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遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



    空の異変について書くひとがふえています。地震雲では? 温暖化のせい? と考えるひとがふえています。

    それでは....地震雲って いったいなぁに??

A 中越地震を震源地で体験したひとがこのように書いています。


『地震雲の形態は大きく分けて3種類と思っています。42年前の新潟地震の時には午前中から全天に見事なうろこ雲が出ていました。また中越地震の1週間前には長野から新潟にかけて全天を二分する分厚い直線状の雲が現われ、境目に球状の雲が20個以上等間隔に並んでいました。また、余震が頻発している時期にはやはり全天に漣状の雲が見られました。少なくともこの3種類は地震雲ではないかと思われます。細い直線状、放射状、地面から上空に立ち上がる細い雲などは地震雲ではないような印象を持っています。空を半分以上覆い尽くす、という条件が必要ではないかと思っていますが、科学的根拠はありません。』

その方のサイトの写真は→コチラ

B 最近はこのような見方も多いです。→コチラ

雲のかたちと地震までの時間の統計をまとめている動画(→コチラ)がありました。

① 地震2週間前  スジ雲出現
② 地震1週間前  波状 放射状雲出現
③ 地震3日前頃  直立型 竜巻状雲出現
④ 直前      塊の雲出現.....するようだと推理しています。



C ......ところでこれらの雲は日本中で毎日のように観察されています。

   



地震雲掲示板は→コチラ

四川省大地震前日 日本で見られた地震雲は→コチラ

四川省で地震の10分前見られた虹色の雲は→コチラ

D さて、ほんとうのところはどうなんでしょう?

   すこし怖いおはなしがあります。アメリカのアラスカにHAARPという軍事施設があるのをご存知ですか? 簡単に言うと、HAARPというのは、電磁波を発信する事によって地震発生装置にもなる施設で、アラスカに大きいのがひとつ、日本の京都にもひとつ、世界のあちこちにあるようです。気象人工衛星をつかうことにより自由に世界の気象に干渉できる......つまり異常気象の原因のひとつと言われているのです。

   アラスカHAARP

   さて、HAARPを機能させるために、アルミ粒をばらまく必要があるらしく、イオン化した雲が虹色に光ってみえるのだそうです。彩雲なんて喜んでいられないわけです。実はわたしは今月はじめて、その虹色の雲を見ました。おわかりのことと思います。それもケムトレイルです。

ケムトレイル・気象操作掲示板は→コチラ

HAARPを見張っているサイトがありますので見てください。それからHAARPについてのリンクを貼っておきます。

HAARPについて→コチラ 

核より怖い物理学兵器HAARPについて→コチラ 

HAARP見張りサイトは→コチラ
翻訳サイトは→コチラ  

    にわかには信じられない方もおいででしょう。.....がよく観察すると目に見えてくることもあるでしょう。自然現象としての地震雲もあったのでしょうが現在はなんらかの操作がされていると見るのが妥当ではないかと、実際にケムトレイルを目視して思います。


    これからは一日一度は”上を向いて歩こう♪” 空はよろこびだけでなく陰謀も教えてくれます。情報も教えてくれます。危険を予知できるかもしれません。選挙のまえはなにが起こるかわかりません。空を見て観察して、チェックして、できたら写真もとってください。









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   すっかりごぶさたしてしまいました。先日から身体が急に開きはじめて、身体と対話することがPCに向かうよりおもしろくなってしまいました。大掃除を開始した故か、仕事や家の状況が音を立てて動きはじめてもいました。

   あしたからワークショップで留守にしますので、とり急ぎお伝えしたいことをUPいたします。


   4年前 ミクシィをはじめたとき、どなたからかいただいたメールを、なぜか肌身離さず 持ち歩いておりました。まとめてみます。

① 呼吸は循環力、バランスをとるためのエネルギーそのものである。
② エネルギー⇒音霊おとだま⇒言霊ことたま
③ 声=身体に振動・共鳴する
  健康体と病がある場合では、共鳴する程度が違う
  心や感情が不安定な場合も共鳴が乏しくなる
④ 健全な魂、心、身体にエネルギー=声が共鳴するとき、程よい倍音成分が含まれた本当の声になる。
⑤ そのために心をリラックスさせ、身体をゆるませることが必要である。
  (ゆるみの会得がないと共鳴しない)
⑥ 即興は古代のひとたちがカミオロシの儀と称していたものと通じるのではないか。
⑦ 自分をなにものかにゆだね、通路として解放する。

   以上のなかで⑥と⑦はわたしの思いそのままだったのですが、そこにいたる③④⑤がよくわかりませんでした。わたしが....語りをはじめて10年のあいだ盲目的感覚的に求めていたのは”たくさんの糸を束ねたような声”でした。求める気持ちが強ければしだいにちかづいてゆけるものです。4年前、求める声が”倍音”であることに気づきました。そこで天音さんに会いに行ったのです。

   1年前 トマティスの聴覚検査で③に気づき、自分の声のなかで身体と共鳴できない部分が足...とくに右、そして首すなわち、不自由さや違和感を感じている身体の箇所であることを知りました。そして自力整体.....いまは名称がちがいます.......をはじめて1年半......⑤の身体をゆるませることがどういうことかわかったのです。

   このところ、手足の末端、そして手足を重点的にゆるめていました。すべての関節が呼応し連動しています。手首⇒足首 肩甲骨⇒股関節 右足首どうよう右手首の可動域がちいさく、右肩甲骨が埋もれ骨盤もおかしい......こうして次第に左右差に気づいたわたしは、重点的に首、肩甲骨、肩をほぐしていました。それとどうじにインナーマッスルを刺激しほぐすために身体にねじりと振動を加えました。意識を持ったことで、ぐっと変わりはじめたのに驚きました。

   肩のラインが左が高かったのが、一挙に水平になりました。首も垂直に近くなりました。からだがゆるむととともに声がかわったように思います。ゆとりがうまれ、まだまだですが声に振動が感じられるようになりました。”たくさんの糸を束ねたような声”に近づいてゆけるのではと、はじめて実感と歓びが湧いてきたのです。なによりじぶんのからだにふれ、確認し変化を実感できる、身体と向かいあって身体の声を聴くのはとてもたのしかった。

   食、睡眠、聴くこと、感じること、五官のすべてで身体とつながってゆきたい.....心と身体のとどこおり、こごなり、よどみ、束縛から自由になりたい.....そのとき響きはより豊かに深くあえかになると.....確信しています。






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   4歳の子どもと遊びました。布団でおうちをつくって、おおかみになっておうちを壊そうとやってきたら....「ばぁば おおかみはやめて女の子になってよ」.....というので女の子になりました。持てるかぎりの感覚と覚束ない体力のかぎりをつくして遊びました。からだが熱くなって汗みずくになりました。写真の撮りっこをしました。子どもの撮った写真のわたしはみずみずしく笑っていました。

  わたしディケイド?

   「あしたは、遠くの公園の草地でおうちをつくろうよ」と約束して、朝早く起きておむすびを10個つくりました。アイスボックスに飲み物やチーズやゆで卵を入れて、途中でアイスクリームも買いました。けれども、丈なす夏草は刈り取られておうちをつくることはできませんでした。

    それで、あぶなっかしいフットワークでサッカーをしました。左右両方の足でボールを止めることができたので我ながらびっくりです。団子虫を見つけ、アスレチックのロープタワーに上りました。おさるのように頭をしたにしてぶら下がったら 景色は変わって、木が空から生えていました。風はそよぎ、汐からとんぼ、黄蝶が群れ飛んでいます。



    たったひとりの子どもを楽しませよう、喜ばせようとからだを動かしていると、かろやかな子どものステップ、鈴の降るような声に わたしの歳経たからだも感応して浮き立ち、できなかったこと、しようともしなかったことをしてしまう。ちからと勇気がわいてくる。7歳までの子どもは神さまだといいますが、ほんとにそうだ.....とはじめて心の底から思いました。

    この子とはいつか会えなくなるかもしれない、でも瞳の耀きを、香るような息づかいをわたしは忘れない.......たったひとりの子どもを思うとき、その向うに世界中の子どもたちの鼓動が、星の瞳や笑顔があります。チベットの子、パレスチナの子 ウィグルの子、ロマの子たち、アフリカやアメリカやロシアやヨーロッパ、アジアの子どもたち、日本の子どもたち......子どもたちは地球のあした、よろこび、希望です。なんだかがんばれそうな気がしてきました。







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......年に一度の逢瀬です。近況報告からはじまって話は次第に深くなります。きのう語ったのは.....

