古事記の有名なエピソード 国生み 国譲り 天孫降臨 ですが これらはなぜ書かれたのでしょうか。
津田左右吉の説が今は定説のようです。
「神代史は皇室の権威の由来をとくためにつくられた。イサナキイサナミ 二柱は国と、高天原に住む皇祖神アマテラスの生みの親としてあらわれ 皇祖アマテラスは権威の起源となり皇孫ニニギを中つ国につかわし統治させた。ひとつひとつの主要なものがたりは有機的に結合している」
それでは ざっと 古事記のながれを追ってみましょう。
イザナギ・イザナミの国生み → イザナミ 火の神カグツチを産んでホトにやけどをし みまかり 根の国へ
→ スサノオ 母を慕い根の国へ → スサノオの子孫 オオクニヌシ 根の国にて試練を受ける
→ オオクニヌシはスセリヒメとともに脱出し 中つ国の王となる
→ アマテラス 中つ国の繁栄をみて わが子に統治させようと思い 使者として タケミカヅチ(鹿島)とフツヌシ(香取)を出雲のオオクニヌシのもとに送り統治権を差し出せと迫る。オオクニヌシの二男タケミナカタ 戦ってやぶれ諏訪に逃げて諏訪を治める。
→ アマテラスの子アメノオシホミミは突然、自分に代わって子どものニニギをトヨアシハラミヅホノクニに天降りさせることを願い出て、受け入れられる。ニニギはアマテラスの孫にあたることから、「天孫降臨」と呼ばれる。
このエピソードに対応する実際の歴史があります。
古事記は天武天皇のときに編集がはじまり その妻持統 そして文武をへて元明天皇のときに完成するのです。
赤字は女帝
草壁皇子は天皇になるまえに28歳の若さで亡くなりました。その子 軽皇子が15歳で即位し文武天皇となります。文武天皇は,藤原不比等の娘宮子を夫人としますが 子どもである首皇子を残し24歳で亡くなります。これは藤原不比等にとって大いなる誤算でした。そこで草壁の妻 文武の母である阿閇皇女が元明天皇として皇位につくのですが 本来 皇后経験のない 阿閇皇女が即位するのは無理がありました。
なぜ 無理を通したか それはもちろん 藤原不比等の野望のためでした。しぶる阿閇皇女を孫のためにと説き伏せた藤原不比等は自らの血をひく天皇を待ち望んでいたのです。
藤原不比等は大化の改新の立役者の中臣鎌足(なかとみのかまたり)の 次男として生まれ、天智天皇から藤原氏の姓を賜り 天皇親政から藤原の摂関政治へ 律令国家のおおもとをつくりました。律令国家とはいはば官僚による政治が行われる 現代の官僚政治のもとみたいなものです。
さて そこで 天孫降臨
アマテラス → (アメノオシホミミ) → ニニギ
に重なって見えるのが
①持統天皇(女帝) → (草壁皇子) → 文武天皇
②元明天皇(女帝) → (文武天皇) → 聖武天皇(オビトノミコ)
ですね。パターン②では 藤原不比等の意志が強く働いています。不比等はその後も 長屋王を謀略で自害させました。
天皇が国をうごかす大きなちからをもっていたのは、大王おおきみであった5世紀頃まででした。そのころ朝廷は出雲系の大物主神を王家の守り神としていました。 最初の頃は、大物主神と大国主命は同一視され、朝廷はおなじように大国主命を守り神として祀る地方豪族との差別化を図る必要もあり( いわゆる天津神 国津神) 古事記はひとつのプロパガンダ文書でもあったのだと思われます。それには天皇を利用する立場として より天皇の威光を高めたい うじかばねに代わる新興の勢力(藤原不比等など)の意志が働いていたのではないでしょうか。
アマテラス(日神)がなぜ女性であらねばならなかったか
なぜ 子でなく 孫が降臨するのか
根の国 中つ国(トヨアシハラミヅホノクニ) 高天原 の 対比
スサノオが正史と修史 天津神と国津神の接着剤の役目を負わされたこと もまた 見えてくるように思います。
それにしても 古事記の作者はたいへんなストーリーテラーでありました。修史 すなわち自分に都合のいい再話で ひとびとに朝廷と自分の出自を異なるものに見せ 真実を覆い隠したのです。
では いったい 真実はどこにあるのか
現代のストーリーテラーとしては 直感と想像力で ひとつのファンタジーをくみあげてゆけばよいのだと思います。