当分 楽しめそうです。忙しくなければね。

飛鳥幸子さんの 紳士は甘いのがお好き   が面白かった。

キザで洒落ていて  ファッションもストーリーも楽しみました。

 



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…ビョルンアンドレセンの伝記映画のレビューを見ていたら あっ と思った。ベニスに死す で ドラマティックに私たちの前にタッジオことビョルンアンドレセンが顕れたのは1970 年だった。そして 少女漫画の革命 おもに花の24 年組の活躍はまさに1970年代にはじまった。

それぞれの作家の切り口は違った。少女の代わりに少年に語らせる 少女の男装 また壮年に愛される少年 いずれの場合も 少女と見まごうばかりの瑞々しい少年 あるいは少年のごとき凛々しい少女が 織りなすものがたりが読者をときめかせたのは事実である。そのなかで いくつかの作品は 少年や少女の成長を描きながら 普遍的なひとの存在の意味とはなにか まで昇りつめた。まさに作家にとっても読者にとっても稀有な幸せな時間だった。

それが ひとりの美少年の出現に 触発されたためだったかも知れない、そしてその少年が性的に搾取されていたと知ったとき あの熱狂的な時代の底流にあったのが赫きばかりでなく翳りをも含んでいたことに 今更ながらうなづくのである。

当時 わたしは 小説ベニスに死すと映画は別物だとかんじていたし 丸山明宏を五十年以上前見た子どもの頃とおなじような 羞恥を感じずにはおれなかった。それは魅力的ではあったが 隠微な思わず目を背けさせるものであった。その感覚は 間違ってはいなかったと はっきり思う。今 世界を支配しているひとたちは男同士の愛が好きのようである。ヒルゲイツもオハマもお相手は女装した男であるし ヒルクリントンは女装がお好きなようである。

わたしは同性のカップルが幸福になることを祝福するが 神が仰せられたことばもまたおもいだす。 「生めよ ふやせよ 地に満てよ 」 世界中の昔話に 子供のない親に子供がめぐまれるものがたりがあるのは何故か? それが天の摂理だからだ。単純なことなのだ。男同士では子どもは生まれない。

彼らは 根絶やしにしようとしている。ジェンダーフリーというわけのわからぬ呪文によって 化学という医学といういかがわしい魔術によって……。

胎児にも 幼児にも 滅びの魔術をかけようとしている。

海の向こうでひとびとは圧政に対し健気に戦っている。日本のメディアはスルスルスルーである。この辛うじて保たれている均衡が向こう側に傾いたとき 多くのひとが病に苦しみ 飢餓に苦しみ 気候の変動に苦しみ 文明は終わる。仕方がないのかな 散々好き放題してきたのだから 彼らに踊らされて。しかし 殺されるのはいやだな

タイトルは少女漫画の進化だが 実態は男側に立ったジェンダーフリーに実は加担し 先鞭を切っていた少女漫画である。諸先生がた 滅びの事実を類稀なる直観で察知していらっしゃいましたら なにがしかの力を振るってください。幼き子らの命のために。



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1月3日  浦和の蔦屋で  ポーの一族  が平台にあって つい 買ってしまいました。オムニバス連作って あまり好きではありません。なぜなら  漫画家の方向性を規定してしまうような感じがあるからです。1972年  すきとおった銀の髪ではじまったポーの一族  は第二期でフィーバーしました。繊細なうつくしいバムパネラの少年たちの耽美なファンタジーとして読者に支持されたのではないかと思います。1978年に始まった 大島弓子の綿の国星も  大きな支持を得て  連作されましたが  以降  大島さんの作風も変わりました。

残酷な天使のテーゼ  の作詞家は  萩尾望都の 残酷な神が支配する  に触発されて詩を書いたそうです。わたしのカラオケレパートリーのひとつです。少女漫画にもテーゼがあります。それは 欠落  うしなわれたものの回復。主人公たちは失われたなにかを求めつづけます。エドガーの場合は  失われた人間らしさ   人間としてのよすが  その象徴がメリーベルであり  代理としてのアラン  です。「ひとりでは 寂しすぎる」エドガーの自己愛にほかなりません。

春の夢 は グレンスミスと ランプトンの間くらいの時代設定でしょうか?  耽美なバムパネラの世界から 萩尾さんは 歴史家としての 視点を持とうとし  第二次大戦の時代を選んだのでしょうか? それとも 創作するものとしてのカナリアの直感から  第三次世界大戦前夜とも思しき今 戦時のものがたりを選んだのでしょうか?

