遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



  先日会ったまだ若い友人は、つぎつぎと愛する近しい方の病にみまわれていました。運命の奔流のなかで友人は必死で情報をあつめ、抗がん剤や放射線治療について調べ、ときには勇気を振るい起こして医師たちに治療法の変換を求めたそうです。そして近代医療にまかせ切るだけでなく、代替医療を併用し、食事や生活を変えることを考えました....それは4年前わたしも体験したことで、張り詰めた当時のことがまざまざと甦ってきました。

  わたしはこのごろ病はそのひと自身のうちから起こるのではと感じています。もちろん遺伝学的なこともあるでしょう。しかしそのうえにそれも含めて習慣化された日々の過ごし方、対処の仕方というもの....毎日生まれてくるストレスと、どうつきあいどう解消してゆくかにそれぞれの性格が端的にあらわれると思うのです。

  たとえばわたしの右膝の故障は人生においていつも戦闘態勢であったことと関係があります。自力整体をして身体の右側が固いことがわかったのですが、いつも右足に比重をおいて臨戦態勢にあったんですね。.....わたしは心の底で「女であることで男には負けたくない」といつも思っていました(笑)女の武器をつかうのを潔しとはしませんでした。今ではそう固いことを言わないでも使えるものは使えばよかったのに....と思うのですが、そう思ったときには使いたくとも使えなくなってるところがおもしろいです。

  右側の血流やリンパの流れがとどこおると消化器官に流れにくくなるのだそうです。そのうえにストレスがかさなり潰瘍がおきやすかったのですね。夫は糖尿病ですがヒーリングの講座を受講したとき聞いた話では”糖尿病は緩慢な自殺願望”なのだそうです。ぎょっとしました。そんなまさか.....と夫のことを観察しているうちにはっと気がついたことがいくつかありました。.....ことばにはまだできませんけれども。

  夫は...クスリをのむとカラダがきついといって降圧剤もインシュリン注射も自分の意志でやめてしまいました。内心心配したのですが血圧も血糖値も正常値を保っています。性格はガラリと変わりました。忍耐つよくなり、かっと怒ることもなくなりました。食生活も変わりました。ステーキが好きだったのに肉には見向きもしません。酵素玄米と味噌汁、漬物、野菜と納豆、それに梅干があれば満足のようです。わたしは燃え盛る太陽のようだった、どこまでもついてゆきたい....とおもわせてくれた、傍若無人なほど自信にあふれた夫がときになつかしくもなるのですが、その彼についてゆくのは台風のあとを追いかけるようなものでした。

  先日 取り引き先の社長が亡くなっていたことを知りました。夫とおなじ糖尿病でインシュリンを手放せず、透析をしていると聞いたことがあります。豪放磊落な破滅型といってもいいひとでした。豪放のそこに繊細さもあるひとでした。彼はすべてやり尽くした...と言いました。そして生活を変えることなく飲んだくれて赤い顔をしていたものです。それはそれで選び取った人生といえるでしょう。

  今にしてわたしは片目を失い、なみはずれた体力をうしなった夫の絶望と孤独に想いをはせることができます。屈辱感、焦燥感、絶望、悲しみありとあらゆる負の感情が夫を襲い、まんじりと眠れない幾夜もあったことでしょう。そんなあるときわたしは、夫に背を向けてしまいました。わたしの絶望、身体の痛みに目をくれようともしない夫にこれ以上尽くせるものかと思ったのです。あのときあなたも眠れぬ夜をすごし周囲を気遣うゆとりもなかったのだと痛みとともに思うのです。

  夫はあたらしい自分を受け入れ忍耐強くひとに接し、逆風のなか陣頭で指揮をとっています。今 わたしは夫がひとの手を借りるところは借り、自分でできることはできるかぎりしようと生きていることに心を動かされています。ひとりでは病院に行くことさえしなかったひとが、電車に乗るのが大嫌いだったひとが、わたしの知らぬ間にひとりで電車で他県の病院に定期検査に行っていたのでした。....あなたはわたしにとって勇敢だけれど無鉄砲な勇者でした。今 あなたは思慮深い賢人であり真のヒーローになろうとしているのでした。


  自分自身さえそれと気づかない隠されたうらみや憎悪はひとのカラダを蝕みます。我慢をしてはいけない、自分を偽ることは美徳ではないのです。感じたこと思ったことは伝えたほうがいい。それらのこと、日々の愛憎..から生まれる澱のようなものをどう流してゆくかは...カラダの求めにこたえ、カラダが真に欲している食物を食し、運動によってチューニングをするとおなじくらいたいせつなことです。

