遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



    きのう イリスの竪琴第三部”風の竪琴”を読んだ。この本が絶版になってしまったのは惜しいことである。なぜ読まれないのだろうと考えるに 展開の遅さと表現の複雑さにあるのではないか。ものがたりは往きつ戻りつしつつ 細部の美を描写する.


    雪と氷のエーレンスター山 のどかなヘド 恐ろしくも美しい大地のあるじたち わたしにはとても書けないイメージとことばと色彩の奔流である。ものがたりのながれを見失ってしまいそうだ。マキリップはゲド戦記を書いたル・グインを師とあおいでいたのか 風の竪琴に登場する女魔法使いナンは彼女がモデルという。けれど ふたりは決定的に違う。


   文学には少なくともふたつの側面がある。たのしませることとメッセージを伝えることだ(とわたしは思う)。どちらも不可欠だが たいていどちらかに比重がかたむいている。そして ひとの心を打つメッセージ性があり そのメッセージを支えるだけの骨格とデティールのある作品が生き残る。

   文学を語り部に置き換えてもよい。語り部とはストリーテラーとして聴き手をわくわくさせドキドキさせ愉しませる側面と(大いなるものの、死者の、虐げられたものの)メッセンジャーとしての側面がある。どちらも不可欠だが たいていどちらかに比重がかたむいている。しっかりした骨組み(起承転結、序破急)とデティール(ことばのうつくしさ 的確さ)それを支える 声のひびき 声を支える身体.....


    マキリップのイリスの竪琴は"大いなる者"からその世継ぎへ世界が継承されることにまつわるものがたりであり、自己を知る、光と闇などのテーマを持つのだが メッセージ性も骨格もさておいてストーリーは谷間を迸り時に逆流しうたいながら大河となる。......そして デティールのうつくしさ、一滴の煌きはたとえようもない。

    ル・グインのゲド戦記はハイタカやアレン(男性)テヌーやテルー(女性)の真実の自己を知るものがたりであり、先に進むものからあとにつづくものへの継承のものがたりであり 光と影 生と死 相反するものが対立し、やがてひとつにまじわり完結する  生と死 光と闇はたがいに光を与え合い奪い合い 永遠に輪廻生成するという壮大なテーマと骨格を持つ。


    読者としてはどちらも捨てがたい。でも 語るとしたら ....一期一会のまたとない機会に どうしても伝えたいことがある。まずある。デティールまでとても神経が行き届かない。声のひびきもいまいち 身体はようやくひとなみになったところで 語り部として わたしが望む身体とはほど遠い。どれもこれも中途半端でまだまだ。

      それでも語る。それでも語りたい。





http://koujiyama.at.webry.info/201009/article_6.html

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




    日曜日お昼前の静かな時間 イルスの竪琴...海と炎の娘を読みました。パトリシア・マキリップのファンタジー....わたしこのシリーズ大好きです。ことばの麗しさ 比喩のゆたかさには特筆すべきものがあります。 そうした意味では ゲド戦記より楽しませてもらいました。

    魔法学校の学生で謎の解き手であるモルゴンはヘドというのどかな農業国の領主でもありました。ところが彼は....宿命の星のもとに生まれた”星を帯びし者”だったのです。ヘド、アンをはじめ国々は”偉大なる者” の見守るなかで調和を持って暮らしていました。......ところが......

    モルゴン、その許婚でアンで二番目に美しいレーデルル 偉大なるものの竪琴弾き、デス 偉大なるもの 大地のあるじたち 多数の登場人物の織り成す一大叙事詩 といいましょうか うつくしく豊かな不思議の世界を構築したマキリップは力のある作家...アイルランド出身だったと思います。
実はわたしは どのファンタジーよりずっとずっと熱心に何度も読みました。それでこの三冊の本は”デミアン”とおなじくらいボロボロです。

    テーマはなんだろう 成長譚 失われしものへの愛 父と子のものがたりでもあります。ふしぎと母は影が薄いのです。絶版だと思いますが 気になったらぜひお読みください。挿絵は山岸涼子.....じつにものがたりとあっています。萩尾望都のタニス・リーの表紙絵もすばらしかったが 挿絵画家としては山岸さんに一日の長がある ものがたりととけあい ものがたりをよりうつくしくしています。

    午後 子貝川にでかけました。CIMAIのパンを買って フルーツとチーズと飲み物 籠に入れて.....岸辺にシートをひいてからだをあずけると 大地と空にからだがとけてしまって わたしの重みはきえてしまいました....こんなしあわせあるだろうか......おきて うたいながら土手をあるきました。すると とおくで犬も遠吠えしてくれました。

    草の土手をむすめがひとり 彼岸花の花束を胸にそそくさと車にはしってゆきます。見れば 土手の低まったところに石の祠があって参道のように彼岸花が一列に赤い花を咲かせていて やせた青年がしゃがみこんで熱心に掘っています。思わず 「その花はやめたほうがいいですよー」 と叫びました。

    石のお社はこちらを向いてはいません。つまり川を拝むようになってはいない....もしかしたら死者を祀ったのではないかしら......彼岸花は死人花といわれ うつくしいのに忌み嫌われました。彼岸花の真紅が音もなくしんと咲いているのに出くわすと ドキリ としませんか? 件の青年は 「はい わかりました」 と素直に去ってゆき ”恋人の無心に応えようと一生懸命だったのね ちょっと脅かしちゃったかな”....今度は髪振り乱し「おめぇさま その花ばかりはよしなされ....その花にはなぁ.....」とやってみようかと.....。




   

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




    マイケルのTHIS IS IT で活元したあと WOWOWで佐倉儀民傳の録画放送を観た。平成中村座のコクーン歌舞伎 宗五と子どもたちのハリツケで終わるのかと思ったらつづきがあった。
びっくりこいて 最後には涙

出演者総出腕をつきあげのラップシーン! 

