遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



  昨夜、奇妙なことがありました。寝入りかけていたときに、子どもの声が聞こえた...「おかあさん....でよかったね」....うたうような声...それはわたしの子どもの幼い頃の声....とわかっているのですが...4人のうちのだれか思い出せないのです。....それから今度は笑い声が聴こえました。....とてもなつかしくもう一度聞きたかったのですが、眠り込んでしまいました。

  朝、LTTAの11月の模擬授業打ち合わせのため、電車に乗りました。すると、二組の会話...女性同士..と男性同士.....が耳にくっきり飛び込んできて軽い嘔吐感がありました。内容がどうのというのではなく、その声だけが周囲から浮き上がってくる感じ....つぎに右の耳の奥でキーンという金属音がしました。そのとき、わたしはきのう、常世の水 を観ているとき、右耳の5センチほどのところから笙の音が響いていたことを思い出したのです。トマティスでは右耳を利き耳にする訓練をおこなっています。

  セシオン荻窪でうちあわせのあと、ふたたびトマティスジャパンに向かいました。聴覚トレーニング二日目です。音楽が響きだすと、嘔吐感があって、それから頭の中が熱く感じられ、中心に向かう力と拡散する強い力を感じました。それは変性意識に入るときのめまいに似た感覚....と似ていました。オーロラのようにさまざまな色彩があらわれました。深いブルー、青の中の青、緑、白、、むらさき、あざやかないろあいは変化して一瞬たりともじっと止まってはくれません。

  白く耀く都が見えました。だれかの顔が見えました、とても、とてもながい時間が経ったように思われました。たくさんの昼と夜....緊張と弛緩.....感情の波が押し寄せてきて、わたしは涙を流していました。.....これはいったいなんだろう。トマティスは科学的なものです。ですが意識の底にしまいこまれていたものがひらきはじめようとしており、わたしはそれに身をゆだねようとしています。





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  ついに決心して市ヶ谷のトマティスセンターに行きました。今日は聴覚トレーニングの初日です。以前にも書きましたが、トマティスはフランスの科学者、”聴き取れない音は発声できない”ことを発見したひとです。"声"を求めてトマティス博士のトレーニングには実際多くのアーティストが押し寄せたそうです。

  わたしがトマティスを受けようと思ったのは”ほんとうの自分の声”を取り戻したいからです。そしてトマティスジャパンのみなさまの声と佇まいの美しさに感銘を受けたからでもあります。ヴォイストレーナーをわたしはその方の声で選びます。力のある、奥深い、艶のある、のびのある....さまざまな方がおいでですが、低くても心に響く声、心地よく、あたたかく、なお清い声に今は惹かれます。

  さて、トレーニングはモーツァルトとグレゴリア聖歌を2時間聴くだけなのですが、ただのグレゴリア聖歌ではありません。その間眠るのも絵を描くのも自由ですが本を読むことはできません。わたしはうとうとしていましたが、途中で頭頂部が..それになぜか腕が痛くなりました。さすっているうちに痛みはおさまりましたが、終わったあと視界があかるくくっきり見えるように感じました。まだ、変化は起きるでしょうとのことです。

  そのあと、新高円寺まで”常世の水”を観にゆきました。住宅街のなかのふつうのお家になんと能楽堂があるのです。鏡板には決まりごとの立派な松が描かれています。これは戸外で能が演じられたとき、依り代として高い木に神が降りられた...その名残で、鏡板は反響版の役目も果たしています。橋掛かりは住宅の中ということもあり舞台に直角についており白州はありません。しかし立派な舞台です。正面の椅子に座らせていただきました。しばらくして白い衣裳を纏った方が風のようにふわりと横切って右のすみに座りました。

  客席は固唾を呑んで開演を待っています。やがて橋掛かりのほうから遠い無限から響くような声がしました。....むかし、永遠の若さをあたえられたひとりの女がおりました.....うつくしい声でした。.....やがて白いかつぎをかむった女がしずしずとあらわれます。舞い手は秦さん...正面、高くうつくしいウタの声は満喜子先生、風のように地の響きのように啼く笙は田島さん....三人の女性の共鳴のパフォーマンスです。しずかな悲しみに充ちた前奏から、舞台は一変、ウタの声は地を這い紅い絹が蛇のように炎のようにうねり靡きます、笙の音が耳元に囁きます。.....そして受容と変容。