① ものがたりは読者の手にわたったとき、作者の手を離れ、あらたなものがたりとなるのではないか? その場合、ひとりで読むよりシェアすることで物語世界は深まる。たとえば音声化するとき、それぞれの感性、人生経験により個人差があるが、聴きあうことで、ものがたりをとおして、それぞれの擬似的人生経験も深くなり、それは実体としての人生に反映するのではないか。そしてそれがものがたりのあたらしい魅力や、ときに作者の意図していなかった、埋没していた力をもひきだすのではないか。

② たとえば、海老蔵、野村万作など伝統芸能にたずさわるひとたちの圧倒的存在感、圧倒的パワーはどこからくるのか? それはDNAのみならず、生活そのものが芸能のためのものであり、日々稽古や暮らしでつかうもの、脚本、衣裳、道具もろもろに先代、先々代からの汗や想いもしみこんでいる。そうした土台の力なのではないか。伝統芸能では声の響きを用いるように思うが、それだけにたよるとパターン化するのではないか。より自由な想像力の駆使によって伝統の力はより増すのではないか。

③ 新指導要領には英語によるコミュニケーション能力を高めるという項目があるが、これは産業界の要請によるものではないか。ゆとり教育の弊害というが、いままでも産業戦士の育成のための指導要領、産業界の要望に沿った国策としての指導要領ではなかったのか、究極、教育とは人間力のある人間、考える人間、自ら学ぶ人間に導くことではないのか。しかし家庭が底力をうしなったために、教師はその穴埋めをし、生活の基本的なことから子どもたちに気づかせなくてはならない。

    産業構造、社会構造が家庭を破壊したという側面もあるし、産業構造が「食」を変えてしまった。伝統的な食から肉食、粉食、、加工食品、個食への変化があり、輸入にたよるようになって、子どもたちの身体が変わってしまった。(低体温、低い声、切れやすいなど)国策による産業構造、社会構造の変化が子どもたちの基礎的な人間力を落としてしまったのに、それを学校教育で補わせるのは本末転倒ではないか。

④ わたしたちはこれからどうしていったらいいか? ひとびとは本能的に時代のうねりを感じ取って、無意識的に行動をはじめている。野菜の栽培、運動、副次的医療など それを意識立てる。個人の生活においてのみならず、周囲にも必要なことを伝えてゆく。子どもたち、そしてとりまくおとなたち双方にじぶんたちができることで働きかける。学校で 家庭で ネットで。

⑤ 社会を変えてゆくひとつの方法が消費行動ではないか? お金の使い方で社会を変えることが可能ではないか。

A ものやサービスを買うか買わないか? 自分でつくる、知人や他人と交換するという選択肢も考える。

B 買うと決まったら、そのメーカーの方針や取り組みを見て購入先を考える。

例 遺伝子組み換え作物をつかっているか。
  農薬をどのくらい使っているか。
  トランス型脂肪はどうか。
  戦争を仕掛ける国、収奪したり殺戮する国のものは買わない。
  そのような国、たとえばイスラエルを支援しているメーカーのものは買わない。中国製品もできるだけ買わない。
  兵器産業に融資や加担をしているか。
  
以上のことはある意味で投票行動より大きな、より相手に気づかせることのできる権利の行使ではないでしょうか。大きなメディアは信用できません。周囲への口コミでひろめてゆくのがいちばんです。そのほか 個人的な問題にも気づかされました。よき友はよき鏡、よき標、はるか遠くを照らすともしびです。





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......きのう、友人タエコさんのおうちで開かれたコンサートに行きました。雨もよい、緑の高台のおうち.....タエコさんと真っ黒で大きなシグルスが迎えてくれました。

 シグルスは一見”パスカヴィル家の犬”ですが、とても人間が好きなのです。 
 

   コンサートはもうはじまっていました。余分な力のまったく入っていないやさしさそのものの声、そしてギター、ソファに座って1分もたたないうちに涙が溢れてとまりませんでした。うたっている福井つよきさんの声、そしてギターの音色......が光そのものだったからです。

   すべてがよくなるためのプロセス....大いなるものへいたるプロセス....もういらなくなったもの、あなたのなかにあるもの.....感謝して手放そう....そのままのあなたで.....とつよきさんはうたいます。それから即興のピアノ.....風のそよぎ、森を打つ雨の音、小鳥の声がひとつになります。ピアノのしらべは水のようにせせらぎ、流れ、たゆたい、わたしを抱いて、岸辺につれてゆきます。......BUNさんのカリンバとのセッション、カリンバの曲ライジング......前半わたしは滂沱の涙をとめるすべを知りませんでした。ハンカチもないのに。

   後半は一転していっしょにうたいます。あーーという音から、ありがとうの合唱.......あとで考えましたらこれは倍音のワークショップでもあったような......そしてあなたはすばらしい......かんたん、かんたんという歌。みんなの声がとても心地よかった.....コンサートが終わったらお食事タイム。

   オクラとトマトのおかかサラダ、胡瓜といりこのあっさりサラダ、揚げサバの甘酢〆、かぼちゃとルバーブのサラダ、にんじんととろろ昆布のサラダ、とろろ、しいたけ、お揚げ、にんじんの特製タレでいただくお蕎麦.......
スイーツは梅ゼリー、ケーキ、タエコさんお手製のパンプキンプディング......美味しゅうございました。



   わたしはつよきさんに訊きました。「今のまま、そのままで.....すべてがよくなるためのプロセス........それはうつくしい考えです。でも、わたしはチベットやウィグルのひとたちの苦しみ、隠され知らされない欺瞞を書かないではいられないのです」.....と。するとつよきさんはいいました。「あなたが今、書きたいことを書いてください」......なんだかほっとしました。ですからみなさま、わたしは書ききるまでもうすこし、悲しみや苦しみ、欺瞞、横暴も書いてゆきます。聴いてください。

   もうひとつ尋ねました。「わたしは語り手です。たしかにひとはあかるいたのしい、、元気がでるものがすきなのでしょう、でもわたしはたのしいものがたりだけでなく悲しいものがたりも語る......語りたいから、そして悲しいものがたりで癒されるひともいるからなのですが......それでいいでしょうか?」 するとつよきさんはいいました。「......たくさんのことを乗り越えてきたあなたの声には力がある。つたえるひとはだから試練を多く与えられるのです。その声を信じてください。どんなものがたりでもいいのです.....」

   あぁ、そうだった...とわたしは思い出しました。ものがたりでなくて、ことばでなくて、ひびきを伝える....そうだった。なぜ、わすれてしまうのだろう.....今、語りたいものがたりを語ろう、わたしが充ちてゆくとともにものがたりはかわってゆくだろう、このまま行けばいいのだ........不思議なコンサート、会うべくしてあった方々でした。なにかが帳の向うに透けてみえます。ピアノを聴いているとき見えたのは白くかがやく光....しだいに強くかがやく光でした。そのひとのつかうことばがそのひとの世界となる.....とつよきさんはいいました。




   ひとりひとりがみずからのひかりのあかしびとなのだと思います。そのひかりが煌々とかがやくとき、世界はかわってゆくでしょう。きのう、わたしは信じることができました、ゆくさきの未来に不安もなく、恐れもなく。すべてはよくなるためのプロセス、世界はうつくしい。.....かんたん、かんたん、うまくいく、かならず。