ソウゴの死は無駄死にだったか
ハシレ ソウゴ モットハシレ
ソウゴノシコウサクゴ はつながっている
サクラノギミン シブヤのジャクシャ
オレタチのジュウネンゴ チノミゴのニジュウネンゴ ....センネンゴ

アメリカグンノイルニホンレットウ 9 1 1 ハナンダッタカ

「今 起きていることに目をつぶるな 今 起きていること 今 行動することは 子どもの未来 日本の未来につながっている」のメッセージ

メインストリームでこんなことやってる
ドキドキした 感動した
どっこい 芝居はまだ生きてるじゃないか

もっともこんなことでドキドキするなんて
テレビの思考統制がどれだけすすんでるかって
ことなのだけど。


鬼姫さま 佐倉惣五郎はもう語らないの?
わたし 語ってしまいますよ わたしの佐倉惣五郎。




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




    櫻井美紀さんのお別れ会では気づかせていただいたことが多かったので ゆっくりひとつずつ考えてゆきたいと思います。

    ひとつはその日の装いのことでした。平服でおいでくださいと書いてありましたが、参加者の7.8割が黒の喪服でおいででした。喪服は黒が定番、また黒い服は女性の美しさを際立たせますが、明治の途中まで? 日本では喪服は白だったそうです、欧米仕様に改めたのでしょうね。今でも皇室では正式には喪服は白だと聞いたことがあります。

    という意味からでもないのですが、わたしは当日白の麻のチュニックに白のセンターラインのスラックスで参りました。それに濃いブルーの石を青いリボンで結んで胸にたらし 同色のぼかしの絹のストールを首から肩にかけてまとっていきました。

    帰るとき 重く! 感じたので電車のなかではずしました。そのときはっとしたのです。わたしは長さが10センチもある薄い石をちょうど胸椎の前にくるように細いリボンで調節していたのでした。胸椎はハートのチャクラ(註3)があるところ そして喉(註2)にも......石とストールは自分を護りたいという(身体の)意思のあらわれだったのだと瞬時に覚りました。瑪瑙は支える石 護る石でもあるようです。

    わたしが語りで気づかせていただいたことはたくさんありますが 意外に思われるかも知れませんが その最大のことは ”身体”でした。身体.....がベースになるということです。語りのスタートの段階では心の奥にある”魂”その源.....あるいは人類の共通の記憶に働きかけるのではないかと思っていました。探ってゆくうちに (外側から入ってゆくためには) 器である身体を整えなければ......声を響かせる振動体(楽器)としての身体を調節しなくては.......と感じるようになりました。

    語り部の身体から聴き手の身体へつたわり(共鳴・共振) 魂を響かせる、響かせあう .....そしてひとりひとりの魂の底はつながっていますから宇宙意思とも共鳴する(そこまでいけたら !!)......そのうち不思議なことに(あたりまえのことに)身体を整えることが心を鎮ませる そのことが魂を輝かせてゆくということに気づきました。そしてさらに身体には意思があり 耳を澄ますと身体の声が聞えるということに気がつきました。

    日本は西洋化とともに多くのものを得たが 実に多くの豊かさを失ってしまったようです。しかしわたしたちはそれを掘り起こすこともできる あがないは必要ですけれども。 さて からだにはさまざまなモノがすみつきます。また身体組織は(潜在意識となった)感情を記憶します。野口晴哉さんが整体(註1)は治療ではない、潜在意識を教育するものだと言ったのはこのことを指しているのでしょうか?

    .......このように身体=魂は不思議に満ちています。人間の身体はまさに小宇宙。小宇宙は大宇宙につながっている。わたしが語りで導かれたものはその端緒の端緒に過ぎず わたしはそれを生きているうちにできるだけ深く探ってみたいのです。

    表現という面の課題もあります。櫻井美紀さんの語りが呼び水となって、わたしは語りはじめました。当初弟子は知らず知らず先生をコピーします。ですからわたしの語りも 及ばずといいながら ことばの端正さ 品のよさ をめざしていました。けれども 内奥で燃えているのはもっと熱くあたたかく もっと厳しく もっと冷たく.....でした、受け継いだものにのせてゆくだけでなく 壁を打ち破ることができるか 根底から革命(わたしの内面で)が起こせるか.....がもうひとつの課題です。でも これはわたしが ほんとうにものがたりの器になれたら 解決してしまいますね。...す・る・と ひとつだけ! できる できる きっとできる。




註1  野口整体に行ったレポートはここでも書きましたが 別のところに野口晴哉さんが目指したものとは違うのではないかとも書きました。するとコメントがありました。わたしが行ったのはご長男のところ 魂についてはご次男がより深く継承されているようです。

   なにかが違うと感じたひとつの理由は集うひとの波動でした。組織は近い波動のひとの集まりですが あたたかさ ひらかれている 感じが薄かった。

註2  4.5年前 王子ホールのコンサートに先生と行ったときのこと、コンサートの途中で首がなにか真綿のようなもので締められる感覚があり ヒーリングでよくはなったのですが それ以来喉に気をつけるようにしています。

註3 これを見るのが早いかも →コチラ




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




    いきさつをよくご存知の方から櫻井先生のことで一貫していない。あんなに賞賛すると読む人があのときはいったいなんだったのかと不審に思うのでは....と忠告をいただきました。それもおひとりではありませんでしたので弁明をしようと思います。


