遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



   すっかりごぶさたしてしまいました。先日から身体が急に開きはじめて、身体と対話することがPCに向かうよりおもしろくなってしまいました。大掃除を開始した故か、仕事や家の状況が音を立てて動きはじめてもいました。

   あしたからワークショップで留守にしますので、とり急ぎお伝えしたいことをUPいたします。


   4年前 ミクシィをはじめたとき、どなたからかいただいたメールを、なぜか肌身離さず 持ち歩いておりました。まとめてみます。

① 呼吸は循環力、バランスをとるためのエネルギーそのものである。
② エネルギー⇒音霊おとだま⇒言霊ことたま
③ 声=身体に振動・共鳴する
  健康体と病がある場合では、共鳴する程度が違う
  心や感情が不安定な場合も共鳴が乏しくなる
④ 健全な魂、心、身体にエネルギー=声が共鳴するとき、程よい倍音成分が含まれた本当の声になる。
⑤ そのために心をリラックスさせ、身体をゆるませることが必要である。
  (ゆるみの会得がないと共鳴しない)
⑥ 即興は古代のひとたちがカミオロシの儀と称していたものと通じるのではないか。
⑦ 自分をなにものかにゆだね、通路として解放する。

   以上のなかで⑥と⑦はわたしの思いそのままだったのですが、そこにいたる③④⑤がよくわかりませんでした。わたしが....語りをはじめて10年のあいだ盲目的感覚的に求めていたのは”たくさんの糸を束ねたような声”でした。求める気持ちが強ければしだいにちかづいてゆけるものです。4年前、求める声が”倍音”であることに気づきました。そこで天音さんに会いに行ったのです。

   1年前 トマティスの聴覚検査で③に気づき、自分の声のなかで身体と共鳴できない部分が足...とくに右、そして首すなわち、不自由さや違和感を感じている身体の箇所であることを知りました。そして自力整体.....いまは名称がちがいます.......をはじめて1年半......⑤の身体をゆるませることがどういうことかわかったのです。

   このところ、手足の末端、そして手足を重点的にゆるめていました。すべての関節が呼応し連動しています。手首⇒足首 肩甲骨⇒股関節 右足首どうよう右手首の可動域がちいさく、右肩甲骨が埋もれ骨盤もおかしい......こうして次第に左右差に気づいたわたしは、重点的に首、肩甲骨、肩をほぐしていました。それとどうじにインナーマッスルを刺激しほぐすために身体にねじりと振動を加えました。意識を持ったことで、ぐっと変わりはじめたのに驚きました。

   肩のラインが左が高かったのが、一挙に水平になりました。首も垂直に近くなりました。からだがゆるむととともに声がかわったように思います。ゆとりがうまれ、まだまだですが声に振動が感じられるようになりました。”たくさんの糸を束ねたような声”に近づいてゆけるのではと、はじめて実感と歓びが湧いてきたのです。なによりじぶんのからだにふれ、確認し変化を実感できる、身体と向かいあって身体の声を聴くのはとてもたのしかった。

   食、睡眠、聴くこと、感じること、五官のすべてで身体とつながってゆきたい.....心と身体のとどこおり、こごなり、よどみ、束縛から自由になりたい.....そのとき響きはより豊かに深くあえかになると.....確信しています。






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......きのう、友人タエコさんのおうちで開かれたコンサートに行きました。雨もよい、緑の高台のおうち.....タエコさんと真っ黒で大きなシグルスが迎えてくれました。

 シグルスは一見”パスカヴィル家の犬”ですが、とても人間が好きなのです。 
 

   コンサートはもうはじまっていました。余分な力のまったく入っていないやさしさそのものの声、そしてギター、ソファに座って1分もたたないうちに涙が溢れてとまりませんでした。うたっている福井つよきさんの声、そしてギターの音色......が光そのものだったからです。