  病とは、生き方のリセットのチャンスのように思います。身体から発せられた愛のメッセージのように思われます。そのメッセージに気づき生活を変えてゆけるひとはしあわせですね。
 
  友人の顔は耀き、笑顔であふれていました。絶望や悲しみをのりこえてゆくこと、かなしみや希望をだきしめることはひとを浄化し耀かせる。ものがたりのなかでもそうなのではないかな.....登場人物とともに深い絶望や限りない悲しみに身をゆだねること、躍り上がるような喜びを体験することは浄化(カタルシス)にほかなりません。そのようなものがたりを読書でも、芝居でも語りでも身体やこころで感じる体験をつんだひとは、そのつど再生すると同時に実際の人生におけるさまざまな対処法を知らず知らずに身につけてゆくのではないでしょうか。

  カーブの発声をしてみせるとすぐに響きがわたしのうしろから回って前に出ていると指摘してくれました。耳がいいなぁ...とわたしはうれしくなりました。運命の潮目をくぐりぬけたあとの友人の語りを聴きたい....と思いました。



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   先日、「女のひとの声が低くなっている」と書きましたが。ネモさん(友人・経験ゆたかな現役教師)に会ったとき「子どもたちの声、低くなっていない?」と訊くと「なっている。声は低く、低体温で 響かなくなっている」という返事がかえってきました。響かない....ということばに、わたしも頷きました。おなじものがたりを語っても数年前とは手ごたえが違うような気がしていたからです。(低い声になっていると考えたのはわたしたちだけではないようです。参考

   「どうしてだと思う?」と問いますと「子どもたちは考えなくなったようだ」.....子どもたちは考えるより反応することが多くなった?....見る刺激、感じる刺激に即反応する....タメがない.....聴く力が弱くなっている.....雑音が増えたせいかも.....静寂が無くなったから.....ゲームとかCDの選択的デジタル音に慣らされているから?.....聴く力と考える力は直結している....このままでは困るね...

   この会話を思い出したのは昨日、ビウエラレッスンのときの水戸先生のことばからでした。倍音でマントラを唄詠したときなぜ空間が熱くなったのか...という問いにいとも簡単に「音は振動だからだよ」という明快な答が返ったのです。音は波である、空気を振動させる、だから熱くなる。倍音ゆえに余計そうだったんですね。ちなみにCDやゲームのデジタル音はパルスであって音本来の振動ではありません。

   
   水戸先生とこんな話もしました。「先生の耳は格別いい耳だから、下手なビウエラをお聞かせすると、辛いだろうな..と遠慮してしまう」と申しますと。正直つらいときがある。下手な音を聴くと自分も下手になる....という衝撃の返事がかえってきました。そうだ、たしかに....とわたしは思いました。語りの会でほんとうに共鳴したときは一度聴いただけで語れます。ですが、反面くせやなにかが耳にこびりつき、実際にうつってしまって、自分でぎょっとすることがあります。耳はコピーしてしまうのです。

   話はすこし変わりますが、公演の前、テープにとって全体をチェックすることはあっても、一回しか聞かないのは、聞くことで語りが次第に痩せてゆくことに気づいたからもあります。自分の語りを耳でコピーして語ってしまう....そうすると生命力、躍動感が希薄になる、ものがたりを生きるのではなくなぞってしまう。

   器楽にしても語りにしても朗読にしても、ほんもののいいライブを実際に聴くことは喜びであるとともに上達のためのひとつの方法なんですね。子どもたちのためにうつくしい日本語で語りたい....というのも根はおなじです。子どもたちがやはらかな感性、やはらかな耳、やはらかなみずみずしい心を持っているうちに、質のいい音楽や演劇や語りや朗読を おとなたちが届けるのはおおきなおおきな贈り物です。

   心に”響く”というのは文字とおり響く.....人の声や音楽の振動に身体や心や魂が揺り動いている....共鳴している状態なのではないか....ライブがより感動を生むのは生の振動が伝わってくるからです。そこに子どもたちの耳を変える活路のひとつがあります。



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   ネモさんに会う前に河合楽器で440ヘルツの音叉を買いました。赤ちゃんの産声が世界中どこでも440ヘルツ付近であることをご存知でしょうか?そのことから1939年の国際会議で国際標準ピッチをその440ヘルツに合わせたのだそうです。これが 基準音「A(ラ)」でオーケストラのチューニングはこの音が基準になります。(アメリカでは442ヘルツ)