    ひとはさだめがあって生まれるのでしょうか なにかすべきことがあって生まれるのでしょうか それともただの偶然なのでしょうか? たとえ偶然に生まれるのであっても 「これが自分のやるべきことだ」と気づいたら それはさだめがあって生まれるのとおなじでは.....とわたしは思います。

    自分のやるべきことに気づいたとき あたらしい世界にうぶ声をあげる。そこに介在してくれるひとは言うなれば 魂の親。櫻井先生はわたしにとって”母”でした。母をうらむことなどできましょうか。語りに出会って探求する旅のなかで わたしはなにをすべきかを知りました。語りを伝えるのはそのほんの一部のことなのですが、ひとつの世界をもっともっと知ろうとすることはわたし自身の中心に下りて行くことであり 世界とつながり世界の不可思議な光と闇の歴史を知ることであり 宇宙とつながることでした。

 .....親から日常暴力を受けている子どもさえ親をかばうといいます。まして広く深い世界とつながる道を指し示してくれたひとでした。 多くのひとが先生のとりこになりあこがれることから 語りに入ってゆきました。昔話から現代の語りに向けてあたらしい方向性を示唆さし読み聞かせやストーリーテリングの世界にも一石を投じ それは正しい一石だったとわたしは思います。毀誉褒貶はありましょうが そのカリスマ性で語り手たちの会が成り立っていたといっても過言ではないと思います。 

    ユングの太母には闇の側面があります。先生の場合 夜叉というよりそれは、子どもがほかの子どものもつ玩具をほしがるのに似ていました。先生は美しいものがお好きでした。掌からあふれるほど持ちながら、それでもほかの子が包み込むように持っている小さな美しいものに目がいってしまう そんなようすでした。先生はご自分の立場を忘れて思わずひとのこころを傷つけてしまうことがおありでした。けれども不用意なことばに気がつくと 一旦口にしたことばをなんとか取り返そうと涙ぐましい努力もされました。ご自分の信じるもののためには ひとを道具としてつかうことにも躊躇しなかった、そのことで伸びた方もいれば 去った方もおります。どうか 語りだけは捨てないでいてくださいと願うのみです。そして それは あのとき先生が最後にわたしに伝えたことばだと今 気がつきました。「ルカさん 語ることだけは 捨てないでね」

    本質は少女のようなやさしい方でした。お育ちからくるほんとうの意味の品のよさがある方でした。私は櫻井先生が好きでした。「ルカさん ルカさん」と呼ぶくすぐるようなやさしい甘い声が聴こえます。

    お別れしたあと、わたしは手に余る”自由”を手にして立ちあぐみました。ご存知でしょうか....ケムトレイルや世界の闇について書き始めたのは組織のしがらみや櫻井先生から離れてはじめてできたことです。なんとか自分の道を取り戻そうと悪戦苦闘しました。捨てたのか捨てられたのか それはとても深く太い絆でしたから......。わたしはカタリカタリのひとたちを心から愛して育てよう すべてを手渡そうと決めました。お別れのことばにもありましたが、自身が花と輝きながら 次代の花となる苗床を育てるには愛と意思の力が必要です。

    花はいつしか自分を越える輝きを放つようになるかもしれません。かぐわしく馨るかもしれません。先に咲いた花は安心してはいられない。走り続け 学びつづけ 自分を磨きつづけ なおかつ 愛でもってつつむようにあとからくるひとを育ててゆかなくてはなりません。 わたしはようやくその覚悟がつきました。それは櫻井先生にお会いしたからお別れしたからできたこと、わたしの生命が先生に出会い、語りにであって輝きだしたように わたしは未来の語り手に火を灯します。

    そして多くのひとの心に灯を点した先生に心から感謝と愛をささげます。先生は花のような方でした。ご自分の持つともし火.....うつくしいものへの愛 いのちへの共感 抱いている夢で ご自分の周囲をあかるく照らしました。すばらしい人生でした。マリオさんがおっしゃったように 受け取ったものに自分の最善のものたいせつなものを乗せて次代へ手渡してゆく そして彼方へ去ってゆく還ってゆく あなたもわたしもすべてのひとが............これが人間のすがたなのだと思います。あなたの旅の平安と実り多きことを祈ります。ありがとう。

    

    



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




    その1をごらんになっていない方は どうぞ そちらからお読みください。

わかれのことば(つづき)
光藤さん(語り手たちの会)
    「わたしがおそるおそる こうしたいのですが....と持ちかけると先生は「それ やりましょう」といとも簡単におっしゃって ニック・ヘネシー、タフィー・トーマス、(ベン・ハガーティ)ベリットさんが来日されました。お三方から Mikiの冥福を祈るというメールをいただいております......」

横田さん(語り手たちの会)
     「九州には何度かお運びいただいて指導をいただきました。最初の頃は講師依頼のお手紙の書き方など一から教えていただきました。おうちに泊めていただいたときは、ほんとうに可愛いくてらして ご主人様はそれこそ日本風の男といった風情で、おうちがこうだから、語りのほうでは女王さまのようにおできになるのだと思いました」......

出版社の方
     「先生の著書 ”子どもに語りを”の改訂版を出そう出そうと相談していた矢先のことでした」......

