遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



   有体に言うと語りをアイディンティティーの拠りどころにしているところがわたしにもあったのです。つまり不在証明.....アリバイです。語ることはわたしの人生、わたしの生命を補完することでもありました。それもわるくはない。

   けれど、声について学んでから、自分の声、ひとの声に耳を澄ませ、気配、仕事の仕方、応対..など視るともなく見、聴くともなく聴いているうちに声というもの、語り、仕事......あらわれるほとんどのことが人格そのものであること....がわかりました。トラブル、ミスはたいてい起こるべくして起こるのです。場合によっては気づかずしてあえて起こしている....人格...パーソナリティといっても今のその方に責任があるものもないものもあるのですが、どちらにしても降って湧いたものではないようです。

   声が変わることと人生が変わることは連関しています。けれどもそれは入り口と出口であって実はもっと深いところ、目に見えないなにかが変わっているようにわたしには思えます。時間ができたら...できないまでも日々の生活のなかで学んでゆきたい、つきとめてゆきたいと思います。

   さて、わたしはわたしの生を「語ること」で補完してきた...と申しました。「語ること」でわたしは...なにがし免れることがあるように思いました。.....わたしにとっても 「語り」はある種のステータスであったのかもしれない。語ることは免罪符になり得ると信じていたわたしは、つい先ごろそれは執行猶予に過ぎないのだと知りました。

   真にむきあうべきはわたしの身体、わたしの心、食べること、生きること、愛すること....わたしの生命 それがかたちを変えて声ともなり、語りともなる、補完するものなどとは思い違いもはなはだしかった.....。

   かといって趣味であったり、芸術であると信じている方が間違っているとはゆめゆめ思いません。述べているのはわたしの感じ方、わたしの生き方なのです。芸能にたずさわる方々は濃い人生を送っている方が多いように思います。それはもともと自分に求めることも多いのでしょうし、芸能とは目に見えないものに直接間接につながってしまうものだからなのでしょう。ある部分を突出して補完してゆくことで徐々に内面も変わってゆける....好きなことだから加速できる。けれども根本から変わろうとして変われるならそれがいちばん自然であるように思います。



....世は波立ち、わたしの生活の場もけっして安泰ではありませんが、こんなに平和でやすらかで自由でいられたことはいままでにありませんでした。ここまで導いてくださった多くの先達の方々、励ましてくれた友人に心から感謝申しあげます。





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......きのうの夕食は猪鍋でした。いただきものの猪肉....娘はネットで調理法を調べ、腕によりをかけてあわせ味噌で仕立てました。....匂いを嗅いでわたしは陶然となりました。樹木のような樟脳のような臭い...とてもなつかしい....幼い頃の遠いふるさとの味のようになつかしい....。猪なべ....はじめてのはず...なのですが、昔食べたことがあるのかもしれません。ベジタリアンなのでもちろんお肉は食べませんでした。腕によりをかけた娘は「気がぬけちゃった」とぼうっとしていました。とてもおいいしいものだと期待していたらしいのです。昔はご馳走だったのでしょうが、今のわかいひとたちの口には合わないようで、歓びいさんで食べていたのはかっての野生児...夫ばかりでした。


   食したものが即からだの細胞に変わってゆく...とまえにおはなししたでしょうか。わたしたちの3次元的肉体は食べ物によって成り立っているわけですから、食べ物≒生命の質....水や空気を含めてからだにとりこむものが生命の質に深く係わるわけです。それと同時に視るものや聴くもの、感じるものの質も生命に深く関ってくるのですが、ここでは直接口から入るものについて考えてみたいと思います。

   食べ物について、「顔の見える生産者から求めるのがよい」と言われます。よく知っているひとでしたら、どんな育て方をしているかわかるし、知っているひとに有害なものは渡せませんよね。わたしの知っている農家の方でも、農協に出すものと自分で食べるものをはっきりわけている方は多いようです。

   うちでは堆肥...伐採抜根材を細分し寝かしたものを農家にただでさしあげているので野菜を食べきれないほどいただきます。お米は農薬....除草剤や殺虫剤を含めて一切使用していないものを玄米で買い貯蔵しています。弁当も冷凍食品も基本的に買いません。なぜか...直接たずさわるひとからの情報を聞くととても買う気にならないのです。