  うつくしい舞台でした。...それだけでも満足すべきところですが、わたしはもうすこし田島さんの語りが聞きたかった...舞いながら語る....そういう語りもあるのだなぁと新鮮な驚きでした。....求めるなら空白、無がほしかった。間とことばで、わたしたち観客のうちに起こされたざわめきを鎮めてほしかった....おおまかなあらすじだけでほとんど即興、まったくのパフォーマンスなのだそうです。即興は完璧なパフォーマンスになるときもあるし、そうでないときもある。もちろん台本に即して上演されたものもそうだし、そしてどのようにたちあがったにしてもその日、その時唯一の意味のある結果にちがいなく、その意味で惜しむこともないのですが。

  終演後、秦さん、満喜子先生、田島さんとご挨拶したりお話したりのあと、在り得ないことが起こりました。開演前あらわれた白い女性、わたしはその方に話かけた....まるでそんなつもりはなかったのに。...「あなたは天女です。いつかとおいむかし、どこかでお会いしたことがありますね」.....そして思わずハグしました。「あなたにあえてうれしい、なみだがあふれそうです...」ほんとうになつかしさで胸が熱かった.....その方はいいました。「また、会えますよ」...「そうですね また お会いしましょう」....

  玄関を出て歩きながら 自分のしでかしたことにあっけにとられて 不思議でなりませんでした。あぁ やっちゃった なんて思われただろう。。新高円寺の駅で舞台を見た方たちと出会い名刺の交換などして、それまで未知の方たちでしたのに旧知のように語り合って、かの白い女性が漫画家の岡野玲子さんと知り驚きはいや増しました。....たしか50近い方のはずですが、どうみても20代でした。今日のステージの常世の水は白比丘尼....がテーマでしたが岡野玲子さんこそ不老不死の白比丘尼のようでした。秦さんはシュタイナーの学校の校長をなさりながら、現代の神楽舞を創造していらっしゃるとか.....シュタイナーに関わりの方とつながることがなぜか多いようです。さまざまなつながりがつながりを生んでこれからなにが起こるかたのしみです。

  

   

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........縄文時代の終わり頃、日本に渡来してきた出雲族、日向族(天孫族、以降日向族といいます)のほかに、おそらくそれよりもっと早く渡来してきた一族がいました。海人氏族、安曇氏といいます。信州には安曇野という地名があるが,ここは海人族安曇氏が移住して開拓した土地だといわれています。

   当時出雲の国は琵琶湖より西の土地をさしました。そしてスサノオが始祖でありました。出雲族と日向族はともに渡来した(天下った...ニニギ、ニギハヤヒ)一族ですから、今後は天孫族ということばはひかえます。双方で婚姻関係もあったようですが、やがて日向族はさきに一帯を治めていた出雲族に戦いをしかけ、屈服させます。後年、出雲族の伝承の担い手である物部氏を追ったあと、日本統一を内外にあきらかにし日向族の出雲族への優位性をあきらかにし、うらみも晴らしたのか、出雲族の功績を日向族に書き換え歴史を改ざんして、日本書紀、古事記が書かれるのです。しかし、記紀では消せても神社の歴史や地名を消すことはできず、その欠片がまだ残っているのです。

   須佐の男...スサノオ→オオクニヌシ→ニギハヤヒについては物部文書とともにあとで書くことにして、今日は安曇野について書いてみようと思います。


   わた(海)つ(の)み(神)....わだつみは海の古称ですが、"あずみの"もわたつみが訛ったものといわれます。記紀などでの漢字はあとからあてはめたものといわれています。さて、古事記では、綿津見神はイザナギイザナミの子どもで海をつかさどるとされ、トヨタマビメとタマヨリヒメのふたりの姫がいます。トヨタマヒメは海幸彦(ホデリノミコト)山幸彦(ホオリノミコト)の山幸彦と結婚し、そのあとワダツミは姿をあらわさず、スサノオが海神として登場するのです。息子は、穂高見命(ホタカミノミコト)、安曇族の祖神であり穂高神社に祀られています。この穂高神社には舟がかざってあった記憶があります。