ラジオ宅急便の方
    「先生の最後のお仕事のひとつだったのでしょうか 3月にラジオ宅急便に出演していただきました。お話してゆくうちに 早稲田放送研究会の先輩であることや おなじ慶応病院に入院していたこともわかりご縁を感じました。3月の放送は好評で5月に再放送しました。」
    「櫻井先生はご自身も花と輝きながら 苗床を育てていらしゃいました。ひとつだけ 心配があるとすれば(大きな柱をなくされた) これからの語り手たちの会のことです」.....(もしかすると出版社の方のことばからもしれません)

寺内さん(語り手たちの会)
    「桜井さんとは34年のつきあいになります。はじめて櫻井さんの家に行ったとき、大酒をのみ ”今日はここに泊まる”と宣言して応接間のソファで朝まで寝ていました。今思い出すと身の縮む思いです(爆笑)わたしが男にしか語れない話ばかり語るものですから そういうことはやめてくれということになり ”語りたい話が語れないならもうやめる”と言いました。すると櫻井さんは川崎の拙宅まで慰留にきてくれて おかげで今も語り手たちの会にいます。最後に会ったとき”寺内さん、現代の伽(とぎ)は変わったのよ”と櫻井さんは言いましたが わたしにはその意味がわかりませんでした。年上なのに教えてもらうことが多かったけれど もう教えてもらうこともできません。」

櫻井先生のご長男マリオさんのことば
    「みなさん 今日はお忙しいところ 母のためにお別れ会にきてくださってありがとうございました。 .......3月には腫瘍が再発 4/7 再入院 十二指腸の閉塞は治療しましたが 余命は長くて3ヶ月短くて1ヶ月という宣告で 治療はできないまま 緩和医療となりました。母にはそのことを告知しませんでした。4月22日モルヒネを打つことがはじまりました。そうしますと 母は入院の楽しみを一つ一つ失うことになります。最初に読書が、つぎにDVDやテレビを見ることができなくなり、携帯やメールもできなくなりました」

     「けれども 音楽をたのしむことは....最後の方までできたように思います。わたしは音楽を職業にしました。母はわたしがわたしの結婚式のために編集したカラヤンのCDが気に入ってよく聴いていました。母の楽しみ方は作曲家が好きというよりさまざまな演奏家がどのように弾くか だったように思います」

     「母とは最後の3ヶ月 幼時のときのような濃密な時間をすごしました。中学の頃から家族とはあまり深く関わらないようにしていたので 語りについてはこれといって話したことはないのですが、グレン・グールドというピアニストについて話したときのことです。 グールドはどんなピアニストかというと、それまでチェンバロで弾かれていたバッハをピアノで弾いたり 後期ロマン派が好きだったのですが 後期ロマン派にはピアノ曲が少ないものですから ピアノ用に編曲したり 記号をまったく無視したりするピアニストです。母はそれを聞くと「語りと同じじゃない! 」と言いました。 それでわたしは母の考える語りはそういうものだったのではないかと思ったのです。......」

     「語り手たちの会のみなさま そして今日おいでくださったみなさまのおかげで 母の最期の望みだったお別れ会をひらくことができました。ありがとうございました」


     わたしはしばらく呆然としていた。マリオさんのことばを聴いて ここにきてよかったと心から思った。グールドはスコアというものに頼らない、はっきり言ってスコアのない 弾くというよりピアノとひとつになるピアニストである。語りでいえば テキストのない語り 即興にちかい語り。 語り継がれたものがたりの枠組みはあっても...そこに自分をのせて無限のヴァリエーションで語る、そして壊すことを躊躇するな、自分を信じて 摩擦を恐れず先に進んでゆく.....マリオさんは先生の考える語りがそういうものだったと言ったのだ。

     会の終わりにマリオさんにお礼を伝えることができた。......「母は組織について こだわりはなかったと思います。」.....わたしは先生について誤解していたのかも知れなかった。わたしはマリオさんの静かな目を受け止めた。.....”守るひとも必要です。志を継ぐひとも必要です。ありがとうございました、これで扉をひらいて歩きだすことができます”.......先生のメッセージ マリオさんのメッセージ そして片岡輝先生のあたたかさや友人たちの心配りや そうしたものがわたしのなかをひたひたと浸し からだのなかをさらさらながれ、ときおり溢れた.......会の途中からわたしの聴力は(天音さんのセッションの時感じた)クリスタルの中にいるようにキーンと冴えて わたしは ここにいてここにいない....不思議な感覚にとらわれたまま 子どもたちの待つ家に帰った。

     ........たくさんの方にお会いしました。ことばをかけてくださった方々 ありがとう 目で想いをおくってくださった方々 ありがとう ゆっくりお話することはできませんでしたが いつかまたお会いしましょう。



グレングールドの演奏.最晩年のゴールドベルク変奏曲→コチラ
松岡正剛の千夜千冊 グレングールド→コチラ

※ メモを紛失したのでことばが語られたそのままではないかもしれません。違っていたらごめんなさい。




コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




   9月20日 早暁 寝付かれぬまま 櫻井先生のHPを見ていた。今日は先生のお別れ会.....友人が誘ってくれた。語り手たちの会の方だけを対象にしたのではないとのことを聞いたが、それでも躊躇いがあった。ひっそりご焼香させていただいて 感謝や覚悟やもろもろの想いは伝えさせていただいたのだしという気持ち、同情のあるいは冷ややかなあるいは詮索の目線が耐え難いという気持ち あのレインボーホールで大波のような追慕の念に押し流されてしまうのではというおそれ......それでもゆきたい気持ちが鬩ぎあっていた。 ......わたしは思わず先生にメールを書いていた.....語り祭りで試みようとしていること、今のためらいの気持ち 眠くて眠くて夢うつつだった。

