さて、16日シンポジウムのあとの祝賀会で金原瑞人さんはこんな祝辞を送ってくださいました。「桂文楽と古今亭志ん生は対照的な落語家でした。志ん生は同じ噺を100回話したら100回が100回、時間も中身も違っていました。文楽は100回話しても寸分違わない噺をしました。語り手のみなさんはどちらを選ばれるにしても頑張っていい語り部になってください」
アルコール入りでしたので細かいところは違うかもしれませんがこんな内容だったと思います。ほぅーご存知ないとはいえ語り手たちの会の30周年記念パーティーで...と思われたあなたは語り手たちの会がめざす語りをよく知っている方です。...わたしはわぁ おもしろい!と不謹慎にも一瞬思ったのですが、よくよく考えると含蓄が深いんですね。
実はわたし、子どもの頃から落語が好きでラヂオに耳をつけてはNHKの寄席を聞いていました。どっちが好きかというと桂文楽、でも志ん生も好きだった。祝賀会で文楽と志ん生の話を聞いた時は”一言一句同じ語り”バーサス”即興の語り”と短絡的に考えてしまったのですがそれはアサハカのキワミでした。文楽の落語は慎重に練り上げられた話芸で磨きに磨き抜いた語りだった、ことにライブの所作がすごかったそうです。なぞっているのではなくてまさに一回一回生きた語りだったわけです。 一方志ん生は気分によって噺が伸びたり縮んだりときには違う話につながったりしましたが説得力で聴き手をうならせてしまう落語家だったのですね。文楽は噺が始まると文楽が消えるという、志ん生は何をやっても志ん生でもあったそうです。
戦後の二大名人といわれるふたりですが、もしあなたが語り手だったらどちらのタイプをめざしたいですか?.....即興の語りを標榜したりしていますからわたしは志ん生師匠を遠い目標にしていると思われるかもしれませんが、どちらかというと文楽師匠の芸がすきなんです。....最近どなたかが話を自分化..することがたいせつとおっしゃっていましたね。語りの世界45号では松岡享子さんが香り高い追伸を付け足す語り手にという素敵なメッセージを寄せてくださいました。わたしはおふたりに大賛成です....そういう語りこそ聴き手の魂に響くと思います。
ただし話者としてものがたりを表現するとき自分はいなくなったほうがいいと思うのです。そこにあるのはものがたりだけでいい。...ものがたりを自分の魂でろ過するということと表現に自分を付け加えるのとは別モノだと思うのです、つまり内側をとおすか外側に貼り付けるか、例として適切かどうかわかりませんが日本にはホンモノの役者は少ないように思います。なにをやってもおなじになる、自分の個性で勝負するひとが多いという意味ですが...ほんとうの役者って顔がよくわからないし名前も覚えられません。だって役そのものになってしまうから....ジョニー・デップはホンモノですよ、大好きです。もっとも個性も徹するなら魅力ではあります。市原悦子さんはなにをやっても市原悦子さんですが見ていて安心ですね。つねにある水準に到達しています。
ものがたりそのものになる語り手になりたい....と思いませんか? わたしが語り手としていただいた最上の賛辞のひとつは...「....わたしはあんたの名前は忘れてしまうかもしれない。でも今夜のあんたの語りは一生忘れないよ」と伝承の語り手さんから言われたひとことでした。...そういう語りをいつもしたい。パーソナルストーリーも含めてものがたりに生..ナマ..の自分...感情とか我..ガとかはいらないと思うのです。魂にとおすだけ。これはカラになる...に通じます。わたしの目標ですから押し付けるつもりはありません。
...志ん生師匠は天性子どもだったのかなぁ あの声、あの調子、今も耳に残っています....それにしてもいい時代でした。最上の落語が手にとれるところにあったのでした。
| Trackback ( 0 )
|