遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



 

よく考えて よく調べて....

たいせつな子どもたちだから......

おとなは自分の意志だから

でも 子どもは 自分の意志で 打つのではない

だから 勧める前に 打たせるまえに 100倍 かんがえて.....

ファイザー製ワクチン 5歳から11歳の3回目接種を厚労省承認へ | NHK

ファイザー製ワクチン 5歳から11歳の3回目接種を厚労省承認へ | NHK

【NHK】29日に開かれた厚生労働省の専門家の部会では、アメリカの製薬大手ファイザー製の新型コロナウイルスワクチンを、5歳から11…

NHKニュース

 

 

この政治家たちはマスクをしない。おそらく ほんものの惑朕を打っていない。水惑朕。

コ口ナパンデミックの真相を知っているから。

左の政治家はかってこう言った。『悲観的な1億2000万の国より楽観的な6000万の国がいい』

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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きのうの語りの会はスピリチュアルな おはなしでした。

東日本大震災 石巻市立大川小学校 3月11日 ちょうど帰りの時間 あの大地震が起きました。そのあと 子どもたちは震えながら校庭に待機していました。先生方はお迎えに来た親へ子どもをわたしたり どこへ逃げるか決めかねて議論をしていました。たまりかねた 高学年の男子が 先生 裏山に逃げっぺ ここにいたら死ぬ と泣きながら訴えました。そのときには地震が起きて50分も経過していたのです。やっと避難の行列が向かったのは裏山ではなく 川の方 橋のたもとの三角地帯 標高7M..... わずか二分後 子どもたちの列に津波がどどー-と襲い掛かります。裏山に駆け上れたのはわずか4名 74名の子どもたちが亡くなりました。

幾日か たって ひとりのおとうさんが 学校に行きました。息子の形見がないかとさがしにきたのです。おそるおそる 教室にはいると泥にまみれた机や椅子や勉強道具が散乱しゴミのようにからまっていました。.... すると ピーピー 微かな音がしました。おとうさんは不思議に思い 手を泥だらけにしながら 机をどかし椅子をよけ ピーピー 鳴っているのがなにか 夢中でさがしました。それは カバン 見覚えのあるカバン 息子のカバンでした。鳴っていたのは 持たせていたポケットベルだったのです。おとうさんは カバンをつよく胸に抱きしめ うづくまり 泣きました。待っていたんだな.....  「遅くなってごめんな いっしょに家に帰ろうな...」おとうさんはピーピーとか細い声をあげるカバンをだきかかえ 学校をあとにしました。家について 「ただいま 帰ったよ」と玄関をあけたそのとき ピーピーという音が止まりました。

このおはなしは 3.11 のあと ネットか本で読みました。実話として書いてあったと思います。細かいところは記憶違いもあると思います。

 

 

ほかにいくつか おはなしをしました。わたしが 語るのは 降ってくるものがたりのほかは たいてい 事実 ほんとうにあったおはなしです。自分が経験したこと 友人や家族が経験したこと 事実として記された本 たとえば 3.11については 霊性の震災学という本で タクシー運転手の証言を聞き書きし記録しています。多くの運転手さんが 乗せたお客が消えた....という体験を語っています。行先を訊いて あれあの町は流されたはずだ と思い 目的地に着くと 後部座席のお客はいない.... そういえば 8月なのに白いコートを着た娘さんだった..... どんなにか家に帰りたかったことでしょう。

あの世は この世の となり 突然 裂け目ができて あの世につながったり とんでもない異世界にゆくこともあります。わたしたちが生きているのは固く閉ざされた世界ではなく 不定形のやわやわゆらゆらした世界 なにかの弾みで どこへ放り出されるかわからない 不可思議な世界なのです。

そうでした 黒い舟 というものがたりも語りました。阿刀田さんの小説 と 映画評論家の淀川長治さんのおはなしから インスパイヤされたものがたり..... 淀川さんは 実は ゲイでした。おかあさんをとてもたいせつにしていました。そのおかあさんが具合がわるくなり 明日をも知れぬ というある晩 おかあさんを看病していた淀川さんは 目を疑います。部屋の四隅にそれぞれひとりずつ 黒装束の男が立っている 死神だ! と淀川さんは直観します。四つの黒い影は ススッ ススッ と音もたてずに おかあさんの布団にちかづいてくる 布団の四隅に四人の男が片膝ついた.... おかあさんが 連れていかれる! 淀川さんは思わず 叫びました。お願いです。どうかあと三か月待ってください。わたしの三か月分の命をおかあさんの命の代わりにさしあげます。

黒い影は スーッと 溶けるように消えました。それから 淀川さんはおかあさんに精一杯親孝行をしました。おかあさんが亡くなったのは ちょうど三か月後のことでした。

 


 シャンソンの話はまた あとにしましょう。



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今日は 語りに行って いつもよりは 自由に 語れたので トゥで立ち上がって踊りたいくらい朗らかな気分である。語りはちいさな場所のためのもの であるのだが ステージそして 聴き手が幾分か多い方が なにかが 降ってくる 確率は高い。

それは 細かい細かい 光の微粒子だったり 雪だったり する、 そんな時 トランス状態になっていて わたしは つなぎ目でしかなくて それなのに ものがたりは 一層  明晰に 豊かに 其処にあり 私は 少し 上から 語る自分 と 聴き手を 観ている。波のようにエナジーが 語り手と聴き手を 行き来する。

今日の場所はとても小さく 聴き手も20名 いたかしら……
怪談でありました。

語りを教えている……20年前 自分のような語り部を 発掘したくて ユニットをつくった。ひとりでは寂しすぎる…… これは ポーの一族のエドガーのことばだけれどわたしも寂しかったのだ。どこへ行っても 本を暗記して 語るストーリーテラーしか いなかったから … 僅かに ネイティブの昔話の語り部さんは生き残っていてその人たちの方が つながれたけれど……