  さて、安曇野には八面大王の伝説があります。


......神武天皇の頃、有明山の山麓に「ここは我が住む地なり」俺の城、宮城と名付けて鬼が住んでいた。その鬼は八面大王と言って里に下っては穀物を盗み、娘達をさらい、わるさがひどく、村人はたいへん困っていた。この話を蝦夷征伐に行く坂上田村麻呂が聞きつけて鬼を退治しに来た。ところが八面大王は、雲を呼び、風を起こし、雨を降らし、弓を射っても魔力があるんで一本も八面大王を射ることもできなかった。

   困った坂上田村麻呂が、観音様に手を合せて祈ったところ、観音様が夢枕に現れて、「三十三節ある山鳥の尾で弓矢を作り満願の夜に射たおしなさい」とお告げがあった。坂上田村麿は信濃一国布令を出したが、三十三節ある山鳥の尾はなかなか見つからなかった。

……さて三年前の事、弥助という若者が穂高の暮れ市へ年越の買物に出かけた。雪の峠を越えて松林にさしかかった時に大きな山鳥が罠にかかって鳴いていたので心のやさしい弥助は山烏を助けて、罠には買物するはずだった五百文をかわりに置いて来た。....大晦日の晩のこと、年の頃、17・8才の娘が、道に迷ったといって弥助の家の戸をトントンとたたいた。娘は美しいばかりでなく、良く働く娘で、弥助はすっかり気にいって嫁にして、幸せに暮らした。

  .....弥助の嫁が来て三年たった。坂上田村麻呂の山鳥のおふれが出てからというもの、弥助の嫁はもの思わしげなようすであったが、ある日弥助が山から帰ると姿が見えない。書き置きに「三年間楽しい日々でした。この山烏の尾を八面大王の鬼退冶に使って下さい。やっとこれで恩返しができます。」と記してあった。

   弥助は悲しみにくれながらも丹念に矢を作リ、矢を田村麻呂に差し出した。そして田村麻呂は満願の夜、八面大王が月を背に受けて立っている時に弥助の矢を用いると、今まであった魔力が薄れ、大王の胸に弓矢がささり、大王の血が安曇野の空を染め、雨となって降りそそいだ。

   八面大王を伐った坂上田村麻呂は八面大王が魔力で生き帰ることをおそれて体を切リきざんで埋めた。大王の耳を埋めた所が有明の耳塚。足を埋めた所が立足。首を埋めたのが国宝の筑八幡宮、現在の松本筑摩神社。胴体を埋めたのが御法田のわさび畑、別名大王農場とりいわれている。しかし、嫁を夫った弥助は毎日、雪空をながめ、嫁が帰ってくるのを毎日毎日待ってたという・・・

   この伝説にはまったく正反対のものがたりがあります。ヤマト朝廷の圧制と年貢に困り果てた農民を救おうと豪族八面大王が戦いを挑むのですが、坂上田村麻呂に敗れる...という話です。ここでも勝者の側と敗者の側ではものがたりがちがっています。そして敗者は”鬼”とされるのです。

   ヤマト朝廷の東征にはふたつ相手がいた....という説があります。ひとつはもともと日本にいたまつろわぬひとたち 蝦夷などを平定し土地や鉄や金を手にいれるため、もうひとつは出雲族、などの日向族以外の渡来人を滅ぼすためという説です。.....とすると八面大王はどちらでしょう?......

   氷川女体神社(氷川神社はスサノオ、女体神社は妻クシナダヒメを祀る)はなぜかわからないが 子どものころから特別の場所だった...と先日書きましたが安曇野もわたしにとって特別な場所でした。以前安曇野について書いたものがありますのでよかったらごらんください。

安曇野紀行

   この小文を書いて早7年になります。安曇野はそれから訪ねることはありませんでした。....バスで通り過ぎる時は幾度かあって、いつもぐっすり眠っているのですが、安曇野に差し掛かるとなぜかぱっちり目が覚めるのです。安曇野の空は特別のいろをしています。澄んで...耀いているとわたしは感じるのです。7年前、かの地で約したことを来年には果たせるのではないか....という予感がして わたしはふつふつと湧き上がる喜びを押さえかねています。


※古昔(こせき)、出雲の国と称せられたる地点は、近江の国の
琵琶湖以西の総称であって、スサノオノ大神様のうしはぎ給うた土地である
湖の以東は、大神様の御領分であった。 (三鏡)
※天照新編武蔵風土記より「社記を閲するに、当社は孝昭帝の御子、勅願として出雲の氷の川上に鎮座せる杵築大社をうつし祀りし故、氷川神社の神号を賜はれり。