 左がつよきさん、右がBUNさんです。

福井幹さんのHPは→コチラ

BUNさんのHPは→コチラ




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........先日、”高瀬舟”をさがしていたら、少年少女日本文学全集全24巻のうちの第一巻にありました。

執筆者が森鴎外、島崎藤村、国木田独歩、二葉亭四迷、徳富蘆花.....この全集が発刊されたのは1962年(昭和37年)......昔の子どもはむつかしい本を読んでいたんですね。さて、昔、子どもだったわたしはなぜか、国木田独歩が好きだったのです。中学一年のときの人生の目標は”非凡なる凡人”......その後の紆余曲折はさておき、漱石、芥川、森鴎外、下村湖人.....なみいる文豪、児童文学者をさておいて、なぜ 国木田独歩なのだろう.....と読み返してみたのです。

    すると.....心地いいんですね。文体のリズム、風が吹きわたるような自然描写.....地味な短編ばかりなのですが、登場人物がまっすぐ、自然体でてらいがなくて、実にいい感じ.....12歳のわたしはけっこう見る目があったみたい。読んでいて思い出したのは江戸末期、明治のはじめに日本を訪れた外国人のことばでした。森鴎外や夏目漱石は西洋の洗礼を受けている。ふたりとも留学していたはず......そこには”かれ”と”われ”とのあいだの峻別みたいなものがある。

    国木田独歩にはそれがない。かれはかれ、われはわれなんだけれど、ひとつの輪のなかにいる、そして読んでいるわたしも共感というおおきなふところのなかでかれらとともにいる.....テーマや設定がじゃなくてものがたり世界がとても日本的、ゆるされて在る幸福感を感じるのでした。

    さて、きのうもう一冊 手にした本のなかに”伊勢物語”にまつわる本がありました。業平は恋をしてはならぬ高貴な女人に恋をして、傷心のあまり武蔵の国まできて彷徨いました。みよし野とは...今の入間、川越あたりであったろうといわれています。業平は立派な屋敷に泊めてもらいます。その家には年頃の娘がいました。


みよし野のたのむの雁もひたぶるに 君が方にぞ寄ると鳴くなる


    これは娘の母のうたです。このたのむの雁について折口信夫の弟子である西角井正慶氏は「たのむとは秋の収穫......たのむの雁とか成女戒をさずけてくれるひとである」と言っています。すなわち娘の母は娘を女にしてもらう儀式を京からきた貴なるひとに頼んだのです。

    また 昔は高貴な客人に一夜 娘をさしだす習慣もあったようです。え...?何て野蛮なの? 娘がかわいそう....と考えないでくださいね。客というのはまれびと.....神の代役.....神の一夜妻になることでした。そして、日本の性はなんとも自由なおおらかなものであったようです。平安時代の文化は恋愛の文化でありましたし、現代も性の乱れと言われますが先祖がえりに過ぎないのかもしれません。

    さて 朝もあかるくなってきました。強引にまとめましょう、国木田独歩、在原業平、その心は..........縄文回帰。もっと自由におおらかに。もっとも自由恋愛のほうはわたしはもういいです。男の方はひとりいれば充分にすぎます。






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  雲を透いて見えた日食


......きのう、テレビ朝日が一歩踏み込んだ報道をしていました。きのうのブログに書いた『年次改革要望書』に触れ、日本政府があこぎなアメリカの要求に唯々諾々と従い日本を事実上切り売りしてきたこと、日本のささやかな要求にアメリカは耳を貸さなかったことを番組のなかで伝えたのです。

   日本の要求とは牛肉輸入にあたっての全頭検査とか、日本の有機野菜をアメリカに売るためのJAS規格の変更を求めるなどのかわいいものなのでした。日本は車や電化製品を売るために、アメリカの農作物を買っています。....というか大豆とかとうもろこしについては依存しています。中国の食物をわたしたちは警戒しますが、アメリカの農作物には警戒していないひとが多い。ところが、これが実はこわいのです。

   残留農薬の問題があります。そして遺伝子組み換え作物、この遺伝子組み換え作物の種子をつくっているのが”モンセール社”、この会社は悪名高い枯葉剤をつくった会社でもあります。遺伝子組み換え作物は地上にないツクリモノの作物なんです。たとえば虫を寄せ付けないように農薬を撒き散らすとうもろこし....のようなものをつくっています。だから人体にどのような危険性があるかわからないし生態系にどんな影響を及ぼすかわからない、リスクの高いものなんです。ヨーロッパでは全面禁止ですが、日本はそうではありません。表示も曖昧です。

   残留農薬の問題も含めて、日本政府は車や電化製品を売るために、国民の健康をないがしろにしているのです。グリーンピースに連絡すると、トゥルーフードガイド....遺伝子組み換え作物を使用している食品をチェックするパンフレットを送ってくれますよ。 家族の健康は自分の手で守りましょう。

グリーンピースは→コチラ



   さて、浦沢直樹さんのプルートー第八巻(最終巻)を読みました。浦沢さんはバガボンドの井上雄彦さんとならぶ日本を代表する漫画家で、今までもモンスターやニ十世紀少年などの骨太な、問題意識のある作品を世に問うてきました。その浦沢直樹さんが万を持して、手塚治虫氏の鉄腕アトムのシリーズのなかで一番の傑作「地上最大のロボット」をリメイクするというのですから、ファンは色めきたちました。

   わたしは実は3.40年前のA4版の鉄腕アトムのシリーズをまだ持っているほどのファンですから、プルートーが出版されるのを、一抹の危惧を抱きつつ、たのしみにしていました。7巻のイプシロンのときもJRのなかで思わず涙をこぼしました。ノース2号のときもひそかに泣きました。....けれども、けれども、8巻を読むと危惧が現実になっていました。

   浦沢直樹という漫画家は、イメージと作品世界の構想力において素晴らしい漫画家です。メッセージ性もある。しかしたぶんやさしい方なのでしょうね。登場人物に撞着してしまうきらいがありはしないか、エピソードをつめこみすぎるサービス精神がありすぎはしないか......結果、作品は客観性のコントロールを失い、エピソードの収拾をかろうじて支えても、ラストに向かってエネルギーがたかまり収束し、おさまるところにおさまるという読者の望む場所に着地しないまま終わってしまいます.....エンディングがウイークポイントなのです。

   今は昔、小松左京さんが、作品を書くとき、中盤イメージの奔流にたずなを必死でひきしぼる、それが力仕事なのだと....そうしないとものがたりが拡散してしまうとおっしゃっていたことがあります。小松左京さんは短編の名手でありました。長編の「復活の日」は情緒に流れすぎた、「果てしなき流れの果てに」が傑作だと私見では思っております。

   さて、「プルートー」ではどこが手塚さんと違っていたかというとアトムがまるで違っていた。アトムはロボットの少年というより生身の少女のようでした。見た目が人間そのままであったせいもあるのでしょうが、ロボットの持つ人間とは別の意味の有限性、無機的なかろやかさがなく湿り気をおびていた。それはいい意味もあるのですが、ものがたりを本質から変えるものではなかったでしょうか。

   ゲジヒトが最後ちかくまで狂言まわしをつとめ、ノース2号、イプシロンとともにうつくしい旋律、崇高で心あらわれるエピソードをかさねた.......アメリカとイラクを模したトラキアと.....の構図もわるくなかった。......が、なぜか権力側がせこくて厚みをかいていたために、あまりにも人間的で崇高なロボットたちとの対比がかみあわず....かといって、プルートーの性格付けもウェットで、原作のロボット競技会形式はかたちだけだったので、結局不消化というか、読者はクライマックスに達することなく、ものがたりに置いていかれてしまった。

