遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



     長野の神といえば諏訪大明神 タケミナカタ(大国主と奴奈河姫の子) でありますが ひとくちに諏訪大明神とはいっても そこには古代信仰から天津神まで さまざまな信仰の痕跡があり それらが集合してひとつの信仰になったと考えられます。

     オオクニヌシとはおそらく一代ではなく 数代にわたって 出雲のみならず 日本をおさめていたと思われる神(元はひと)である。今の天皇家の前に西日本から新潟にかけて平定していたと思われる王朝があったということだ。アマテラスはオオクニヌシに国譲りを迫り 戦うことを選んだタケミナカタは破れ 長野に逃れた。しかし ここはすでにモリヤ一族が治めていた。タケミナカタは融和政策をとり モリヤが名より実をとった。タケミナカタの子孫とされる諏訪氏が大祝(おおほおり)という生神(現人神・あらひとがみ)となり、洩矢神の子孫守矢氏が神長官という筆頭神官の位に就き、二つの一族は共存した。諏訪地方がおおきな力を持つことを恐れた朝廷はさまざまな方法 呪術的なもので 力をそごうとした形跡がある。

長野の神の四層構造とは

①木 石 などを依り代とし 蛇(竜) など自然神をあがめる古代信仰

②ユダヤ起源の信仰

③そのあと 海をわたってきたひとたち出雲族 タケミナカタへの信仰

がひとつにあわさり 

④そのうえに もっとあとからきた天津神の横槍が加わったことをさします。

ときに ①と②がひとつのものとして考えられていますが 偶像崇拝を禁ずるユダヤの教えが 石や木など モノを拝むとはわたしには思いにくいのです。彼らはいつわたってきたかということになりますが 

②諏訪大社では、背後にある守屋山の前で少年を木に縛りつけ、一人の神官が小刀を振りかざす、すると別の神官が出てきてそれを止めさせる、そして代わりに鹿を数頭殺して捧げる、その鹿の中の一頭は耳に傷がついている。(現在は簡略化されているか行われていないらしい。)これは旧約聖書の中で特に有名なアブラハムとイサクの物語の正確なコピーである。神の友と呼ばれたアブラハムは晩年に生まれた子イサクをモリヤの山で神に捧げよと言われて、本当に捧げようとするが、天使が現れてそれを止める、すると傍らに藪に角を引っ掛けた羊が見つかり、それを身代わりとして捧げるという物語である。羊が鹿になっている以外はほとんど正確なコピーである。

諏訪大社の謎
上社には本殿がない。守屋山が ご神体だからというが 前宮と本宮は守屋山と離れている。「守屋山」はほんとうにご神体なのか。
聖書では蛇は人間をだます悪魔の手先である。竜も悪魔として描かれている。日本では竜は神である。
守屋山 がご神体でないとすると ご神体はなにか。大祝。
十間廊 は古代イスラエルの幕屋とおなじというが なぜ奇妙な参拝順路なのだろう。
木にやどる神 アシラ → ハシラというけれど 生きている木にパワーがある。

イスラエルにはモリヤという地名がある。モリヤはエルサレムの中心 聖地である。 ②はモリヤが舞台。 
まだ 参拝していないが 前宮がもっとも重要なポイントではないか。ミシャグチ神社が合祀されたという手長神社そして守矢さん宅の敷地内にある「神長官守矢史料館」も。設計は藤森氏 藤森姓は藤原を守る → 朝廷が送った密偵という説があります。
御柱はむしろ結界ではないか。御柱そのものにはパワーのようなものはあまり感じない。
タケミナカタを降参させた タケミカヅチとフツヌシ が祀られている鹿島神宮 香取神宮 と諏訪大社への距離が等距離ときいたことがあるが それも封印を意味するのではないか? 下社も上社の力をそぐために置かれたのではないか。


→ こちら

ミシャグチ神がなにかに つきるように思います。アラハバキとの関連 三光の起源 縄文とはなにか 
わたしの 竜神 は古代神 自然神 宇宙の則 を意味します。



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    萩尾望都氏の紫綬褒章 一少女漫画ファンとして心からうれしく思います。萩尾望都の登場ならびにその実験的果敢な試みは漫画の内包するあらゆる可能性を示唆し 少女マンガを変貌させたのみならず 少年漫画にも多大の影響を与えました。ことにSFにおいては着眼の自在さ、スケールにおいて他の追随をゆるさず 異星の歴史 風土 文化 政治 などをあますことなく構築するという男性作家顔負けの荒業を緻密な表現でやってのけました。

