スピリチュアルブームをつくったのは 美輪さんや霊能者だった。
オーラの泉が 発端だった。敗戦がきっかけとなってか 科学がひとつの宗教だったこの国 実は もっとも霊的な 国だったこの国を引き戻すことに成功はしたけれど 弊害も生んだ。スピリチュアルなことは お金になった。かつて わたしも 自発的に また友人につきあって 小さな教祖 や霊能者や 各種のヒーラーの元を訪れたが その半分くらいはインチキで 中にはとても危険なものもあった。ヤクザ紛いの人たちが操っていて そこには 四大陸茶を片手に うれしげに なんらかのスピリチュアリズムに染まったひとびとがたむろしていた。
霊性の低いヒーラーの中には取り憑かれてしまうものもいるので 悪い霊が移ってしまうこともある。
真っ当なーー と思われる 霊能者も 集まっているひとを見ると 他力本願のひとが多い。似たような 生気の乏しいひとの集団が 多かった。本物は 3人 ひとりはヒプノセラピーの若いヒーラーであったが 二回の遠い過去生を旅して それは 子どもの頃から見ていた夢 また 幻聴 とつながりがあり 切れ切れの断片をつないでくれ 大きな示唆をくれた。ヒーラーが辛いのちに伝えてくれた わたしのハイヤーセルフのことばは その後の人生をあかるく照らしてくれた。
残りのふたりは ヴォイストレーナーで わたしは 天音さんを忘れない。デジュリデューと チェンバロ で 宇宙まで 連れていってくれた。渡邊満喜子先生の周辺は病んだひとが多かったが 自分の声で 自分の魂を調律することを教えてくれた。満喜子先生は あなたの語りでわたしは歌いたいとおっしゃっていたがあっというまに逝かれた。天音さんは半身不随になられ 昨年 身罷られた。
わたしは 声 は恐ろしいものなのだ スピリチュアルなことで お金を稼ぐことはおそろしいことなのだと 痛く感じ いわゆる スピリチュアル と訣別した。
今はスピリチュアリズムとは現世的なしがらみ 常識や金や物に縛られず
霊的にモノを考える そして行動すること なのだと 思っている。
霊的にモノを見る 考えるとは 肉の目に惑わされないこと 肉の目とは 現実的であるということだけでなく ありとあらゆる欲望 であり そこから派生する 心から自由になるということ。存外 心が問題である。心は変わるもの 思い込むもの 軸を持つこと 精神性 魂から離れさせる一番の元凶である。
たとえば ( 霊を )見たことがないから (その存在を )信じない と 言われたら ( 実際 そういうひとはかなり多い)その話は終わってしまう。実際 この世は写し絵のように見えるものと見えないものが 多重に重なっているのだが それが理解というか感じ取れていれば 視ることは 聴くことは そうむつかしいことではないのではと思う。
また 日常的に 霊が見えてしまうひとは そのことに囚われ 現実 リアルから離れ勝ちになる。また その行動が どうしても 枠を外れ勝ちなので あのひと ちょっと変わってるね と 羨望の入り混じった 揶揄をあびせかけられたり 変人扱いされることから傷つくひともいる。
感覚が鋭い つまり 見えないものを見 聞こえないものを聴く ひとは 実はかなり辛いのである。あらゆる 思念のシャワー 人間のだけでなく 動物 草木 建物 などの思念 あぁ 気持ち悪くなってきた..... を浴びているのだから。
だから ひっそり 生きている人が多い。
わたしの シックスセンスは たいしたことないし 感覚を閉じたり ひろげたりはできるので 日常生活に差し支えることはない。また あり得ない世界 真実の世界を垣間見 知っているから 現実世界のまやかし 塗り固められてきた歴史 現実の社会に 惑わされることもなく NO と言えるのだと思っている
けっこう辛いのは いくら話しても つまり 霊的な世界もこの世のまやかしも 思い込みの激しい すなわち 現実的な常識的なひとに理解してもらえないことだ。視力のないひとに 虹を説明するようなもの 聴力のないひとに ピアノの響きを伝えようとするようなもの だから 仕方ないか。
友がなくなってから……… わたしのもとにきてくれるようになって スピリチュアルなひとたちと思っていたので グループの人たちに話してしまった のだけれど…… みんなのイメージ みんなのものがたりというものがあって……