   このラの音は産声ばかりでなく洋の東西を問わず宗教的な恵み、慈しみ、救い等をあらわす音....と言われています。以前倍音ワークのとき、440ヘルツでマントラを唱えると空間が一変したのですが、それをたしかめてみたかったのですが、さて、実験はあとにしてお話をつづけましょう。



   ネモさんとはじめて会ったのはたぶん今から8年前のことでした。いい友人は自分をうつす鏡のようなものです。わたしたちは年に一度逢瀬をたのしみ互いの今立っている位置、目指す場所を確認しながら歩いてきたのでした。

   8年前、わたしたちは迷いのなかにいました。夫のこと、子どものこと、仕事のこと、朗読や語りのこと。なにを優先すべきか、ひとつひとつにどう対処していけばいいのか、どのようなステップを踏めばいいのか、語り合うのにいくら時間があても足りなかった。選択できる道が複数ありました....。今、目の前にはもう一本の道しかありません。そしてそれはお互いに熟知していることでした、わたしたちは成熟への道を進んでいるのでしょうか。

   けれども、わたしは余剰があった、のしかかる現実とともに未だ夢があったあの頃をいとおしく思いました。ひとつ選びとるたびにひとつ得るたびにわたしたちはなにかを贄に差し出し喪うのです。それは人間と天なるもののあいだの契約のように思われます。


   しかしながら 今、世界は逼迫しています。わたしたちはこの文明の終焉と新しい文明の黎明のために、それぞれがそれぞれの場でなすべきことをしなくてはなりません。たぶん、喜びを持って。ネモさんは学校の子どもたちのところに、わたしはわたしの働く場と家庭と語りの場へ。

   気づくことがたくさんありました。わたしがしようとしていること、それは社会や他者に向けた発信であり試みでありながら、此処に居る、生きて今いる自分の成就への試み、生成と復活の試みであるのでした。そしてわたしの知る誠実な多くの方々がおなじように身を削り、贄をささげ、対価を求めず、試みそのものを喜びとし分かち合おうとしているのでした。わたしはネモさんにわたしの持っている情報を手渡しました。

   寂しいような哀しいようなそれでいてほんのり明るい夜でした。



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........朝、なんの気なしにトマティス体操をしてみた。驚いたことに腰の上わき腹がしっかり膨らむのである。ヴォイストレーナーのやまもとさんも言っていたが、よい呼吸のとき、息を吸うと膨らむその場所が、一ヶ月前、「幸福の王子」の最初のレッスンでペタリと動かないことにがっかりした。それが呼吸とともに規則正しく膨らむのである。エクササイズをしたわけではない。意識して脇を伸ばすエクササイズだけは続けていたが、それだけでずっとなおざりにされていたからだは目を覚ましてくれた。

   テレビに元ちとせが出ていたのでいっしょに歌ってみる。...声の出方が違う、二階に行って、エリザベートやイタリア歌曲も歌ってみる。いつのまにか声に余裕ができている。......身体は正直だ....意識してすこしでも面倒みてやるとちゃんと応えてくれる。不思議だ、ありがたい、うれしい。

   メニューをつくってみよう。身体のもとからすこしずつ切り替えよう。10代でもなく20代でなく40代でさえない、あとすこしで還暦には違いないが、応えてくれるからだに答えよう。脳は死ぬまで進化を続けると茂木先生はおっしゃった。声は最後まで衰えない能力(ちから)だそうだ。身体とこころが変わってゆけば語りも豊かになるだろう。ひととの関わりも豊かになるだろう。老いに向かう生命の質を変えよう。


   今日はネモさんに会う。水曜はJさんに、土曜日は発表会、日曜日は語り基礎講座。8月はBさんと阿部さんの語りを聴く。つながりがひろがる。あたらしい絆が生まれる。誠実に生きているひとはみな耀いている。わたしの生命も花と耀くように。



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   朝 お風呂で踝を磨いていました。浮腫みもしだいにとれてきてよかったなぁと足をさすっていたとき、不意にいとしさがこみあげてきて、まな裏が熱くなりました。身体をささえさまざまな人の出会いにわたしをはこんでくれた脚、覚束ないながら四人の子どもを育て上げたこの掌、おおくのものを抱きとめた腕.....湧き上がる身体への感謝に我をわすれ撫でさすっておりました。

   わたしは自分の身体をいとしいなどと思ったことはありませんでした。それは少女時代に植えつけられたものかもしれません。父やおさだ叔母のことばの端々から女の身体は不浄というイメージがしみこんだのかもしれません。それとともに聖書の禁欲的な考え方、肉欲をともなう身体のイメージ、また肉体をコントロールする精神という考え方....次第に身体は精神に従属するという誤った観念に深く考えることもなく陥っていた.....

