遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



 娘とわたしと宝塚に行く。チケットは入院が決まる前の入手だった。23日の「ベガーズオペラ」夜の部は 入院の日でもありすっかり行くのを忘れていたので、今年最初の観劇になる。

 出かける前に「おかあさん、なに この水!?」時すでに遅く、洗面所からトイレ、押入れ、廊下からリビングまで大洪水。洗濯のためシンクにお湯を出しながらキッチンで洗い物をして忘れてしまったのだった。こういうことはめずらしいことではないのだが、リビングの半ばが浸水というのははじめてだった。あと始末に時間がかかり、劇場に着いたのは開演の11時を少し回った。

 二階の最前列、妹と姪は既に席に着いていた。舞台はシチリア1860年頃・貴族の没落と平民の台頭の時代、貴族の娘アンリエッタと平民のヴィットリオの戀が、その末裔のヴィットリオとユダヤ人の恋人ジュディッタの戀をとおして語られる趣向。ヴィットリオ役の春野寿美礼さんがマントを翻して窓から入るところ、マントを脱ぎ捨てて ベッドに歩くその立ち姿ひとつひとつの麗しさにため息。

 わたしが今までに観た芝居のなかで一番心を打たれたのは、無名の役者が演じた「動物園物語」だった。駅のトイレの前で崩折れてしまいそうになったほどの 心臓を杭で穿たれたような衝撃を今でも思い出す。命のぎりぎりまで観客に伝えられる芝居の力をはじめて痛感した忘れられない舞台だ。タカラズカはそれとはまったく別の世界である。衣装といいセットといい夢のように美しい砂糖菓子のようだ。

 が、そのなかにばかにはできないなにかがある。タカラズカを観たあとは少なくとも元気が出る。ここにいる観客のほとんど、若いのや若くないのや大勢の女たちがみな元気をもらって緞帳の降りた劇場を後にし、また現実に立ち向かってゆくのだ。天保12年のシェークスピアは完璧に近いエンターテインメントだったけれど、わたしはタカラズカの方がたぶん好きなのだった。

 レビューのアジアンウィンドは無駄なシーンがほとんどない 締まった舞台で時間があっという間に経ってしまった。上から見ると ホリゾントや大道具の展開が見えて 目も綾な布と風とライトの創りだすイメージの奔流に こういう使い方もあるのだと固唾を呑んで見つめる。難を云えば口跡がはっきりしないために聞き取れない歌詞があったりするのだが、そのなかでフェリーチタも演じた華城季帆さんの歌唱がすごかった。心臓をえぐるといってもいい 深い深いところから出るソプラノの美しさ、このくらいの声が出せたら どんなにいいだろう。

 メッセージもたいせつだけど 聞いてくださる方に束の間でも 夢をお見せできたら ものがたりの世界にいざなって 元気をすこしでもさしあげられたら本望だ...としみじみ思う。 家に戻って 夫が帰ってくれば(低カロリーの食事になるので)子どもたちが(わたしも)食べることのかなわなくなるピザやチキンを宅配してもらう。試みに 江戸の小噺をいくつか娘に 聞かせてみたが ほとんど落ちがわからないようすでがっかりである。語りが下手なのか、落ちが現代に合わないのか、娘にジョークを解する能力が欠けているのか....微妙である。

 あしたは本町小6年2組。





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 今日は次男の結婚式の打ち合わせがあった。きのうの雪も大通りでは跡形もなく消えていた。ホールには結婚式を控えたカップルや親たちが100名以上はいただろう。昼食がはじまり、モデルさんをつかってさまざまなセレモニーが見せられる。引き出物の紹介、クレープ屋台の実演試食、会場の外では生花の誂え、テーブルクロスの選択、写真やwelcomeボードの紹介、招待状も何十種あり 好みの選択で結婚式を演出できるよう 展示されている。這い這いをはじめたルイをつれての展示会は向こうのおかあさんとごいっしょに汗も冷や汗も流した。7着の着替えが終ったときは夜の8時だった。