   日本はお隣の国とは次元がちがいますが不思議な国です。食産業にたずさわるひとが自分の生産したものは食べないっておかしくありませんか? それは食物だけではありません。この季節、インフルエンザだ、ワクチンだと新聞テレビも喧しいですが、ワクチンを自分の子には打たない...お医者さんがいます。ワクチンはあまり効かない....のです。それだけではない、副作用が大きい。利かない?? あんなに高価なのに?? そう、高価だから年々接種人工がふえるのです。ワクチンはどこからきているのか、ダレの懐が豊かになるのか....興味のある方はお調べください。薬については恐ろしい話がたくさんたくさんあります。

   ちなみにわたしの家では25年前から一切予防接種、ワクチンの類を子どもに受けないようにしましたが、子どもたちはすこぶる元気に育ちました。娘にうらまれるほど健康です。

   どういう生き方をとるか選択することによって、生命の質とは自分で選択できるのでしょう。クムランで発見された文書でしたかそうでなかったか忘れましたがイエスが「知ることがたいせつだ」とおっしゃったことは真実だと思います。わたしたちが生きてきた人類の歴史や今生きている社会の仕組みについて知ろうとすることは、わたしたちの生き方をかんがえなおすことにつながり、生命の質を高め深めることにつながってゆきます。



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   草月ホールに行きました。満喜子先生、ダミアン原田神父、片岡通人さんのライブ・ワークショップ"声・魂の蘇生"があったのです。銀座線青山1丁目で降りて地上に出るとなつかしいお堀端の風景....草月ホールで真夏の夜の夢を上演したのはいつだったでしょう....月日の経つのは早いものです。

   ひとは年をとっても進化できるようです。.....わたしもまだまだイケルかも。すべりこみどころか開場時間前についたので最前列中央に座りました。ヴォア・セレスト13名のうたではじまりました。響きわたるうつくしい声、ふりそそぐ高周波。ダミアン神父のティンシャとソロのうた....ティンシャの響きとうたごえの倍音がからまり共鳴しあい、どこから聴こえてくるのか...それはうつくしかった。

   OBB Overtone Breath Band のダンスと歌....身体の動きと声がひとつになったとき、声は本来の力を取り戻します。聴くひとのからだやこころと共鳴する響き、あふれる喜び、生命のきらめきがダイレクトに伝わってきます。声はこんなに力に充ちてうつくしい。青森の旅でごいっしょした方々が7名ステージにいらっしゃって懐かしかった。Oさんをはじめ数名がセンターでソロで歌い踊りました。その方だけの声とダンスは命の炎そのものに見えました。うたっている方々より踊りうたう方々のほうがすきとおってみえました。

   しかし今日のもっとも大きな発見はコト・モノコードでした。コト・モノコードは日本の琴をヒントにヨーロッパでつくられた弦楽器で最初は音楽療法につかわれたのだそうです。吃音の改善そして死にゆくひとの耳元で奏でる看取りの音楽ともなるそうです。(聴覚は息をひきとったあとも機能しています)コト・モノコードの響きのあと亡くなる方の顔に歓喜の表情が浮かぶとか...。

   上部の17弦とはべつに胴の下部に31弦のブルドン?があって、これがうなり..を発するのです。わたしは鳥肌がたちました。わるい意味ではありません。CAVのサワリ....フィルターをかけたところでもそうなのですが、ざらざらっとした音に意識がひっぱられトランス状態に近くなる...これはイタコのつかう梓弓にも通じる音なのだと思います。アルペッジオがもういちど聴きたい...です。シターの光きらめく音とは別の次元にさそわれる音でした。コト・モノコードは本邦初演だそうですが今後もダミアン神父から目がはなせなくなりそうです。ティンシャの遣い方を目の前で見せていただいたのも収穫でした。