※古語の「ヒ」は「霊・日・火・一」。「ひかわ」は「おそるべきエネルギーに満ち溢れた川」、「生命の源泉としての川」

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    縄文の神について、昔話にはつきものの鬼について、考えてみたいと思います。縄文時代は16500年前からはじまり2500年から3000年前に幕を閉じました。はるか昔、日本は大陸とつながっていましたから、そのころ日本に住んでいたひとびとはシベリアや大陸から陸つたいにやってきたひとたちだったのでしょう。

    世界で最古の土器は縄文の土器といいます。狩猟採集文化ではありましたが、遺跡からどんぐりなどを植林したあとが発見されたそうです。ひとびとは定住し豊かな暮らしをしていた....それゆえ同じ場所に2000年も住みつづけていたのでしょう。この間も大陸との交流は少ないながらあったようです。

    縄文のひとびとは自然界の山、川、海、樹などに神が宿っていると信じ、信仰の対象としてきました。そして自然界のあらゆるものに精霊がやどると信じていました。ひとびとは精霊と交わり大樹の声を聞き、草や花や鳥や虫たちの声...響きを聴きました。それは森の文化でした。太陽崇拝がそのその根にあったのではと思います。全国各地に残っているストーンサークルやメンヒル、ドルメンといった巨石あるいは巨木の立柱は夏至や冬至を示すものが多く祭祀のあとと考えられます。そこにケルトの遺跡や考え方との共通点を見出したひとは多いようです。

    日本で特徴的なのは条件のあう自然の山あるいは人工の山を神降りる場所、そのままご神体としていたことです。日本のピラミッドともいわれます。中腹には磐境(イワサカ)山頂付近には磐座(イワクラ)という巨岩があって、イワサカは神域をあらわしイワクラに神が降りるのです。日本でもっとも古い神社大神(オオミワ)神社は拝殿はありますが本殿はありません。。鳥居の向こうの三輪山がご神体です。


 大神(オオミワ)神社 向こうに見えるのは三輪山、三輪山は先住民族にとって神宿る聖なる山でした。ヤマトとアヤカスの戦いはこの周辺で起きました。

 大湯のストーンサークル

  さて、大陸から渡ってきた渡来人はおもに九州に上陸しました。中国、朝鮮から集団で渡ってきたのです。一説には呉王朝の裔が天候の激変から新天地を求めてきたといわれます。また滅亡した秦の末裔として秦氏(西アジアの民族の流れでユダヤ教、景教...中国に伝わったキリスト教の信者であったと思われる)が、多数の集団で、日本に移住したようです。渡来者がもたらしたのは、稲作ばかりではありませんでした。土木・建築技術、神社の建築様式を持ってきたのです。 弥生時代のはじまりです。弥生時代には渡来した部族同志の激しい戦闘が起こりました。

   渡来人が縄文人と混交し農耕技術などを教え食糧が増産されたのでしょう。飛躍的に人口が増えました。渡来人のなかでのちにヤマト朝廷をひらいた一族を天孫族といいます。そのひとりニニギ(天孫降臨の)の兄ニギハヤヒ(物部の始祖)が義兄に当たるトミビコ(ナガスネヒコ...蝦夷の豪族と思われる)を裏切り、イワレヒコ(神武天皇)は宿敵トミビコを倒し、天孫族はしだいに覇権を確立してゆきます。ヤマトの敵は同族の豪族たちと先住民である縄文人でした。朝廷の手になる記紀には、”野蛮な”原住民である熊襲、隼人、土ぐも、蝦夷の懐柔と制圧の歴史、統一への道が書かれています。

   熊、蝦、蜘蛛それらの名前は征服者の側からの蔑称でした。先住の民たちがゆたかな精神文化を持っていたことはたしかです。けれども勇猛ではあったが素朴でだまされやすいひとたちであったのかもしれません。記紀、その後歴史のなかでも、宴会で飲ませだまし打ちにする、なかまどうしで戦わせる例がいくつもでてきます。「夷によって夷を制す」それが、ヤマトのやり方でした。神武東征のウカシ・エウカシの話、蝦夷の残党である阿部一族の最後もまた....。ヤマトがほしかったのは土地と資源(金属)でした。天皇の三種の神器は鉄でできていますね。名草姫が神武天皇に殺されたのも水銀と赤土(鉄)のためだったようです。先日、ネイティブアメリカンの歴史を読んだのですが、白人からだまされ土地を奪われ追い詰められてゆくネイティブアメリカンの姿と重なって胸苦しくなります。

