わたしが 戦争と平和で 語っている ものがたりに 「トマト」があります。 山田清一郎という10歳の少年が戦中戦後 どうやって生きたかを 本人にかわって語ります。ただつらいだけでない生きるちから がそのものがたりにはこめられていて わたしは 「トマト」 を語ります。子どもたちの反響も多いものがたりです。その山田さんが埼玉県秩父市に住んでいると聞いて おはなしをうかがいに行ったのです。書籍から語ったものがたりをほんとうの聞き書きにするために そして講演の依頼のために。
1945年 アメリカは一日おきに大都市の空襲をつづけました。3/10東京 3/12横浜 3/14名古屋 京都を飛ばし 3/16大阪 3/18神戸....神戸に住んでいた山田さんは3/18の空襲でおとうさんをなくし 6/5の神戸大空襲でおかあさんと防空壕に逃げましたが 焼夷弾が何発も防空壕に落ちて おかあさんは「早く 逃げて!!」と山田さんの背中をおし 飛び出した田中さんは ふりかえったとき 壕が崩れるのを見ました。おかあさんは生き埋めになってしまったのです。
....それから 山田さんの浮浪児の生活がはじまりました。横浜銀行の焼け残った金庫のなかで おなじような子ども 4.5人と身を寄せ合ってくらしました。食べ物はひろうか 物乞いするか 盗むしかありません。食中毒でなかまがひとり亡くなりました。トマトを盗んだアキラもジープにひかれ死にました。アキラの血のなかにトマトがころがりピクピク動いているのを山田さんは呆然と見ていました。 ....それからトマトを食べられなくなったそうです。その後 山田さんは無賃乗車で東京に出て 上野の地下道でたくさんの戦争孤児とコンクリートでごろ寝をしました。髪はぼうぼう 洋服はごわごわ固まり さわると ぼろぼろとくずれ うじゃうじゃ虫がわき なんともいえないくさい匂いをさせていました。戦争で親をなくしたり はぐれたりした子どもたちを世間では 浮浪児と呼び ばい菌のかたまりがきた 野良犬がきた と石を投げられたり 水をかけられたりしました。
山田さんは警察の浮浪児狩でつかまり 警官にひきずられ はだかにされて 檻にいれられました。その後 戦争から帰ったおぼうさんが戦争孤児をみかねて 長野大本営跡につくった敬愛学園にひきとられます。そこには12人のこどもがいて みな何年も学校に行けなかったのですが 村のひとは 野良犬がきた と 学校に受け入れるのを嫌がり 1年3ヶ月のあいだ学校に行けませんでした。 やっと学校に行けることになって よろこびいさんで 学校に行くと ... 教室がない。先生がつれていってくれたのは 三階の物置小屋で 机と椅子が三つ ... 黒板に 犬小屋と書いてあった。...... だれか子どもがいたずらして書いたのだろう だがどうして 先生は それを消さなかったのか。 何年も学校に行けなかった子がやっと学校に行けるようになった。それを 喜んでくれる先生はひとりもいませんでした。
山田さんは 敬愛学園を出てから 鉄工所や酒屋で住み込みで働きながら19歳で夜学に入ります。そして27歳で中学校教師になりました。教え子に俳優の藤原竜也さんがいるそうです。藤原さんはなかなかのワルだったそうです。今でもときどき年賀状が届くそうです。
いくつか 質問をしました。
なぜ生き延びられたと思いますか?
信じるのは自分だけ とられたらとりかえす なぐられたらなぐりかえす 負けたくない という強い気持ちがあったからだと思う。
優しい人 親切な人の思い出はありますか?
そういう思い出は5本の指で足りる 復員した兵隊 進駐軍の軍人 お坊さん 敬愛学園の保母さん いやな思い出は20本の指でも足りない。
長い間 浮浪児であったことを黙っていたと聞きましたが なぜ 語ろうと思ったのですか?
金田まりさんの 焼け跡の子どもたちを読み 語ろうと思った。
神や仏を信じますか?
神仏は信じない。神仏がいたら救ってくれたはずだ。
おとうさまの思い出は?
なにも覚えていない ...というより 忘れたい 消し去りたい 思い出したくない という気持ちだった。あれから神戸には一度も帰っていない。野良犬のように追われた町 うらみと悲しみの焦土に戻りたいとは思わない。
山田さんは熱血教師だったようです。小鹿野町 須崎旅館のロビーでおはなしをうかがったのですが 仲居さんを顔を見て とつぜん 見覚えがある どこそこにいたのではないか と訊ねるのです。はなしてゆくうちに 教え子とわかりました。20年以上もまえの教え子 ひとりひとりを覚えていらっしゃるんですね。
わたしは 山田さんの前で 10歳の山田さんとして トマト を語りました。
語り終えたあと 山田さんは しばらく 沈黙していらっしゃいました。
企画について 快諾をいただきました。
金田まりさんは やはり戦争孤児 親戚の手で売られた Iさんのおはなしにもあり あ またつながったと思いました。会う場所に 須崎旅館を私が選んだのは えにしがあったからですが 偶然 若女将の まきちゃんは 山田さんの教え子だったのです。
わたしは....あの戦争で 日本は平和と憲法を得たけれども 国民は家族のいのちだけでなく 実におおきなものを喪っていたのだと はじめて 悟りました。山田さんにお会いできてほんとうによかった.....