   7年前のことだった、櫻井先生の70歳のお誕生日を祝う会がレインボーホールでひらかれた。70本の赤い薔薇を胸に臙脂のロングドレスの先生は微笑んでいらした。そのとき語られたのが”プシュケ”......希臘神話の妻と夫のものがたり 禁忌を犯し 愛する夫を失ったプシュケが数々の試練を 夫の力を借りて乗り越えるものがたり.....櫻井先生はたしか....ものがたりの最後にプシュケは蝶.....そして魂という意味だとおっしゃった。表面でみれば夫婦の愛のものがたり その奥にあるのは 罪と罰 試練を乗り越え 光となってゆく魂の遍歴と蘇りなのだった。

   わたしは泣いた.....というか声を上げて慟哭したのだ。やさしくたおやかに 人間の本義 この世の摂理 を語るという先生の語りに圧倒された。聴き手のその日、聴き手の人生がある、それぞれの聴き手みなさんになにもかもがつたわるとは限らない、それぞれが受け取れる範囲でしか受け取れない.....それでいいのだということ、先生の語りにはだれもがなにかを受け取れるという優しさと平易さとその底に深さもあった。

   わたしもその日 語らせていただいた。絵のない絵本から.....煙突そうじの小僧の話 前夜はじめて取り組んだフランス革命と矢車草のものがたり。語りの深さを知りながら 一晩で安易な気持ちで今日を迎えてしまった自分の心向きの低さに気づいて、そしていつか 魂について こんな風にわかりやすく 語ることができるのだろうかという絶望的な想いに駆られて わたしは帰りの電車のなかでも泣き続けたのだった。


........ホールはひとで溢れていた。そして祭壇には赤い薔薇と白百合。

ひとりひとりが1本ずつ薔薇をささげる.....ミチカさんのマリオさんの先生のご夫君の あたたかいやさしい目と目をあわせる、心をあわせる......語りかける先生の遺影.....片岡輝先生 佐藤涼子さんのまなざし。


........昨年の語り手たちの会の催し 夕顔のものがたりがビデオ上映された。いつもよりすこしくぐもった、でも華やぎのある声 懐かしい先生の声。終盤 物の怪にとりつかれ死んでしまった夕顔が淡々と語る......「.....この世に未練はありません。三歳の娘がおりますが、だれかが育ててくれるでしょう」.....それは先生ご自身の声のようにも思われ 涙を禁じえなかった。魂は身体の滅びがくるのをその前に知る、それは父のときも感じたことだった。


おわかれのことば

友人のやよひさん
「.....やよひちゃん わたし きっとハードカバーの本 出しますからね」と言っていらした......一冊どころか何冊も出されました」
「ずいぶんお話しましたけれど わたしがしゃべるのは舌で話す話.....櫻井さんのは吾が話す語りであったような気がします」(もしかしたら田中さんかもしれません)

ご近所の方
子どもが3歳から6歳になるまえまで (櫻井先生の)夕焼け文庫で読み聞かせを聞きました。よいこと、うつくしいことをたくさん教えていただいた.....その楽しさが忘れられなくて立川で文庫をひらき 34名のなかまたちと子どもたちのことでかかわっています。 教えていただいたことが人生のたいせつなことのきっかけになりました。

田中さん
「......家庭を大事にしながら 子どもたちをたいせつにできることがある.....わたしは子どもの家庭内での手伝い 櫻井さんは語り.....にとりくみました。おなべがぐつぐつ....という”ぐつぐつ”で 櫻井さんが”田中さんの”ぐつぐつ”はなにが煮えているのかどういうふうに煮えているのかしら....わたしのはどうかしら....”と言ったことが今でも台所でおなべを火にかけているとき思い出されます」

つづく










コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




   ひさしぶりに栃木に向かった。蕎麦の白い花が一面に咲いている。道路はあたらしくなっている。ここも 高価なコンクリート舗装....有事に宇都宮駐屯地あたりからどこかへ移動するための道路だろうか??

   ぱんとまいむで天然酵母のパンを買う。カフェ 麻の実もたいそうなにぎわい。お蕎麦の店 百川も道路まで車が駐車している。雑誌にでも紹介されたのかな......うれしくもあり残念でもあり.....のどかで静かな昔の粟野をなつかしむ気持ちもないではない。またどこか ひなびた日本の原風景をさがしにゆこう。

   奥のほうに別荘地があった.....石橋のたもとに一叢の彼岸花が火のように燃えている。渓流のわき クワの木のしたで椅子をならべ 娘たちは流れであそび わたしは瀬音に耳を傾けていると 腰のまがった老爺が草刈鎌をもってあらわれた。途中で買った葡萄を一房手にご挨拶するとお茶に呼ばれた....その方は作次さん.....96歳だそうだ.....戦時中 アモイにいって 虎を退治した話を聞かせてくださった。

   一ヶ月不足で恩給が出ず 30万相当の銀杯と5万円相当の時計をいただいたとのこと.....恩給のほうがうれしいですよね? と訊くと作次さんはピンク色の頬でこっくりうなづいた。今は草刈をするくらいで畑仕事はしないそうだ.....つくったそばから 猿や猪や鹿がきて食べられてしまうそうだ.....熊もたまにはあらわれるそうだ。うらやましいような自然のなかにいても 都会の者があずかり知らない苦労はある......湧き水で淹れたお茶のおいしかったこと ついでくださるままにごくごくといただいた。ありがとうございました。







コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






映像は→コチラ

......ジャンプの失敗はあるのですが 押し寄せる波のような音楽とともに 情念がしだいに昂まってゆき あやうく均衡をたもっているような スリリングなプログラム。まだ一歩二歩及ばないが あたらしい真央さんのページがひらかれてゆく予感がします。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