   
   まず、熊襲や土ぐもが降伏し、つぎに隼人が首を垂れました。血の海となるような徹底的な殺戮のあと、残されたものは勇猛なことから、奴隷として献上されたり、朝廷の衛士となったり、二級の民として渡来人と混血していったり、あるいはサンカ...山の民となったりしたようです。蝦夷は戦いながらしだいに北に追い詰められいきました。そして英雄アテルイの最後の戦い....のちに蝦夷の血をひく奥州藤原氏の戦いまで朝廷そして幕府のだまし討ちはつづくのです。一方蝦夷のほうでも分断されずに、仲間同士結束して戦っていれば、もっといい戦いができたことでしょう。

   三世紀になって、神道は大きく変わります。縄文人が信仰していた神とヤマト朝廷がつくった神社神道、そののちの国家神道はおなじ神道といえど相当に違うものです。神社を建立したのはおもに、渡来人の子孫であり神となった天孫族、古代の天皇でした。神社の建築技術は前述の秦氏が伝えました。祭祀は新嘗祭のように稲作を中心にしておこなわれるようになりました。禊ミソギと祓ハラヒの概念が入りました。

  祭祀をつかどっていた物部氏が追われたあと、中臣鎌足が修正をほどこした”大祓詞”には・・・・・荒振る神等をば 神問はしに問はし賜ひ 神掃ひに掃ひ賜ひて 語問ひし磐根 樹根立草の片葉をも語止めて・・・・「荒ぶる神を追い詰め 祓ったところ(昔はしゃべった)岩も樹も草もしゃべらなくなってしまった」....とあります。縄文の神、精霊たちは封印されてしまったのでしょうか....キリスト教に追われ、しだいにちいさな卑小なものに代わっていったケルトの精霊たちのように。


    ヤマト朝廷は平定した豪族やはじめから住んでいたひとびとを手なづけるために古代の神の名を変え神社に祀り、非業の死に追いやったひとが祟らないように国津神として祀りました。.....出雲大社ではオオクニヌシはなぜか横を向いている...すなわちわたしたちは拝殿で拝むことはできないのです。諏訪神社に伝わる御柱祭は諏訪に逃げたオオクニヌシの息子タケミナカタを封じ込めるためのものだという説があります。起源はユダヤに遡るようです。菅原道真もそうでしたね。神もまた”鬼”であったのです。古代の神々については資料が消え次第にその出自がわからなくなっていきました。

    けれども縄文人は負けてばかりではなかった....渡来人と混交しながら歴史のなかで輝く末裔がいます。西行や役の行者もそうです...武士の起こりは貴族から「夷(えびす)」といわれていたといいます。梅原猛は「武士は、もともと狩猟採集を業としていた縄文の遺民とみてまちがいないであろう。」といっています。.....たとえば織田氏や伊達氏はトミビコ(ナガスネヒコ)の血を引いているといわれます。武士たちは次第に市民権を得ていきました。武士道の死生観にはケルトにつながるものがあると思います。


    一方体制に組み込まれず、山の民として残ったひとびとがいます。それはサンカと呼ばれるひとたちです。サンカは自分たちの文字を持っていて、それは神代文字に似ていたそうです。人里から離れ棲んでいたサンカは明治時代の弾圧で人里に降りやがてちりぢりになってゆきました。蝦夷の裔アイヌのひとびとは北海道開拓のもと、公民としてとりこまれてゆきます。そして神道は国家神道として、海の外へ土地や資源を求める侵略戦争の後ろ盾となりました。


    さて、弥生顔はのっぺりして眉薄く弧を描き、一重まぶた、薄い唇...といわれています。平安時代の特権階級、貴族の顔立ちです。縄文顔とは髪豊か、眉濃く、二重まぶた...小鼻が張り、厚い唇、彫の深い顔立ち、性格は勇猛で、おひとよし...そして宝物を持っている!!。....それは昔話に出てくる鬼そのものです。鬼は退治され宝物は奪われます。ものがたりの鬼こそ敗残の神々、まつろわぬひとびとの零落したすがたなのです。しかしながら、勝った神はどうであろう、縄文の素朴なアニムズムから渡来人の手によって整えられ、仏教の影響を受け、陰陽五行をとりこんできたこの国固有の神道は万人を天につなぐ宗教として磨かれたでしょうか。選民意識は不要なものです。わたしは他のひとびとを苦しめたり抑圧したり戦争を起こしたりするものたちこそ、オニの中のオニ悪鬼だと考えます。