   なんだか、すこし残念です。ものがたりというのは途中もたいせつなのですがエンディングが決まらないと、こう欲求不満が残ってしまう、カタルシスはたいせつです。「語り」でもそうなのですが、大作には語り手自身のパワーが必要です。客観性、制御力、持続力.....途中エピソードの山の高さを考慮しつつ.体力気力を残してエンディングに突入。8合目あたりが急所です。潜在的ポテンシャルを高めてゆくしかないのだろうなと思います。

   けれどもプルートーには楽しませてもらいました.....なぜタイトルロールがプルートーなのか、ゲジヒトでもよかったんじゃないかな....という気がしないでもないですが、次の巻を待つ期待感、こころのたかぶりは10代の頃に帰ったようでした。そして20世紀少年でもそうなのですが、浦沢直樹さんには時代性がある、今世界で動いていること、問題をキャッチしてものがたりに投影してゆく気概があります。今のこれを掬い取るってこわいことでもあるのですよね。掬い取りようを間違えると瞬時に古くなる、いわゆる陳腐化してしまう.....歴史は動き続けているから。だから古典的なものに今を投影させるほうが楽なのですが、浦沢さんはリスクを犯しても果敢にチャレンジなさる.....敬服します。浦沢直樹さん ありがとうございました。

   さて、わたしも、プルートーと遺伝子組み換え作物と語りの三題話、ムリムリエンディングに突入します。アメリカと日本の関係は、民主党に政権がうつったにしても目だった変化はないのではないか.....とわたしは危惧しています。なにしろ太平洋戦争以前、開国のときからアメリカ?は日本の首根っこを押さえてきたのですから、今後中国からの搾取に切りかえるにしても、日本を骨までしゃぶり尽くすまでは放さないでしょう、どんなあざとい手段をつかっても。

   納得のいくラスト大団円は期待できそうもなく、そうなると遺伝子組み換え作物もポストハーベストでベトベトな作物も当分日本にやってくるわけで、それぞれの家庭、それぞれの個別のエピソードで対応するしかないわけです。私自身は国産品愛用→地産費消→自家栽培.....→菜食(飼料はもろあぶないです)というようにゆっくりたのしみながら変えていこうと思います。

   語り手はものがたりを生きています。けれども、それぞれの人生のものがたりを生きることで、逃れようのないエンディングに向かっていくことで、わたしたちは誰しも ストーリーテラーなのかもしれません。納得のいくものがたりを生きて語ってゆきたい...ものです。





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   2006年9月13日の夜10時過ぎ、京急電車内で痴漢容疑で植草教授が逮捕された衝撃的事件を覚えていますか? 申し訳ないことに当時私もマスコミ報道を信じて”忙しすぎてストレスがたまったのか、それにしても破廉恥な....”と思っていました。植草元教授は一貫して無実を主張し続けました。全く声も姿も見えない“被害者”女子高生は証言台に立つこともなく、2006年の事件で被害届を出したのは婦人警官。被害者証言や検察側目撃証言の多数の矛盾点や植草被告の無罪を証明する弁護側証人の証言内容が十分に検討された形跡もありません。とても奇妙な事件です。一流の経済学者であった植草さんが実は陥れられ、罪を着せられマスコミから抹殺されたと信じるひとは多いのです。

  植草一秀氏

植草さんはなぜ嵌められたか?

アメリカの日本経済支配のシナリオ

①1991年 外圧による大店法改正(大規模小売店舗立地法改定)によって従来の駅前商店街は急速に衰退し、日本全土の郊外風景は一変した。郵便局と同様に、駅前商店街と言うのは地域の文化共同体(コミュニティ)を堅固に形成していた。ところが資本進出の自由化だけを突出的に優先したこの悪法によって、日本全土の安全な地域コミュニティは壊滅的に衰退した。

②1993年 宮沢・クリントン会談で『年次改革要望書』(アメリカの対日経済占領のための一方的な命令書)合意。

③1998年年1月 ノーパンしゃぶしゃぶ事件が発覚し、外国金融資本の侵食に抵抗し日本を守っていた大蔵省長岡グループは一掃される。これが悲劇のはじまり。外資に当然刺されたと見える。

④1998年4月に外為法の大幅改正(規制緩和) 

⑤1998年6月には、総理府の外局に金融庁(当時の金融監督庁)が設置され、大蔵省より銀行の検査・監督機能が引き剥がされ、アメリカ財務局支局化する。

⑥1998年10月  長銀が一時国有化(12月には日債銀も)その後亡国的条件で売却。

⑦2001年 小泉政権登場、年次改革要望書をつぎつぎに具現化したことによって、日本の良いところは軒並み破壊される。一般国民の生活苦が実感となり始める。

⑧2002年から2004年 小泉政権は人為的な円下落政策を行い、外国投資家に低い値段で日本の優良資産を買い叩かせた。この時期に行われた異常な「ドル買い=円売り」という為替介入は、外国資本による日本収奪計画を手引きするためのものであり小泉・竹中構造改革路線とは、アメリカによる大掛かりな日本市場改変作業そのものである。小泉純一郎と竹中平蔵氏は日本の市場を破壊した。

⑨2003年4月 りそな国有化(植草事件の元凶)

⑩2006年1月 三菱東京UFJ銀行誕生(日本民族資本がデビッド・ロックフェラーの傘下になる。

⑪2008年3月 新生銀行は何と株主への配当原資としてなけなしの本店すら売却されて、きれいさっぱりユダヤ金融資本に食いつぶされた。


以上のことに小泉政権がどう関わったか?このブログの”小泉純一郎というひと”その①、その②に記してあります。

竹中平蔵氏


植草さんがしたこと

当時植草さんは教授であり著名な経済学者であり有識者としてマスコミに出演していました。そして小泉・竹中構造改革や郵政民営化について、裏に米国の対日占領プログラムの意図があることに初期から気づき警鐘をならしていました。

2005年3月16日植草さんは『新・植草レポート』で

①りそな救済劇の小泉・竹中インサイダー疑惑を追及。
②米国資本が郵政公社の所有する350兆円の国民資金を獲得する意図を有していることも言及。植草さんは郵政公社の所有する、この膨大な国民資金を獲得することによって、米国の日本占領政策はほぼ完了するのであると、はっきりと断言している。

2006年6月25日 宮崎学・直言に「失われた5年-小泉政権・負の総決算(4)」寄稿
2006年7月21日 「失われた5年-小泉政権・負の総決算(5)」
2006年9月1日  ビデオニュースドットコム丸激トーク・オン・ディマンド第283回に出演。小泉・竹中政権にりそなインサイダー疑惑を含めて痛烈な経済政策批判を浴びせる。

2006年9月6日  「失われた5年-小泉政権・負の総決算(6) 」寄稿。

2006年9月13日の夜10時過ぎ、夕刊フジと新連載の打ち合わせ後帰宅途中京急電車内で痴漢容疑で逮捕される

    植草さんのような影響力の大きい一流の経済学者が、小泉竹中・自公政権が推進する売国的国策を見抜き、テレビや書籍などを通じて世間にその危険性を知らせ始めたら、......政権側はどうなるでしょう。説得力ある語法で政権の悪を証明したとき、世論に飛び火し、政権がつぶれ、目的が達成できない恐れがあります。愚かな民衆は騙せても騙せないひともいる。アメリカや大企業の代理人である小泉竹中両氏にとって、植草氏は天敵でした。植草事件の真相にはこのような国策レベルの暗く大きな背景が存在するのです。

さて、この話にはつづきがあります。

6月21日 対談集“売国者たちの末路”を出版。
6月25日 上告棄却され、懲役4ヶ月の実刑確定。ちかく収監されそうです。総選挙への影響.....小泉・竹中両氏の国民と国への犯罪があきらかにされるのを恐れるためではないかといわれています。


