*本稿は筆者が1990年から1992年までマレーシアのボルネオ(サラワク州ミリ市)で石油開発のため駐在した時期に思いつくままをワープロで書き綴り日本の友人達に送ったエッセイです。四半世紀前のジャングルに囲まれた東南アジアの片田舎の様子とそこから見た当時の国際環境についてのレポートをここに復刻させていただきます。
第10信(1992年4月)
4月は人事異動のシーズンですが、かく言う私自身もこのたび2年半のボルネオ勤務を終えて本社に戻ることとなりました。従って皆様にお届けしましたこのボルネオ便りも今回の10号をもって終了させていただきます。日本ではまだまだ馴染みの薄いマレーシアについて私の拙文で皆様の理解が少しでも深まったとしたら望外の幸せです。これまでにこの国の自然や風俗・文化について思いつくままにお伝えしてきましたが、最後に私が携わってきた仕事についてご報告しボルネオ便りの締めくくりとさせていただきます。
私の会社(アラビア石油)は石油開発会社として世界各地で探鉱作業を続けています。日本はエネルギー消費大国ですが、原油の99.7%を輸入に頼る資源小国なのです。その天然資源を日本人自身の手で開発することを会社の使命としているのです。そのような訳で5年前、国際入札でボルネオ北岸のジャングル地帯の鉱区を落札し、当地に事務所を開設しました。最初の仕事は地震探鉱と呼ばれるもので、これは地図の上に700KMの線を碁盤目状に引き、各直線状に等間隔で発破を仕掛け、地下の構造を調べるものです。行く手に巨木があれ断崖、泥沼があろうがとにかく一直線に進まねばならないので大変な難作業です。
それが終わると現場で得られたデータをコンピュータで処理して地下の構造を図面にします。ごく大雑把にいうと原油はお椀を伏せたような所(これを褶曲構造と言います)に溜まっています。しかし図面で褶曲構造を見つけてもそこに原油があるとは限りません。なにしろ原油が出来て現在まで数億年が経っていますからその間に原油は逃げてしまっているかもしれません。従って油が出るかどうかは掘って確かめるしかありません。そこでここぞと思う場所を決めるとジャングルを切り開き道路を造り、リグと呼ばれる装置を運び込んで井戸を掘ります。井戸の深さは3,000メートルもありますから24時間操業でも2-3か月かかります。時間と費用がどれほど莫大なものかご想像いただけると思います。
これで目論み通り油が見つかれば何も言うことはありません。しかし、あると思っていた油がなければ、或いはたとえ見つかっても採算に乗らない程度の量しか無かったならすべての努力は水泡に帰すのです。世界的に見ても石油探鉱の成功率は10%以下と言うのが現状です。普通のビジネスの世界から見ればクレージーであり、石油開発がギャンブルビジネスと言われる所以です。私自身30代でこの会社に転職しましたが、今でもこの仕事に戦慄を覚えることがあります。
わがプロジェクトはこうして5年間に5本の井戸を掘りました。そして2本目の試掘で少量ながら原油を発見する幸運に恵まれました。これだけでは元手を取り返すに至りませんが、ともかくこの油をくみ上げ市場に売り出す準備を始めたところです。私もこれで当初の任務を終えたので帰任することになった訳です。
めでたしめでたし、という訳ではありませんが、ともかくこの地で貴重な経験を積むことができ、今後いろいろなところでそれを活かせるものと確信しています。日本へ戻ってからもこれまで同様お付き合いいただけることを心より願って最後のボルネオ便りとさせていただきます。本当に有難うございました。
(完)
(後日談)
ボルネオ便りは石油を掘り当て将来への夢をつなぐところで終わりました。しかしながら現実は厳しく、その後油層の広がりを確認するための井戸(評価井)を掘りましたが、今まで以上の石油は発見できませんでした。結局プロジェクトは商業化の見通しが立たず、大きな負債を残したまま終結し、カフジに続く第二の石油基地というアラビア石油の悲願は儚い夢となりました。
そして2000年のカフジ油田の利権契約満了によりアラビア石油は石油開発会社としての役割を終え表舞台から姿を消しました。このあたりの経緯については筆者のブログ「挽歌・アラビア石油」の後半部分で詳しく触れていますので、ご興味があればご一読ください。
*「挽歌・アラビア石油(私の追想録)」http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0278BankaAoc.pdf
(続く)
本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。
前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601
Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642
E-mail; maeda1@jcom.home.ne.jp