壌さんの「50代からのシェークスピア」のワークショップの発表会を観に行った。小雨と時折吹くつよい風から華奢なピンクの折り畳み傘で、身を護るようにして、青いガラスの草月ホールについた。15分前というのにほぼ満席の盛況で、第一期生の仲間たちが同窓会のように集まっていた。
私たちの演目は「真夏の夜の夢」だったが、今日は「じゃじゃ馬ならし」壌さんの深々と心地よい響きの挨拶(この声を聴くとつくづくプロはすごいなぁ)と思う。ご存知のようにじゃじゃ馬ならしはカタリーナという乱暴なじゃじゃ馬娘とその妹しとやかで美しいビアンカの姉妹の結婚にまつわる喜劇である。
坪内逍遥訳を元にしているので、台詞は高い格を持つがすこし難解で、最初、台詞が単語ごとに切れてしまったり、口跡がはっきりしないこともあってスジと人間関係を追うことでいっぱいだった。聴き手にストレスを与えないことはとても大切なことなのだと観客の立場から思った。そのうち安心して聴いていられる台詞がみえてきた。語頭をはっきり大きく、役者さんの体内リズムに乗っているもの、そして適切な間である。衣裳は明治を模しているのか和装でまことに目に楽しくうつくしかった。
途中からカタリーナのことを考えていた。わたしがカタリーナを演じるとしたらどうするだろう...なぜカタリーナは男のなりをしてこれほど粗暴なことばや態度をとるのか、妹への敵愾心はどこからくるのか、怒りはどこからくるのか......カタリーナ自身知ってか知らずか別として、それには理由があるに違いない。もしかしたら、父親が嫡子としての男子を望んでいたことを漏れ聞いたとか...それで父親の希望に添わせようと子ども時分からつとめているうちにいつからか性格になってしまった....女である自分を受け入れられない....あるいはうつくしい妹と比較されるのであえて独自性を出して目をひこうとした....さみしいカタリーナ....
休憩のあと、ガラリと芝居が変わった。わたしたちのときのように幕間に壌さんの"鶴の一声"があったのかもしれない。わたしが二階席に移動し、舞台が見渡せるようになったことも関係しているかもしれない。台詞が朗々と響き...時折プロンプの声も聴こえたがそれはご愛嬌で.....なにより役者さんたちが生き生きと愉しそうで、芝居にリズムが生まれ客席と呼応しはじめ、客席から笑い声が起きるようになった....終幕のすっかり回心..したカタリーナの台詞が秀逸で心に切々と響いた。あるやさしさ...寛容さ...お互いのいのちを受け止め祝福する...あたたかい感情がステージにも客席にも一瞬馥郁と満ちたような気がする。
このたび発表会の報せをくださったのはカタリーナを演じたMさんだった。ホールの雑踏でわたしたちは抱き合った。MさんはわたしのHPの読者で、その記事から壌さんのワークショップに参加なさったのである。不器用なほどの体当たり演技だった。そのストイックな熱情が芝居の勢いをひっぱっていた、そして最後の台詞が実によかった。全体として、登場人物は切り取られたように原色に近かった。陰影がもうすこしあってもと思わないでもない。カタリーナの夫の攻略でない愛、その愛からにじみ出る信頼が中盤ほんのすこしあればと思う。
けれども、だれか画家が言っていたように美醜ではなく(うまい下手ではなく)生きているか死んでいるか、そこが勝負どころである。この芝居は生きていたし観るものをしあわせにした。わたしは自分に足りないものを察知した。登場人物の数もあろうが壌さんが四大悲劇を選ばないで喜劇をいつも選ぶのがわかったような気がした。壌さんは雑踏のなかに超然とたってそこだけ空気感が違っていた。わたしは深々と頭を下げ、挨拶をかわし、ひとつ願いごとをした。
そのまま帰るのが勿体無くてル・コントでひとりコーヒーを飲む。五年つづけている仲間が数人残っていて、さすがに彼女たちの台詞はキレがよかったが、なにより目が顔がしあわせでならない...というふうに耀いていたのをもう一度味わいたかった。家に帰ると、やはりHPで出あったJさんから手紙が届いていた。3/25から青年座で主役を務めるという。子育てという豊かな時間を過ごしたJさんの芝居はどう変わっただろう、これからTELをかける、そして観にゆく。
ひとはつながってつながって、手渡しては受けとり、そしてまた手渡してゆくのだ....どうかときにわたしに便りをください。そしてもしなにかに逡巡している方がいたらつながること、一歩を踏み出すことを怖れないでください。そこから扉がひらく、回帰と新生の旅がはじまる....。
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