    植草さんは卑劣な手段で公に発言することを封じられましたが、小泉自公政権のもとでは実に多くのひとが不審な死を遂げ永遠に口をふさがれています。植草さん自身も”何度も自殺を考えたが絶対に自殺はしない。もし、そういうことがあれば(自分は)殺されたのです”というようなことを語っておられます。わたしたち市井のブロガーにとっても、自由にものをいうことに一抹の不安を覚える そんな暗い世の中はいやですね。植草事件の真実を書き続けたブロガーのなかには警察から呼び出しを何度も受けたひともいるとのこと......外国や大企業や官僚のための政府ではなく、国民のための政府にしたいものです。
風よ吹け。山よ動け。

    けれど それまでにはたくさんの画策があるでしょう。自公政権・一部の官僚にとって政権交代は死活問題。せっかくつくりあげた集金システム、天下りシステムがなくなるかもしれない。過去の売国的所業、インサイダー取引が明るみに出て罪に問われるかもしれないのです。西川さん、竹中さんもさぞ心配なことでしょう。それは、必死になるわけです。

    マスコミ、テレビや新聞の報道はどうか鵜呑みにしないでください。じっくり読んで聴いて考えてください。このブログのリンク先の情報とあわせて検証することをお勧めします。マスコミのなかにはまだ志のある方もほんの少しおりますが、タハラさんとか変なアメリカ人とかアヤシスギル人物ばかりです。

    そしてもし政権が代わっても、任せきりにしてはだめです。大事な国、かけがえのない国、ふるさと日本とわたしたちの資産をゆだねるのですから....。わたしたちがひとのよいおろかな国民であることをやめなければ、彼らはいつまでも国民からむしり、たかり続けるのです。わたしたちが太平洋戦争前夜の日本の国民について、大本営や国策にどうしてあんな簡単に騙されてしまったんだろうと思うおなじことを、未来の日本人はわたしたちについて考えるに違いありません。なんであんなにかんたんに騙されちゃったんだろう.......


    最後に植草事件と根っこがおなじノーパンしゃぶしゃぶ事件について.....これはほんとうに深い問題だったのだとしみじみわかりました。外資は下ネタでひとを陥れるのがお好きのようです。マスコミが飛びつく、大騒ぎするからでしょうか。日本人もなめられたものですね。

    さて、当時、大蔵省には伝説的な優れた官僚がいました。この人は、東大法学部を主席で卒業、大蔵省若手のトップであり、最後まで、銀行をつぶすことに反対したそうです。つまり日本経済を最前線で「外資から」守っていたのです。そのころ、竹中が暗躍しており、銀行をつぶすべきだという、虚偽学派の説を唱えていたといいます。

そしてそのために引き起こされたのが、「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」でした。あれを仕掛けたのは、外資だったのです。「ノーパンしゃぶしゃぶ報道」というのは、優秀な大蔵官僚を攻撃して日本の銀行を守らせないようにするための「地雷」。あれで、当時の大蔵省の優れた官僚の人達は、みんな、何ヶ月も謹慎処分に
され、この「日本を守っていた優秀な大蔵官僚」もそのわなにはまりました。

そしてその後に、大蔵省を退職しています。このとき、優れた人材は大量に辞めている。彼らはもし、どこかに行こうと思えば、引く手あまたでした。そしてその優れた人が、その後どこに勤めたかというと米国の軍需産業のカーライルグループの東京支店だそうです。 元次官は今 どうなさっているでしょうか? 彼を追い落としたひとりが例のあの日銀総裁を拒絶された武藤敏郎なんですよ。

つまり、米国がマスコミを通じて仕掛けた「ノーパンしゃぶしゃぶ」報道は、日本を守っていた官僚を駆逐。そしてその後の、一千兆円という銀行を外資に売り渡す突破口になったのです。つまりあのとき、日本人の大多数は、大蔵官僚をたたいて喜んでいたのですが、実は、自分たちを影で守ってくれていた人達を罰して喜んでいたのでした。 わぁっと叫びだしたくなりますね。

日本のメディアは腐ってるのだろうか なぜなにも報道しなかったのだろうか??こんな大事なことを......だいぶお金をばらまいたようだから金に目がくらんだのだろうか? 小泉劇場のときとおなじように........もし知っていたらプラカード持って大蔵省に応援に行ったのに......なにも知らないって悲しい......

ノーパンしゃぶしゃぶ接待の真相



  著作 知られざる真実 → コチラ

阿修羅その他より

小野寺光一の政治経済の真実

りそな疑惑

りそなインサイダー 消されたひとびと

船井幸雄ブログ

りそな銀行竹中インサイダー疑惑

付録上記サイトより転載<りそなに関するインサイダー取引疑惑の発言>

→りそなに関する基本方針を定める立場にいた竹中平蔵氏は、りそなの国有化の直前に、株価が下落過程にあるときに突然、閣僚懇談会で「絶対に投資信託を買うべきだ。絶対に儲かる。私は買う」と発言した。つまりインサイダー取引を自らやっているのだ。

<実は優良銀行だったりそな銀行>
りそな銀行は、優良な銀行であった。りそなホールデイングスは2002年の3月に自己資本比率は、8.73%。優良企業である。

<無理やりに国有化へ>
これがあっという間に竹中の経理上の解釈の勝手な変更により無理やり、国有化に追い込まれていく。

<小泉政権は、巨大な株価操縦か>
小泉政権は、金融危機なる風説を流布して株式を売りあおり、国家ぐるみの「株価操縦」「風説の流布」を行っていたという。

<りそな処理の過程で死んだ有能な会計士>
その過程で、一人の有能な会計士が死を迎えた。自殺だったのかそれとも誰かに殺されたのか、どちらにしてもこのりそな事件に巻き込まれている。



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......みなさま 三連休 最後の日 のんびりお過ごしでしょうか?  わたしはなにかのハズミで突然チャンネルが切り替わってしまうときがあります。カチリ、自分のうちに埋没、カチリ、はるかかなたを彷徨う。するとブログの文体が変わります。おもしろいことにミクシィもコメントなくなります。開いていないとき読んでくださる方もわかるのでしょうね。


   三日間 うちがわにいました。今 思いますと大きな外的な危機が重なるとき、コカのカメみたいに縮こまってしまうようです。きのうの結婚式で目が覚めました。

   なんとかなる、なんとかなる、すべてがよくなるための変化です。わたしが本来の場所にいるための 調和にいたるための 余分なものを捨て去るための 統合のための........わたしの愛するひとたちはみなわたし自身でもあるのです。わたしのなかに彼らがいる。ルイも夫もきのう結婚した青年もカタリカタリのひとたちも.....

  夏みかん ママレード シロップ 砂糖漬け

夏蜜柑モワタシ。

  予兆をはらんだきのうの夕空

さぁ 勇気を出して雲海に向かってゆこう。




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結婚  


結婚式に招かれた。17歳の時から、わが子のように見守っていた青年である。無口な子だった。それが見違えるようになった。




          


「ぜいたくはさせられないけれど、きっとしあわせにする」.....そのことばをきいて花嫁は泣いた。


   


わたしは呆然と聴いていた。率直なことばは今はそうそうころがってはいない。そのことばはわたしの胸も切り裂いた。爽快な痛み。たいせつなひとをしあわせにする.....それには覚悟と努力も必要なのだ。彼が彼女をしあわせにするために幾許かのお金がいる。お金を稼ぐ仕事が、場所が、必要なのだ。わたしが手を放したら、あきらめてしまったら......。

さきほど 贈ったスピーチがそのままわたしに返ってくる。
......ひとの心とは不思議なものです。見えない心の動き、夢とか、勇気とか、モチベーションとか、だれかをしあわせにしたい気持とかがことばになり、行動につながり、ひとの心を動かし、ものごとを動かし、数字を売り上げや利益を動かしてゆく......みんなが心をこめて願えば世界でさえ変わるかもしれません。