トランス状態とか 降ってくるとか 全く 理解してもらえなくて ただ 孤独だった。 だが 教えるとなると それは 言うに言われぬ20年だった。つなぎ目になれ ものがたりの器になれと言ったって それは 無理。仕方なく 演劇の基礎を通して 感覚を呼び覚ますこと 幼年時代を引き寄せること さまざまなエクササイズ 即興劇 ヒーリング 整体 できることはなんでも やった。 ユニットとしては どこにでも もってゆけるようになった。ところが 今になって みんな 個では 語れない 語り部だと気がついた。あと 最後の仕上げです。みんなが ひとり立ちできるように。

この間 気づいたのは 魂に欠落 裂け目 深い傷が あると 語り部にはなりにくい いやはっきり言って無理だということ。 ヒビの入ったクリスタルのグラスを想像してみてください。傷のあるお鈴でもいい。叩いて鳴らしてみてください。響きが出ないでしょう? 語りとは共鳴 共鳴を起こせないのです。

語りながら 癒やされてゆくひともいるけれど その傷が 幼い時にできた傷の 場合 は修復は難しい。傷の存在にさえ気がつかないから直しようがない。たとえ気がついても認めなければ 救いようもない。去ったひともいるし もうやめた方がいいよ と別れを告げたひともいる。この頃は もう時間もないので 三年で諦める。

ひとりひとりが 独立した語り部の 集団でありたい。 みんなで1時間のプログラム を公演するとして 脚本 小道具大道具 段取り 練習 リハ わたしは もうひとりでは体力的にできないしね。

そして これがキツいところなのだが わたし自身が ひとりの語り部として 自由を失いつつあるのだ。みんなで語ると 自分で自分を抑制してしまう。行きたいところに行けない。ストッパーをかけてしまう。二兎は追えないのか!?

今日は 若干 腹を立てていたせいか ちょっとだけ 自由に語れたので それがうれしかったりして。

わたしは 一語り部として 行けるところまで 行きたいと願っていた。名利を求めるとか そんな意味ではなく 抑制をすべて外して 聴き手の深層意識とつながってひとつになってみたかった。それが 生み出すものは 場合によって 恐ろしいものかも知れないけれど。一生に一度くらい いいじゃろう? あ 藤井風。

何も持たずにゆくために やっちまいましょう。二兎を追いかけまぢょう。臆病な アタシにサヨウナラ。

 

あちこち封じてしまって入れる箱がないのでウソに入れた。



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すべては岡田史子からはじまった。

それは群青の空一面にひろがる花火....つぎつぎと打ち上げられ まなうらに 光の跡をのこし消えてゆく花火

 

 

このブログで”私的少女漫画史”というタイトルで少女漫画の歴史を語ってきたのだが 2010年6月 少女フレンドの漫画家たちで終わり 終着点 帰結点 である 花の24年組について 書くことができなかった。...12年の空白...なぜ億劫になってしまったか 先延ばしにしたかというと 花の24年組の代表のようにいわれる竹宮恵子にひっかかりがあったのだ。わたしは 竹宮氏を花の24年組のひとりとして 認めていない。

わたしにとっての 24年組とは 『少女漫画の歴史を受け継ぎながら 生と死に真正面から取り組み 文学や演劇に強い影響を与え 新しい地平を拓いた独創的な漫画家たちのことである。』

 

ジャンルとしての少年アイの創始者という 竹宮恵子の場合 サンルームにて 1970年12月少女コミックに掲載された。が これは岡田史子のポーヴレトから強い影響を受けた作品ではないだろうか 1976年 風と木の詩連載開始 しかしこの作品には 児童虐待ポルノとみられても仕方ない描写があった。9歳の少年に対するそれは 出版社が子ども向けの雑誌に掲載させてよいものだとはわたしには思えなかった。寺山修司・中島梓はじめ 批評家たちが持ち上げるのも不可解であった。

 

同性愛というジャンルでいうなら 山岸涼子は1971年りぼんコミックで 白い部屋のふたりという少女たちの愛のものがたりを書いている。本当は少年で描きたかったのだが編集部の反対により少女にかえたそうである。1972年別冊セブンティーンに掲載された『ゲッシング・ゲーム』は、少女漫画雑誌初の男性同性愛の話である。

大島弓子では1971年 男性失格 が性転換を描いた作品 その後1973年 ジョカへで リメイク。同年 つぐみの森 寄宿学校の教師の少年に寄せる愛 1976年 七月七日に も間接的な同性への愛のものがたりである。

萩尾望都の場合は 1971年11月 11月のギムナジウム 1973年 あそび玉 ポーの一族 小鳥の巣 で ギムナジウム(全寮制の高等中学)のものがたりを描いている。

 

しかし 花の24年組の前に 岡田史子がいた。

花の24年組 すべては岡田史子からはじまった。それは長い漫画の歴史のなかで今までにないまなざしだった。強いていうなら 石ノ森章太郎 西谷祥子に垣間見られた 生きることへの不安 生のさなかにある死への渇望 かすかな希望 両者の場合 作品の主人公をとおして いはば薄めたかたちで 見える それが 岡田の作品には岡田史子の命そのものが真夏の草いきれのなかに横たわる蝶の屍のように色濃く投影されていた。

1967年 太陽と骸骨のような少年 ポーヴレト 1968年 ガラス玉 サンルームの昼下がり ここに記した作品だけでなく 作品ごとに筆致を変えた 詩のように美しく目を背けずにはいられない ものがたりがある。