    だいだらぼっち、手長、足長には蝦夷や縄文の匂いがします。宮崎駿監督がアニメ...モノノケ姫やセンとちひろで描いたのは森の文明...縄文とあたらしい文明の相克でありました。そして縄文の八百万の神々の復権でした。世界的に高い評価を得たのは単なるエキゾシティズムやうつくしさからだけでしょうか。ものがたりや登場する神々、もののけが共感を呼んだのではないでしょうか。語り手としてどうでしょう。鬼...精霊といったような存在に心惹かれませんか?....わたしは....惹かれます。まつろわぬひとびと....闘って去っていったひとびとに...踏み躙られたものたちに。太陽と月....真の闇に....生命が響きあう縄文の森に.....。


   こうして縄文を考えてきて、わたしは感慨にとらわれます。わたしのなかに縄文の血とそれから渡来人・海人族と騎馬民族の血が受け継がれていることに...。そして、本来ひとがひとらしく生きる、天地とつながって生きる、しあわせに生きるための宗教がひとの道具に堕したとき起こることに思いを馳せます。....人間は果たして進化しているでしょうか...現実の象をみるかぎり強いものが弱いものを支配する、資源をもとめて奪いとるという構造は変わりません。けれども、すべてに神がやどるという世界観はわたしたちの血のなかにいまも息づいています。あなたのなかに神はいる、わたしのなかに神はいる...森や樹や花や草、動物たちの声に森羅万象の響きに大いなる声を聴きたいと思います。未来を信じたいと思います。



  



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   おとつい 聴いた「ちいちいねずみ」と「なまくらトック」を娘に語って聞かせました。.....テキストは読んでいないので--口承--ではあるけれど”おはなしのろうそく”のなかのものがたりを語っている...それはとてもくすぐったい感じでした。でもとてもたのしかったです。「ふしぎなたいこ」と「さるのこしかけ」も語ってみました。....聴くのは別として、昔話を自分が語るとしたら、文学性の高いもの、あるいはなるべく原典にちかいものから再話するのが主義....だったのですが...それがいつのまにか頑なさとなってやはらかにうけとめる揺らぎを失っていたようです。


.....今思えば、経験が浅い負い目と語りについての熱い気持ちのはざまで自分の立ち位置を確かにしたいという気負いであったのかもしれません。けれども、組織を離れ、裃を脱いでしまえば、風に吹かれてスのわたしがいるだけです。......一面の花野に皓々と照る月のひかりをあびて、自由に歩いてゆけばよいのでした。こだわりは捨て去って、心となにか遠くのはるかなものが韻きあう方向に耳を澄ましていけばよいのでした。



   さて、古代日本には、紀元前1、2世紀頃から紀元4、5世紀頃、先住民族の古代国家があちこちに存在していたといわれます。津軽半島にあった東日流王国、蝦夷の日高見国、大分県の国東半島にあったとされる国東王国などです。

   これらの王国はなぜか記紀にはまったく記載されていません。当初から書かれていなかったのでしょうか。それともその後江戸時代にいたるあいだ、何度か書き直されるあいだに意図的に消されてしまったのでしょうか。わたしたちにとって出雲風土記が残されたことと、先日書かせていただいたように平成12年に出雲大社において巨大な神殿の心柱のあとが発掘され、48メートル(一説には76メートル)もの威容の建物があったと確認されたことはしあわせなことでした。今後も大きな発見があるといいですね。

   古事記日本書紀が編まれたのは、内外に大和朝廷の正当性を知らしめるためでした。そのためにそれぞれの豪族に伝わる歴史をまとめた...というようなことが書かれています。記紀について考えるとき、スサノヲという神の二面性について考えずにはおられません。出雲風土記でのおおらかなスサノヲと古事記の子どものように奔放で荒ぶるスサノヲはまるで別人です。