よかった。結婚式に参列して....。




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身体のゆがみにきづく・なおす

ひきつづき阿部さんのワークショップ 2日目 14名参加 ビジター5名

① 足指 骨盤のエクササイズ
② 姿勢の確認 調整
③ あなた・わたしのゲーム2種
④ スクエアに歩く 各自前のひととの間隔をキープするゲーム
⑤ hoをサークルで発声 意識をひらく 聴く 自分の声を聴く
⑥ 天真五相 母音とumの発声
⑦ 鈴木メソッド
⑧ 高瀬舟の輪読
⑨ 阿部さんの実演

    テーマはきのうにつづき
A自分の身体を知る(強いからだは自由なからだ)
B意識をひらく
C発声・母音
D身体に起きたことを発声する

 2日 特別参加のふゆきちゃん 女の子生後6ヶ月と阿部さん


   ワークショップの集大成としての輪読は考えさせられることが多かった。一概に声がよければというものではない。過剰と不足とどちらがいいかといえば、不足よりは過剰のほうがよいのかもしれない。情景の見える読みはあまりなかった。これはなぜだろうと思うに、課題である句読点を自分でかんがえる、息継ぎの直後の段落のはじめは必ず高低を変える..という約束事に気をとられイメージまであたまがまわらなかったためからかもしれない。

   しかし課題が高度に過ぎたのか、一部でもできたひとはごくわずかだった。おもしろいと思ったのは、若手でやる気があってそこばくの野心を持っているひとの読み...というのは似ているのだった。そして、わたしはそれがきらいではなかった。そののぞみがきらきらとものがたりに精彩を放っている....しかしそれはまたあきらかにものがたりにとっては余分で....もしはずしてしまったら あとになにが残るだろうとも考えた。

   また、自分の世界を持っていて、誠実にものがたりにむきあった読みをしているひともいて、それはそれで好感がもてた。自力整体にとりくんでいるメンバーの声が格段によくなったのに驚き、読み聞かせの講師をはじめたメンバーがうまくなったのに驚いた。ステージはひとをつくる。ともかく 語りも読みも読み手をうつしだしてしまう鏡である。

   わたしは阿部さんの課題にしたがって喜助の台詞の出だしを読んだ。句読点、声の高低、視線の遠近、時間、身体で感じたことをことばにしようとしたが、弟が血まみれで苦しんでいる修羅場はタフでなければ無理である。最後は気を抜いた。阿部さんからお褒めのことはいただいたが、それが限定つきであることも承知している。わたしとしてははじめから終わりまで身体で感じたままを語る....のはむつかしいと思っている.....なぜなら語り手の身がもたない。それに聴いているひともきついと思う。ついでにいうなら、その身体の感覚というのが登場人物の時間経過とともに変わっているはずだし、あえて押し殺すときだってあるのではないか......

   ものがたりを生きる.....語り手にとってそれがいちばん楽しいし、聴き手のみなさまにもものがたりを生きていただく近道である。ときどきいらっしゃる「やってるわたしがステキ..」がすきな方々は、もろもろのものを貼り付けて ひとつのコラージュをつくりあげ、”やった感を”求めるのであるが、語りにしろ、読みにしろ、実態は実にシンプル、ものがたりと読み手・語り手まるのままなのである。そうでない道もあるにはあるが、すべてをなげうった長い長い修練と努力が必要なのだ。常人にできることではない。

   ものがたりを生きるにあたって、身体で感じることはたいせつだが、それがすべてではない。要所要所でつかえればいい....とわたしは感じている。身体を鍛えることはだいじだが、歩けないから語れない....というものでもない。ものがたりを語るのは”ひと”である。その精神と身体と感覚と魂....とでもって語る、背後には人生....勇気と夢、希望と絶望、かなしみとよろこび.....がある。そしてわたしたちは遺産を受け継ぎ受け渡すものであり、宇宙とつながるものである。そのすべてのつながりを持って語るのである。

   畢竟 それはつけたすことではなく、余分なものを削ぎとることで近づけるとわたしは思う。その余分なものに気づくためにワークショップはあるといっても過言ではない。


    今回のワークショップで私が突きつけられたことは三つある。
1 仕事をとるか、カタリをとるか
2 指導者としてどうするか
3 語り手としてこのままでいいのか


   ワークショップは仕事の修羅場のさなかにあった。わたしはひとの手を借りてなんとかできることはすべてしたけれど、いつもそういうわけにはいくまいと思う。あしたはいつ終わるかわからない....という覚悟を持って臨もうと決めた。8/1から3日にわたるワークショップは指導者としての実践のワークショップである。得ることはあるだろう。こうしてみたい、あぁしてみたいという試案はいくつかある。みながついてきてくれるのであれば。ともあれ、できるところまで行く。

   阿部さんの語りは阿部さんの、堀井さんの朗読は堀井さんの......壌さんのは壌さんのもの......わたしにはわたしの方法がある......もういいではないか.......いただいたものはありがたく糧にしてわたしはわたしの語りをしよう。やっている実感がほしいのではない、生きた証とかそういうのでもない......己と宇宙、他者と自分がとけあって 永遠が見える一瞬.........かつていたところ、憧憬とイタイほどのなつかしさ.....かぎりなくゼロに近い一瞬に惹かれる。......子どもたちの笑顔や高齢者のあったかい手や、それだけではなくて。

   ものがたりの真髄をつかみとる、棄てるところは棄て去る、そのエッセンスが自分のうちなるものとひびき、遙かななにかとひびきあい。聴き手のうちなるものに響いたときにゆるされる一瞬がある。


 振り向いて 刀を振り下ろし つぎなる相手を声でたおす
「ア」「カキクエバカネガナルナリホウリュウジ」



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    夏はワークショップの季節....毎夏、どのワークショップに参加しようかと考えるのは悩ましいよろこびです。皮切りのカタリカタリのワークショップは劇団クナウカの阿部さんにおいでいただきました。昨年語り基礎講座に2日間講師をお願いして以来です。阿部さんは日本の役者さんにはまだめずらしい、身体で感じたことをことばにする、観客に身体で感じさせる役者さんです。よく見かける貼り付け、雰囲気、顔芸とは縁のないストイックな.....とさえ感じる役者さんです。1年ぶりの阿部さんはますますパワーアップしていました。


①まっすぐ立つエクササイズ
②身体の歪みを知る、正しいからだの感覚を知るエクササイズ
③脱力のエクササイズ

阿部さんは正しい姿勢はたいせつだといいます。大地から天にむかってまっすぐ”気”が立ちのぼることでステージ上で大きく見え、また声もよく出ます。

④重心を移動させるエクササイズ 3種

丹田から胸のあいだに重心を移動させることで音の高低を変えます。

⑤丹田を圧迫し発声するエクササイズ
⑥胸式、腹式呼吸
⑦円形になり 開き 周囲の声を聴き 自分の声を聴き クレッシェンド・クライマックス・デクレッシェンドのエクササイズ(死にそうでした。。)
⑧鈴木メソッドから  こればかりはやってみないとわかりません。

休憩をはさんで
3名の語りについてダメ出し.....
阿部さんがテキストを読むと ものがたりがパノラマのように変化します。自由にもっと自在に、先入観にしばられないで、身体で感じるままに声に出す。

阿部さんによる王女メディアの台詞......今回は身体が引き裂かれるようでした。阿部さん自身は距離とからだの痛み、かなしみをあらかじめ設定しているとのことでした。

    
   Yさんのあかちゃん ふゆきちゃんも特別参加、おもしろくてわらいころげながらあっという間の4時間でした。そのなかでポイントは

A ひらく →聴くことでひらく 客観性を持つことでひらく
B 脱力  演技とは脱力のバリエーション
C ことばを発する対象を明確にする なにをしたいか
D 聴き手に身体で感じさせる 身体の状態はどうか 
E 前に飛ばす感覚を意識する。うちに込めると”やった気”になる、前に出す、内にこめるのバランス
F ことばの音楽性 ...日本語の単調さをどのようにしてやぶるか
  止めることを怖れない、ひっかかるところは止まっていい
  どこが大事かの取捨選択、スピードと間で聴き手をコントロールする
  呼吸をあえてはずす
  読み手(語り手)がどう(身体で)感じているか 技術でなく感覚でひらき揺さぶられるままに 声にだす (すべてわたしが感じたことです 阿部さんの指導とおりかはわかりません)