 

漫画を生業とするもの 漫画家を目指すものにとって それは超新星の出現 ノヴァだった。実はわたしも漫画家を目指していた。この文章の末尾に 各漫画家の作品目録のリンクを貼っておく。岡田史子の登場した1967年before afterの各作家の作品を読めば一目瞭然である。お涙ちょうだいの少女小説の系譜 大島弓子は悲劇の女王だった 山岸涼子のスポコンもの 家族の学校のご近所ものがたり 海外の映画や小説から着想を得たものがたり 才能はあれどごくふつうの少女漫画を描いていた漫画家たちが北国の春の訪れのように一斉に開花した。それは目を奪う光景だった。

 

岡田史子は 天才だった。

短い漫画家生活のなかで生み出された 生と死にまつわる不安と絶望そして微かな希望 光と闇で織りなされたタピストリの断片を 萩尾望都 大島弓子らは はひろいあつめ 自分の内的な宇宙とつなぎあわせ 自分のものがたりに仕上げていったのだと思う。

それは 生きることはなにか を 問うものがたり 空洞の痛み 魂の飢え 魂の渇き をかかえ さすらうものがたり はるけき彼方にその空洞を痛みを渇きをなげかけ 自分の身に 引き受けるものがたりのかずかずだった。ときに他者のまなざしに ふれあう指先に 渇きは癒される そこに人生の真実があることを知る 至福が訪れる しかし 旅はつづくのだった。

僥倖のように主人公になげかけられる愛 ささげる愛は 性別を超え 年齢を超え 時空を超える あらゆる障碍を超える..... 性愛もときに語られたが それが目的でも大事なのでもない。少年愛 とは 少女漫画というきらめく多面体の一面にしか過ぎない。ここに述べた漫画家 そして ほかの影響を受けた漫画家たちは喜び勇んで未踏の地を走り抜けた ときに傷つきながら 斃れる者たちもいた。この岡田が火をともした革命の結果として 大島弓子は乞うるばかりであった文学に影響を贈り物を与えた 吉本ばなな 嶽本のばらはじめ 枚挙にいとまがないほどに。萩尾望都は演劇に影響を与えた。

 

花の24年組は 岡田史子から はじまった。

あるとき 竹宮恵子から 岡田史子に手紙が届いたという。「あなたは漫画家に向いていない」 岡田史子は 筆を折り ふるさと北海道に帰った。

 

付記の1

竹宮氏の作品には致命的な欠陥がある。それは自己撞着というか 自分の作品の主人公に耽溺し惑溺し 客観的なある意味 冷徹な目でのものがたりの構築がおろそかになってしまっていると感じるのだ。これはほぼすべての竹宮作品にいえる。小説でも漫画でも作者の作品を貫く透徹した視点は必須である。

萩尾さんの作品群のなかで わたしがポーの一族に肯んじないのは 萩尾氏のエドガーに向けるまなざしにそれを感じるからである。たとえば池田理代子氏 山本鈴美香氏の作品にもつくりあげたキャラクターへの偏愛の匂いがあって 素晴らしい作品であるのに 残念だと思う。吉田秋生さんのバナナフィッシュにもそれを感じる。

おっと 罪の香り .. 抜き足差し足忍び足 自分のつくったキャラを溺愛すること それは自己愛に通じる。しかし 一部のファンがそうしたキャラクターを好むのも事実だ。ジャニーズや韓国タレントのように。大島さん とくに山岸さんには そうしたところはカケラもない。

日出る処の天子が あれだけの長丁場 構成の揺らぎも見せずに 最後まで到達したことにわたしは感嘆する。小松左京がかって語ったように 中盤 拡散してゆくものがたりを疾走するキャラクターをぐいぐい引き絞る それは男性作家にさえできないひとがいるほどの精神の力仕事だ。物語の揺るぎない構造と自立したキャラクターがあって 厩戸の最後のセリフが生きる。超能力者である厩戸は毛人に去られたあと「わたしは偏頗な人間だ」と述懐するのだ。そう超能力を持つとはそういうこと 力を握る欲望とはそういうもの そして DSが推奨する LGBTは 少年愛も含めて不毛 なにものも生み出さない。

昨年の今時分 萩尾氏の ”一度きりの大泉の話” を読み 衝撃を受けた。それは竹宮氏とマネージャーの増山氏が萩尾氏を訪ね 「盗作をしないでほしい」と言ったというくだりである。少女漫画の歴史について わかっている方なら また今回 拙文を読んでいただけたらおわかりだと思うが それはない。寄宿舎がテーマの映画を一緒に観たとしても 作品はおのずから違う。たとえ原案が同じであったにせよ 作者の生まれだち 性格 知識 智慧 技術で 異なるものがたりになる。仮にインスパイアされあったとしてもお互いさまだと思う。

なにより萩尾望都は少年同志の愛を描いたわけではないからだ。

岡田史子さんのエッセンス 香気は 竹宮作品にはない。継承した萩尾望都の詩情 大島弓子の哲学もない。竹宮氏の本来の持ち味はむしろ庶民性とぬくもりにあると思っている。それも漫画にはたいせつな要素だ。

 

付記の2

竹宮恵子氏の作品の主要ないくつかが 増山法恵氏の原作といい また多くの作品に強い影響を持つという。私的な観測だが 二人三脚というよりむしろ 竹宮氏が増山氏の分身であったような気がしてならない。増山氏のwikiを見て その思いを強くした。増山氏は漫画家を目指していたが絵が描けなかったという。わたしもそうだった。溢れ出る物語をカタチにできない それは翼をもがれた鳥。代わりの翼を求めるか ダレかの背に乗って飛ぶしかない。

