家のパソコンが壊れて使えなくなって わたしはとても自由にそして不具になった。自由になったのはパソコンに使われることがなくなったからであり、不具と感じるのは第二の耳と目と口と手を失ってしまったからだ。パソコンを失うことは拡大した聴覚と手の技と語る力のすべてが剥ぎ取られることだった。
去年の今頃 ちょうど一ヶ月のあいだ おなじように通信手段の部分でパソコンの機能が壊れた。しかし今気づけば去年と比べ飛躍的にわたしはパソコンに依存するようになっていることに気づかされたのだった。webの海で源氏名のようなハンドルネームで呼び合い確かめ合うわたしたち 他人の日常を自分のことのように一喜一憂するわたしたち...。現実と非現実とのあわいのなかのようでいて次第に血が通ってくる それが現実以上に感じることさえあるのだった。
わたしはこの一週間のあいだに三人のひとと会った。三人ともわたしより若かった。HIKOくんとはとても会いたかったし 他のふたりはまえまえから身を惜しまぬところや語りの響くところが気になっていてそれが偶然ふたりとも崖っぷちを歩いているような危うさがあって手をさしのべないではいられなかったのだ。が そのなかにメールやコメントや手紙では飽き足らない気持ち、実感を求めたい気持ちもいささかはあったと思う。
おそらくわたしはしゃべりすぎた。もっと黙して 時を待ってほころびてくるものを待つべきだった。webでは対手から応えが返ってくるのに時間がかかる。..だからまずひとまとめにして伝えてしまう。そうしたwebでの話法が自分に沁みついてしまった...と気づいたのは書いている今のことだ。
HIKOくんとは二度目だが ふたりはこうして話すことさえはじめてだった。お互いの場をひとつにするには回を重ねることもたいせつだ。あと時間が如何せん足りなかった。二時間では底まで降りてはいけないのだ。それでもわたしは思い出したのだ。実際に会って語りあうことの意味と喜びを。それは語り合った三人がそれぞれ真摯に生きているひとだったからだと思う。
向き合って語りあう。昔それしかなかった方法で...。見つめあい ひとこと ふたこと 探るようにまわりから入っていく そして徐々に核心に近づく うまくいけばお互いがお互いの心の底の深い井戸にたどり着く そして自分の「水底」を覗き込み 運がよければなにか見ることができる。それは知りたくなかった自分かも知れず 自分の愛おしいものかも知らず憎んでいるものかも知れぬが、おそらくよく見ればどれも自分の良く見知ったものなのだ。 お互いが相手を知り自分を知る...今の自分がいる場所とこれからめざす方向を確かめ得る たった一度かもしれず 続くかもしれない。だが 回数に関らずそれが友というものであり出会いというものなのだろう。
わたしが今いる場所は昏い。夜明け前なのか真の闇に落ちる前なのかさだかではない。半分絶望しているが希望が無い訳でもない。それはふたりのひとの抱える問題と一部でかさなってもいた。愛することの喩えようのない苦さは足らざるためなのだろうか 過ぎたる故なのだろうか 報いを求めるからか、翻って自己愛なのだろうか。左手で壊しながら右手で捏ねているような気もする。
みなに伝えたようにわたしは自分につぶやく。おなじように不思議と確信を持って...願いはかなう 望みはかなう そのことを心に刻み努力するなら その望みが良きことのためなら 思わぬかたちになることもあるが必ず望みはかなう。越えられない峠はない。明けない夜はない。止まない雨はない。
(会社にて)
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