 わたしが子どもの頃、花嫁さんは白無垢を着て実家から婚家に向ったものだった。「お嫁さんだ、お嫁さんだ!」わたしたちは駆け出していって、仲人に手をひかれた花嫁さんの美しさにため息をついた。披露宴もお家でしたので、7歳の頃 母の実家で三々九度の杯にお酒を注ぐ大役を仰せつかったことがある。玄関の敷居の前であったのか、跨いだところであったのか記憶はさだかでないのだが。

 いまや 結婚式はショーである。この結婚式場ではメーンホールはシアター形式になっている。風船、雪、蝋燭、イルミネーションをつかったふたりのためのショー。それでもいい、若いふたりが互いの親族から認知され、祝福を受け これから永の年月 喜びも苦しみもともにする時 すこしなりとも その支えとなるのであれば.....そして、またどのような結婚式であっても出席した既婚者は 夫婦で辿ってきた道すじに思いを馳せるだろうし 未婚のひとたちも自分たちの未来に思いを馳せるものだ。

 時間があれば お手軽なレディーメードでなくほんとうの意味で ひとつひとつ 丹念に準備した式を挙げてやりたかったと夢のように思いながら 試着室で純白のドレスの裾を長く曳いたリサちゃんの美しいシルエットを見つめる。

 帰り リサちゃんとルイは車のなかで疲れて眠ってしまった。わたしは息子にシャーロックホームズの冒険の小咄を聞いてもらった。終って少ししてから息子は笑い出した。つまり そういう小噺なのだ。もう少し 伏線を強めにだしてみよう。それから江戸時代の色っぽい小咄 これはわたしのほうが吹き出してしまっておしまい。笑わせるのはむつかしい。おもしろいネタをみつけて 間と調子に磨きをかけこと。




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 堀江さんがプロ野球パリーグの合併問題で躍り出た時、わたしは堀江さんを支えるライブドアのスタッフがあまりに若く無防備に見え 会社の中は雑然としてまるで堀江さんをガキ大将にして陣取りごっこやゲームをしている集団のように感じてならなかった。堀江さんはヤフーのイノウエさんや楽天のミキタニさんのようにミキタニさんはそれほどでもないが....冷徹な経営者には見えなかった。目のなかのふてぶてしさの奥に 妙に醒めた感じ みんな遊びさ...みたいなのが見えて あぁ このひとはそう長くは保たないんじゃないか..とふと思ったのだ。

 けれどライブドアの夢の終わりがこんなにあっけなくくるとは思わなかった。穿ち過ぎかもしれないが、このタイミングの良さをわたしは例のヒューザーと政界の癒着から目を逸らせるためじゃないか などと疑っている。

 しかし 遅かれ早かれ終わりはきただろう。彼はビジネスをしていたわけではない。負けると知って果敢に勝負をしていたような気がする。もしかしたら勝てるかもしれないと思いかけていた矢先だったかもしれないけれど。わたしは堀江さんのことを考えるとこのごろ考えていた無垢(イノセンス)ということばを思い出す。堀江さんはオトナ社会と闘っていた ピーターパンのひとりではなかったか。

 イノセンス=無垢 だが無垢≠イノセンス。
イノセンスとは純白ではない。善悪の彼岸を越えるものだ。イノセンスとは根源的な生のかたち エゴ。 堀江さんは選挙に出馬し 宇宙ロケットに乗ることを望んだ。既成の枠をぶっ壊そうとした。それは利を追う経営者の姿とは少し違って まさに飽くなき好奇心をもった子どものすがたではなかったか。

 わたしは堀江さんを誉めようとしているのでも貶めようとしているのでもない。だが 堀江さんは賢しい経営者たち 愚かな大衆から利を貪り食っている奴らより わたしには清潔に見えた。たとえ法律に抵触していようとだ。あのどんぐりみたいな目はとても人間的だった。願わくは たとえどん底まで落ちたとしても 逃げないでほしい。夏草生い茂る最後まで果敢に戦い尽くしてほしい。それは夢見て勝ち得た者の努めと思う。 そしてできるなら不死鳥となって甦り、新たな伝説をつくってほしい。