   すべてがよくなるためのプロセス....大いなるものへいたるプロセス....もういらなくなったもの、あなたのなかにあるもの.....感謝して手放そう....そのままのあなたで.....とつよきさんはうたいます。それから即興のピアノ.....風のそよぎ、森を打つ雨の音、小鳥の声がひとつになります。ピアノのしらべは水のようにせせらぎ、流れ、たゆたい、わたしを抱いて、岸辺につれてゆきます。......BUNさんのカリンバとのセッション、カリンバの曲ライジング......前半わたしは滂沱の涙をとめるすべを知りませんでした。ハンカチもないのに。

   後半は一転していっしょにうたいます。あーーという音から、ありがとうの合唱.......あとで考えましたらこれは倍音のワークショップでもあったような......そしてあなたはすばらしい......かんたん、かんたんという歌。みんなの声がとても心地よかった.....コンサートが終わったらお食事タイム。

   オクラとトマトのおかかサラダ、胡瓜といりこのあっさりサラダ、揚げサバの甘酢〆、かぼちゃとルバーブのサラダ、にんじんととろろ昆布のサラダ、とろろ、しいたけ、お揚げ、にんじんの特製タレでいただくお蕎麦.......
スイーツは梅ゼリー、ケーキ、タエコさんお手製のパンプキンプディング......美味しゅうございました。



   わたしはつよきさんに訊きました。「今のまま、そのままで.....すべてがよくなるためのプロセス........それはうつくしい考えです。でも、わたしはチベットやウィグルのひとたちの苦しみ、隠され知らされない欺瞞を書かないではいられないのです」.....と。するとつよきさんはいいました。「あなたが今、書きたいことを書いてください」......なんだかほっとしました。ですからみなさま、わたしは書ききるまでもうすこし、悲しみや苦しみ、欺瞞、横暴も書いてゆきます。聴いてください。

   もうひとつ尋ねました。「わたしは語り手です。たしかにひとはあかるいたのしい、、元気がでるものがすきなのでしょう、でもわたしはたのしいものがたりだけでなく悲しいものがたりも語る......語りたいから、そして悲しいものがたりで癒されるひともいるからなのですが......それでいいでしょうか?」 するとつよきさんはいいました。「......たくさんのことを乗り越えてきたあなたの声には力がある。つたえるひとはだから試練を多く与えられるのです。その声を信じてください。どんなものがたりでもいいのです.....」

   あぁ、そうだった...とわたしは思い出しました。ものがたりでなくて、ことばでなくて、ひびきを伝える....そうだった。なぜ、わすれてしまうのだろう.....今、語りたいものがたりを語ろう、わたしが充ちてゆくとともにものがたりはかわってゆくだろう、このまま行けばいいのだ........不思議なコンサート、会うべくしてあった方々でした。なにかが帳の向うに透けてみえます。ピアノを聴いているとき見えたのは白くかがやく光....しだいに強くかがやく光でした。そのひとのつかうことばがそのひとの世界となる.....とつよきさんはいいました。




   ひとりひとりがみずからのひかりのあかしびとなのだと思います。そのひかりが煌々とかがやくとき、世界はかわってゆくでしょう。きのう、わたしは信じることができました、ゆくさきの未来に不安もなく、恐れもなく。すべてはよくなるためのプロセス、世界はうつくしい。.....かんたん、かんたん、うまくいく、かならず。


 左がつよきさん、右がBUNさんです。

福井幹さんのHPは→コチラ

BUNさんのHPは→コチラ




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........先日、”高瀬舟”をさがしていたら、少年少女日本文学全集全24巻のうちの第一巻にありました。

執筆者が森鴎外、島崎藤村、国木田独歩、二葉亭四迷、徳富蘆花.....この全集が発刊されたのは1962年(昭和37年)......昔の子どもはむつかしい本を読んでいたんですね。さて、昔、子どもだったわたしはなぜか、国木田独歩が好きだったのです。中学一年のときの人生の目標は”非凡なる凡人”......その後の紆余曲折はさておき、漱石、芥川、森鴎外、下村湖人.....なみいる文豪、児童文学者をさておいて、なぜ 国木田独歩なのだろう.....と読み返してみたのです。

