秋津というゆかしい名の駅前には古着屋があった。お惣菜屋の店先には焼いた秋刀魚が大根おろしを添えられてラップにくるまれている。住みよさ気な町だった。タクシー乗り場がないので、仕方なく歩き始めた。すぐに商店街は途切れて夕暮れの住宅地を三輪車の幼子より覚束ないあしどりで歩く。
道に面した庭のたわわの柿の実が色づきはじめている。生温かい空気を両手でおしあけるように歩く。所沢線に出て左に折れると橋があった。河の水は思いのほか澄んでいた。幾たりかに道を聞いたがみな親切におしえてくれた。午後の新宿で冷たいそぶりに爪を立てられたようにそそけだったあとだからなおさら身に沁みた。
信愛病院のチャペルの十字架が見えたとき、わたしはこれから見舞うK先生の名を突然思いだした。正直にすぎるわたしの身体は頭はわだかまりがあるということを聞かない。心がいやがることはしようとしない。ようやく先生に会う覚悟がついたのだ。卒中で倒れ一時は半身不随だった先生がどんな風に変わられてしまったのか、お会いするのが怖かった。明日は遠くに転院なさると聞いてお別れが言いたくてきたのだけれど。
K先生と出会ったのはちょうど二年前のこと、ヴォイスのワークショップでのことだった。その時も膝が痛い上にさんざん迷い、機嫌がわるかったわたしを先生はふわりと受け止めてくださった。驚異のワークショップが終わり、みな不思議な連帯感に包まれてハグしあった。雷が轟くなかタクシーにのりあわせて国分寺に向かったときにはずっと去らなかった膝の痛みも消えていた。
それから三度 個人セッションを受けた。K先生のセッションは声と身体と魂のチューニングに等しく、いつもわたしを曲がり角から押し出してくれた。ビウエラやリュートの音が光であることを教えてくれたのは水戸先生だが、K先生は声が光であることも教えてくれた。天板が帆のようなクラヴィコードから花々や光がこぼれ落ちる、信じられない眺めをまのあたりにして、わたしは呆然とした。空間が突如変容し声がクリスタルの空間に響いた日のこと、弾いて歌ってふたりで虚脱状態になった日のことは忘れられない。
4Fのナースステーションで示された車椅子の傍らに行ったとき、覚悟はしていたけれどわたしは息を呑んだ。白いおだやかな顔、いぶかしげにわたしを見る子どものように澄んだ目...ことばを交わすうちに思い出してくださって「元気そうだね」と幾度もおっしゃった。
わたしはながらくしていないことをした。思わず手をかざし気を入れる。やがて白い顔にほんのり血のいろがさしてくる。夕食のちらし寿司をめしあがるあいだわたしは祈るように手をかざしていた。....障害者になって、はじめてわかったことがある...とK先生は口をひらいた。なるべくしてなったんだよ....使命があるから死ななかったんだ。....3/20 倒れてからしばらくのあいだ、生死の境をさまよっていたのだそうだ。わたしもちょうどその頃日の光から遠いところで苦しんでいた。
K先生を慕うひとは大勢いる。先生の天性のやさしさ無邪気さもだけれど、先生はワークショップやセッションをとおしてひとりひとりを光の糸でもって宇宙と大地につないでくれた。その感覚をみな忘れられないのだと思う。わたしは先生がわたしたちにしてくれたことを伝えた。先生は顔をくしゃくしゃにした。笑っているようにも泣いているようにも見えた。わたしは泣いた....必要があったのかもしれないけれど、それでも先生が受けたことは理不尽のような気がして....。大きなみ魂だから鍛えも大きいと言い聞かせつつ....。「きっと、また会える」と先生は言った。
いつか強引に別れはくる。ほんとうに必要なときにであい、けれども気がつけば霧の向こうにひとかげは消えている。こうして幾度も幾度もであっては別れを繰り返す。だから一回一回のチャンスを閃光を放つほど密度の濃い出会いにしたい。そして気づかせていただいたものがあふれ花をさかせるように、求めるひとに分かつことができるよう勉めたいと思う。...共鳴すればするほど深くなるよ....帰り際に聞いたことば。
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