少女漫画のテーゼとさきほど申しましたが  文学や芸能の永遠のテーマは  ひとはなぜ生きるかであり  失われたものの回復  すなわち  再生  蘇りです。そこに介在する エッセンスが 愛 であり献身です。

わたしの ポーの一族 という作品への思い入れは エドガーが 自己愛から脱して  真実に気がつくこと  愛を知ること  それがいつなのかということ。若さやいのちに拘泥し 他者のエナジーを求める ファルカやクロエというバムパネラがいて  対して老いた姿のままで居ることを選んだ老ハンナがいます。弟のために生きる少女ブランカを エドガーが見初めるのは エドガーの魂の成長への予兆のようにわたしには思えます。

エドガーにとって不死とは 賜物ではなく  業です。エドガーは ひとの生死を握るいわば残酷な神.....エドガーが 愛を知ったとき  なにものかに捧げ得たとき  その業が 終わるような気がします。失われたものの回復 すなわち トラウマの解消 、愛の成就。以前に書きましたが 萩尾作品のうち 好きなのは  秋の旅   スターレッド   そして柳の木。魂のイニシエーション。

トラウマの解消  よみがえりについて  わたしはきのう 素晴らしいアニメを見ました。それは クレヨンしんちゃんの 獏 の話でした。わたしは腹を抱えて笑い  幾度か泣きました。ひとりの少女の悪夢からの救済 をしんちゃんや 仲間や  みさえやヒロシやひまわりがシロが懸命にする。戦う これこそ愛です。 春日部バンザイ  さいたまバンザイ!!

絵柄が変わった それは瑣末のことのように思えます。ひとは変わってゆくのです。40年 年を経て  変わらないひとがありましょうか?   萩尾さんの絵は 山岸さんや大島さんと比べて 枯れていません。線はかそけき揺らぎを失い 自信に満ち  確かな筆致となったにしても。透明性は 如何せん  喪われたとしても 萩尾望都さんは 40年の間に人生で受け取ったものを見せてくれることでしょう。

 

このところいくつか 記事をUPしました。なぜかというと   体調がわるく 思うように身体が動かせないのです。それでベッドでブログを書き あとは無料スカパーの日だったのでクレヨンしんちゃんをみていました。  ブログのUPがないときって   行動を起こしてるとき  バリバリ 働いている時なんですね。あすは 森は生きている  第二回  公演のはずだったのですが 残念 メンバーが揃わないので  語りの会になりそうだし   一年のスタートはイマイチというところ。

でも あしたから 戦いがはじまる。



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 (好きな少女漫画というお題に参加しようと思ったのだが 上手くいかなかった)

 

漫画雑誌の発売日を待ち望むあの高揚感

少年誌では あしたのジョーと巨人の星がW掲載されていた少年ジャンプ!

少女誌では 水野英子の白いトロイカの頃......

 

でも とおしてみると 大島弓子しかいない。

1973 ミモザ館 から 1974 海にいるのは...

までが 漫画ファンとして純粋にしあわせな 時代だった ....

もちろん それに先立つ 萩尾望都の 1971年 雪の子 から 1972年 みつくにの娘までがあって

の大島弓子なのだけれど....

こうしてみると 少女漫画家としての みずみずしい花のような時代は ごくわずかな時間だった....

そのあと 大島弓子は セラピストを経て 哲学者になった。

 