   二子玉川からタクシーで5分 緑滴る閑静な住宅街 坂道にそって社団法人”整体協会”があります。社団法人としてすでに53年の歴史を有し 会員60000名 会長理事に元首相 細川護熙をいただき15支部を擁する....これほど大きな組織とは知りませんでした。体験講座はは月一回 講義には200円以上の参加費が必要。ここは本部なので200円だが 各地の活元会の参加費はそれぞれ違うようです。

   会場は二階 ぶち抜きの広大な和室に60名くらい.....講義からはじまりました。

①野口整体------野口春哉(はるちか)氏が日本に元からあった数々の養生法をまとめたもの。(昔は救急車などなかったから 漁師も農民も仲間や自分の生命を守るすべを知っていた)
②野口整体の二本の柱は活元と愉気である。
③人間が生きているということは 体があるからではない。食物があるからではない。空気があるからではない。他の何らかのもので生きている。
④人間は自分以外の働きに左右される。-----お互いの”気”を受けあって生きている。
⑤外から気を伝えるのではなく 気と気が感応し 元気が湧き起こる。
⑥愉気→魂の感応 静かな気 澄んだ気・息を掌から相手に送る。
⑦人間の運動には意識的にする運動と無意識的運動がある。
⑧寝相も活元運動 自然の要求にしたがってからだが動き出し調整する働き。
⑨病気も活元運動である。活元は病気の治療法ではない。
(風邪はまっとうすることがたいせつ)
⑩活元は歪んだからだを無意識の運動で調整する働きである。

いよいよ活元、みっつの準備体操をします。
A呼吸によって邪気を出す→みぞおちを緩める
B背骨をねじる
C背骨で呼吸+延髄に刺激を与える

......からだが動き出す あとは本能に身をまかせる。

ひとりでする活元とふたりでする活元相互運動がある。最初にふたりでしたとき 背骨に手を触れられただけで 涙が出て 泣きそうになりちょっと混乱する。対手を代えてつぎなるセッション ひじょうにみちたりた感じがある。

.........ここで感想

    この1週間 無意識にしていた運動が活元に似ていたことにまず驚いた。機が熟したということだろうか。二年半つづけたセルフ整体は自分の手技 また体の部位をつかって固くなりひずんだ自分のからだをほぐす方法だった。アレクサンダーテクニークは脱力と体の癖をとる方法だった。

    わたしのからだは長年の心の癖と体を思いやらなかったことから とてもゆがんでいた。野口整体がとても新鮮に感じたのは からだのくせやゆがみの矯正ではないということだ。体癖はひとがふつうに持つものと容認して 本来からだがもっている調整する力を導き出す方法 を学ぶ、ただそれだけである。

    もっと気に入ったのは資格とか多額のお金など必要なく だれでも習得すれば簡単にできる 日本古来の方法である(らしい)ということ。ロルフィングもフェルデンクライスも興味はあっても 施術されるのにはまとまったお金が必要で長年躊躇してきたのだった。(穂積さんのセルフ整体にはセルフロルフィングも入っていた) 

    野口整体の画期的なところは エネルギーワークの愉気とボディワークの活元がしっかりくみあわさっていることである。このエネルギーワークについても 実は受けたのは6種 自分で施術を学んだのは3種ある。わたしは経験か上、ある団体に所属するひとたちの気が似通っていることから それぞれが自分にあった団体や自分にあったエネルギーワークをえらぶのだと感じているので すべてのひとに当てはまるとは思わないが”愉気”は利く......それも短時間で。これも習得にお金はかからない、アチューンメントとか教える資格とかもない。もちろんお金をかせぐことはできないが そもそもエネルギーワークでお金を稼ごうとはまったく思っていない.....

    活元はひとりでもできる。さきほどひとりでしてみたが 涙が流れた......だれもいないし はじめてではなかったから混乱はなかった。とてもなつかしくゆるされるようなしあわせな涙だった。そして それ以上にふたりでする相互運動がいい。とてもスリリングで交流がうつくしい。長年つづけているひとの 動きの洗練とうつくしさに目を見張った。

    ひとによって1週間から2年とかかる時間はそれぞれだが 活元をつづけると三つの反応があるそうです。

①弛緩反応 ひたすら眠くなる。
②過敏反応 熱 汗 下痢など
③排泄反応 さまざま 起こるたびにからだはかるく よく動くようになる。

目標というのでもないが つづけると最小の栄養と最小の睡眠でたくさん働けるようになり 死ぬときはあっさり楽に死ねるらしい。なんだか 楽しみになってきた.....

野口春哉さんはこういう方→コチラ
社団法人 整体協会は→コチラ

今日 読んだ本

健康生活の原理  野口春哉
愉気法      野口春哉

竹内レッスンのエッセンス  竹内敏晴
竹内レッスン        竹内敏晴





コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




  → コチラ
作り方1

・初夏の頃(5~6月ごろ)の勢いの盛んなよもぎの葉を採取
・水洗いして乾燥させる
・生乾きの時に数ミリに刻んで、さらに1週間ほど乾燥させ、カリカリに。
・乾燥剤を入れて缶などに保存するといいでしょう。
 ※飲む時は、お茶と同じようにして飲みます。

作り方2

.ヨモギ茶に使うヨモギは、香りの良い海辺のヨモギを使う。ヨモギは春から秋にわたり自生するが、薬茶の材料には、気運が最も旺盛な端午(陰暦 5月) 頃に収穫した葉が最も薬効が良い。
.ヨモギの葉だけを取ってよく洗った後水気を切る。あるいは全草を採取して乾燥させた後葉だけをつみ取って使うと便利である。
.細かく切って日陰で3日程度乾かした後、防湿剤を入れた容器に保管する。