   参加者はそれぞれ得たものが多かったようです。わたしは10ヶ月前に比べて身体の平衡が飛躍的に向上、跳躍も可能になったことがうれしかった。課題は山です。もういちど発声を、持続力を、心と身体と声の関連性を考えること、もっと自由を あらゆるバリエーションを そして内と外のバランス。



   この日はビジネスにとっても大事な日でした。阿部さんとカタリカタリメンバーとのお食事会のあと、三組の来客とうちあわせ.....。どこまでつうじるか押せるだけ押してみました。そのうちの一組、相手は大手企業の男性4人、うち3人は地位ある方です 負けて元々と思いました。.....わたしの理屈は心情的、超法規的理屈でした、但しそれを論理的に明確にお話した。.....もちろん感情はオフにした。実際は契約をすでに交わしていたのですから、向うの言いなりになってもおかしくはなかった。ところが、通用してしまったんですね、こちらの意志とおりの決着、分離発注、2/3白紙撤回となったのです。900万円が契約外となりました。やってみるものだなぁ 言ってみるものだなぁ と思いました。

   ことばはおもしろい......今日は仕事のうえで、幾人かと心を通わせられた......わたし、ようやくいくらか成長したかもしれません......まだまだこれからです。





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   梅雨もあけて青空が目に眩しい夏の到来です。みなさま、いかがお過ごしですか? わたしはお部屋の模様替えをサウナ的熱暑のなかで敢行し......窓際で早朝の空を眺めつつPCに向かっています。空を鳥が横切っていきました。


   今日はデラネイの先住民族デネ族に起こったことをお話しましょう。カナダには多くの先住民族がいました。アメリカでは過去、実に5000万人の先住民族が殺されたと聴きましたが、逃亡してカナダにわたったひとびともいたようです。わたしは語り手としていつか、英雄クレージーホースの一生を語りたいと夢見ています。

   それはさておき、自然の恵み溢れるデラネイには幸か不幸かウラル鉱山があります。日本のヒロシマ、ナガサキに落とされた原爆はこのポートラジウム、エルドラド鉱山から採掘されたウランがひそかに運ばれつくられました。いつのことでしょうか、デラネイのデネ族の祈祷者(シャーマン)がこんな預言をしました。

.........「青白いひとびとがほらあなに入って、石をもって出てきた。その石を細長いものに載せた.......自分たちによく似たひとびとがたくさん焼け死んだ。ほらあなに近づくな、水を飲むな」......ホピ族の預言ににていますね。.......けれども、ひとびとはこの預言を信じませんでした。

    彼らの多くはほらあなに入って、ウラン採掘の仕事に従事しました。......そして、癌が多発したのです。長老の多くが亡くなりました。デネ族の村は「未亡人の村」として知られるようになったそうです。.......おかしい?....と思ったひとびとに、アメリカのナバホ族のフィル・ハルシオが助言しました。ナボホのひとびともウラン採掘の仕事に従事したことから何千人ものひとびとが亡くなったのです。ナバホのひとびとは連邦政府に働きかけ、2005年、連邦政府はナバホの土地でウランを採ることを禁じナボホ続に補償をしました。

    デネ族のひとびともカナダ政府に働きかけました。......しかしカナダ政府がようやく出したポートラジウム最終報告では、癌と鉱山労働の因果関係は認められなかったのです。700万ドルかけたその調査は茶番でした。なぜなら担当したのは、ウラン採掘権を持つ会社の関連会社だったのです。

    のちにポートラジウムで測定したところ、1000マイクロレム、20分後には4000マイクロレムの数値が出ました。......一時は採算がとれないと閉鎖されたポート・ラジウムは石油高騰によって、息を吹き返しました。採掘権を買い取った会社によって再開されようとしています。世界中で245箇所もの原発が計画されているからです。........この結果は10年後、20年後、30年後にはっきりします。

    お金や物欲が幸福とつながると信じるひとがいます。彼らは直接ほらあなに入ることはありません、知らないひと、先住民族や日本でもあすの暮らしにことかくひとを使います(日本でも今、まさに被爆者が増加しています).....生命は赤ん坊からもうすぐ旅だとうとする老人まで、たった一度しか与えられないたいせつなもの......それを奪う権利は誰にもありません。


    デネ族のひとびとは”預言”が真実であることを知りました、そして彼らは原爆で殺された34万の死者に謝罪をするために日本を訪れました。カナダでポートラジウムをテーマにしたビデオが制作されNHK/BSで放送されました。このビデオをつくったのは2007年まで日本に住んでいた方でひとりでも多くの日本のひとに見てもらいたいと語られたそうです。



カナダ....ナハニ国立公園...ナハニはデネ族のことばで精神という意味だそうです。



    前々回、聖地が核で穢される.....を書いたあと、日本でも縄文の聖地が核で穢されていると伝えてくれた方がいます。.......わたしの知るかぎりではよく訪れる茨城県の東海村.....青森の六ヶ所村の再処理施設、福島原発がそうです。調べてみたら、日本中でもっともっと多いことでしょう.....。この意味することはなんでしょう.....単に過疎の問題でしょうか?


    東海村では巨額のお金をかけて実験炉の解体作業をしています。これから寿命のくる原発がたくさんあるようです。原発は火力や水力と違って止めることができません。昼でも夜でもおなじように電力を供給し続けるのです。アル・ゴアの”不都合な真実”と原油高が原発ラッシュを生みました、アル・ゴアは自身が核産業の会社を経営しておりました。

    原発は未来に向かっても、大きなリスクを持ち続けます、いつかわたしたちが子孫から、資源を浪費したうえに未来に禍根を残した、間違った選択をしてしまった先祖として糾弾されることがないように祈り、すこしでもそのリスクを減らすために行動したいと思います。それでは....うつくしく、暑い夏の一日、今日もがんばってまいりましょう。

    


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..........土曜日は21個の夏蜜柑でママレードや砂糖漬けや夏蜜柑シロップをつくりました。庭から採ったほとんど無農薬の夏蜜柑です。来年は冬みかんの皮を干して珍皮をつくり、山椒の若芽で佃煮をつくり、できたら味噌を仕込み、芋や大豆を植えて、自給自足の道をたのしみつつ探ろうと思います。

    うまく言えないのですが、身体と心の一体化をおしてゆく、自然とひとつになって生きていたはるか縄文を見はるかし、なるべく他の生き物や地球の加害者になるまいとする生き方を考えていくと、ゆるやかな自給自足に行き着きます。そのうえでの物々交換。

    わたしたちはお金を得るために時間を切り売りして生きてきました。あるひとはスーパーのレジで、あるひとは銀行の窓口で、あるひとは保育者として......生きがいはないとはいえないが、自分を社会のなかの一要素として分化することでホリスティックな自分、まるごとの自分を失ってしまったのではないか......