大島弓子                                      萩尾望都

生きていた過去 1971年6月週刊セブンティーン掲載 Bitmap
雪の子
夏子の一日 1971年週刊マーガレット28号掲載 Bitmap
塔のある家
禁じられた遊び 1971年8月週週刊セブンティーン Bitmap
花嫁をひろった男
別れへの招待 1971年8月週刊マーガレット掲載 Bitmap
ジェニファの恋のお相手は
あしたのともだち 1971年別冊少女コミック10月号 Bitmap
かたっぽのふるぐつ
あひるよ空に 1971年週刊マーガレット41号掲載 Bitmap
かわいそうなママ
遠い日のイブ 1971年別冊少女フレンド12月号 Bitmap
精霊狩り
みち子がきた日 1971年週刊マーガレット49号掲載 Bitmap
モードリン
    Bitmap
小夜の縫うゆかた
    Bitmap
ケネスおじさんとふたご
    Bitmap
もうひとつの恋
    Bitmap
10月の少女たち
    Bitmap
秋の旅
    Bitmap
11月のギムナジウム
    Bitmap
白い鳥になった少女
    Bitmap
セーラ・ヒルの聖夜
パパは星になった(さよならスーパーマン) 1972年週刊セブンティーン44号掲載 Bitmap
あそび玉
さよならヘルムート 1972年週刊マーガレット6号掲載 Bitmap
みつくにの娘
3月になれば 1972年別冊少女コミック3月号掲載 Bitmap
毛糸玉にじゃれないで
さくらさくら 1972年週刊マーガレット13号掲載 Bitmap
すきとおった銀の髪(ポーの一族)
星にいく汽車 1972年週刊マーガレット22号掲載 Bitmap
ごめんあそばせ!
鳥のように 1972年別冊少女コミック5月号 Bitmap
ドアの中のわたしのむすこ
いちごの庭 1972年6月別冊少女フレンド Bitmap
3月ウサギが集団で
わたしはネプチューン 1972年別冊少女コミック7月号掲載 Bitmap
妖精の子もり
なごりの夏の 1972年週刊少女コミック8月号掲載 Bitmap
6月の声
雨の音がきこえる(ラ・レッセー・イデン) 1972年別冊少女コミック10~11月号掲載 Bitmap
ママレードちゃん
風車 1972年週刊少女コミック12月24日号掲載 Bitmap
ポーの村(ポーの一族)
    Bitmap
グレン・スミスの日記(ポーの一族)
    Bitmap
ポーの一族
    Bitmap
とってもしあわせモトちゃん
    Bitmap
ミーア
つぐみの森 1973年別冊少女コミック3月号掲載 Bitmap
メリーベルと銀のばら(ポーの一族)
ミモザ館でつかまえて 1973年週刊マーガレット12号掲載 Bitmap
小鳥の巣(ポーの一族)
ジョカへ・・・・ 1973年別冊少女コミック4・7・9月号掲載 Bitmap
キャベツ畑の遺産相続人
春休み 1973年4月少女コミック増号掲載 Bitmap
オーマイ ケセィラ セラ
花!花!ピーピー草…花! 1973年週刊マーガレット20号掲載  
季節風にのって 1973年週刊少女コミック37号掲載  
野イバラ荘園 1973年9月月刊ファニー掲載  
キララ星人応答せよ 1974年週刊マーガレット10号掲載 Bitmap
ハワードさんの新聞広告
ロジオン ロマーヌイチ ラスコーリニコフ(旧題「罪と罰」) 1974年別冊少女コミック1月~3月号掲載 Bitmap
みんなでお茶を
なずなよなずな 1974年週刊少女コミック13~18号掲載 Bitmap
ユニコーンの夢
海にいるのは・・・ 1974年別冊少女コミック7月号掲載 Bitmap
トーマの心臓

 

 

 

 

 

 

 

 



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名作漫画 ランキングに 思わず参加してみた...

 

名作は数々ありますが とっさに思い出せるのは

短編  白眼子 (山岸涼子) 少女漫画といえるかどうかわからないが 少女漫画家の作品であるということで。

     ダリアの帯 (大島弓子) ほか 多数

     秋の旅 (萩尾望都)

     フレデリカの朝 (飛鳥幸子)

     風花 (西谷祥子)

長編  日出る処の天子 (山岸涼子)

     銀の三角 (萩尾望都)

     

名作とは 構成と感動が両立する作品です。

でも 名作と 好きな漫画 は 重なるのも 重ならないものもありますね。

 

好きな漫画は 大島弓子   ミモザ館でつかまえて ジョカへ ノイバラ荘園   エトセトラ



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森川久美の「上海ロードに花吹雪」 をさがしていて 山岸涼子の 牧神の午後と白眼子を読んでしまった。二作ともひとりの男の一生のものがたりである。

時代 設定を別にして二作とも ふつうの人間とはことなる ある異能をもった男の人生が描かれている。

白眼子とは北海道に実在した霊能力者であったらしい。盲目で.....おそらく 意識を次元を超えて飛ばせることで 他者を観る巫顕だった。(巫女の場合は憑依させることが多い)