ほんとうにきつかった。 一昨日 身近にいた仲居さん ふたりと お話して わたしの直感が間違えてはいなかったことが わかって でも その真実が切なくて わたしは泣いた。 奥さんは… ひとに尽くして 尽くして 尽くし抜いて 疲れきって 死んでしまった……と その人は言った。
26日 ひろこさんに 尽くされたひとが 集まって いいひとだった 素晴らしかった いい会だった 感動した それで 終わらせたら 違うんじゃないかと 思われて ならない。
駐車場で ひろこさんと龍神さまの話をしたことを 今日 ふと 思い出した。あれはいつ? 最後に食事に行ったとき 二月… 龍神さまの 井戸 が どこそこに という話 龍神さまの雲が……というような 今だったら 飛び上がるような話だったのに 聞き流してしまった その時は 彼女とわたしが 龍神さまつながりとは気づいていなかったのだ。残念なことをした。
2012年 彼女に会った年 わたしは 旅を続けていた。それは 311の 前の年 わけもわからず 惹かれるままに 神社を旅した ときの気持ちに似ていた。止むに止まれず熱に浮かされたように 憧れとときめき かすかな畏れ 少女のような慄きとおばさんの確信をもって ひとり 車を走らせた。
9月12日 大神神社 大和神社 石の神神宮 吉野水分神社 天川村を走り 天河神社
一泊し そして 麗しい玉置神社…… 10月 熊野那智大社 新宮 元宮 大斎原 それは 水源から 紀ノ川 熊野川 へと下る旅でもあった。そして 大斎原で 伏流水が 地下を 滾り 渦巻き 大地を震わせるのを感じた。まことに 龍神とは水の化身 であり ある時は プラズマ。
イザナミノミコトがカグツチを生んで亡くなったという花の窟神社にお参りして 七里御浜で 海を汚し奉ったことをお詫びし 神倉神社に向かったあと わたしは異変に気がついた。急ぎ 花の窟神社に戻る途中 参拝したすべての神社に龍神がおわしたことに愕然としたとき わたしはやっと 語り祭りで 龍神伝説 を語れというお示しであることに気づいた。 社務所に行く途中 さっきは気付かなかった龍神の祠があった。お詫びとともに 龍神伝説 を 語ることをお誓いし あり得ないことが起こり 帰宅してすぐにチラシを 作製し 置いてもらった先で 彼女を紹介してもらったのである。すなわち龍神さまのお導きだった。
スピリチュアルな女将がいる…… その言葉に惹かれて会いに行った。彼女は ハブだった。ラヴィアンさん 啓さんと 週を置かずに会い その流れは怒涛のよう ディジュリドゥのknobさん 縄文の風びと 奈良祐之さんとのコラボで 龍神や 瀬織津姫 や 古代の日本の神々のものがたりを 語れた。
彼女は 見えない モノを視ることもなく 聴くこともなかったが その場をいつも清らかに明るく した。金や物に執着がなく ひとに与え続けた。時間とは命の別名であるという。彼女は 命を与え続けて 倒れた。
4月7日 午後 一言伝えなくてはと 巫げんのごとく 集中治療室に意識を飛ばしたとき さようならと 別れを告げた彼女の声は 哀しいほど澄んでいた。さみしい声だった。その夜 ひろこさんは亡くなった。
なぜ 彼女は 死ななくてはならなかったのだろう……
あんなにやさしく あんな に懸命に生きていたのに。
わたしにはわからない。
わかっているのは 受け取ったモノはかえさなくては ということ。
龍神のえにしで結ばれたのだから 龍神がお喜びに
なることをさせていただこうということ。
その日. 26日の朝 龍神さまの雲. 棚引き 夕べ 神鳴り 轟き 稲妻が 奔った。
スピリチュアルとは 生き物 自然 人間 神さま の 区別が無いことではないのだろうか 神を敬う ひとを愛す しかしながら 自然に神やどる 一本の草木にも 人間の心にも 神宿る ゆえに すべてはひとつ。
さりながら わたしは この 美しい世界を 我が物とし 蹂躙しようとするものを 憎まずにはおれない。
ひと夜かけて 夢を見た。わたしは 龍神samanotameni. hirokosannnotameni nanikawotukuranakutehanaranakute. hissidetukutteita. totemo
nagaimonowo。nihonngomoーdonanoni. roーmajininattesimau。nazekasiranedomo。