   記紀におけるスサノヲノミコト(須佐之男命・素盞嗚命・素戔嗚尊)の存在は天孫族(アマテラス一族)の出雲族への優位性を際立たせるために必要だったという説があります。出雲風土記には有名なヤマタノオロチの逸話はなく、スサノヲは天孫族の神話と出雲神話をむすびつける重大な役割をしています。天孫族...天津神、出雲族....国津神の序列をはっきりさせ、天から下ったおれたちは特別なんだぜといいたかったわけですね。逆にいえば出雲王国が見過ごしにできないほど強大だったということになりますね。

   さて、記紀では高天原を追われたスサノヲは出雲の始祖となり、世代に5世代の差があることはさておいて、ここにオオクニヌシの登場です。オオクニヌシは兄たちからいじめられたりスサノヲの与える試練をくぐりぬけたりしてスサノヲの娘、スセリヒメと結婚します。それからスクナビコの力を借りて出雲を豊かな強大な国にしてゆくのです。山陰から北陸にいたる日本海沿岸、九州から近畿地方、東北をのぞく東日本までその勢力は及んでいたようです。

   アマテラスはオオクニヌシに使いを出して、この国はわたしの子孫が治める国である。...と言って、記紀のうえでは、円満な話し合いの結果国譲りがされたようになっていますが、実際は大きな戦いがあったのではないでしょうか。天孫族は力で出雲王国を制圧し、出雲王国が滅ぼされたあと大和のトミビコ(ナガスネヒコ)らが果敢に戦うのですが次第に滅ぼされ、天孫族は律令国家の基礎をつくり大王-オオキミは天皇と呼ばれるようになります。ここに朝廷が成立します。

   調べてゆくと、わたしの弟たちの名づけをしていただいた武蔵一ノ宮氷川神社に祀られている主神はスサノヲノミコトだとわかりました。そして三室にある氷川女体神社に祀られていたのはスサノヲの妻であるクシナダヒメだったのです。氷川神社の神池は見沼の名残で、もともと氷川神社は見沼の水神を祀ったことから始まったと考えられていると知ってわたしはびっくりしました。

   なぜなら、見沼(神沼)と氷川女体神社は10歳頃から17.8までわたしの聖地だったのです。自転車に乗っては、当時は辺鄙で森や田んぼのなかにあった女体神社に行ったものです。氷川神社のまえに水路で区切られた円形の島があって、わたしはその場所がことに好きでした。5キロは優に距離があって、運がよければたどり着くし、迷子になって戻ってくる日もありました。一度父に連れられていったとき、父はどんなに由緒のある御社か教えてくれましたが、かすかに父の懐かしい声が耳奥に木霊するばかりで内容を覚えていないのが残念です。....サイトの写真を見ましたら、円形の島というのが祭祀嶽舟祭の遺跡のあとだったようです。当時は細いあぜ道で右手にいまにも倒れそうなしもた屋が建っていました。春はすみれやたんぽぽが咲き乱れておりました。

   話がとびましたが、出雲のことや物部文書...(のちに書きます)を読む限りホツマツタエは偽書か正書か微妙な気がします。ホツマツタエはあまりに道徳的すぎ調いすぎている感じがするのです。古代の息吹、勢いのようなものが薄いような気もします。そしてオオクニヌシが再び東北の地で宮殿をつくったとは考えにくい....大和に滅ぼされてしまったようにわたしには思えます。.....それともオオクニヌシの一族が流れたどり着いたということでしょうか、日高見の国についてはホツマツタエに書いてあります....まだ過程ですのでまた考えが変わるかもしれません.....。

   いずれにしても スサノヲノミコト、オオモノヌシノミコト、オオクニヌシノミコト、は謎の神々です。スサノヲ、オオクニヌシは日本に元からいたひとびとの頭領だったのでしょうか、それとも天孫族よりはやく日本に渡来した一族なのでしょうか。オオモノヌシはアマテラスオオミカミ以前のもっと古い太陽信仰にかかわる神のようです。いつかあたらしいものがたりを語りたいものだと思います。日本の先住民族のものがたりを語りたいと思います。

  ...語りをとおして、日本と日本人のおおもとを考えてゆきたい。このうつくしい”くに”の山や川や木や花々、砂そして波、曙、宵闇、狭霧、時雨....自然をとおして、永い永いあいだひとびとが培ってきた大いなるものへの尊崇を知って、うつくしい怖ろしいものがたりを語りたいものだと思います。地下の水脈は深い地の底を網の目のようにむすんでいる。...ですから日本を深く知ることは世界のものがたりもより深く知ることにつながると信じて....。