試練は人を強くさせる。
わたしのところへいろんな人々が
災難をさけてくれとやってきた。

だけど本当は
災難をさけようとしてはいけないんだ。

災難は来るときは来るんだよ。
その災難をどう受け止めるかが大事なんだ。

必要以上に幸運を望めば
すみに追いやられた小さな災難は
大きな形で戻ってくる。

幸と不幸の量は
みな等しく同じなのだから。

と 山岸涼子は白眼子に言わせているが このものがたりに真実を感じるくだりは実はそこだけではない。

たとえば 大東亜戦争で戦死した息子に会いたいという父親を息子のもとにつれていったときの 白眼子のひどい疲労 身体とひきかえに占っているという台詞 ひとをうらなったのだからガンになって当然という考え方 という白眼子のことばに真実があるのだ。

不世出の踊り手 ニジンスキーの場合も同様のことが語られる。白眼子は 光子という戦災孤児の少女の目線で語られ ニジンスキーの場合は脚本家の目線で語られるのだが 「翼あるものは腕をもてない」そのひとことに尽きる。すなわち 異能の持ち主 神と通じるものはその代償として 贄を捧げなければならない ということなのだ。すなわち ふつうの視力 日常的な生活をする能力......ゆえに天才の能力を開花させるためには彼のために日常をこなし 自由にはばたくことに専念させられる誰かが必要なのである。

ニジンスキーは当たり前の幸福を求め結婚をしたことで 翼を失いのちの人生を狂気のなかですごした。白眼子は生涯結婚することもなく ひとりの少女に慰めを見出し 病院の大部屋で死んでゆく。彼らの天才 輝きはいったいなんのためにあったのだろう。択ばれたものたちの役目はいったいなにだというのだろう。

山岸涼子は あの日出処の天子をはじめ 異能 を持つ人間をテーマに描くことがままある。山岸涼子にとって 天才とか神の恩寵を受けし者だったのだろうか。



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やはらかな筆致 ことばのうつくしさ ...... ひとのこころのひだにしみいるやさしさ さまざま ありましょうけれど わたし 今日 ひとつ 発見しました。

わたしの場合は.........。

3冊 無人島に 持って行けるとしたら あなたはどんな本を持ってゆきますか?

大島さんはたしか広辞苑と....

わたしは闇の左手....ル・グイン 雪は汚れていた .... シムノン

それから「大島弓子名作集 昭和52年 朝日ソノラマ 」当時2500円の大冊でしたが 70年代の名作をほぼ網羅しています。これに 「ほうせんかぱん」名作集 主婦の友社があれば 大島さんについてはほぼ完です。 ダリアの帯 まいにちが夏休み なども好きですが....。

なにを発見したかというと 三人のストーリーテラーに共通するのは 至上の愛......なのでした。 性差 年齢 時 罪 あらゆるハンディ あらゆる障壁を超えた愛 死をも越える愛 はるけきかなたへ向かうあこがれとまなざし......

永遠に女性的なるもの我を天上に引きよすなり......海にいるのは....でつかわれたゲーテの詩にあるように 愛するものへのまなざしをとおしてひとは天上を見るのではないか.... つかの間の光芒のなかに。

私の好きな漫画家 あとのおふたり 萩尾望都さんと山岸涼子さんにもこの視点はないように思います。.....ふたりにあるのは人間のドラマです。 山岸さんの作品では 闇の淵にあえかなひかりがある それは日出ずる処の天子や白眼子のように少女のすがたをしていたりするのですが 抱きとめる腕も胸ももちはしない あるのは孤独。萩尾望都さんの底にあるのは諦念と思うのはわたしだけでしょうか。すでにそれぞれの覚悟はできている 雪の子も 秋の旅の少年も エドガーにも 銀の三角の主人公にも 自分の運命を受け取ろう 荷うことにためらいはほとんどない、逃げようとはしない たぶん 神など信じてはいない 澄んだ朗らかささえそこにある。

大島さんにあるのは 天上へのまなざし..... そこに惹かれるのだとわかったのです。

これは最も好きな時代の最も好きな作品から感じることです。バナナ ブレッドのプディング以降についてはまた 書いてみたいと思います。

 