    語り手は自らの人生をものがたりにのせて語ります。......とすれば日々の暮らし、日々の想い、が語り手をつくり、ものがたりの生命の耀きとなる.....一年半、自分の身体とつきあい、どうやらすこし対話できるようになって、今しずかに思います。心と身体の今しか語れない、その質を調和に充ちたものにするには........。ものがたりのウソをマコトに転換することはできる。けれども生活がものがたりに真っ向相対するものなら、それはやはりマコトではない。

    世界とつながっている自分を考えたとき、語り手としての自分をかえりみたとき、考えてでた答は自給自足に一歩ずつちかづくことでした。消費するひとからつくるひとに生まれかわってゆくことでした。ぽつぽつやってみようと思います。





    日曜日はテレビを見て過ごしました。BSでインディ・ジョーンズを二作見て、インディジョーンズの父親役のショーン・コネリー はすごいと思いました、ひとことのことば、まなざしだけで、あの荒唐無稽なものがたりがにわかに光を帯びるのです。最近作のクルスタルスカルにはインディの息子が登場。ジョージ・ルーカスのテーマって父と子、父性なのね....と思いました。

    ターミネーターのジェームズ・キャメロンはといえば、母性かな......ジョンの母、サラは母性そのもの、タイタニックのローズ、浮沈のモリー・ブラウンに母性を感じるのはわたしだけではないと思います。宮崎勲監督のアニメでは母性が”老婆”のかたちをとってあらわれます。こわくておおきくてあたたかい....それは宮崎さんの敬愛するおかあさんがアニメにあらわれたのかもしれません。

    なにを語りたいか、あらわしたいか....テーマというものは、そのひとの人生や魂の履歴に深くかかわっています。そのひとのトラウマ、コンプレックス.....なにによって幸福と感じるか.....人生の目標をも如実にあらわすのです。あなたのすきなものがたりはどんなものがたりですか? どのようなものがたりを語りますか?

    わたしは、ファム・ファタル(運命を変える女)についていくつものものがたりを語ってきました。戀のものがたりを語ってきました。市井の女たち、ひたすらに生きる女たちのものがたりを語ってきました。親子のものがたりを語ってきました。戦争で女たちになにが起きたか語ってきました。あたらしくは隠された神のものがたりを語ってきました。水のものがたり、大地のものがたりを語りました。

    こうして振り返ってみますと、”女”、”母性”、”生命を産み出すみなもと”が大河のようにテーマとしてあるようにように見えます。けれど その奥にほそいほそいひとすじの糸が見え隠れしていることにわたしは驚き、納得します。それは”裏切り”という糸......「それはわたし、わたし、このわたし.....おゆきだったのだよ、あのときひとことでもしゃべれば命はないとかたがた言うておいた」.....というおゆきの悲嘆からはじまって.....ちかくは、名草姫伝説、紅梅、林檎の木、茨木伝説まで.....

    ものがたりを書くことで、あるいは語ることで わたしは無意識のうちに自分の傷を癒そうとしてきたのかもしれません。これから、なにに霊感を得て書いたり語ったりしてゆくのか、わからないけれど、それはそのとき必要なものがたりであって、そのものがたりを生きて語るとき、きっと聴き手のなかで必要なひとに響くだろうと思います。


     心も身体も自由になってなにごころなく語るものがたりがあるのだろうか.......それはいったいどのようなものがたりでしょうか。......いいえ、ものがたりを語るとき、わたしたちはカラになっているはず......ものがたりで束の間充たされる、それは喜びであると同時におおいなる恩寵にちがいありません。







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    幕末あるいは明治のはじめに来日した4人の外国人の記録を読みました。NHK--BS放送で、特集を組んでいたのを見てぜひ読みたかったのです。当時の日本の市井のひとびとのようすは、世界のあちこちを旅した旅行者にとっても、驚きにみちた目の覚めるものであったようです。すでに『西洋文明』に頭の先まで漬かった、今の日本のわたしたちにとっても、手垢のついてない過去の日本はまるで見知らぬ国のように謎めき煌めいて見えます。

    あるひとは「日本には貧しさはあっても貧困はない」と言っています。ふつうの日本人は実に質素に暮らしていたようです。それなのに、日本人はいつもたのしげにしゃべっているか笑いころげている、日本人にとって仕事は時間と引き換えの辛いものではないようだ。外国人を驚かせたのは”貧しさとしあわせ”の共存でした。

   
    このしあわせ感はどこからくるのか.....物価の安さ、働く場と自然が隣り合わせだった、採れたものはでわかちあい、寡婦も孤老人もちいさな鉢に食べ物をもらうことができた、絶望はなかった.........そして、日本人は身分の上下に関係なく、芸術を享受していた、生活の小道具が実に洗練され美しかったといいます。

    江戸時代に日本を訪れたギリシャのグレゴリアス・マノスは日本のこまごまとした小道具に心を奪われ「一切合財買い占めたい」と思い、実際に財産をはたいて日本の生活道具の数々を母国に持ち帰りました。また、日本人の衣装は労働着も晴れ着も身分の上下に関係なく、そのいろあいは原色ではなく、いくつもの色を重ね合わせた深みのある色だったそうです。

    日本の代表的な名工、七宝焼きの並河靖之のことば、並河の工房はうつくしい日本庭園に隣接していました。......「大きな倉庫、大きな作業場はいりません。たくさんの依頼や注文をとったり、与えられた時間内で仕事をすることも御免被りたい。よい芸術、よい作品は銭金の指図はうけません。......時間をかけることは苦痛でなくむしろ喜びです。」



    来日した外国人は、日本の女性、ことに「娘」の可憐さ、無邪気さ、機敏さ、率直さ、優雅さのとりこになったようです。ムスメということばはたちまちフランス語に、英語になったといいます。


    日本を訪れ、日本を愛した心ある外国人たちは、日本が西洋文化を受け入れることでそのうつくしさを失うことを危惧しました。「無垢な日本にとって西洋化はしあわせなことだろうか」と心配するひとがいました。また「古い日本は死んで、若い日本が生まれる」と語ったひともいます。

    「もしも、日本国民が自らの芸術、熟成した礼法、質素な暮らし、こまやかなく家庭の魅力を失ってゆくならば、ペリー提督は最悪の敵となるでしょう。.......しかし、すでに地球の美術工房になっている日本はこのスイス以上に世界融和の天職を持っているのではないでしょうか。」(エリザ・シオドア)

    「あなたはまだお若いから、こういううつくしい場所にきてわたしがどんな喜びを感じるか わからないでしょう。......しかし、あなたが今ご覧になっているものの、ほんとうの魅力がわかるのは、その頃になってからのことなのです。私は年をとっています。この国の平和とやすらぎは、わたしがまもなく行く永遠の平和の世界の前触れとしか思えないのです。優雅でおだやかなこの国に来たことをわたしはほんとうにうれしく思います。こういううつくしいものに囲まれて一生を終えることができれば、それ以上の幸福はありません。」(ハーバート・G・ポンティングが黒谷であった外国人旅行者の語ったことば)
    


    今の日本を見まわすと原色が風景を席巻し、安手のプラスティック製品、安手の衣料品、騒音が町に溢れ、ひとびとは無言で自分の世界に埋没しています。昔の日本人の持っていた本能的な美意識は、しあわせ感はどこにいってしまったのでしょうか、いまのわたしたちは昔の日本人と、まったく違ってしまったのでしょうか。欧米化によって得たものは、失ったものに匹敵するのでしょうか?

    それとも、まだ 日本には帰るべきところがあるのでしょうか? わたしたちのうちに息づいているものがあるのでしょうか。



シドモア日本紀行   アメリカ人エリザ・シオドアは人力車で日本中をまわりました、ポトマック河畔に櫻を植えることに尽力したひとです。アメリカの日本移民に対するやり方に抗議してスイスに移住、お墓は日本にあります。

英国人写真家が見た明治日本   スコット第二次南極探検隊に同行した写真家ハーバート・G・ポンティングの文と写真、明治の日本人の顔がうつくしい、風景がうつくしい。京都の名工について書かれたところは芸術論でもあるようです、訳文が名文です。自然描写のうつくしさ....わたしの一押し。

シュリーマン旅行記 清国・日本   トロイ遺跡を発見したシュリーマンの一ヶ月にわたる横浜・江戸・八王子の見聞録、ほかの旅行記同様、中国と日本の根本的な違いが見て取れます。

江戸幕末滞在記―若き海軍士官の見た日本 エドゥアルド・スエンソン

グレゴリアス・マノスのコレクションが日本にきています。肉筆の写楽のほかに生活の小道具が展示されています。

清水三年坂美術館

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