わたしの息子はゲーマーである。仕事の合間に野試合や公式戦に出る。彼の言によれば 日本には彼と同じキャラ遣いが10000人いるだろうが 自分はその十指に入るだろうというのだ。闘ゲイで販売されている試合のビデオだかDVDには彼の試合も映っているそうだ。...その遣い手のなかでTOPは知らぬひとはいない日本の国技の頂点を極めたひとの息子だそうだ。...その戦い振りたるや戦略もなにもあったものではなく 打つ手がことごとく当たる...確立的にあり得ない直観力の持ち主であるそうだ。
息子の力を喉から手が出るほどほしいわたしは 「あなたのその力 現実に生かせないの?」と訊いた。すると息子は「おかあさん ゲーマーの力はリアルな能力とは正反対の力だよ」とちいさく嗤った。「...でも、たまにいる。両方とも凄い奴」...わたしは頷いた。ある種の感覚が鋭いということは生活者の能力の妨げになりやすいことを知っていたからである。...感覚が鋭くなったせいか それとも寄る年波のせいかわたしのリアルな能力はひたすら下降の一途を辿っている。
時間の管理も金銭の管理も家庭の管理も手にあまる。わたしにはマネージャーか秘書が必要だ。このごろは会社に行くのが苦痛でならない。...それは現実的な能力が削がれるとは別に ひとの心を感知する能力に長けてきたせいもある。会社に充満している空気をいたいほど感じる、そこにある悪意を感じるからでもあるのだが 立ち向かうほどの気力は今無い。...つまりそれに拮抗する最大の力であるひらかれた寛大な心持ちにはなれないということなのだ。
ひとの未来やひとの善性を信じられる...それはすなわち自分の信じてきたもの信じているものの裏打ちがあってのことである。....わたしは今自分自身が信じられず よって他者もこの世界の未来も信じられない...という暗闇のなかにいる。...ここから脱しない、光明がみつからないと語ることもできない...。さぁ...先に進むことはできるだろうか。
ひとつわかっていることがある。...ひとの心の闇...マイナスに向かう思念やそのあらわれであることばから善きものは生まれない。光に影が生じることはあれど 暗きから光は生まれない...自分の周辺を明るく照らすことがひとの本来のすがたである。...それを忘れずにいよう。今は身動きできなくても 必ずちいさな明かしをかざせる時はくるだろう。リアルな能力に欠けても 現実的な能力(ちから)を持つ人と手を組むことはできるだろうと思う。そして 必要なとき瞬時に他の次元にアクセスできる能力も決して無駄な能力(ちから)ではない...神は不要なちから(能力)をお与えになるはずがない...と思うのだ。...それが重荷になるとしたら それに見合う霊的なちから(体力)が足りないということなのだろう。
絶望に打ちひしがれそうになりながら わたしは思う。ひとの為したることは良きこともわろきこともことごとく己に帰る。...足らざるわたしは知らずしてまた知ってなお 他者に尊大であったことがあるかもしれず また悪を為したこともあるやも知れぬ。...だが数多の子どもたちの笑顔や輝く瞳...お年寄りの腹を抱えた笑い声...リアルなまたウェブでの多くの友との打ち解けた出会い そして安寧のうちに送った幾多のひとびと...を思いだすとき 無駄な人生ではなかったと...これまで幾たびも乗り越えてきたように 峠を越えることで 一層道が開けると信じて行きたい。
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