   そんなことを思いながら身体を抱きしめていたとき、深い水底から記憶が甦ってきました。.....春でした。黄色の花が風に揺れていました。由紀ちゃんのおばちゃんが妹のヤスコの足をこんこんと湧き出る清水で洗っていました。「やっちゃんはいい子ね。ゆきとようこちゃんはぐずぐずいうけれど....」...わたしはゆきちゃんのおばちゃんはヤスコのほうがすきなんだ.....と思いました。

   夏でした。母が柱を背に蹲って泣いていました。秋でした。母は登校班の上級生たちに鉛筆をくばっていました。手に握られた鉛筆の束、母は越境入学させたわが子の打ち解けないようすや機転のきかないこと、なにごとにつけ行動がおそいことを心配したのでしょう。....けれども鉛筆を配ることはわたしにとって恥ずかしいことでした。

   冬でした。ねんねこにくるまれ母におぶわれてわたしは長嶋医院に行きました。母の背のぬくもり....と幼稚園なのにおぶわれているという恥ずかしさががわたしをつかんでいたたまれなくさせわたしはねんねこの襟に顔を埋めていました....たくさんのたくさんのことが思い出されてわたしを揺さぶります。近所のお母さんだち、由紀ちゃんのおばちゃん、チエコちゃんのおばちゃん、直ちゃんのおばちゃん....昔の女のひとたちは今の女のひとより高く澄んだ声をしていたように思います。

   それらの記憶のなかの5.6歳のわたしを捕えていたのは、愛されたいという想いと焼け付くような恥の感覚でした。筋肉組織の神経は過去のトラウマを記憶するといいます。わたしは自分が身体を受け入れたことで、それらの記憶が封印を解かれてあふれてきたのだ....と思いました。こんなふうに夫の体にも、娘の身体にも過去の記憶が刻まれている、すべてのひとたちの身体に....それはとても不思議なかなしいうつくしいことのように思えました。

   お風呂の澄んだお湯.....地球上の水の量は何億年も変わることがないそうです。空から落ちてきた雨は地にしみこみ、川を流れ動物や植物の体内をとおり、川となってみずうみとなって海となって、蒸発しふたたび空に還ります。この水の旅は平均して28日だそうです。水は輪廻を繰り返しているのです。

   そしてひとは....ひとも生まれ変わり、死に換わりして輪廻転生を繰り返しています。今世の記憶のまえに膨大な記憶がある、なぜかそれを表面上はリセットされてこの地上に戻ってくる.....水はどうなのだろう....蒸発するとき地上の穢れをすててゆけるのだろうか.....このわたしが浸かっている澄んだ水のひとつぶひとつぶはどんな旅をしてきたのだろう.....かつてシーザーの体内を流れたことがあったやも知れず、黄河をミシシッピーを流れたこともあったであろう....氷河に眠っていたこともあっただろう....

   わたしたちもそのようなものなのかもしれない。一にしてすべて、いつかみなもとに帰りまた旅を繰り返す。生きることは....汚れ穢れを消していくことかもしれない....そのためにかなしみや苦痛や喜びがあるのかもしれない....

   朝 お風呂のなかでそんなことを考えておりました。



   

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   包丁道は平安時代、光孝天皇の命により、四條中納言藤原朝臣山陰卿が作法として確立したものです。光孝天皇は料理好きな方でしたが、人が生きていくためには他の生き物を殺生しなければならないことに非常に心を痛めるような方でもありました。そこで自分たちの食のために犠牲になった自然の生き物を供養し、同時に悪霊を追い払う儀式を執り行おうと考えられたのが始まりでした。

   これが現在まで四條司家に伝承されている四條流庖丁儀式で、伝統を担う四條家当代の四條隆彦さんからごく内輪で7人ほどでお話をうかがいました。わたしは在原業平や和泉式部の暮らしの一端を知りたくて、いくつか質問をしました。

1 貴族は365日のうち300日は儀式に明け暮れていた。
2 夜中の二時三時まで 肴もなしにどぶろくを呑んでいた。
3 干し魚、塩漬け魚をもどしたり塩抜きしたりして食べた。
4 栄養失調だった。それでしもぶくれ....。
5 平氏が源氏に負けたのは貴族文化に染まった食事のせいである。
  源氏は玄米(強飯コワイイ)平氏は白米(姫飯ヒメイイ)
6 女たちが宴会に侍ることはなく、男ばかりだった。
7 食事は神との供食であり、おさがりをいただく。

平安時代の典雅な王朝文化は、まずしい食生活でつくられた!!