のみ方

ヤカンにヨモギを一握り入れ、沸騰した湯を注ぐ。
5~10分程度 エキスを抽出した後いただく。
一日 1~2回が適当である。
砂糖は入れない。苦味を嫌う人は、ヨモギの量を減らせば良い。過飲は良くない。

--------------------------------------------------------------------------------
ヨモギ生姜茶

効能 及び 特性
ヨモギ生姜茶は、婦人の悩みを解決してくれる薬茶である。普段、頻繁に飲めば慢性的な生理通をなくすことができる。手足が冷たい人にも良い。
月経の周期が長い時, 生理通, 手足の冷え症に効果がある。

材料
  ヨモギ 6g, ショウガ 6g, 水 300ml, 黒砂糖 15g

作り方
ヨモギと生姜を、きれいに洗った後水気を切る。
ヤカンにヨモギと生姜を入れ、水を注いで煎じる。沸騰し始めたら日を細めて10分程度煎じる。
カスを濾過した後、湯飲み茶碗に注ぎ蜂蜜を加えていただく。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




   2010年9月の新月8日19:30です。新月の日は平和を祈る日、あたらしいことをはじめるスタートを切るとき.....

   新月から満月に向けては充実のとき あたらしいこと特別なことをスタートさせるのは新月がよいといいます。わたしは今日 古事記の向こう側ヌナカワヒメのものがたり、ミカボシカガセオのものがたりのテキストを書き始めます。みなさまは今日なにかおはじめになりますか?

   満月から新月に向かうときは捨てるとき それで新月に向けて断食をしていました。今日は5日目 最終日です。

   断食は酵素をつかうと楽です。前回は市販の万田酵素、今回は自家製の梅酵素をつかいました。 おなじ木からとった梅 同じ砂糖をつかっても 酵素は毎日 手でかき回すので つくったひとによってお味が違います。娘の梅酵素はとてもフレッシュで若い味でした。わたしのは比べるとまろやか........不思議ですね。

   断食のときは 水分をとり 毎日自力整体もつづけます。.......筋肉が落ちてしまわないように。酵素とともに今回はゼリーもOKにしました。ゼリーは溶ければ水....という拡大解釈ですが 自家製の梅ジュースと寒天で毎日つくるうち とろとろにしたり しっかり固めたり がコントロールできるようになりました。

   3日目くらいから 感覚が鋭敏になって からだの声が聞えてきます。どこか障りがあるところを感じるようになる。外界にたいしてもアンテナの精度がよくなる。クライマーズ.ハイみたいにハイになって声のピッチが上がる。問題もあります。脳に栄養がゆかないのか....図形的なこととか 構造的な右脳的なことがかなり弱くなる。きのう あまりに目的地と現在地がつながらなくてパニック状態になりました。

   それでも 断食はやってみる価値はあります。なにかが変わる、リセットする、そしてデトックス。終わったらおもゆから徐々に普通食にもどします。やってみたい方はネットや本で情報をあつめ 自分にいちばんよい方法を選び 体に負荷をかけすぎないよう くれぐれもご注意ください。

   今日 新月の日 (19;30 夕食どきですね)ご家族と あるいはおひとりで 世界の平和 うつくしさ、調和をイメージしてください。


ほかにできるデトックス・カラダによいことは?

呼吸法 塩谷博士式は→コチラ

キバワーソルトは→コチラ

ステビアは→コチラ




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




   出発の日....高崎からなんとかいう道路をしばし走ったのです。その道路はコンクリートでつくった道路 上に薄く舗装がかぶっていたりします。夫が申しますには、有事の際 この道路をとおって長野の戦車部隊が首都圏に入る、そのための道路だそうで、国が長い時間をかけ お金をかけてつくった道路なのだそうです。

   わたしはこの道路に入ってから 気持ちがわるくなって (コンクリートの低い塀がつづき圧迫感があったりもして)これ以上 運転ができなくなりました。もう帰ろうかと思ったくらいです。そこで、道路を降りてコンビニで休んでいると 娘が「おかあさん 着替えたら....」とアドバイスしてくれて 息子が贈ってくれたグリーンのアリエッティのTシャツから白麻のブラウスに着替えたら 気分がぜんぜん違うのですね。

   着るものでこんなに違うのかと....驚きました。630キロ 碓氷峠を皮切りに曲がりくねった峠ばかり走破できたのも 白い麻のおかげです。一枚しかないので 毎晩 ホテルで洗濯していました じつは今日 この服を売ってくださったYUZURIさんに会うことになっています。着替えが手に入ります、お会いするのもたのしみです。


   最初に宿泊した松代ロイヤルホテルは、菅さんが雇用対策で言ったように大型バスに乗った団体中国人観光客も宿泊していました。長野も中国からのお客様が多いところで 生活習慣の違いからトラブルも多く 中国の方がホテルを買うケースが増えているそうです。バスの社名を見ると 中国の会社名で名古屋ナンバーでした。中国の方が経営するホテル、中国の方の観光会社、観光客が増えるのはうれしいが、この状況を喜んでばかりいていいのか悩ましいところです。

   長野は蕎麦の本場です。お蕎麦は大好きなのでホテルの食事処 戸隠中社脇の春夏秋冬・そば苑 小諸の一松でいただきました。そば苑は蕎麦団子が美味しかった。お蕎麦は一松さんですね。蕎麦好きのお客様に贈ったくらい美味しかった。野菜天とお蕎麦 会いますね。