   場内では幾人かの友人とあうことができました。あたらしい語り手の誕生もまじかでしょう。ロビーではケーキとともに酵素玄米のおむすびの販売もありました。ためしに買っていただいてみましたが我が家の酵素玄米のほうがずっと美味しいと感じました。おなじお釜、おなじ炊き方のはずですがしだいに炊くひとのなにか家庭のなにかがくわわってゆくのでしょう。このごろ人生がおもしろくてなりません。....いつ死んでもいい、三人分くらい生きたし...なんて思っていたのが夢のよう....世界は謎で充ちている、そしてその謎を解く鍵をあけるのは自分の好奇心とチャレンジなんですから、もっともっと冒険しましょう。






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....HIKOさんのコメントでたいせつなことを思い出しました。今年の1月、たぶんずっとそれ以前から魂では気づいていたのでした。
”わたしたちは身体についてあまり知らない”ブログの記事です。コメントにも書きましたが、西洋のメソッドでは対象がどうしても観衆、聴き手になってしまう。対人間のコミュニケーションに語りも朗読も芝居もなってしまう。

  ちょっと待って...たしかにコミュニケーションにいきつくのですが、経路がちがうのです。天地とつながってはじめて聴き手とつながる.....たいせつなところを忘れてはならないのでした。意識をそこに持ってゆけるかどうかでまったく異なる世界になります。

  演劇的なるものは磨くための手段であってそこに捉われると、求めつづけてきたたいせつなものを見失ってしまいます。....しかしCAVは不思議です。聴覚はトランス状態に行くための入り口にもなる....背骨は振動体であり遙か遠い過去の記憶庫でもあります。.....背骨を振動させること、CAVの発声で響のある声になるのは行きがけの駄賃のようなもの...声のまえになにかがかわるのだろうと思います。

  イランさんもトマティス博士も日本は宝庫である...といいました。日本ではすべてが道であり行であります。すなわち芸を磨くことは己の人格を磨く....、不要のものを捨ててゆくための道なのです。エンターティンメントとか芸術は派生物のようにものなのかもしれません。

  これからまずプログラムをたてましょう。実践しながらつぎのステップに進みます。日本を知る旅のはじまりです。





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.......最初からよくこんなむつかしい課題を? ....という笑いを交えた講師の述懐がありました。参加者のなかでもおもしろかった、やりがいがあったという意見と....なぜ”ラブレター”?という疑問と賛否両論でした。最初講師から提示されたのは、”蜘蛛の糸”と”ごんぎつね”の2タイトル。そのふたつは朗読講座で受けたことがあり、わりあい一般的なので、新鮮な感触のものがしたかった。男の登場人物が多いからと難色を示す講師に「男の台詞がむつかしいんです」と押し切ったのはわたしでした。

   けれども蓋をあけてみると、ポルノ雑誌屋...写真屋?の店長である主人公と暴走族あがりのチンピラと刑事、初老の巡査長そして一見銀行員風のヤクザ...最後に主人公と偽装結婚をしてうらぶれた街で働いている白蘭という薄幸の中国人女性というふだん滅多にお目にかかれないひとたちが登場人物なのです。

   四苦八苦するわたしたちに講師がわたしてくれたことばは『自分の声で、ふつうに....その人物が今いる場所と状況をかんがえて声を出しなさい.....声をつくるな、それっぽく演じるな』....でした。ひとりひとり、そのひとの段階に応じて懇切丁寧な指導だったと思います。『たとえラブレターでなくてほかのものがたりでも、ぼくが伝えることばは同じだと思いますよ』このことばは..「音声は人格である」ことともかさなります。

   さて、わたしにいただいたダメ出しは『そのままでもいいんだけどねぇ。つまらない。あなたのはこういうリズムなんですよ。』と手でみせてくれました。「レンジが狭いということですか?」『そう、声の大きさも(表現)の変化もたりない。プロはそこが違う。ぼくはこれくらい出しますよ』とわたしのときの三倍くらい手をひろげて『おもしろければいいんですよ。』『ひとが聞いていると思っているでしょう?』.......ちょっとはそういう気持ちあったのです....実は。....みんな知っている方たちですから、恥ずかしいという気持ちが...。しかしその時は「クサクなるのがいやなんです。」といいました。『基礎がしっかりしていればだいじょうぶです。突き抜けてください。』