  その後 話ははずみ、日本の食文化とは神に感謝し、素材に感謝するものだと四條さんはいいます。素材を超えてはいけないのだそうで、フランス料理、中国料理と根本から違うそうです。....神に感謝する.....ネイティブのひとたちはみなそうですね。

  四條さんが語られた田植え式にしてもまず祝詞をあげ降神の儀をし、おわりに昇神の儀をします。以前書いた歌舞伎・能楽のルーツ猿楽→田楽→田遊び 踏んで舞って悪しき霊を追い払い、善き神を招く...とつながります。

  日本の文化をさかのぼると、ひとびとはつねに神とともにあったのです。ことたま、おとたまとたやすくつかわれ勝ちですが、....なぜおとたま・ことたまなのか、おとたまのなかに含まれることたまのその奥にあるものはなんなのか....彼方に想いを馳せるのは無駄ではありません。



  私事ですが、ながいこと右に傾いていた身体がすこしずつまっすぐになってきました。長い習慣のせいで首も背筋も返って左に傾いているような違和感があるのですが、鏡に映すと以前とはあきらかに違うのです。

  これは1月からしている自力整体で徐々に身体がほぐれ準備が整ったこともありますが、きっかけになったのは骨導音のように思います。カーヴ・骨動発声をすると自分の響きで身体が微細に震動するのです。天と地をつなぐ一本の糸になったような感じです。中心の確立がこんなかたちでできるとは夢にも思いませんでした。わたしの頚椎は左に、右の肩は前に 右肢は上が外側に捻れ下が内側に捻れています。気をゆるすと身体はくせがついたほうに戻ろう戻ろうとするのですが、なんとか言い聞かせながら自然なうつくしい姿勢に戻してゆきたいと思います。

  どうように声からも余分な力、くせをはずしてゆきたい、古武術にもつながりますが内奥を動かして最小の力で心に響く声を出したらあたらしい景色がひろがるに違いない。身のうちから溢れるように語りたい。語りもまた他の多くのこととおなじように本来降神の儀であり、感謝であり捧げものであり、共振し共鳴する生命の祭なのでしょう。あらたなあかるいよみがえりのちいさな祭、いのちを寿ぐ祝ぎ歌です。

  語りを知らなかったら、わたしは膝がわるいまま今も杖にすがっていたかもしれません。自分の魂や身体についてこれほど気づくこともなく、真理にちかづくすべも知らなかったかもしれません。語ることはわたしにとって自分を癒し振るい立たせることでもありました。おおいなる悲しみももたらしはしたけれど、それも賜物であったのでしょう。わたしは目を瞑り手をさしのべすべてをうけとめます。ありがとう.....。あなたの平安と幸福を祈ります。






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    メリハリの語源は尺八の奏法、メリカリ減り・上り(甲り)からきているそうです。音を下げることをメリ、あげることをカリといったのがメリハリ減り張りになったのです。

    メリハリといいましても全体の構成上もあるし、一小節のなかにもあるわけです。どちらかというと一小節のなかでより全体の構成、バランスがよりむつかしいでしょう。メリハリがないと単調になりますし、聴くほうとしては気持ちよく眠くなりがちです。もっと見直していいのではと思います。たとえ悲しいものがたりのなかでもどこかに明るみがある...そこを明るくすることで悲しみがいや増し、より感動的になります。楽しいお話にも哀愁の刷毛を一振りするだけでものがたりに奥行きが出ます。ステージのうえで語る場合は申すまでもありません。

    メリハリをつける上で重要なのが台詞。”台詞を立てる”といいますが、全部立ててしまったら意味はないわけですね。たとえば幸福の王子のつばめの台詞「あなたはもう何も見えない。だからわたしはあなたといっしょにずっとここにいます」のどのことばを立てるか....立てる...際立たせる...方法はいくつかあります。声音 強弱 緩急 間...それをどう組み合わせるか。これはつばめの愛の告白でもあります。像である王子もつばめも実は人間なんです。幸福の王子は...自分の目さえ貧しいひとに差し出す王子とその王子に命をささげて尽くしたつばめの至上の愛のものがたりなのです。う~ん....高校のとき、一年のサブテキストがオスカーワイルド....英語を訳して知った原文のうつくしさを思い出しました。今回は曽野綾子さんの訳でした。