増山さんは翼が欲しかったのではないか。それは一度きりの大泉で萩尾氏が語っている「増山氏の媒体になりたくなかったので離れた」ということばが裏打ちしているように思う。今回 私的少女漫画史その10を書いたきっかけは 竹宮氏の大島弓子評と岡田史子さんの対談から竹宮氏が岡田史子さんに送った手紙の内容を知ったから そしてなんとかまどかというひとの的外れな書評を読んだからである。竹宮氏が書かずともよかった手紙をどのような気持ちで書いたのか 送ったのか 命を漫画に込めて描いていた岡田さんがどのような想いで 手紙を受け取ったのか 重く 痛い。

昨年 増山法恵さんが亡くなったと昨夜知った。一度きりの大泉 出版 の一か月余りあと。 持病があったという 二度目の接種を受ける前だったという。増山さんの冥福を祈る。

付記の3

わたしは フクシマ三部作を読んだあと 萩尾氏を追うことをやめた。フクシマと縁が深く 幾度か南三陸に通い ガイガーカウンターが鳴き叫ぶのを 聞きながらひとりで山越えをし 被災者から聞き書きをし フクシマを考え続けてきた自分にとって あれはなかった。菜の花も大仏も絵空事 擬人化された核種に至っては笑うしかなかった。もっと突き詰め昇華したものがたりを出してほしかったし 全体に香りが失せていた。

後年の柳の木は好きな作品だったが 元ネタをみつけて それも その10が書けなかった理由のひとつだったのだろう。秋の旅 11月のギムナジウム 雪の子 モードリン セーラヒルの聖夜 かわいそうなママ 小夜の縫うゆかた 半神。雪の中の花火のように美しいものがたり……すべてに終わりがくる。誰にも描けなくなる日が来る。肉体も肉体に支えられた精神も老いて弾力を失ってゆく。

他の記事をアップしながらであるが 一日がかりで書き上げて なんとか総括できて わたしのなかで 大泉サロンは終わった。あとは 大島弓子さんだけ……

 

付記の4

わたしの翼は語り だった。ものがたりは溢れるように生まれる。しかしそのものがたりをどのように伝えるか は別の話である。LTTA   ラーニングスルージアート でストーリーテラー マーサ三宅と出会ったこと RADA英国ロイヤル演劇アカデミーでイランさんやニックさんから学んだこと 演劇を学ぶことは伝えるための力になった。なかでも 蜷川さんが重用した 伝統芸能が輩出した役者 壌 晴彦氏が ひとりの演劇青年に 語ったことば。「あなたは芝居が好きなんじゃない。芝居をしている自分が好きなんだろう。それがあなたの演技から見えるんだよ。すぐ この場で芝居をやめなさい」語り部としての自分が決してわすれてはならない座右の銘である。だが これはすべての表現活動に通じると思う。

全ての芸能の原点は 神への捧げものだった。そのためには 自分を捨てなくてはならない。何もかも忘れて 一心不乱に 向かうこと 漫画でも語りでも 踊り でも。すると たまさか 神が宿られることがある。己の限界を超えた ものが 生まれる。至福とともに。

付記の5

少女漫画におけるSFは 佐藤史生にはじまった。夢見る惑星は金字塔。佐藤さんは アルバイトに行った工場でアスベストを曝露したことにより闘病ののち 亡くなったという。佐藤さんは戦死したのだとわたしは感じている。透き通った理路正しい冬の夜空のような作風だった。冥福を祈る。

  

付記の終わり

それにつけても 岡田史子は 『ギフト』 だった。岡田さんの冥福を心から祈る。そして 大島氏 山岸氏 萩尾氏をはじめとする 当時の漫画家たちに深い感謝をささげる。もしコミケにかかわらなかったら 少女漫画たちのあまたの挑戦にであわなかったら わたしの人生は彩の乏しいものになっていただろう。語り部という今世での役目のひとつは果たされなかったであろう。

岡田史子の火花をわたしも受け取って 自分のことばで自分のものがたりを語る唯一の語り部として 今日も 語りにゆく。私感では 岡田史子に端を発する 少女漫画革命は 1970年代で終わり 爛熟期に入り 今は長い低迷期。次なる天才は現れるだろうか。

 

岡田史子 目録

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%8F%B2%E5%AD%90

 

萩尾望都 目録

https://www.hagiomoto.net/works/

山岸涼子 目録

http://www.kategories.com/yamagishi/fsakuhinlist.htm

大島弓子 目録

http://www2t.biglobe.ne.jp/~autumn/sakuhin.html

竹宮恵子 目録

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%AE%AE%E6%83%A0%E5%AD%90

 

パンデミック 政治 についての記事は 転載自由ですが 少女漫画につきましては 無断の転載 コピペ 固くお断りいたします。

 

 



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カフェでランチ ロコモコのワンプレート

美味しい。ただし ポタージュがスジャータのパックの味がした。

デザート この生クリームは 植物性。一口でわかります。

植物性だからいいわ とおもってます?

…ところが ショートニング マーガリンなど  植物性のものは食べるプラスチックといわれます。なかには 安全なものもありますが 十分 注意されますよう お願いします。

残念ながら ほとんどのカフェが植物性 ケーキ屋さんの中にもまぜまぜしている店もある。いいものはわかる。

カフェは誇りを持って 安全ないい材料を使ってください。

製菓メーカー 飲料水メーカーのみなさま ショートニング 植物油 アスパルテーム フェニルアラニン  異性化液糖は使わないようお願いします。

 

帰り 出雲大社分社にお参りしました。

明日から また 元気でいきましょう!



