遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



  妻も母も振り捨てて 一昼夜 古事記に没頭してしまった。まよわの皇子 軽の皇子と衣通姫の戀など 古事記の下巻は美しくも狂おしい人間もようである。いちばん気になるものがたりのファイルが消えてしまって 焦る。

パソコンのデスクトップのアイコンが208にもなってしまっていたので 整理する。ブルーの空に色とりどりの積み木を散らかしたようだった。これでよくわかるねといわれるが フォルダに格納するよりはすっとわかりやすい。そういうあたまの構造なのだろう。だが おかげで古事記のファイルをみつけることができた。

 リサと息子と三人でデニーズで話しあう。フルーツとアイスクリームと冷凍食品を大量に購入する。わたしとしては学者さんの古事記より 小説家の再話のほうがずっとイメージがわくように思う。テキストを語りやすい自分のことばになおしてみる。それから 語ってみてかわってくる。

  とても美しい古事記を書かれている小説家の方に問い合わせたところ、朗読のときはその都度連絡がほしいとおっしゃるのでとまどっている。語りは朗読ではないことを説明したがわかっていただけただろうか。再話も文学作品には違いなかろうが 古事記をひろめたいと思う気持ちはおなじなのだ。利を得るためにしているのではない。

  それでは 語り手の語りはどうか? 再話でなく まったくのオリジナルを語ったときは知的財産(産業財産.著作権)になるのだろうか?そも 知的財産とはだれのためにあるのかといえば 作者や考案者のためにあるのではないと 倉持氏は言っていた。国民のためにあるのだそうだ。よきものは ひとりじめにしないで 公にしてほしい それが国民のためになる ただし 本物か偽者かわからないと国民が損をする それが本来の中心理念だとのこと。なんとなくわかるようなわからないような...である。剽窃かどうかは 真似をされたと思うほうが 証明しなくてはならない。いつどこでどのように..そして いつ剽窃者?が作品を見たかも証明しなければならないのだそうだ。

  ウィルスバスターも2002のままだったので ダウンロードしたのだが 他社のも古いバージョンのもファイアウォールをアンインストールした後 シリアルナンバーを入れるようにと出た、シリアルナンバーなど 覚えているはずもない。さぁ 困った。



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  諦める 執着をとるとこうなるのか..リサからTELがあった。「パパの仕事を手伝わせてください」という。実家からもう帰ってこないだろうと思っていたからうれしかった。出されたことばはもう戻らないが こころがこもっていることばであれば、新しい一歩を踏み出せる、絆が深まることにもつながるのだと思いながら 娘を乗せて板倉まで車を走らせる。

  今日から昼夜で籾殻炭の製造がはじまる。ひとり一日5.6百円の中国の労働力と闘うのだから 高くは売れず苦戦だが 夫の顔は耀いている。うちの籾殻炭は1100度の高温で焼くから品質がいい。棄てるしかない籾殻が肥料の原料になり地に還る、また都市のヒートアイランドを防ぐ屋上庭園の土壌になる。いのちが循環する。娘もまっくろになって働いている。わたしはすべきことをしたあと、2F事務室でフランス窓から、おとうちゃまのこと、弥陀ヶ原心中を語ってみる。聲が以前とは違っている。夜中 帰る途中 アパートを覗き声をかけたが惣の返事はない。

  考えたすえ 運営委員会のメーリングリストに思うこと だれも言わないことを書く。書かれたことばはカラカラして こころを伝える聲を持たないから もしや人間関係に波紋を生じることもあるだろう 書かれたことばもまたもとには戻らない。だが、わたしが世話人として運営委員会の末席につらなることに意味があるとしたら 言いにくいことや少数意見も口にし、場合によっては一石を投じる...ことではないかと思う。わたしは語り手たちの会のことをとてもたいせつに思っている。こころのなかで思い 傍で話し 公の場ではおもんぱかって口には出さない わたしはもうそういうことはしない。誇りを持って...というほど大袈裟なことではないが、自分で恥ずかしく感じることはするまいと思う。 

  ル・グインの「言の葉の樹」を読み返してみる。はじめて読んだころわたしは語り手ではなかった。物語られているのは<語り>だったのだ。

  ル・グインはゲド戦記の作者であると同時に SFで壮大な宇宙史を連作で書いている。闇の左手も言の葉の樹もそのうちのひとつのものがたりである。

  テラ(地球)ではユニスト(一神教)の一派が政権をとり エクーメン(地球の植民地連合のようなものか)と敵対していた。ユニストのファザーたちはひとびとを堕落させるとして 科学や文学もろもろの学問を抹殺しようとし多くの犠牲者が出る。やがてユニストは衰え 混乱のなかで愛するひとを失ったサティはエクーメンの調査官として惑星アカに赴き古い文明を調査する。アカの政府はすべての文献や古い文明を抹殺しようとしていたが 遥かなシロンガの山中に惑星中から隠され運び込まれた膨大な「語りのテキスト」が隠されていた。