   長野は埼玉・群馬・岐阜などと県境を接しています。秩父事件のとき 長野でも戦いがありました。秩父も長野の佐久地方も平地の少ないところで 農民は養蚕を主な収入源にしていたのですが、松方大臣のデフレ政策で生活に困窮します。自由民権運動や禊教に帰依したひとたちも一緒になって11月1日 蜂起、警察隊や憲兵隊と戦闘を行い 11月4日金谷での熾烈な戦闘で敗れ幹部は逃走、残った農民は上吉田村塚越の河原(実家の近く)で菊池貫平を総理として困民軍を編成して、信州への脱出を決意しました。

   200~250人の困民軍は、打ち壊しを行いながら 十石峠を越えて信州へ向いました。周辺の村々へ呼びかけました。11月9日、困民軍一隊は5時頃から千曲川の棚橋の前で南進してきた軍隊(東京鎮台高崎分隊)と撃ち合いを開始しました。困民党13名が討ち死にその内4人が信州の人で、残りは秩父や上州の人達でした。警官が一名、東馬流の女性ひとり流れ弾にて死亡。ここで困民軍は壊滅しました。

   残党狩りの南佐久郡の検挙者は、南相木村200人、北相木村184人、大日向村60人、高野町村44人、小海村32人、宿岩村15人、海瀬村10人、穂積村2人でした。秩父においても苛烈な報復がされました。秩父事件は民衆の側から唯一起こった革命でした。女の目から見た秩父事件を語ってみたいと思います。

   群馬の御巣鷹山もそう遠くないところにありました。御巣鷹山の123号便墜落事件も奇妙な事件です。一般に報道されない真実が隠されています。日本の戦後史上最大の闇であり日本の進路を決めてしまった事件でした。


   つまるところ いろいろ 考えさせられた三日間でありました。




   


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




       
    有明山社、ちひろ美術館のそばです。うっそうとした森に佇むお社 鳥居の向こうに 神楽殿 本殿が一直線に並んでいます。

    
    もっとちかづくと....神楽殿は本殿のま正面にあります。神さまに奉納演芸をお見せしていたのでしょう。

    
    そして その手前にあるのが.....なんだと思いますか? そう...土俵なんですね。相撲も神さまに奉納されていたのでしょうか。夫はうちのほうもそうだったよと言いました。これは昔ながらの神社のかたち.....日本は生活のすぐそばに神さまがいた、祖霊がいた.....自然信仰と祖霊信仰がまじりあっていた......今もその名残が日本にはある、それは希望のひとつです。


          
          安曇野から長野へ向かう くっきりケムトレイルが伸びてゆく....     

          
          お山からりんごを盗みにきたおさるたちの一匹

          
          日本の原風景 日本の美しい村100選 小川村 戦国時代 戸隠神社がこのあたりに戦火をさけて移っていたとか.....決死の覚悟で撮った一枚.....

     
     真田城の櫓から撮った城下.....上空の青い空に解けかかったケムトレイル二条.....

     
     真田城、石垣の太郎石 太郎山から掘り出した石だそうです。東の櫓のそばに真田隠し井戸があって そこから太郎山に抜けています。包囲されても食料の搬入がそこからできたらしいのですが、平地の城ですから守るのはたいへんだったことでしょう。


     実はここにきてはじめて太郎山の存在を知り、つつじの娘とつながりました。この旅のレポートの最初に戻ったわけです。今回のテーマはパワースポットとは、つつじの娘、峠越え、そしてケムトレイルだったようです。糸魚川と諏訪神社に取材に?行くはずがずいぶん 飛んでしまいました。近いうち 忍び旅に行こうと思います。

     書ききれなかった番外をあとでUPします。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




     安曇野にて......もう7日たちました。秋の気配が色濃くなっているでしょうか? それとも まだ記録的な猛暑でしょうか?

     


     
     夕食は6:30 前菜 パン 茸のペンネのあと...安曇野の野菜 野菜でもメーンデッシュになると思わされた一品


     
     フィレステーキ


     
     デザート....そして薫り高いコーヒー

ガーデンハウス安曇野は....設備が整ったホテルというわけではありません。パソコンはできないしテレビはクローゼットに隠してあります。....それも小さな旧式のテレビ。ご主人は泊まり人に静寂と安曇野の自然に身をゆだねてほしいと思っていらっしゃるのでは・・・・


     
     朝焼けに驚いて外に出るとパン焼きのおばあちゃまと玄関でバッタリ。10年前もそうでした。それから散歩に行きました。「熊が出るから気をつけてね」とのこと。

     
        
     日の出はちひろ美術館のそばで......

     
     美しいそら と雲  しかしよく見ると 階段状の流れた雲はケムトレイルのあとの特有のものです。 

     
     これは前日の夕方の安曇野の空 二本のケムトレイル

     
     わかりやすくするため 彩度を上げてみました。地平線上に二本 全天で六本のケムトレイルが目視できました。わたしのだいすきな安曇野の空が......

     
     ちひろ美術館の芝生で....「禍々しきものたちよ 去ね!!疾く去ね!!」と言ってみる...


        
     移築したちひろ山荘.....ちひろさんの描く子どもの絵が好きです。とくに少年。マリーローランサンを見てから すこし醒めてしまいましたが......。

      
     散歩から戻って、焼きたてのパン おいしい朝食

     
     紅茶とコーヒーはお替り自由

        お庭にゆく小道   

次回は長野の旅 最終回



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