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この時代 国がなくなるかもしれない 国が 統一政府の闇にのみこまれ

人が大勢 消えてゆくであろう この時代

藤井風は 大天使のように舞い降りて 手をさしのべる

心のすみっこにあるちいさな希望が きらきら と元気を とりもどす

朝晩 聴いて うたって ちからをもらって あるきはじめる。

 

 

RISING SUN ROCK FESTIVAL で、音楽家 「藤井 風」さんに、また救われた話|espresso|note

RISING SUN ROCK FESTIVAL で、音楽家 「藤井 風」さんに、また救われた話|espresso|note

忘れたくない余韻 8月13日深夜のライブパフォーマンス、「藤井 風」史上、またまた伝説になる凄い演奏でしたね。2日経っても余韻が冷めやらず、ついに、自分の中では禁断の...

note(ノート)

 

風よ ここにきて わたしだって いきたいけれど

飛べない この鳥は 宙に舞って 急に落ちて

傷だらけの羽 ひろげるだけ

 

どうか みちびいて どうぞ つれていって にぎる手ははなさないで......

 

 

 

浅田真央さんに救われていた 時も あったなぁ

 

 

 



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オランダ 日本 遠く離れているが 元はひとつ。

 

オランダの農場の結末:11,200の畜産農家が窒素排出量削減のため閉鎖 : メモ・独り言のblog

  

当ブログでは 再々 米についての懸念を 書き続けてきた。

政府の米買い上げ価格は なぜ 下げられたか。

これでは 農家は 米作を続けられない。

コ口ナというとても奇妙なパンデミックの不可思議な打つとかえって罹患するという奇妙な惑鴆は高齢者を直撃する。米作を担う高齢者を。

そして さらに 奇妙な 線状降水帯が 米の生産地 東北を直撃する。

これは 偶然ではないのだ。

穂先まで 水没したら 米は 収穫できない。

一所懸命 コメ作りに精を出してきた農家のみなさんは 気持ちが萎えてしまうだろう。

コメが 日本の 食 の生命線である。余っていた コメが。

今夜 東北を また 雨が襲う。田んぼを襲う、村を襲う 町を襲う。

これから 台風シーズン。北海道 中部 関東 北陸 九州 予想では.....

日本中 どこも 安全な所などない。

人事を尽くす そして神に祈る。

今日は第二次大戦終戦記念日だが 第三次大戦 は まだ始まったばかりである。

 



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クエン酸

日本医師会会長25年間、世界医師会会長でもあった“ケンカ太郎”。1904年の日露戦争時生まれで、医師会・薬剤師会・歯科医師会の三師会も牛耳る「天皇」と呼ばれた武...

 

 

日本医師会会長25年間、世界医師会会長でもあった“ケンカ太郎”。1904年の日露戦争時生まれで、医師会・薬剤師会・歯科医師会の三師会も牛耳る「天皇」と呼ばれた武見太郎。その天皇と日本医師会がJAL機でブラジルを往復し、担当の乗務員として地球の反対側まで黒木氏は武見会長と長時間の会話の機会に恵まれた。
 
黒木「戦線で兵隊が疫病でバタバタと倒れた中で、私の父など梅干を一日にひと粒ずつしゃぶっていた者たちは不思議と生き残ったそうです。私が米国留学する時に、その話をしながら父が持たせたのが梅干でした。そのお陰で風邪も引かずに帰国しましたが、今も乗務で持参しています。梅干って何が凄いんでしょうか?」
武見「あの酸っぱさは『クエン酸』といって柑橘系のレモンやユズがそうだが、身体に良いことは間違いないね。クエン酸は人体に一日に必要な摂取量が2~5g、レモンだと最低1個、梅干で4個分かな、ほとんどの病気はミトコンドリアにとって毒素になる乳酸が溜まって血液や細胞、体液が酸性になっていくのが原因だから、これを弱アルカリ性に変えることができれば予防と治療にはかなり効果的なんだよ。それができるのはクエン酸だけで、自然界の万能薬だね」
黒木「それはいいことを聞きました! では、予防医学と健康維持にはJAL乗務員もクエン酸を多めに摂取するようにすれば良いのですね。さっそく社内報で流しましょう」
ドン武見は即座に手を横に振って話を遮った。
いやいや、それはダメ! クエン酸が世に広まったら我々医者や病院、製薬会社も廃業だよ。クエン酸が一番良いのはわかっているが、どこでも手に入る上に安すぎて……商売にならない。医者が要らなくなって、とんでもないことになるからね」

 

 

哲学者、梅を買う。クエン酸って健康革命じゃないですか? | あしたのキョー

日本医師会の「武見太郎」というのが、クエン酸を封印したんだよ ども。哲学バカのきょうさん@q_o

哲ガキ

 

 

原爆詩 に 梅干しを一粒 口に入れてもらった瀕死のおばあさんが 元気になったという詩が ありました。

梅干しっていうのはいいもんでがんすなぁ ……

梅干しがなくても 重曹 小さじ1/2    クエン酸小さじ1/4  コップ一杯の水に溶かして飲む これはゆうこうです。



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今年の夏のコミケは通算100回目なのだそうだ。それにしても なぜ コミケはお盆のさなかにやるのだろう?まるで 逝った人たちを偲ぶように 召喚するかのように.....今 思えば コミケは遅ればせにきた わたしの青春だった。

ことの起こりは浦和駅の今はない線路下の喫茶店だった。そこで会ったのがコミケの初代代表を務めた原田央男さん、原田さんはモトのトモという萩尾さんのファンクラブを主宰していて わたしは大島弓子さんのファンクラブを……そんなことから 岩崎一樹さんや コミケ二代目代表米澤嘉博さんや アニメバルディオスやヒカリアンの監督になった廣川和之さんや いろいろな人と交流することになる。

わたしがはじめて行ったのは太田産業会館だと思っていたけれど、どうやらコミケの前身?の日本漫画大会だったらしい。 参加したのは 1973年8月4日(土)~5(日) に開かれた第二回 場所は新宿・四谷公会堂。だれかが大島弓子さんのジョカへ第二回 二色ゲラ刷りを出版社からもらってきて歓声が上がった。宿泊は駿河台ホテルで 真夜中の道 ホテルまで肩を組んでアニソンをたからかに歌って帰った高揚感がよみがえる....

