萩尾望都氏の紫綬褒章 一少女漫画ファンとして心からうれしく思います。萩尾望都の登場ならびにその実験的果敢な試みは漫画の内包するあらゆる可能性を示唆し 少女マンガを変貌させたのみならず 少年漫画にも多大の影響を与えました。ことにSFにおいては着眼の自在さ、スケールにおいて他の追随をゆるさず 異星の歴史 風土 文化 政治 などをあますことなく構築するという男性作家顔負けの荒業を緻密な表現でやってのけました。
紫綬褒章受賞を聞いて 一瞬 閃いたのが 山岸さん どう思ったかなということでした。わたしにとって 少女マンガとは萩尾望都さんと山岸涼子さんとそして大島弓子さんの三人に尽きるのです。 牧美也子 水野英子 西谷祥子等々の先駆者はじめ 飛鳥幸子 岡田史子 樹村みのり 矢代まさ子はじめ 忘れえぬ数多の漫画家がいるにしても 煎じ詰めれば この三人なのでした。三氏に共通するのは 少女マンガで人間の救済を試みた ということではないかとわたしは感じています。
花の二十四年組と称されるひとたち以前 たとえば 牧美也子の場合 不幸なおいたちの少女が母とめぐりあう それにバレーがからんだりします。水野英子は自己の表現を求める 生きることの意味を求めるヒーローやヒロインを描きました。岡田史子は生の不条理と悪夢を 樹村みのりはひとの心のなかに存在する闇を描き なおかつ日常のなかにきらめくひとのやさしさを 矢代まさ子はよりそうひとびとのぬくもりと それでも癒されぬ孤独 ひとを苦しめずにおかない心の闇をも描きました。 飛鳥幸子は透徹した愛を描きつつ なにもかも笑い飛ばす強靭なセンスを持っていました。西谷祥子は青春群像といささかの毒と珠玉の短編をいくつか描きました。
時代がすすむにつれ少女マンガは少女たちの夢やあこがれを描きながら 紗のカーテンのすきまから生のおどろおどろしさ 少女のむこうに見える女 女性という性の受ける抑圧 生のの裏側にある死というものを少女たちにほの見せるようになっていきました。 ある意味で岡田史子 矢代まさ子や西谷祥子が抱え持つ矛盾は のちの三人の母体となったようにも思うのです。
それでは萩尾望都 山岸涼子 大島弓子 この三人が漫画をとおして したことはどんなことだったのでしょう? それは結論的にいうなら ひとの欠落をどう埋めてゆくか ということのように思います。もちろん それまでの少女マンガにも欠落 たとえば親がないこと 貧しさ 現実と夢とのギャップ などさまざまなトラウマ 障碍が設定されていました。ものがたりとは障碍がなければ存在しないのですから あたりまえといってしまえば あたりまえなのですが 貧しさの克服 切り離された親子などという問題を 援助者の出現 偶然といったものでのりこえてゆくことが ストーリーの醍醐味であったのです。最後には大団円が待っていました。
萩尾望都に 秋の旅という初期の佳作があります。ひとりの少年が作家 モリッツ・クラインを訪れます。クライン氏が留守のため 少年ヨハンはクライン氏の妻の連れ子であるらしい少女ルイーズと話をして帰ろうとするのですが ルイーズは彼の偽名に気づき 少年が父親の別れた最初の妻の息子であることに察知するのです。
けれど少年はルイーズの勧めを断り 父に名乗ろうとはしません。少年にとってクライン氏は敬愛する作家 父と子であるよりは 人生の先達者 先人 自分が人間としてめざすべきおおきな目標であったのでした。.....父は馬に乗り 息子を追いかけ 列車に手を差し伸べ ふたりの視線と魂は瞬間 交差します。ヨハンは ありがとう ありが...とう とつぶやき 狂気の母と弟の待つ家に帰ってゆくのでした。
昔の漫画にあったパターンでは 息子は(娘は)父にひきとられ めでたしめでたしとなり 読者はほっと胸をなでおろし 日常に帰るはずでした。しかし 萩尾望都はそうはさせてくれません。ヨハンは気の狂った母あるいは世話をしてくれる叔母さんと弟の待つ家に帰ってゆくのです。欠落は表向き埋められません。読者はヨハンの心情を思いながら やるせなくたたずむばかりです。秋の旅 とは ヨハンの心の旅でした。自分の人生をひきうけ まえに進むための旅 イニシェーション(成長への儀式)といってもよいでしょう。読者はヨハンの旅立ちに立ち会うことで 人生の意味 喪失と獲得の秘儀を見たのです。
.......どうやらとてもながくなりそうです。次回は 山岸涼子と大島弓子 の欠落 と其の回復について かんがえてみたいと思います。
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