    書いているうちにフォトショップでしているレタッチも思い出しました。わたしはプログラムを自分でつくるのですが、画像データを加工・修正する作業が不可欠です。必要なときは不要な部分を切り取りますし、色調を修整したり、光と影のコントラストをつけたり、周辺を透明化したりするのですが、それは画像をよりうつくしくするためであり、見てくださる方に感じてもらいたいからです。

    メリハリをつけるのも、そのような目的を持ちます。ものがたりへの愛、聴き手への愛といってもいいでしょうね。そのうえでものがたりを生きること、語っている自分 その自分を見つめている静かな自分を保ち続けることです。...とこんなことを申し上げるのも26日発表の「幸福の王子」のメリハリについて考えなくてはならないからなんですが、やっぱり出たとこ勝負かな...。




 
  

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   渋谷に向かう湘南新宿ラインのなかで「パパ 逗子はドイツより遠いの」と幼い声がしました。電車のなかに涼やかな淡い緑の風が吹いたようでした。見ると3.4歳の幼女とまだ若い父親で、父親はわたしの車のトランクに放り込んであるのと同じ、廉価な紺と白のシマのパラソルを抱えていました。これからふたりで海に行くのでしょう。

   子どもの声だけが持つ、特別な倍音成分があるそうです。高次倍音?それが心に響くのですね。それは無力な子どもに神さまがあたえてくださった身を守ったり、親を呼んだりするための機能なのかも知れません。子どもがかっていた”源”をまだ覚えているからだといったらロマンティックに過ぎるでしょうか。

   ほんとうの自分の声を求める旅ももうすこしで終着駅につきそうです。そのあとはゆっくり歩いていきましょう。今日の朗読のワークショップもとてもおもしろかったです。聞く(hear)ではなく耳偏の聴く(listen)であると日原先生は言いました。わたしはずっと聴き手ということばをつかってきたので、わが意を得た想いでした。

   語るとは聴き手を文字とおり共鳴させるのです。高いところで耳を意識して発声することで高次倍音が声に含まれます。骨導音は聴き手の身体と共鳴します。日原先生の骨導音はグレイッシュピンクを連想させるやさしい音でしたが、その声には自然に肯ってしまう心地よい説得力がありました。「声は”人格”です」日原先生はきっぱり言いました。







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......朝、耳のなかでしんと音がすることに気づいた。これは子どものときに聴いていた音だとハッとした。無音の音。血流が脳内を流れる音なのだろうか。トマティスメソッドのカーヴ(聴覚発声法)のハミングによる骨伝導をはじめてから前より耳を澄ますようになった。するとすこし世界が変わった。

   たぶんゆっくり話すようになった。ひとの話を聴くようになった。そして耳の奥で、寝静まった夜でも明け方でも基底音が地下深く流れる水脈の音のように微かに微かに響くのを感じるようになったのだ。

   最初は、ハミングをしても感じなかったのが1週間ほどたって、背中に振動を感じるようになり熱くなることに気づいた。やがて手の先やくるぶしまで微細に震えていることに気づくようになった。しかし右足はなかなか感じない。坐骨の辺がチリチリするのでたぶん障害があってそこにとどまっていたのだろう。わたしは右足がよくない。だいぶ良くなったがまっすぐ伸ばすことさえできなかった。その右足も夕べあたりからかすかに感じるようになった。

   きのうネットで調べたところ、カーヴは身体的な働きもする。自力整体でもそうだがゆれ...振動がひとのからだのゆがみをとるわけだ。骨振動させる...それが骨格の歪みを時間をかけてとってゆく....不登校などにも効果があるらしい。究極のものはたいてい、身体的にも心にも魂レヴェルにも働きかける。

   自分の響きで自分を癒す、自分の響きが背骨をマッサージし頚椎や腰やゆがんだところを時間をかけて修正してゆく。身体が統一された小宇宙となる。カーヴからフェルデンクライス・メソッドにつながった。フェルデンクライスは科学者であり柔道家であってフランスの柔道隆盛のもとをつくったひとだが、サッカー事故で大怪我をした。彼は自分の身体をつかって動きから脳が発達してゆくことを掴み障害者のリハビリテーションにおいて 数々の奇跡的治療をおさめる。