翌日もそのままの勢いで 水野英子さんのファンの部屋に泊まった。水野さんのアシスタントをしている長身の看護師さんもいっしょだった。そこで紹介された岩崎一樹さんは同人誌の花形だった。.....やおい 美青年美少年の恋愛感情+○○みたいな作品を同人誌に画いていた....やおいは1975年沢田研二主演のドラマ 悪魔のようなあいつ から始まったと言われているが とんでもない この頃の同人誌は ボーイズラブで溢れていた。

個人的には風と木の詩はちょっと違うと思うが 商業誌においても 山岸涼子の白い部屋のふたりは少女同志の愛の物語だし もりたじゅんのうみどりは 兄妹の愛の物語 日出ずる処の天子の歴史上の人物 厩戸とエミシ……LGBTどころじゃない50年前の少女漫画は垣根なし タブーなし百花繚乱の愛の世界だったのである。気恥ずかしいが言わせてもらうと そのひとなくては生きることの闇を越えられない魂の片割れを求めるものがたり それぞれ孤独な偏波な人間が真っ当に生きるためのよすがを求めるものがたり 男女のみならず恋愛のシバリ 障碍を越えることで 撰ばれ 至上のモノとなった愛のものがたりだった これが私感である。

 

 11月のギムナジウムの声優のオーデションも四谷公会堂で開かれた。オスカー役の女子大生が実によかった。それから繰り出したのは新宿の雑踏....70年代の新宿は猥雑なエネルギーに満ち満ちていた。マンモス地下喫茶カトレアは小学校の校庭くらいの広さがあって、みなから離れてそのすみでわたしたちは越し方 ゆくすえを語り合った。深い井戸の底には 天上につながる道があった。(あのとき 11月のギムナジウムに参加しなかったとしたら わたしは 生涯のツトメと定めた"語り"に25年後 足を踏み出しただろうか。)

その翌年1975年 コミケの第一回が開かれ 750名が集まり ダイナビジョン 11月のギムナジウムが 上映された。しかし 参加者の多く少女たちが群がったのは同人誌 ファンジンだったのではないか。

 

コミケの二回目も行ったような気がするが印象は定かではない。一樹さんに誘われ晴海にも行ったような気がするが コミケは熱狂的な二次制作者の場になっていった。それはそれで意味があったとおもう。二次制作者の中からスターも生まれ デビューを果たす人たちも現れた。だが 正直 わたしは"パロディ"、"二次制作"も"やおい"も好きではなかった。求めていたのは 新しい地平。花の24年組 大島弓子 萩尾望都 山岸涼子 が文学をも軽く乗り越えた芳醇で精緻な世界のその先。

 

コミケのあの熱狂を支えた コミケを立ち上げた人たちの想いはどこから生まれたのか?

1971年暮れ COMが潰れた。COMは手塚治虫が発刊したマンガ専門誌でCOMのグラコンは新人の登竜門だった。喪われたその場を取り戻そうとする エネルギーが 漫画大会を産み コミケに繋がったのではないか。そして 底流には 70年安保の敗退 が ありはしないか 1972年2月の浅間山荘事件が ありはしないか。それは 絶望という二文字では 言い表せない なんとも形容し難い恥辱 汚辱だった。

それは連合赤軍だけの問題ではなかった。学生たちの安保反対のカタチはさまざまであったけれど 運動そのものの中に矛盾があること 権力の濫用 弱者と強者の関係 そういった汚濁 軽侮すべきものが身のうちにあることを突きつけられざるを得ず、それは二重の敗北だった。最大の悲劇は日本の健やかな右翼 健やかな左翼が死んだことにあると思う。。一部の運動家は権力の側へ走ったりした。一言でいうと人間がぶっこわれた。そんな人間を複数知っている。

より誠実なひとたちにとって 埋め合わせになる何か 手立てが必要だった。それが コミケだったりオタクだったりではなかったかと 50年を経て思うのである。

 

安倍元首相の岳父 岸信介首相は 60年安保反対 反政府 反米 デモを抑えるために児玉誉士男にヤクザを集めさせ 住吉連合も参じた。安保は自然成立となったが岸は退陣せざるを得なかった。70年安保 岸の弟である佐藤政権は機動隊を強化 学生たちは機動隊との戦いと内ゲバに疲れ果てて行った。その後安保は自動延長になる。だから80年安保は存在しないのだが 橋本治等は 80年代のサブカルチャーを称して 80年安保 と言った。 劇団スバルの座長は10年前 オレたちは 文化で闘う と 言った。

だが どうだ? コミケに集まる二十万は 文化で闘っているの? 遺伝子改変注射は何回打ったんだろう。国から殺されそうだ と知っているのだろうか…… コミケ1回目と同じ 100回目の節目も "この国の曲がり角"だ。"運命の分かれ道" だ。

 

米澤嘉博さんも 亜庭さんも 廣川さんも 一樹さんも すでに旅立った。

原田さんも含めて みんな貧乏だったけど熱くておもしろかった。漫画に アニメに 場をつくることに 命懸けだった。 知る限りで 二人は客観的に視て無慚な死だった。それとも納得し満足して死んで行ったのだろうか? 悔いはなかっただろうか? ひとはなにかになにものかに自分の存在を懸けて生きる それだけでいいのだろうか?