   講師はわたしが自分にかけているストッパーをはずせ....そうしないといつまでもアマチュアのレベルだよ。と教えてくださったのだと思いました。わたしがずっとこだわってきたものがあります。それをはずす時なのかな......それとも矜持を持ちつづけて.....矜持とはなんだろう......ひとつはいちばんたいせつなものを金銭には換えたくないというこだわりでした。コンサートではチケット代をいただきますから矛盾するようですが、共演者の演奏やあるいはワイン・料理でそれ以上のものをおわたしするように努めてきましたし、語りをさせていただくことでときたま謝礼をくださるといわれても実費以上いただいたことはありません。それは自分がこれと思ったものがたりを語りたい...自由でいたい....という気持ちのあらわれでもありました。自分の語りをこわしたくない....気持ちもありました。

   でも、それは逃げかもしれない。それに見合うものを出せないかもしれないという自信のなさのあらわれかもしれない。プロ意識とは思いだけで成立するものではないのかもしれない。いごこちのいい曖昧さのなかに身をおくことから、一歩踏みだすときなのかもしれない。.....自分の語りを追及することと矛盾はないのかもしれない。一歩踏み出してうしなうものもあるだろう、だが壊れてしまうのなら、それだけのものに過ぎないんだ.....


   12月の長い夜 心は千々に乱れます。


付記   こののち 講師の主宰する朗読劇のラブレターを観ましたが、わたしは肯んじませんでした。それはひとつのやり方です。しかしわたしが思うものとはまったく次元の違うものでした。されどワークショップを経て、一歩踏み出したのは確かです、いいかわるいかわかりませんが、台詞は変わりました。感謝します。





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   今日のワークショップはとてもとても 本質的なものでした。 午前中はカーブメソッドの理論と川にまつわる詩を二編、

まどみちおさんの
....雲になる日のゆうゆうを....雲だった日のゆうゆうを...
アポリネール?の
. ...日も暮れよ 鐘もなれ 月日は流れ わたしは残る

繰り返しのある そして深い含蓄のある詩です。


   午後は堀井先生のワークショップ、CAVの実践を1時間以上行いました。それから浅田次郎さんの”ラブレター”
『先生 ナギナタでバッタバッタと容赦なく切ってくださいね』ことばとおり、一同ひととおり読み終わったところで、「朗読にも語りにもなっていません」の厳しいおことばに一同シュン。それから個別の注意があってくせやつくりのあるメンバーはかなり徹底的になおされました。ながいことやっている方ほどたいへんだったかもしれません。経験が浅い方々は観て聴いているまえでどんどん自信をつけてゆくのがわかりました。

   ワークショップに出たからといってその場で変われるということは少ないと思うのです。自分の語りのどこがよいか、どこを努力すればよいか、リセットし気づくための場です。気づいた方は意識すると同時にすこしずつ変わってゆくでしょう。具体的な努力をすればもっと変わってゆくでしょう。

   あと一度堀井先生のワークショップがあります。すばらしいワークショップでもったいないのであと2名募集します。参加希望の方は携帯にTELください。

090-8345-8444です。

   今回のシリーズは....少人数制のうえに、それぞれの講師がぬきんでた方々なのでたいへん興味深いものでした。ワークショップ前日、発声について下調べをしているうちにはっとしました。ヤマモト先生のワークショップのメモ....カーブでならったことと一部すっかり同じだったのです。(ヤマモト先生もCAVを受けられたか理論を読まれたのかしたのでしょう。)けれどもその内容はすっかり忘れていたし、心にあまり残らなかった...なぜか....
   理論だけでもだめなんだ....実習して身体が理解すること....それから自分の場で実践し復習する。現実と理論がむすびついてはじめてわかるんだ....

   運営はじつにたいへんで わたしはある意味おおきなものを失くしましたがそれに足るものだったと思います。ワークショップのために学んだことも含め....時間と金銭に換えがたいそれ以上のものがありました....不要なものを捨て より本質的なものにちかづけた....それぞれの個性はあれど、ともに語ってゆくなかまたちを得たこれはおおきなギフトでした。



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