写真は文山州邱北県に接する広南県の山奥の村の昼食(2004年撮影)。日本から来た客のために肉を使った料理などでもてなしてくれた。
一番左下の皿には唐辛子を塩漬けし、乳酸発酵させた副菜が添えられている。ご飯がすすみ、ビタミンCもとれ、子供のおやつにもなる優れものとして農家の食卓では欠かせない。
食卓中心下のタレも唐辛子ベースである。このように雲南では、四川料理などのように料理すべてを唐辛子のピリ辛料理に染め上げるのではなく、タレとして浸けたりして必要な人が選択できるようになっているので、辛さの苦手な日本人でも食べやすい特徴がある。
【文山とうがらしが名産となるまで】
邱北県と硯山県の唐辛子は昆明の食べ物屋に行くと、その真価は一目でわかります。地元の記事で、有名な「豆花米線」(おぼろ豆腐の載った米ヌードル)の店の料理の旨さを説明する文章には「拓東の醤油を使い、唐辛子は邱北産・・・」という説明が続きます。これだけで昆明ッ子のお腹はグーッとくるわけです。ピリッと辛くて香りもある、というあの味が。
このように雲南では文山の硯山でとれるとうがらしは特別なのですが、現在の名声を獲得するための努力の歴史があったのです。
もともとこの地に唐辛子が植えられたのは300年以上前とのこと。コロンブスが大西洋を横断し最初にアメリカ大陸に到達したのが1492年。唐辛子がヨーロッパに持ちこまれ、大航海時代とともに100年とたたないうちに世界をかけめぐりました。
通説では日本には1600年代に持ちこまれ、日本から朝鮮半島へ、また日本と同時期に中国に持ちこまれたとのこと。つまり、東アジアに唐辛子が伝来した初期の段階から雲南のこの地域に持ちこまれていた、と考えられるわけです。
想定されるルートとしては、明の時代に南京に集められた屯田兵が雲南に農産物の一つとして持ちこんだ、もしくはヨーロッパ・アラビア商人ルートで東南アジア(硯山ならおそらくベトナム)から持ちこまれた、というあたりが思い浮かぶのですが、それを確かめる資料は今のところ見つかりません。
さて時は流れ、中華人民共和国となって以降の話。農業中心の政策の結果、文山の唐辛子は1960年代には「雲南小辣椒(とうがらし)」として賞賛を得ていました。
ところがその後は、昆明以北でとれる大ぶりの唐辛子に人気を奪われ、次第に品質も劣化、生産量も低下の一途をたどっていったのです。
これではいけないと、1992年に文山壮族苗族自治州の硯山県と邱北県の2県合同で「雲南小辣椒」の標準化試験示範基地として開拓することとなり、再起をかけることとなりました。じつはこの地域周辺は、現金収入が中国全土の中で最も低い地域の一つでもあるのです。
こうして早くも翌年の2000年に「中国辣椒(とうがらし)の郷」の称号を中国農学会より受け、現在に至るわけです。(硯山県が観光客向けにPRするインターネットサイトには大きく「中国とうがらしの郷」との文字が躍っています。)
写真上は文章の上の写真の料理を作っている台所。家の端の簡単な土間に三つ足の鉄の台を置き、その上に中華鍋を載せて、枯れ枝を熱源に座り姿勢で料理する。日本の現代の台所を思うと、これで食事を作る女性に驚嘆の思い。
戦前生まれの私のおばあちゃんが「日本がまた大変なことになったら、裏の庭にカマドを作って、料理するだけのことだろ」と言っていた言葉を思い出した。
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