   トマティスの聴力検査で身体のひずみがわかるように、フェルデンクライスでも様々な動きを通して自分のからだの使い方のクセや、無意識に作り上げてきたルールやパターン(又は当たり前だと思っていたこと)への気づきを促す。つまりニュートラルな状態にリセットするわけだ。

   アイダ・ロルフによれば、体の異常の99パーセントは精神的トラウマによるものだそうだが、使いかたのくせにしろトラウマにしろ、修正するにこしたことはない。トマティス博士は亡くなったが博士の講習会にはオペラ歌手や芸術家が日を追うごとに増えていったそうだ。フェルデンクライスも一般的なひとだけのものでなくパフォーマーに最適という。

   ちなみにフェルデンクライスを知ったのはきのうだが、竜笛奏者で古武術家の知人のサイトに今朝寄ったところ、フェルデンクライスのことが書いてあってシンクロにびっくりした。こうなったら時間もないし若い方々のようにのんびりできないからわたしは自力整体とヴォイスヒーリングの上にトマティスとフェルデンクライスの力も借りて今年中に身体を語るための器に近づけよう。

   今、酵素玄米を炊いている。気がつけば一ヶ月以上白米を食べてはいないのだった。ワークショップの日、みなさんと食事をしたが白米も魚もほとんど喉を通らなかった。順調にゆるいベジタリアンの道を進んでいる。ベジタリアンのベジタはベジタブル(野菜)から由来する言葉ではなく、VEGETUS(ラテン語で活気有る・生命力に満ち溢れた)という意味だそうだ。直感にしたがって前に進もう。トマティスもフェルデンクライスも期せずして湧いてきたのには意味がある。

   朗読のS先生が必ずしも役者の朗読がいいとはいえないと最近おっしゃった。疲れるのでしょうか....貼り付けのステレオタイプは言わずもがなだけれど、イメージを伝えるというのが一筋縄ではいかない。500人のステージ、300人のステージと20人の場所ではおなじものがたりにしても違ってあたりまえである。聴く人の年齢や精神的レヴェルや感受性...琴線の繊細さ、張り具合によっても違う。距離感は大事だ。...がいつも刺激的な場にいて全開でやってると普通の感覚を忘れてしまう。たいていのふつうのひとは開いてさえいないのだ。役者や語り手ってなにかな...岸田今日子さんや松たか子さんみたいな二面性が必要なのかもしれない。閉じた繊細さとパワフルな大胆さと。

   たいていの語り手はもう少し踏み出していいと思う、だが聴き手になったとき、せまい空間でイメージを押し付けられる苦しさを知っているから控えめになる...ということもあるのだろう。なぜかわたしの周辺のひとたちはそうである。感受性のゆたかなひとが多いのだろう。薔薇の花のイメージ、まっかな色とその香り...たぶんJoyかなんか...を大画面いっぱいにいただくより掌にそっとそっと載せてほしいわけ....。語り手が100人いれば100の道がある。わたし自身の原点に還ろう。願わくは無音の音が聞き取れる聴き手が多からんことを。語り手は言うに及ばず。

   






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   きのうヴォイスヒーリングに行きました。それから市ヶ谷のトマティスで聴力のチェックを受けついでに無料トレーニングを受け、担当のうるわしいIさんと意気投合し語り合ううちにあたかも霧が晴れ森がその姿をあらわすように疑問がほどけ、今まで学んできたことがつながった景色になって見えてきました。

   たぶん2つ受けたからよりはっきりしたのだと思います。ヴォイスヒーリングはスピリチュアルな匂いのあるもので、トマティスはトマティス博士が発見し学会で認められた科学的なものです。けれども倍音をテーマにするとその二つが重なる領域があるのです。

   たとえば医療の問題でもそうなのですが、病は気から...と昔から言われてきたように医学と精神的なもの、またスピリチュアルな面とは重なる部分があります。トマティスでもその辺縁は理論としてテキストにしがたいとIさんは言いました。これを暗黙智というそうです。日本の道...古武道とか芸の道かはまさにこの暗黙智ですから口伝として伝わるしかない部分があるのでしょう。