  サティとマズ(語り手=賢者の尊称)の会話またはマズのことば

 「歴史と<語り>は同じものだと思いますね」
  とユンロイが結論を言った。
 「物事を聖なるものとして保存する方法です」
 「聖なるものとはなんですか」
 「真であるものは聖なるものです
  虐げられたもの、
  美しいもの  」
 「すると<語り>は出来事のなかに
  真実を見つけようとしているのですね。
  あるいは苦痛のなかに、
  あるいは美のなかに 」
 「見つけようと努力する必要はないのです。
  聖なるものはそこにある
  真実のなかに、
  苦痛のなかに、
  美のなかに。
  それゆえ その<語り>は聖なるものです 」
 
 「わたしたちは世界の外にいるわけではないのだよ
  わたしたちが世界なのだ
  わたしたちがその言語なのだ
  だから、わたしたちは生き、ことばも生きる」
   
 美しいことばである。ル・グインは語り手だったのだろうか。このものがたりでも闇の左手でも彼女の筆になる神話・伝説が語られていた。

 言の葉の樹 早川書房 アーシュラ・K・ル・グイン
 小松芙佐 訳



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 母たちにそれから自分のために花を求めた

  きのう今日と息子の運転手付きで古本屋に行く。自分で運転するのが億劫になってしまった。3000円で20数冊購入する。ブックオフではゲド戦記とソフィアの世界と官能小説と冬のソナタがとなりあわせに並んでいてぎょっとしたが、安いということはいいことである。内容は村上春樹と大島弓子と花郁悠紀子、篠原烏童 半分は少女漫画だった。

  少女漫画!?とばかにすることなかれ 少女漫画は日本が世界に誇るサブカルチャーである。大島弓子の作品がなかったら 吉本ばななは世にでただろうか。また「秋日子かく語りき」と北村薫のスキップとの類似性、「秋日子かく語りき」「庭はみどり川はブルー」(1987年)と東野圭吾「秘密」のプロットとの類似性、四月怪談の弦の丞と江國香織「草の丞のはなし」の雰囲気の相似性等々、四月怪談他多くの作品が映像化されていることなども含めて 大島弓子の影響は大きいといわざるを得ない。

  少女漫画を引き合いに出しながら語りの要素を考えてみよう。少女漫画の三要素はストーリーの構造とことばそして絵である。絵とことばでイメージを伝える。 一方語りの要素はものがたりの構造とことば ことばを載せる声 ことばと声でイメージを伝える。

  ストーリー・ものがたりの構造はプロット・エピソードの積み重ねで起承転結 あるいは序破急の流れをつくり テーマ・メッセージを伝えようとする。もちろん双方ともに まず 読者・聞き手になにを伝えたいか作者あるいは語り手が希求するものがなければならない。三要素の比率は構造3ことば3絵あるいは聲4といったところか。

  構造はきちんとしているにこしたことはない。が、どちらかといえば臨場感 勢いがあった方が生きているものがたりになる。磨きぬいたことば それしかないことばを択ぶ 新鮮なことばを生み出す 大島さんはことばの魔術師と呼ばれているが ...ミモザ館の住人のあれはさだめだったのだろう....ではじまるミモザ館でつかまえての導入....ことの起こりは花びらの乱舞する 七年前の春ではじまるジョカへ...の導入 家の近くの水の辺のげにしたたかなパスカルの群れ げにやさしきパスカルの群れ....で終るパスカルの群れ ぼくの前方に寂しさが 後方に寂しさがあった...ダリアの帯など そのことばの絶妙さは悶絶ものである。

  そして漫画にとって 絵が重要なように 意外となおざりにされがちなのが語りにとっての聲である。聲は絵の具のようなものだ。いろあい 翳り 強弱 光 匂い 深さ あらゆるものが聲でまったく違うものになる。 そのうえに語りではパフォーマンス 歌 自然なしぐさ 目の輝き ほほえみ などが加わる。

  そのほか 視点の問題がある。誰の立場で語るか 通常語りでは客観的に地の文で語りそこに登場人物の台詞がはいることが多い。だが わたしの場合 一人称の語りが比較的に多い。それはライフストーリーに近い語りが多いためである。

  大島さんの初期の作品では地の文があり そこに主人公はじめ登場人物の台詞心象風景をあらわすモノローグがはいる。これは当然 感情移入しやすい。つまり読者は多角的にものがたりを見ている。神の視点である。後期になると一人称の語りが主流となる。読者は主人公の視点でものがたりを追ってゆくのだ。構造 ことば 聲 パフォーマンス 視点 まだまだ 実験的にできることはあるような気がする。

  わたしが語りのつぎに少女漫画に言及することが多いのはなぜか?といえば上質の少女漫画は 女でいることの苦しみ、女になることの苦しみから救済するなにかを持っているからである。少女漫画で男性が中性であるように描かれたり(最近のどうしようもない少女漫画は別として)少女が少年に仮託されて描かれているのはそのような理由にもよる。たとえばグリムにおいても 女性が主人公である物語 積極的に前に進む物語は少ない。生と死 子どもの自立は象徴としてあつかわれても 女であることの苦痛を癒すものがたりは少ないのではないか。それはグリムが男系社会における男性であることにも起因しているのではないか。少女漫画における癒しについて また昔話におけるジェンダーの問題についてもいつか考えてみたい。

  

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