写真は昆明のチベット料理屋で出てきた羊肉の湯がいたもの。山椒や唐辛子味噌だれを浸けて食べると、体が温まる。
雲南では羊肉料理を食べる機会が多いが(おかげで娘は「ああ、雲南のときみたいに毎日でも羊肉が食べたーい」とやや中毒気味に叫ぶ子に育ってしまった。幼稚園の給食にも普通に出ていた。)、古来より、雲南ーチベット高原ーモンゴル高原というルートの往来がさかんだったこと、また元の時代にモンゴル軍が雲南に留まったため、食生活にとけ込んだようだ。
昆明では羊のあらゆる部位を主だったスーパーや市場に行けば手に入れられる。正月前には羊の頭が肉屋の前にかかり、「羊肉の店」の看板がわりとなっていたが、なるほど、そこに犬の肉を置けば「羊頭狗肉」となるのだな、昔から羊肉は高級だったのだな、と、ふと思った。
前回は映画の話で脱線しましたので、本題に戻ります。
【サイード・雲南にて死す】
これほどまでに雲南への影響を残したサイジャチが雲南の行政官として活躍したのはたったの5年あまりのことでした。雲南に来る前からモンゴル帝国の古老だったサイジャチは雲南で天寿をまっとうしたのです。
享年69才。雲南の人々は嘆き悲しみ、コーチシナ王は使者12人を派遣し、「号泣震野」したとか。すごい表現です。
ともかく短期間のうちに現在まで強く影響を及ぼすような行政単位や水利土木、文化を形にし、定着させた手腕は驚くしかありません。
話は飛びますが、ほぼ100年後の元の滅亡時、元の帝室の最後の拠点となったのが雲南でした。地元民も元王側に立って頑強に抵抗し、ついには明の主力部隊が雲南征圧にくる事態となったのも、元初期の雲南征服時のフビライの卓越した人事の才と、それに応えたサイジャチの卓越した手腕のなせる技だったともいえるでしょう。
現在、中国のインターネットを見てみると、「サイジャチ○代目の子孫」を名乗るブロガーが複数現れ(彼らは雲南か、サイジャチが雲南に来るまでに赴任した土地の回族出身者らしい)、また、松華坝ダム近くの五里多小学校内に、今もなおひっそりとサイジャチの墓が残り、しかも何度も人々の寄付によって修繕されています。
これは力づくではなく、礼でもって雲南を支配した為政者がいかに歴史上少なかったか、それを実践した人は、時を越え、人々に慕われ続ける、という事実を教えてくれているように感じます。
おそらくは漢民族ではなく、遠方からきた異民族=少数民族出身という異色の政治家だったことも、雲南の人々の愛着の念を呼び起こしているのかもしれません。
(この章・おわり)
*日本に『元史』の翻訳がないこと、特別な研究書以外に、こんなにもおもしろいサイジャチの紹介が日本にないので、長くなりました。長くごらんいただいて、ありがとうございました。
雲南では羊肉料理を食べる機会が多いが(おかげで娘は「ああ、雲南のときみたいに毎日でも羊肉が食べたーい」とやや中毒気味に叫ぶ子に育ってしまった。幼稚園の給食にも普通に出ていた。)、古来より、雲南ーチベット高原ーモンゴル高原というルートの往来がさかんだったこと、また元の時代にモンゴル軍が雲南に留まったため、食生活にとけ込んだようだ。
昆明では羊のあらゆる部位を主だったスーパーや市場に行けば手に入れられる。正月前には羊の頭が肉屋の前にかかり、「羊肉の店」の看板がわりとなっていたが、なるほど、そこに犬の肉を置けば「羊頭狗肉」となるのだな、昔から羊肉は高級だったのだな、と、ふと思った。
前回は映画の話で脱線しましたので、本題に戻ります。
【サイード・雲南にて死す】
これほどまでに雲南への影響を残したサイジャチが雲南の行政官として活躍したのはたったの5年あまりのことでした。雲南に来る前からモンゴル帝国の古老だったサイジャチは雲南で天寿をまっとうしたのです。
享年69才。雲南の人々は嘆き悲しみ、コーチシナ王は使者12人を派遣し、「号泣震野」したとか。すごい表現です。
ともかく短期間のうちに現在まで強く影響を及ぼすような行政単位や水利土木、文化を形にし、定着させた手腕は驚くしかありません。
話は飛びますが、ほぼ100年後の元の滅亡時、元の帝室の最後の拠点となったのが雲南でした。地元民も元王側に立って頑強に抵抗し、ついには明の主力部隊が雲南征圧にくる事態となったのも、元初期の雲南征服時のフビライの卓越した人事の才と、それに応えたサイジャチの卓越した手腕のなせる技だったともいえるでしょう。
現在、中国のインターネットを見てみると、「サイジャチ○代目の子孫」を名乗るブロガーが複数現れ(彼らは雲南か、サイジャチが雲南に来るまでに赴任した土地の回族出身者らしい)、また、松華坝ダム近くの五里多小学校内に、今もなおひっそりとサイジャチの墓が残り、しかも何度も人々の寄付によって修繕されています。
これは力づくではなく、礼でもって雲南を支配した為政者がいかに歴史上少なかったか、それを実践した人は、時を越え、人々に慕われ続ける、という事実を教えてくれているように感じます。
おそらくは漢民族ではなく、遠方からきた異民族=少数民族出身という異色の政治家だったことも、雲南の人々の愛着の念を呼び起こしているのかもしれません。
(この章・おわり)
*日本に『元史』の翻訳がないこと、特別な研究書以外に、こんなにもおもしろいサイジャチの紹介が日本にないので、長くなりました。長くごらんいただいて、ありがとうございました。
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