   さて 気導、骨導の聴力テスト(耳鼻科でしたのと同じでした)で高周波、中周波、低周波のカーブを見ると、わたしの場合右の腰から下の対応する1000ヘルツ以下の領域に問題がありました。そして頚椎から肩...喉....に対応する領域が突出していました。つまり聴力は身体の状態をなぞるのです。女性は750ヘルツ付近...落ち込む人が多いそうです。750ヘルツは子宮をさします。


   うーむ....聴力は身体の共鳴と関わりがあるのかな....トマティス理論では聴こえない音は発声できない....発声のために身体の調整が必要なんだということですね。発声は発声器官と共鳴するからだに依っています。身体は共鳴板なんですね。ですから呼吸と共鳴するボディ...余分な力の入っていないリラックスしたボディ....それでいて芯のあるボディが必要なのです。

   ひとの心に響く声は張り上げる声ではない。ですが届かせようとすれば肩、喉、舌に力が入ってしまう。ではどうすれば.....。Iさんの伝えてくれたことを箇条書きにしてみます。

1 音は身体を軸にして身体の前面に出す。響きは背中から出す。

2 ゆるがない自分の確立...身体的には姿勢。

3 耳は上に持ってくる....実際の耳の位置より上で聞く感じ。

4 高音は低い音を意識し 低音は高い音を意識して発声。
 (常に同じ幅の倍音が出るように)

.....はっきりとはいえませんが気導の音は前面に 骨導の音....倍音は背中からということでしょうか.....


  トマティスメソッドは語学学習に大きな力を発揮します。メソッドの目的はひとが知らず知らず失ってしまった聴力をリセットし赤ちゃんの状態に戻すことです。このメソッドを受けたひとの感想はさまざまですが、終わって外に出たとき木のことばが聞こえた...という方がいたそうです。昔話の世界..? いいえたとえばネイティブアメリカンのシャーマンは医者でもありましたが、薬草がこの葉は或は根はこんな病気に効くから...と教えてくれるというんですね。

  元来 ひとは木や草のことばも聞こえた...森羅万象の響きを聞き取り共鳴することができたのです。....この森羅万象の響きこそ倍音であってわたしたち人間も発声することができます。今日ヴォイスヒーリングでM先生や参加者の倍音発声にわたしたちは共鳴しここではないどこか遠いところと自分の内側がつながっているのを感じました。誰だったか忘れましたがたしか科学者の方がこう言っていました。......宇宙は共鳴する。


  わたしは思うのです。芸とはたぶん....共鳴させることであると....自己の表現というちいさなものでなくその場を共鳴させることではないかと.....器によっては源や宇宙と共鳴することもできるのではないかと....歌い手...奏者....語り手....役者....はそのための媒介者に...共鳴版....楽器になり得るのではないでしょうか....そうなれたらどんなにしあわせでしょう。....共鳴....それが魂振い...の深い意味なのかもしれません。





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  ひさしぶりにTの会例会に顔を出しました。場所はいつもの図書館の研修室なのですが...声が響いて振るように聞こえる....いつもこうだったかしら....わたしは首を傾げながら、目を瞑って声の響きに聞き入っていました。

  昔話ばかりなのですじをあらかた知っているせいもあるのですが、ものがたりを聞き取ろうとするより聲のシャワーのなかにいる、それだけでしあわせでした。ひとによって響きの質がちがうことに気づきました。さらさらさらさら煌めきながら降る清らかな雪のように感じる聲もあれば、ハレーションを起こしたようにきらきらきららさんざめくような聲もあり....五月の太陽の光のようにさんさんと降りそそぐ聲もあります。

  わたしは掌をひろげて振ってくる響きを受け取りました。....もしかしたら今までにない聴力が目覚めたのかもしれない....そんな気がしてうれしくてなりませんでした。

  午後、ラヴェンダーさんがみえるので駅までお迎えに行きました。今日火曜日は自力整体の日です。スポット参加のラヴェンダーさんと講師の穂積さんと同じ電車だったようです。まだ一週間しかたっていないのになんでしょうね...ラヴェンダーさんとは顔をあわせるのは、とても懐かしくそれでいて恥ずかしいような滅多に味わうことのない想いがしました。

  外出が重なってボロボロだった身体も穂積さんの手当てで息をふきかえし、駅まで送って会社に戻りました。今週は気を張らないとアップアップ溺れてしまいそうです。あすはLTTAの授業、それからヴォイスヒーリング、トマティスの体験、朗読ワークショップと休む間無くつづき、日曜日はワークショップの第二回目です。なにかお伝えしようと思うとおのずと動き出すものですね。




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