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 朝 理事長が見えるというので 大忙しで事務所のそうじ、TELやら募集の件やイベントの段取りやらで 気は急くが 思うようにいかない。

ようやく 午後3人で熱海に向う。新宿湘南ラインから横浜で東海道本線に乗り継いだ車窓から見た冬の海は空と溶け合いかすかに発光していた。来宮の駅に着いたのは午後4時、駅員さんは改札口でいつものように切符を捜しているわたしに いいですよ と通してくれた。

 錦ヶ浦に連れていってくれたタクシーの運転手さんも親切ないいひとだった。潮の匂いを風が運んでくる。泊まりたいという娘と帰る。 

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 日曜日の午後 池袋の自由学園 明日館アンサンブル・ビクトリアの演奏を聴きに行った。明日館は駅から5分、メトロポリタンホテルの裏にある。近いけれどはじめてなのでタクシーに乗って正解だった。入り組んだ道の奥でタクシーを降り、建物が目に入ったとき 両の翼を広げた鳥のように感じた。鳳凰殿をふと思い出した。

 自由学園の創立者羽仁夫妻は、創立に際し 帝国ホテルを建てたことで名高いフランク・ロイド・ライトに設計を依頼した。ライトは日本の建築物からの影響は受けていないと言ったが 実は日本の美術品、中でも浮世絵の蒐集は展覧会を開けるほどであったという。ライトの建築には浮世絵の大胆に省略された構図、簡潔なラインなどの影響があるという。調べてみるとライトは1893年 シカゴ博の日本館鳳凰殿を見ているそうだ。自由学園を見て鳳凰殿を思いついたのはあながち見当はずれでもなかったらしい。

 磨かれた木の床、白い壁 本館の広間やカフェを通り抜けると、懐かしさと心地よさにこころがほどけてゆくようだった。飾り気のない品のよさが漂っている。はじめて来たのに不思議だ。3月にはここで研究セミナー第二期の同窓会が開かれるとか、きっといい会になるだろう。

 明日館は道をはさんで向こう側にあった。白いレースの襟、黒いスーツのビクトリア風のきりっとした女性が案内してくれた。ホールはほぼ満席だった。音響がすばらしい。馥郁と音が香るようだった。四声にバロックハープ、リュートが曲にあわせて 波のように寄せたり引いたりする。ミサ曲は天上の雲の波に包まれていくようだった。ダウランドの「おお、やさしい森よ」を聴いたとき、祈り...だと思った。涙が流れてやまなかった。

 音楽も踊りも...語りも祈り...のように思う。かってのように 絵画も音楽も踊りも芝居も神に捧げられるのではなく 地の上のひとびとに供される。しかし もともと神への捧げものだったのだし ひとは知らずして 今日の平安、あすのしあわせを祈っているのだと思う。わが為、我がめぐりだけでもいい、がときにわたしたちひとりひとりがもっと遠くの肉の目には写らないひとたちにも 想いを馳せることができたなら、そうして この世の創造主がおいでになるとしたら 畏れ多いことではあるが その方の心に想いを馳せたなら この世の景色も少しずつ変わってゆくのではないだろうか。

 わたしの手に託された仕事やひとびと、語りをとおして どうか 天と地にすこしなりとも 生きてきた証をお返しできたら..と夢見る。らぽっぽのポテトとDTPのテキストを提げて家に帰った。




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 朝、早起きして湘南新宿ライン逗子行きに乗った、夕べ買った青春18切符を手に、スイカでグリーン券を3席求めた。娘たちとのちいさな旅....