    紫綬褒章受賞を聞いて 一瞬 閃いたのが 山岸さん どう思ったかなということでした。わたしにとって 少女マンガとは萩尾望都さんと山岸涼子さんとそして大島弓子さんの三人に尽きるのです。 牧美也子 水野英子 西谷祥子等々の先駆者はじめ 飛鳥幸子 岡田史子 樹村みのり 矢代まさ子はじめ 忘れえぬ数多の漫画家がいるにしても 煎じ詰めれば この三人なのでした。三氏に共通するのは 少女マンガで人間の救済を試みた ということではないかとわたしは感じています。

    花の二十四年組と称されるひとたち以前 たとえば 牧美也子の場合 不幸なおいたちの少女が母とめぐりあう それにバレーがからんだりします。水野英子は自己の表現を求める 生きることの意味を求めるヒーローやヒロインを描きました。岡田史子は生の不条理と悪夢を 樹村みのりはひとの心のなかに存在する闇を描き なおかつ日常のなかにきらめくひとのやさしさを 矢代まさ子はよりそうひとびとのぬくもりと それでも癒されぬ孤独 ひとを苦しめずにおかない心の闇をも描きました。 飛鳥幸子は透徹した愛を描きつつ なにもかも笑い飛ばす強靭なセンスを持っていました。西谷祥子は青春群像といささかの毒と珠玉の短編をいくつか描きました。

    時代がすすむにつれ少女マンガは少女たちの夢やあこがれを描きながら 紗のカーテンのすきまから生のおどろおどろしさ 少女のむこうに見える女 女性という性の受ける抑圧 生のの裏側にある死というものを少女たちにほの見せるようになっていきました。 ある意味で岡田史子 矢代まさ子や西谷祥子が抱え持つ矛盾は のちの三人の母体となったようにも思うのです。

    それでは萩尾望都 山岸涼子 大島弓子 この三人が漫画をとおして したことはどんなことだったのでしょう? それは結論的にいうなら ひとの欠落をどう埋めてゆくか ということのように思います。もちろん それまでの少女マンガにも欠落 たとえば親がないこと 貧しさ 現実と夢とのギャップ などさまざまなトラウマ 障碍が設定されていました。ものがたりとは障碍がなければ存在しないのですから あたりまえといってしまえば あたりまえなのですが 貧しさの克服 切り離された親子などという問題を 援助者の出現 偶然といったものでのりこえてゆくことが ストーリーの醍醐味であったのです。最後には大団円が待っていました。

    萩尾望都に 秋の旅という初期の佳作があります。ひとりの少年が作家 モリッツ・クラインを訪れます。クライン氏が留守のため 少年ヨハンはクライン氏の妻の連れ子であるらしい少女ルイーズと話をして帰ろうとするのですが ルイーズは彼の偽名に気づき 少年が父親の別れた最初の妻の息子であることに察知するのです。

    けれど少年はルイーズの勧めを断り 父に名乗ろうとはしません。少年にとってクライン氏は敬愛する作家 父と子であるよりは 人生の先達者 先人 自分が人間としてめざすべきおおきな目標であったのでした。.....父は馬に乗り 息子を追いかけ 列車に手を差し伸べ ふたりの視線と魂は瞬間 交差します。ヨハンは ありがとう ありが...とう とつぶやき 狂気の母と弟の待つ家に帰ってゆくのでした。

    昔の漫画にあったパターンでは 息子は(娘は)父にひきとられ めでたしめでたしとなり 読者はほっと胸をなでおろし 日常に帰るはずでした。しかし 萩尾望都はそうはさせてくれません。ヨハンは気の狂った母あるいは世話をしてくれる叔母さんと弟の待つ家に帰ってゆくのです。欠落は表向き埋められません。読者はヨハンの心情を思いながら やるせなくたたずむばかりです。秋の旅 とは ヨハンの心の旅でした。自分の人生をひきうけ まえに進むための旅 イニシェーション(成長への儀式)といってもよいでしょう。読者はヨハンの旅立ちに立ち会うことで 人生の意味 喪失と獲得の秘儀を見たのです。

    .......どうやらとてもながくなりそうです。次回は 山岸涼子と大島弓子 の欠落 と其の回復について かんがえてみたいと思います。



    

    

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