 

国会を埋め尽くす デモ 60年前 国民はこのように闘って 首魁岸首相を引き摺り落とした。

50年前 若者は 権力に 自らの弱さに 首うなだれ サブカルチャーを生み出した。

あぁ わたしは 彼処 あの時代 あの場所にいられて よかった。

そして思う。全共闘世代の橋本治 が いみじくも語ったように 2022の夏 わたしたちは別の安保を戦っているのかもしれない。ネットで畑で仕事場でサブカルチャーで闘っているのかも知れない。あの時の落とし前をつけるために。自分のいのち つづく命を守るために。投石でメガネを割られスゴスゴ帰ったあの日のリベンジだ。今度はまけない。

 

wiki

おたくとは、愛好者を指す呼称で、1980年代日本サブカルチャーから広まった言葉である。元来の「お宅」は相手の家や家庭を指す敬称の二人称代名詞であるが、ある特定のサブカルチャーの愛好者を指し示す、現在使われている言葉としての「おたく」の起源は、1983年コラムニスト中森明夫コミックマーケットに集うSF漫画アニメなどの若いファン達がお互いを「おたく」と呼び合っていた現象を揶揄して、彼らを「おたく」として分類したことにある。

 



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台風の進路 米軍情報です。ここ数年 画像を貼っておりますが コースは一定(笑)ほぼほぼ定期便です。今年はどうでしょう。線状降水帯も 使用頻度があがると インパクト薄くなりますから。 台風……準備はしっかりしておきましょう。

ちょっと前ですがCNNの情報モレで コ口ナではみな驚かないから 異常気象を使おう と言ったことがリークされていました。

台風前で風と湿気と暑さで寝つけなくて 草木も眠る午前3時 汗まみれでキッチンをゴソゴソ 糠床をひっくり返し 胡瓜と茄子を コリコリ丸ごと食べ 水をごくごく。

実にうまい!! 滋味がジワーっと口中に広がる。漬けすぎた胡瓜とか茄子の漬物など 大嫌いだったんですが ……  今年は美味しいです。やっと日本人になれた感じ 身体がお漬物を求めてるとヒシヒシかんじます。ピクルスも漬けました。

でも ちょっと心配になったのは ヌカなんですね。市販の調合されたヌカ。何が入っている?昆布 唐辛子 は 歓迎………

アミノ酸 これは やばいです

 

危険!食品添加物【調味料(アミノ酸)編】

自然なものからのアミノ酸はいいんですよ。ではなくて 遺伝子組み換え………

 

それだけではありません。

【加工食品、アミノ酸】胎児組織使用...|しば|note

下の方に 具体的な商品名が 載っています。

 

そして

バチカンがコロナワクチン使用を容認、中絶胎児の細胞使用問題で

惑鴆 にも!! です。

バチカンはOK を出しました。実は バチカンも幼児虐待と深く関わっている組織ですから。しかし 心ある カソリックの司教 信徒は接種を拒んでいます。

 

なぜ? あえて 中絶胎児を食品添加物に 遺伝子組み換え注射に入れるのか?

代替物はあるはずですね。

 

それは ワンワールド派 DS  WEF ウソのパンデミックを 起こしている人たち 由堕也の最大の敵が 神 だからです。

食物に入れることで 知らず知らずのうちに共喰いをさせて 人間を堕落させたい んじゃないでしょうか?

 

ヌカに入っているアミノ酸は だいじょうぶかなぁ。

 

祝 タマホイさん一週間の凍結が終わり 復活しました。



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庭で野菜とスイカをつくっています。スイカ 実においしい。

カラスはバカじゃないホンモノと知って食べにくる。網かけたり かごかぶせたり

して守る。でも三つはカラスに食べられてしまいました。

 

すごーく甘いというのではないが みずみずしく すっきりした甘さでやみつきになる。

皮はとても薄くて 5ミリくらい ギリギリまで甘くて その甘さにクセがない。

ざらっとした繊維を舌に感じない。ラグビー型はもうおしまい あしたから黒スイカです。

唯一の欠点はスーパーで買えなくなったこと。市販のスイカとは違いすぎる。

種子から育てました 完全無農薬 化学肥料ゼロ 種子はモンサントじゃない 種子。

つまり 種子を撒けば 来年も 食べられる。

画像は あしたね。



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さてはてさんは更新が途絶えて2週間 いつのまにか 時折訪ねていたツイッターのアカウントが3つも停止になっている。タマホイさんも5日更新なし。ひしひしと怖いですね。書きにくくなっています。ファッションとかグルメ スピ 健康な生活を テーマにするなら楽ですが。

井口先生も奥歯に何か大きなものがつっかっかっているようです。地軸のズレなんてずっと前からですよ。アメリカの中国叩きの流れとは思えない。ビンビン です。北海道 東北 大雨 いずれ 中央部 九州も。明日は我が身 意志を持ってやってることだと思う。

MIMIC-TPW2

 



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太陽の民族として悪魔と対話する - In Deep

 