 二時間乗って 鎌倉に着く。底冷えする寒さである。黒のストールを持ってきてよかった。アラブの婦人のように目だけ出して風を遮る。鶴岡八幡宮の参道は人の波...けれども成人のひとたちはちらほら数えるほどしかいない。初詣とはそういうものなのか、家族連れや仲間同士、カップルがほとんどでひとりで歩く人も少なかった。

 絵馬を求め、家族ひとりひとりのことを記して奉納する。ルイのためににお守りをいただく。階段は登れないので 下でお参りする。静御前が頼朝の御前で
  吉野山峰の白雪ふみわけて入りにし人の跡ぞ恋しき
    しづやしづ賤(しず)のをだまきくり返し昔を今になすよしもがな
と歌い、舞ったのはどこだったのだろう。実朝が殺された大銀杏は....階段を降りてきた娘たちと戒法寺に向う途中鎌倉国宝館に立ち寄る。中に入ると沁み入るような静謐が空間を充たしている。右側が常設のスペース、入ってすぐの地蔵像の端整な理知的なお顔に思わず手を合わせる。つづいて倶生神、生きているあいだ人につきまといその行動を記録して、死後冥府で裁きの時 罪業をよみあげるとある。娘が「どうかお目こぼしを」と拝んでいる。中央には12神将、内奥に漲る力と精神性を秘めて立つ。

 左側は肉筆浮世絵氏家コレクションが特設されている。襟元や裾の緋縮緬に目がいってしまう。着物の意匠の美しさ...日本の色彩感覚の粋がある。着こなしのくずれに「昔もヤンキーがいたんだ」と二女がつぶやく。長女は北斎の小雀を狙う山かがし図に見入っている。蛇が鎌首を上げて小雀を狙っている。一枚一枚の鱗が鮮明に描かれ、その下に蛇苺が配されている。見事だ。隣の「波に雀図」に比較して、その表現がまったく違う。北斎の筆致が作品によって異なるのを肉筆ははっきり伝えてくれる。酔余美人図もよかった。広重の雪月花の三点には静寂があった。それぞれ個性は異なるが、天才の絵には高潔さや孤高の美、思わずその世界に引き込まれてしまう力がある。語り手としてわたしは職人尽くしに描かれている歌比丘尼に興味を持った。女童をふたり連れ、楽を奏でながら、歌い歩いているようだ。この美術館でもうひとつ目についたのはステンドグラスである。星と月の意匠の美しいこと、今日はいいものを見た。

 一やすみしたかったが大佛次郎邸を横目で見て、魅力的な小路を抜け駅に向う。江ノ電に乗って長谷寺に行く。ここはなんとか手すりにすがって本堂へ...金色に輝く見上ぐるばかりの観音像には衆生を救う意志も力もお在すように見えた。畏怖を禁じ得なかった。はるかに材木座海岸から遠い海まで展望できる。青い海..仏を拝んだあと見る海はいつもと違う感じがした。ひとは祈り、この海の向こうに補陀楽(天国)を夢見たのだろうか。ひとはどの時代も幸福を望む。お賽銭をあげ、瓦を寄進し、灯明をあげ、...弁天窟に灯された幾百の蝋燭...この世の幸と極楽往生・あの世の安らぎを求める...いつの時代もひとはそうは幸福ではなかったのかも知れない。

 娘たちに大仏を見に行かせてその間、わたしは旬憩という甘味処でぜんざいをいただいた、目の細かい簾からおだやかな西日が射して店内を茜色に染めている。来てよかった...娘の声がうれしかった。ちいさな旅を今年は幾たびかつづけようと思った。



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 末娘と約束したとおり、マルイのバーゲンに行く。ともかく安い、一万円とすこしでワンピースとスェーターとコートジャケットが買えてしまう。それから浦和の道場に行く。娘に片岡先生ご推薦のサソリの神二巻と三巻を須原屋で買ってきてもらう。アマゾンから届いた一巻をのページをめくって、これはおもしろいと確信したのだ。

 電車で読んだのは一巻の半分、残りを10時頃から読み始める。ファンタジーの定石とおり、光と闇、生と死のものがたり。アルコンという神はダライ・ラマを想起させる、先代が崩御するとその魂は10歳のこどもに受け継がれる。(アルコンの努めは事あったときに民衆のために死ぬことである)

 語り手の巫女は神のことばを偽っていた。お告げ所とアルコンの選抜の不正を、死の間際のアルコンから知らされた九巫女のひとり(ねずみのように弱虫の)ミラニィーは立ち上がる。酔っ払いの楽士オブラク、こすからい文書係のセト、ふたつの顔を持ちトラウマに突き動かされている盗賊ジャッカルもそれぞれの思惑で戦いと探索に加わる。それらの登場人物と10歳のアレクソス(アルコン)のこれは成長譚でもある。

