西のそらにあかるく 半月が浮かんでいた。そらへ旅だつ舟のように希望に満ちて浮かんでいた。
インプルーブで石川先生から施術をうける。首と背が緊張していてガチガチなのが自分でもわかった。なにかあったのですかと先生が尋ねる。...たしかにこの7日は登りつめ転げ落ち、生と死に立会い、さまざまな選択を迫られ 選択した激動の7日だった。からだはそれを受け止め鎧のように身を覆うとしたのだろう。
感情とは脳の産物だそうだ。怒り 哀しみ 闘争心などは交感神経のなせるわざであり 血管が収縮する。嵩じてストレスとなる。ストレスは成人病などの原因となることはよく知られているが、癌患者の白血球数の値は10パーセント位であるそうな...。安らぎ 癒しは副交感神経の領域である。こちらが嵩じると鬱になる。バランスが大事なのだそうだ。...といってもストレスの要因は現代社会に蔓延しているし 闘い(自分とのあるいは他の環境との)は生きるうえに必要なものであるのだから どうやってリラクゼーション を生活に取り入れていくかである。
石川先生からそれを聞いてさまざまなことを思った。たとえば 語りの会においてのプログラムのたて方、たとえば これからはじまる障害児クラスに向けたおはなしやエクササイズについて 当然情緒障害児と知的障害児のクラスでは内容が変わってくるであろうということ...緊張、弛緩、のリズムとどちらに力点を置くかということなどである。
わたしにとってながらく文学とはカタルシスを求めるものであった。カソリック文学といわれる領域にことに惹かれたのもそれゆえである。音楽についてもクラシックでもジャズでもある浄化作用...魂の甦りがうながされるものが聞きたかった。それは単に透明だったりやさしい軽いものではない。悲哀も激情も起伏もあってさいごに安寧の岸辺にはこばれる...といったものである。カタルシスに涙はつきものである。それも安易なセンチメンタルな涙ではなく 文学ならシムノンやル・グインなどであり 当然語りの目的ももカタルシスをとおしての魂振りであったのだ。
....ここでカタルシスについて書かれた2006年4月のブログを見てみよう。
カタルシス2 2006.4.9
この二日間に10000字 原稿用紙25枚分もブログに記していた。...というのも 語り スピリチュアルなもの カタルシス 療法としての語り はわたしが語り手として求め続けていたものだからである。
6年前 櫻井先生にお会いして はじめて語ったのが ちょうど今頃 ラフカディオ・ハーンの乳母桜だった。 この話と雪女 を語ること 過去に遡ることでわたしのなかの 長いあいだの母との確執がほどけ 心の表層で拒絶していたにもかかわらず わたしは わたしが母をこどものころからずっと 愛しつづけ求めつづけていたことを覚ったのだった。母とわたしのあいだは前にもまして和やかになった。浦和の妹弟たちがいまだに引き摺っているわだかまりを わたしは語りの力で洗い流すことができたのである。今 ふと気がつけば 母と子の物語を わたしはその後そうは語っていない、語る必要がなくなったからだと思う。これが一番はじめに書いた物語 母、雪、櫻である。
語り手は語りの現場からの要望と必要性に応じ さまざまなものがたりを語る。けれども 一回二回で語らなくなってしまうお話も多いのではなかろうか。ベリットさんが 「聞き手に必要と思われるより あなたの語りたいものがたりを 」と言ったのは意味がある。もちろん ベリットさんも他の語り手も固有の聞き手に必要なものがたりを感知したら語っているであろう。だが、ことに語りをはじめて間もない語り手は自分の心のほしがる物語を語るのがよい。そこに自分を解く鍵があるのだから。そして その思いが強いほど 聞き手の心にも届くのだから。