    すると.....心地いいんですね。文体のリズム、風が吹きわたるような自然描写.....地味な短編ばかりなのですが、登場人物がまっすぐ、自然体でてらいがなくて、実にいい感じ.....12歳のわたしはけっこう見る目があったみたい。読んでいて思い出したのは江戸末期、明治のはじめに日本を訪れた外国人のことばでした。森鴎外や夏目漱石は西洋の洗礼を受けている。ふたりとも留学していたはず......そこには”かれ”と”われ”とのあいだの峻別みたいなものがある。

    国木田独歩にはそれがない。かれはかれ、われはわれなんだけれど、ひとつの輪のなかにいる、そして読んでいるわたしも共感というおおきなふところのなかでかれらとともにいる.....テーマや設定がじゃなくてものがたり世界がとても日本的、ゆるされて在る幸福感を感じるのでした。

    さて、きのうもう一冊 手にした本のなかに”伊勢物語”にまつわる本がありました。業平は恋をしてはならぬ高貴な女人に恋をして、傷心のあまり武蔵の国まできて彷徨いました。みよし野とは...今の入間、川越あたりであったろうといわれています。業平は立派な屋敷に泊めてもらいます。その家には年頃の娘がいました。


みよし野のたのむの雁もひたぶるに 君が方にぞ寄ると鳴くなる


    これは娘の母のうたです。このたのむの雁について折口信夫の弟子である西角井正慶氏は「たのむとは秋の収穫......たのむの雁とか成女戒をさずけてくれるひとである」と言っています。すなわち娘の母は娘を女にしてもらう儀式を京からきた貴なるひとに頼んだのです。

    また 昔は高貴な客人に一夜 娘をさしだす習慣もあったようです。え...?何て野蛮なの? 娘がかわいそう....と考えないでくださいね。客というのはまれびと.....神の代役.....神の一夜妻になることでした。そして、日本の性はなんとも自由なおおらかなものであったようです。平安時代の文化は恋愛の文化でありましたし、現代も性の乱れと言われますが先祖がえりに過ぎないのかもしれません。

    さて 朝もあかるくなってきました。強引にまとめましょう、国木田独歩、在原業平、その心は..........縄文回帰。もっと自由におおらかに。もっとも自由恋愛のほうはわたしはもういいです。男の方はひとりいれば充分にすぎます。






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     ひさしぶりにお芝居を観にゆきました。池袋は想い出の多いところです。メトロポリタン口を降りると、いろとりどりの紗が風にのって目のまえを過ぎってゆき、わたしはそっとふれて風に放し、舞い上がって空に溶けてゆくのを見送りました。メトロポリタンホテルでお土産にジュレを買いました。右手には芸術劇場、左手には3日間、LTTAのワークショップで通った勤労者センター......。曲がりくねった道をゆくとスタジオPがありました。

     「死んだ女」.......中央に棺、電信柱、街灯.....死んだ女に所縁のある6人の男たちがつぎつぎにあらわれ、男の人生、女の人生がうかびあがってまいります。意表をつく展開、リズム、色彩、登場人物のステータス(その場面の力関係)がめまぐるしく入れ替わり、徒党を組んだり孤立したり、人間関係もさまざまに変化します。それはまさしく、演劇的空間でした。

      わたしは舞台を見ながらぼんやりと......芝居は台詞でつづられるのにかかわらず、......コミュニケーションが成り立たない、わかちあえない、”個人の孤独”、その孤独が一瞬でもいい、埋められ、充たされる至福を描くものが多い...なぁと思っていました。”動物園物語””耳””かもめ””彼女の場合”......わたしが揺さぶられた芝居はたいてい、そうでした。そして、それはみな小さな場所で観た芝居でした。