 彼等はそれぞれ自己と向き合わなければならない。このものがたりでは神も過ちを犯し、神も悩む。そして当面の悪、神のお告げ所を牛耳ろうと画策する将軍アルジェリンと語り手の巫女ハーミヤ、野心ある巫女レティア、怪しいクリス、魔女マントなど登場人物は交錯する。正直のところ、構成の若干の弱さは否めない。イメージが奔流のように奔り過ぎてしまったきらいがある、しかしこのファンタジーはひさびさにおもしろかった。

 そしてものがたりの舞台、ふたつの国の地図を見たときディシャヴを感じたのは、遠い昔、10歳の頃頻繁に見た夢を思い出したのだ。白亜の神殿と灯り所のある島、夢のなかでわたしはその神殿の巫女のひとりで白いチュニックを見に着けていた。地面はボロボロと崩れる赤土でわたしは沈む太陽、大きな真っ赤な太陽を抱くように青い海に入ってゆく。また嵐の晩、巫女たちは松明を掲げて島に向って泳ぐ。島の灯り所の火を絶やさぬように。夢は突然見なくなったが、今でもあの夢がなんだったのかわからない。

 この本の訳者、井辻朱美さんはあとがきでファンタジーの力を「あるものを出して、それ以外のものを同時に響かせることにある」と述べている。舞台は中世か古代過去であることが多く、ひとつひとつ行為やものがそれ自体で完結するのでなく読むひとのなかに記憶や聖なる瞬間が響きこだまする、世界がわが手に乗った「あっ」という感動がそこにあるのではないか...という。

 しかし、これは語りの本質でもある。昔話の本質のひとつでもあるように思う。もちろん、そこに共有というもうひとつの力が加わるのだが・・・今年こそファンタジーについてもう少し考えてみようと思う。

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 ワインを飲みケーキを食べればどうなるかわかりそうなはずだが...結局昨夜は潰瘍の痛みで眠れず、新年3日目は家の中で過ごした。本棚に手を伸ばしてシムノンの一冊を読む。

 ストリップ・ティーズ...50年代のニース 路地裏のキャバレ・モニコ、セリータは赤毛のダンサー、店の主人レオンを妻のフロランスと獲りあっていた。セリータは32歳、もう後がない。昇る可能性は全くなく滑り落ちるばかり、娼婦にでもなるしかないかもしれない。そこに現われたのは19歳のモー、セリータはかよわい娘の振りをしているモーの本性を見抜く。セリータは躊躇しない、打てる手を次から次へと打つ。しかしカードは次第に尽きてゆく。モーは花形のストリップダンサーとして脚光を浴び、レオンはモーの部屋に入り浸る。フロランスは癌で死ぬ。セリータは敗北を悟る。店の女たちは8/15の新聞でセリーヌらしき女が裸体で港に浮かんでいたことを知る。

 読んでゆくうちにセリータとともに息をしていることに気づく、追い詰められて次第に呼吸が早くなってゆくようだ。赤い灯りに照らし出された暗い店の匂い、店をおとづれる客の息遣い、女たちの楽屋の白粉と汗と香水のむっとする匂い。簡潔な文体、心理描写はほとんどない。

 今回読んでモーの初めてのストリップの場面が新鮮だった。モーはナターシャのように彫像のような肉体を持ってはいない、セリータのようにダンスができるわけではない。(この店で踊れるのはセリータだけだ、だからセリータは乳房も見せない)マリ・ルーのように愛の種々相の模倣をするわけでもない。それなのに客はモーを見凝めずにはおれない。そこにはある崇高ななにかさえ漂っていたのではないか。

 しかしシムノンは読む人を大抵しあわせにはしないだろう。わたしはしばらくのあいだ、夏の太陽にじりじり照らされながらオレンジの皮の浮かぶ港の汚い海水に浮きつ沈みつしていた。やがてひんやりした水底に落ち着いてほっとしたが、甦るには時間を必要とした。


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