個人的にわたしは 美しく整えられた 耳にこころよい物語を聞くよりは たとえ 八方破れでも 未熟でもその人の持っているあこがれとかそのひとのエッセンス、欠落や苦渋でさえにじみ出た物語を聞くほうが好きである。なめらかなやさしいきれいな 物語をなぞっているだけの心にひっかからない語りだったら、それがたとえ創作の語りでも聞いても仕方がない。聞きたいのは語るひとの魂の乗っていることばであり ものがたりである。
ブックトークは必要だが 語りはブックトークではない。 語り・ストーリーテリングは魂の食べ物になり得る、魂を癒し 生きやすくすることができる。 ただベリットさんと異なるのは フェアリーテールがすべてではない..と感じていることだ。フェアリーテールは、受けとめがたいものがたりを 象徴としてうつしだすにはよいと思うが受けとめることができるなら事実のほうがインパクトがある。
アリストテレスによれば物語を聞き 登場人物の悲しみや苦悩に共感することで、心の奥底の感情が揺さぶられたり涙を流したりし、その結果開放され、癒され慰めを得ることができる...この作用をカタルシスと呼ぶ。わたしはそのうえに聞き手が自分の過去の生にかさね合わせ追体験するということもあると思う。生きなおすことでかっての苦悩や悲しみ、後悔の念などが洗い流されてゆく。
それは明るい・楽しい物語では到達できない地点であり、「悲しみの物語」が呼び起こす浄化作用なのだ。 わたしが楽しい...より心に響く ずんとくる物語にこだわるのは まだわたし自身がそうしたカタルシスを必要としているのかもしれまない。
アリストテレスは悲劇のカタルシス作用しか 述べていないが 喜怒哀楽のどの感情を表に出すことでもカタルシスは起こり得る。たとえば参加型のおはなしでいっしょに冒険し 苦難を乗り越え 目的地に到達すること。笑い話で笑いころげること、演劇のエクササイズのように怒りを爆発させること..でもカタルシスは起こる。
ポイントは聞いて 物語を共有することで得るカタルシス(浄化作用)より 物語を語ること 聞いて受けとめてもらうこと・表現によって得るカタルシスの方が大きいということだ。 わたしは語ることで 癒され 甦ることができた、それゆえ わたしは聞き手の方々にも語ることを伝えてゆきたい。療法としての語りは ベリットさんが1対1でなさっているように病気の子どもたち自身が聞くだけでなく、主体的に語り 聞いて受けとめてもらうことにあったという事実に注目したい。
ベリットさんの話をうかがって 語り(ストーリーテリング)を大学教育レベルで学べるということがとてもうらやましかった。日本では理論として伝承文学は学ぶことができようが 実践は教えてはもらえまい。心理療法として サイコドラマや話を聞くことはあっても フェアリーテールの語りかえのようなことまではしていないだろう。わたしたちは理論と実践を自ら学ぶしかない。
しかし個人でするには膨大な時間がかかり 若いひとはなかなか育つまいと思う。願わくは 語り手たちの会が 語り手を養成することを今後とも続けてほしい。そしてどこかの大学で 語りを体系的に学べるところをつくってほしいと望むこと大である。ベリットさんの声は澄み 口跡は美しかった。学校がわたしたちの時代にまにあわなくても とりあえず頭をあげて より深い語りを求め 魂を磨き 技術を練磨し 志は高く 歩いてゆこう、星はそれぞれのこころに潜む。
.....こうしたことから このあいだのリサイタルでは まだ語られていないライフストーリーのなかから「 母 雪 桜」をまた「立っている木」を語ったのだ。語り手の個人的な魂の旅...は聴き手の魂の旅と響きあい 重なり合う。そこにカタルシスが生まれる。...来年に向けての旅はパーソナルストーリーのような実際にあったものがたりではなく嘘構のなかでそれができるかということ...虚構のなかに真実は潜む....シムノンの雪は...もルグインの闇の...も虚構である。それらのものがたりはわたしを打ちのめした。...語りにおいてそれがわたしにできるだろうか。
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