      もちろん、それだけではありません、大劇場で目くるめく演劇的な展開に目を奪われ、歌や踊りに身をゆだね、楽しむ芝居もあります。そうなんだけれども、わたしの場合長く残るのは隔絶された個の「人間」の救い、あるいはレクイエムなのでした。事件がおきる、エピソードの積み重ねのなかで隠されていたさまざまなことが明るみに出てゆく。破綻があり、激情があり、あるいは覚醒があり、モノガタリは終わる、そして予兆がある、希望がある、どんな悲劇的な結末であっても。.......
芝居の原点はエネルギーではないでしょうか。そのエネルギーが観るものを揺さぶる......


     ひるがえって語りはどうなのだろう......今年になって語った、”紅梅”、”林檎の木”は元が文学であるからかもしれません。コミュニケーションの不足、行き違い、誤解が生んだものがたりともみえるのです。終盤、”紅梅で”は誤解が溶けカタルシスが生まれます。”林檎の木”では見かけのカタルシスがあるのですが、主人公のアシャーストに真の覚醒が生まれないために、そこからより暗い深淵が現出する.......という入れ子のカタチになっています。

     もっとふるいものがたりはどうだろう.....”空と海と大地の物語”とか”コカのカメ”.....神話と昔話、それはとてもシンプルな構造です。事件が起こる、パノラマのようにものがたりが展開する、勇気によって愛によって、努力によって、助けによって問題は解決する、そしてある種のオチがあり、その後を予感させながら.....大団円。ものがたりはエネルギーそのもの。

     芝居も語りもものがたりです。芝居は登場人物の台詞のやりとり その確執で展開しますが「語り」では大きく二つに分けられます。①全知の「語り手」による「語り」、②「私」が語る一人称の「語り」ですが、たいてい①ですね。地の文が「語り手」の語りで、そのなかに台詞が散りばめられる、芝居の場合、演出者が陰の神なんですね。芝居もモノガタリなのですが役割分担がされている。だから、演出者の意思と個々の役者のコンビネーションそして観客がひとつになったとき、圧倒的な空間が生まれます。けれども 役者のベクトルがあっちこっちだったりすると面白いには違いないが拡散してしまいます。


     きのうのお芝居は個性的な役者さんが揃っていたのですが、その個性が強すぎて消しあっていたようにも見えました。元夫 元恋人 元初恋の男 弟 息子 がいるのですが 夫や息子、エキセントリックな弟のほうが存在感が希薄なのです。駅の売店で毎朝、毎晩死んだ女からスポ日と牛乳を買っていたゆきずりの男が一番リアルでその男の生活まで見えて不思議でした。描かれ方が一番丁寧....作者に愛されていたのかもしれません。

    視覚聴覚を刺激する各種の効果とか饒舌な台詞から産み出される演劇的空間.......それはある種あそびの部分も含めた空間です、わたしはたぶん.....作者であり演出家である阿藤さんのいいたいことのひとつは元夫の台詞

「......きのうより、今日より、あしたがよくなっていくと思えた頃はよかったなぁ........もしかすると人類は今まで経験していない、暗い悲しい恐ろしい時代を今 迎えるのかもしれない......」

に要約されていたのではなかったかと思うのです。最後のシーンで死んだ女が火葬された灰のなかから咲いた丈高い一本のひまわりの花が”予兆”を感じさせてくれます。

     わたしはJRに揺られ芝居の余韻にひたりながら語りはひとりのしごとだけれど、よりシンプルにストレートに、ひとの孤独と再生、古代のエネルギー、地球の今と未来を語ってゆけるかも知れない.....と考えるともなく考えていました。つらつら書くうちにまとまりがなくなってしまいましたが、最後にひとつ感じたのは静寂でした。間とはべつに台詞のなかに静寂が必要だ....と感じたのでした。




      


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