これは 岡さんへの 手紙というか 岡さんの記事を見て書きました。イスラエルの惑朕による死者が多いから 由堕也は わるくないってことはないと思いますよ。まぁ 英国も米国も日本も多くの政府が、あたりまえのことですがロシアでさえも国民の免疫力を非常に低下させ病気にかかりやすくし死にいたらしめるお注射を推奨し接種をつづけています。由堕也人のヒトラーは由堕也人を殺し 大日本帝国は自国の子どもたちを虫のように戦地に送り戦災孤児を虫のように放置し蟻のように軍需工場で働かせ虫のようにとベニヤや魚雷に乗せて殺しました。それはもう昔からずっとそうです。権力者と人民のタタカイの構図というなら圧倒的に権力者の勝利です。プーチンもトランプもありません みな組み込まれ セットなのです。そのような世にあって普通の人たちも権力には敵わない 金さえあれば という風潮になり 意図的にもそうされて 今の世があると思います。ですから由堕也や政府だけが悪いのではなく 普通の人たちにも罪がある。第一戦ってこなかったし。政治とかめんどくさいこと考えるのいやだし 不平等とか自分以外の人が苦しむことなど考えるのもいやだし……

しかし 各国の政府に檄を飛ばし手下を首相に据えるシュワブーは 何故由堕也なのでしょう。ふぁうちーもそうですね。英国の貴族社会 DS あらゆる闇 金の集まるところ 力の集まるところ 後ろ暗いところに彼らはいる。そして各国の政府を乗っ取り牛耳っている。それは由堕也が使い魔だからだとわたしは思っています。由堕也の背景には姿を隠した巨大な悪がある。由堕也はそのようにつくられた。ひとを堕落さでるようにつくられた  

かつて 王仁三郎が由堕也は悪をもって善となす と訳の分からないことを言いました。 今思うにそういうことなのだと思います。つまり今起きていることは善い方向に向かうための ミソギです。すべてが明るみに出ないではいない。澱をながすための火と水の洗礼 キリスト教的にいうとパブテスマです。ふつうの人も等しく受けなければならない。自分がなにをやってきたか こなかったか 見つめなければならない。

かといって由堕也、それに仕える各国の政府官公庁や嘘つきの医者やもろもろが罪がないことにはならない。彼らは自分自身で罪を贖うことになります。世の中はそのようにできているのです。自分のしたことはよきこともわるきことも自ずと自分に帰る。

由堕也の最大の敵はキリスト教の神でした。単なる近親憎悪みたいな気もしないではないですが。神がいないことを証明するために悪事をなしているというよりは 神の存在に恨みをもち穢したいのだとわたしは感じます。だから 経血を飲む 赤子をいけにえにする 産めよ増やせよ地に満てよ という神のことばに反する人間を堕落させるあらゆることをするのでしょう。ひとはそれを見てよろこぶものでしょうか。ひとの本質はそれを喜ぶとは思いません。この戦争は単にパンデミックを装った殺戮ではありません。神への戦いなのです。またイザナギイザナミをも想起させます。おまえが一日に500人殺すなら....わたしは一日に1000人.... 

わたしはクリスチャンではありません。がいくつか不思議な体験をしました。エッセネ派の修行の場 クムランの砦を見たことがあります。ヨシュア(イエス)は愛のひとではなく義のひとと呼ばれていたそうです。岡さん わたしは あなたを 義のひと と思っています。この度のことは ホピの四つ目の災厄 古神道でしたら八回目の天地かえらく 怒るべくして起きた ひとつの文明の終焉です。そして この度の火の洗礼を生き延びたひとたちの手で新しい世がはじまると わたしは信じています。



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普段は絹を着ています。お蚕ぐるみのお金持ちというわけではありません。和服を解いて服に仕立ててそれを着ているのです。ところが 突然 麻の服ばかり 着るようになり とくに不思議とも思わず着ていたのですが……

つらつら 考えてみたところ ちょうど 線状降水帯のころ パソコンを換えた頃と重なるのです。どっちが先だったろう....

考えついたのは 電磁波ですね。 前に座っているひとが 頭痛がすると言い出して測ったところ 電磁波がひどかった。ふつう戸外では 20から30 屋内では 40から60   それがピーピーと音を立てかる〜く 黄色と赤のラインを超えた。300から800 単位はよくわからない ごめんなさい。

実は 麻は電磁波を防ぐのです。からだはわかっているんですね。

 

 

 



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なんだか 呼ばれているような気がして くるまを走らせる。

ル カフェ ヌフ という フランスの田舎を模したようなつくりのカフェ

に入る。同じ茨城の有名なカフェ ファミーユ とか 思いだす。

中へ入ると アンティークの椅子とかシャンデリやとか扉とか......

アンティークショップで見つけたお気に入りを並べてみた という感じだが

居心地はいい。

料理は全体に甘い ラタトゥイユもビーフストロガノフも似たようなお味 

星乃珈琲みたい。十六穀米がこわくて今一だった。

そのあと どこへ行くというのでもなく 車を走らせて ちいさなお社

を見つけご参拝して あっ そうかと納得がいった。

真後ろに利根川が流れていた。

線状降水帯がきても どうか お守りください。と祈った。

つぎは香取神社で......といっても ちいさな 香取神社でフツ主さまに。

最後に 紫峰と謳われる 筑波山に向かって祈る。

筑波の神様は3.11のとき この地方をお守りくださった。

3.11の前年 5月から わたしはそれと知らずに 茨城北部 フクシマへ

週末ごとに神社のご参拝の旅をつづけた。

2010年12月 飯館村の お社は三社とも 荒れていて 胸が痛んだのを思い出す。

大きなお社にお参りするのも大事だが まず産土の神社 長いこと地元を守って

くださる神様への崇敬の念 というか まずは清掃 草取り そういう

ことが大事なのだと思う。朝な夕な とおりすがりに手をあわせる

その気持ちが 村を 町を 守ることにつながる。

美しい日本を守ることにつながる。

地方のお年寄りたちがこの世を去ってゆき 産土の社が荒れ果てていったとき

この国がどうなるのか わたしは それがとても怖い。

背中がらくになった。



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