......朝、耳のなかでしんと音がすることに気づいた。これは子どものときに聴いていた音だとハッとした。無音の音。血流が脳内を流れる音なのだろうか。トマティスメソッドのカーヴ(聴覚発声法)のハミングによる骨伝導をはじめてから前より耳を澄ますようになった。するとすこし世界が変わった。
たぶんゆっくり話すようになった。ひとの話を聴くようになった。そして耳の奥で、寝静まった夜でも明け方でも基底音が地下深く流れる水脈の音のように微かに微かに響くのを感じるようになったのだ。
最初は、ハミングをしても感じなかったのが1週間ほどたって、背中に振動を感じるようになり熱くなることに気づいた。やがて手の先やくるぶしまで微細に震えていることに気づくようになった。しかし右足はなかなか感じない。坐骨の辺がチリチリするのでたぶん障害があってそこにとどまっていたのだろう。わたしは右足がよくない。だいぶ良くなったがまっすぐ伸ばすことさえできなかった。その右足も夕べあたりからかすかに感じるようになった。
きのうネットで調べたところ、カーヴは身体的な働きもする。自力整体でもそうだがゆれ...振動がひとのからだのゆがみをとるわけだ。骨振動させる...それが骨格の歪みを時間をかけてとってゆく....不登校などにも効果があるらしい。究極のものはたいてい、身体的にも心にも魂レヴェルにも働きかける。
自分の響きで自分を癒す、自分の響きが背骨をマッサージし頚椎や腰やゆがんだところを時間をかけて修正してゆく。身体が統一された小宇宙となる。カーヴからフェルデンクライス・メソッドにつながった。フェルデンクライスは科学者であり柔道家であってフランスの柔道隆盛のもとをつくったひとだが、サッカー事故で大怪我をした。彼は自分の身体をつかって動きから脳が発達してゆくことを掴み障害者のリハビリテーションにおいて 数々の奇跡的治療をおさめる。
トマティスの聴力検査で身体のひずみがわかるように、フェルデンクライスでも様々な動きを通して自分のからだの使い方のクセや、無意識に作り上げてきたルールやパターン(又は当たり前だと思っていたこと)への気づきを促す。つまりニュートラルな状態にリセットするわけだ。
アイダ・ロルフによれば、体の異常の99パーセントは精神的トラウマによるものだそうだが、使いかたのくせにしろトラウマにしろ、修正するにこしたことはない。トマティス博士は亡くなったが博士の講習会にはオペラ歌手や芸術家が日を追うごとに増えていったそうだ。フェルデンクライスも一般的なひとだけのものでなくパフォーマーに最適という。
ちなみにフェルデンクライスを知ったのはきのうだが、竜笛奏者で古武術家の知人のサイトに今朝寄ったところ、フェルデンクライスのことが書いてあってシンクロにびっくりした。こうなったら時間もないし若い方々のようにのんびりできないからわたしは自力整体とヴォイスヒーリングの上にトマティスとフェルデンクライスの力も借りて今年中に身体を語るための器に近づけよう。
今、酵素玄米を炊いている。気がつけば一ヶ月以上白米を食べてはいないのだった。ワークショップの日、みなさんと食事をしたが白米も魚もほとんど喉を通らなかった。順調にゆるいベジタリアンの道を進んでいる。ベジタリアンのベジタはベジタブル(野菜)から由来する言葉ではなく、VEGETUS(ラテン語で活気有る・生命力に満ち溢れた)という意味だそうだ。直感にしたがって前に進もう。トマティスもフェルデンクライスも期せずして湧いてきたのには意味がある。
朗読のS先生が必ずしも役者の朗読がいいとはいえないと最近おっしゃった。疲れるのでしょうか....貼り付けのステレオタイプは言わずもがなだけれど、イメージを伝えるというのが一筋縄ではいかない。500人のステージ、300人のステージと20人の場所ではおなじものがたりにしても違ってあたりまえである。聴く人の年齢や精神的レヴェルや感受性...琴線の繊細さ、張り具合によっても違う。距離感は大事だ。...がいつも刺激的な場にいて全開でやってると普通の感覚を忘れてしまう。たいていのふつうのひとは開いてさえいないのだ。役者や語り手ってなにかな...岸田今日子さんや松たか子さんみたいな二面性が必要なのかもしれない。閉じた繊細さとパワフルな大胆さと。
たいていの語り手はもう少し踏み出していいと思う、だが聴き手になったとき、せまい空間でイメージを押し付けられる苦しさを知っているから控えめになる...ということもあるのだろう。なぜかわたしの周辺のひとたちはそうである。感受性のゆたかなひとが多いのだろう。薔薇の花のイメージ、まっかな色とその香り...たぶんJoyかなんか...を大画面いっぱいにいただくより掌にそっとそっと載せてほしいわけ....。語り手が100人いれば100の道がある。わたし自身の原点に還ろう。願わくは無音の音が聞き取れる聴き手が多からんことを。語り手は言うに及ばず。
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