*本稿は筆者が1990年から1992年までマレーシアのボルネオ(サラワク州ミリ市)で石油開発のため駐在した時期に思いつくままをワープロで書き綴り日本の友人達に送ったエッセイです。四半世紀前のジャングルに囲まれた東南アジアの片田舎の様子とそこから見た当時の国際環境についてのレポートをここに復刻させていただきます。
第6信(1991年4月)
前回(1月)のボルネオ便りの直後、不幸にして湾岸戦争が勃発し、そして最近正式に停戦しました。開戦当初、私の会社アラビア石油が操業しているクウェイトとサウジの国境の街カフジが幾度となくマスコミをにぎわしたことをまだ皆様は記憶されていることと思います。戦争は終わりましたが、クウェイトの油田火災の影響、アラビア湾の浮遊機雷除去等、現地の操業再開にはまだ少し時間がかかりそうです。
中東の話は別な機会にお話ししたいと思いますが、朝日新聞の牟田口さんが名付けた「石油に浮かぶ国」クウェイトは、今回の事件で、小国の悲哀をいやほど味わいました。産業社会では軽薄短小が時代の流行ですが、国際政治は昔も今も重厚長大が幅を効かせていることを思い知らされます。世界にはクウェイトのようにちっぽけであっても豊かな都市国家があります。香港、シンガポール、アブダビ、モナコ等がその例ですが、ここボルネオにクウェイトと似通った国、ブルネイがあります。そんな国があったのかと言われる方もあるでしょうが、東西をマレーシアのサラワク、サバ両州にはさまれ、北には南シナ海をはさんでフィリピン、南にはインドネシア領ボルネオ(カリマンタン)に囲まれた国がブルネイです。
ブルネイは天然ガスの一大生産国であり、皆様の台所のガスの何割かはブルネイ産のはずです。ブルネイ国王は世界一の大金持ちとして有名で、その財産は天文学的数字です。私の住んでいるミリはこの国の隣町ですので、時々国境を越えて買い物に行きます。首都のバンダル・スリブガワンまでは150KMほどですが、途中国境の検問所の他、河をフェリーで渡るため(当地では今も河川が重要な交通路であり、大型船が航行するため橋が造れないのです)、約4時間のドライブです。
市街に入る少し手前の小高い丘の上に国王の宮殿がありますが、その規模の壮大さに度肝を抜かれます。建設費は5,400億円とかで、その中には政府機関も一部含まれているとはいえ、部屋の数は2千を超えるそうです。真偽のほどはさだかでありませんが、宮殿の地下にはいざという時国王とその家族が脱出できるよう小型ジェット機の滑走路があるそうです。この広大な宮殿に国王は二人の妃と子供たちに囲まれて優雅な暮らしをしています。ちなみにブルネイは回教国ですので妻は4人まで持つことが許されております。うらやましい等と思う方があれば、それは大変な間違いです。道徳的にとやかく言うだけではありません。一夫多妻が男性天国だったのはアラビアンナイトと徳川大奥の時代の話であり、噂によればブルネイの王様は常々第一夫人と第二夫人のさやあてに悩まされ、それではと第三夫人を持とうとしたところ、今度は両夫人の連合戦線に阻まれてままならぬ浮世を嘆いているとのことです。
下世話な話が先になりましたが、ブルネイのことをもう少し詳しくご紹介しましょう。この国は人口わずか25万人、面積は5,700平方KMです。歴史的には7世紀に既に遣唐使を送ったとされており、その後、ボルネオ北岸からフィリピンにかけて大きな勢力を築き、16世紀には当時の国王がイスラムに帰依して、それ以来イスラムが国教になりました。そもそもボルネオの名前のいわれはブルネイの旧名ブルニがなまったもので、ブルネイはこの近辺では由緒ある国なのです。18世紀にイギリスが東南アジア一帯を植民地支配するとともに徐々に勢力が衰えましたが、20世紀に入り、世界有数の天然ガスが発見されて今の豊かなブルネイになりました。
第二次大戦後、かつてのイギリス植民地が次々と独立する時、ブルネイはマレー半島、シンガポール、サバ、サラワクと共に大マレーシア連邦構想への参加が呼びかけられましたが同国はこれを拒絶しました。ブルネイとしては由緒正しい王国の誇りがあり、また石油と天然ガスで豊かな未来が約束されていたからです。こうした小さな国が今後も無事に存続できるなら、それこそが真に世界が平和である証なのでしょう。
(続く)
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