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すこし前 萩尾さんのなのはな と 原発三部作 プルート夫人 ウラノス伯爵 サロメ が話題になりました。萩尾さんはいわゆる社会派とは遠い存在でした。長年にわたる執筆活動のなかで 社会派といえるのは 四日市大気汚染を扱った かたっぽのふるぐつ ただ一作です。この作品はいちども再録されませんでした。.......商業誌で 原発NO というのはむつかしいことと思います。やむにやまれぬ思いで書かれたであろう萩尾望都さんに敬意を表し勇気をたたえたく思います。

なのはなは 萩尾望都さんにとって フクシマへのレクイエムなのでしょう。チェルノブイリにいるわたし フクシマの少女 .....これからフクシマがどうなるか わかっていても絶望は描けない。......なのはなで除染はできないとわかっていても。津波で流されたのか 放射能で亡くなったのか わからないひとがおおぜいいる。(フクシマではふしぎなことが起きているそうです)......津波で死んだばぁちゃんは なおの夢のなかで仏さまの掌に...... 成仏する? .....わたしも 語り ”レクイエム”のなかで 天使に抱かれて 天に上ってゆく母親を語りました。.....それがそのときの精一杯でした。 ブログをかく以外なにも手につかない状態から そのものがたりを語ったことで自分も救われ再び語りはじめたのです。

それだけでいいのだろうか...... 聴いて泣くひとはたくさんいる 読んでなくひとももっといるだろう  その涙はなにか生むのだろうか....

山岸涼子さんの原発をあつかった作品に「パエトーン」 があります。ネットで公開されていますね。 → こちら  大飯原発 六ヶ所村 原発ジプシーまででてきます。 ものがたりではなく 原発について やさしく噛み砕いて 講義 をしているようです。

「夏の寓話」ヒロシマの少女がでてくる作品 そのほかに未読ですが「中東派兵について一言」という作品があるそうです。

大島弓子さんには「 戦争は終わった 」 「禁じられた遊び」 問題作として「誕生」(若年の妊娠出産がテーマ)などがありますが 誕生をのぞいて 単行本には収録されていなようですね。この「戦争は終わった」はとてもストレートで 登場人物がみな悲惨な死をむかえます。禁じられた遊びは有名な映画の漫画化でした。

でも それだけではなかった....海にいるのは・・・七月七日に....も うらに戦争が流れているんです。海にいるのは....は第二次大戦中 夫を戦地でなくしたアリスがパンを手にするために娼婦となる .... ことからはじまったものがたりです。「七月七日に」 この作品は戦時中 おさない少女が風変わりな母と暮らすものがたり.....この母なるひとは実は母ではなく 女性でさえなかった。 愛したひとの子どもを守るために女装して育てる  いはば 究極の愛 なのですね。海にいるのは....は もそうです。  時空を越え 死をも超えた愛。

わたしは ふと 思いました。いわゆる硬派のメッセージをひとにつたえるのはむつかしい。エンターテインメントとしてつたえることで多くの人に受け入れられる。エンターティンメントをとおして ひとにつたえるということは ストレートである必要はない。原発の単語 プルトニウム シーベルトなど をつかわなくともよい。二年西組や東京大空襲のように直接 戦争の被害にあったひとの代弁の語りでなくとも よいということ。.....しっかり情報がからだにはいって 自分の体験とむすびついて それをものがたりに結晶化させるということもしかしたら なにかできるかもしれない。

少女漫画を語りにしてみたいと思ったことがあります。 海にいるのは....の主人公はアリスの客だったフランクリン先生の娘ヒルデガードとアリスの息子 商業誌の少女漫画ですから14.5歳のふたりです。このヒルデガード 大島作品には突出した個性......なんですね。それが とても不思議だったのですが ようやく きのうわかりました。主人公はヒルデガードではないのです。わたしはなんとうかつだったんだろう。......提督と少年(実は娼婦アリス)だったのではないでしょうか。海にいるのは....を設定を変えてあたらしいものがたりとして 語ってみたいと思います。 原発の問題にしても 聴いてくれるひとの生活がかわるような なんらかの行動に駆り立てるような語りをしたいと思います

 メモかわりに いそいで書いたので いまいち 意味がとおりにくいとおもいます。ごめんなさいでした。



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