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   秋津というゆかしい名の駅前には古着屋があった。お惣菜屋の店先には焼いた秋刀魚が大根おろしを添えられてラップにくるまれている。住みよさ気な町だった。タクシー乗り場がないので、仕方なく歩き始めた。すぐに商店街は途切れて夕暮れの住宅地を三輪車の幼子より覚束ないあしどりで歩く。

   道に面した庭のたわわの柿の実が色づきはじめている。生温かい空気を両手でおしあけるように歩く。所沢線に出て左に折れると橋があった。河の水は思いのほか澄んでいた。幾たりかに道を聞いたがみな親切におしえてくれた。午後の新宿で冷たいそぶりに爪を立てられたようにそそけだったあとだからなおさら身に沁みた。

   信愛病院のチャペルの十字架が見えたとき、わたしはこれから見舞うK先生の名を突然思いだした。正直にすぎるわたしの身体は頭はわだかまりがあるということを聞かない。心がいやがることはしようとしない。ようやく先生に会う覚悟がついたのだ。卒中で倒れ一時は半身不随だった先生がどんな風に変わられてしまったのか、お会いするのが怖かった。明日は遠くに転院なさると聞いてお別れが言いたくてきたのだけれど。

   K先生と出会ったのはちょうど二年前のこと、ヴォイスのワークショップでのことだった。その時も膝が痛い上にさんざん迷い、機嫌がわるかったわたしを先生はふわりと受け止めてくださった。驚異のワークショップが終わり、みな不思議な連帯感に包まれてハグしあった。雷が轟くなかタクシーにのりあわせて国分寺に向かったときにはずっと去らなかった膝の痛みも消えていた。

   それから三度 個人セッションを受けた。K先生のセッションは声と身体と魂のチューニングに等しく、いつもわたしを曲がり角から押し出してくれた。ビウエラやリュートの音が光であることを教えてくれたのは水戸先生だが、K先生は声が光であることも教えてくれた。天板が帆のようなクラヴィコードから花々や光がこぼれ落ちる、信じられない眺めをまのあたりにして、わたしは呆然とした。空間が突如変容し声がクリスタルの空間に響いた日のこと、弾いて歌ってふたりで虚脱状態になった日のことは忘れられない。

   4Fのナースステーションで示された車椅子の傍らに行ったとき、覚悟はしていたけれどわたしは息を呑んだ。白いおだやかな顔、いぶかしげにわたしを見る子どものように澄んだ目...ことばを交わすうちに思い出してくださって「元気そうだね」と幾度もおっしゃった。

   わたしはながらくしていないことをした。思わず手をかざし気を入れる。やがて白い顔にほんのり血のいろがさしてくる。夕食のちらし寿司をめしあがるあいだわたしは祈るように手をかざしていた。....障害者になって、はじめてわかったことがある...とK先生は口をひらいた。なるべくしてなったんだよ....使命があるから死ななかったんだ。....3/20 倒れてからしばらくのあいだ、生死の境をさまよっていたのだそうだ。わたしもちょうどその頃日の光から遠いところで苦しんでいた。

   K先生を慕うひとは大勢いる。先生の天性のやさしさ無邪気さもだけれど、先生はワークショップやセッションをとおしてひとりひとりを光の糸でもって宇宙と大地につないでくれた。その感覚をみな忘れられないのだと思う。わたしは先生がわたしたちにしてくれたことを伝えた。先生は顔をくしゃくしゃにした。笑っているようにも泣いているようにも見えた。わたしは泣いた....必要があったのかもしれないけれど、それでも先生が受けたことは理不尽のような気がして....。大きなみ魂だから鍛えも大きいと言い聞かせつつ....。「きっと、また会える」と先生は言った。


   いつか強引に別れはくる。ほんとうに必要なときにであい、けれども気がつけば霧の向こうにひとかげは消えている。こうして幾度も幾度もであっては別れを繰り返す。だから一回一回のチャンスを閃光を放つほど密度の濃い出会いにしたい。そして気づかせていただいたものがあふれ花をさかせるように、求めるひとに分かつことができるよう勉めたいと思う。...共鳴すればするほど深くなるよ....帰り際に聞いたことば。




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