南木佳士 「小屋を燃す」読了
人生の玄冬期にさしかかった医師の物語である。
著者は、1989年に芥川賞を取った医師で作家だ。恥ずかしながらこの作家の名前は知らなかった。この小説にも書かれているが、『納豆の味噌汁の朝食を摂って病院に向かうふつうの医者たちが、子供たちの学費のために貯金してきた金をじぶんの病気のために使ってしまうのを嘆くふつうのひとたちの生死を扱う医療現場を可能な限りそのままことばで描きたい・・。』というように、ほぼ自身の体験を私小説として書いている。その他の作品も同じような作風らしい。
生まれ育った土地に戻り、うつ病を発症しながらも医師と作家の二足の草鞋を履きながらなんとか定年を迎え、非常勤で人間ドックの担当医師を続けながら地元の同世代の「小さな悪党」と著者が表現する人たちとの交流が4篇の短篇としてまとめられている。
農家、公務員をしながら登山を続けた人、地元の建設会社の元役員、そんな人たちと小屋を建て、それを壊すまでの流れがメインだ。
医者をしながら作家として本を出版し、おまけにそれが映画になるほどヒットしてそれのどこに不満と不安があるのかと思うけれども、主人公は自分の来し方が決して自慢できるようなものではないと感じている。病気を理由にしてあまり重要ではない部署に異動し、おまけにそこから逃げ出すためにカンボジアへ医療支援に行ってしまった自分を恥じているのであろうか。
裕福でなくても自分の足で立っている仲間を尊敬の念を込めて「小さな悪党」と呼ぶ。
若いころの経験を生かして食料を自然の中から見つけ出してきたり、丸太を切り出してみんなが集まって酒を飲む小屋まで作ってしまう。そのたくましさに主人公はあこがれているようだ。
医師としての人生のなかで、他者との交渉事に疲れ、
『背を高く見せるべく懸命に背伸びし、あげくのはてに足首の関節を痛め、それでも努力して背負う荷の嵩を増やすための足し算を重ねてきたつもりの半生の、ささやかな総和がいきなりゼロを掛けられてきっぱり意味をなくす。』
ようなことが起こったのだろう。それは多分、病を発症したせいであったのだろうか、こんな言葉も書かれている。
『いったん精神を病む男の役をひき受けてしまえば俗世との縁は簡単に切れる。』
そんな苦労を潜り抜けてきて老いを前に出会った仲間たちを見ながらこう思うのである。
『永年の背伸びにくたびれ果てた心身が、今の根のはりの範囲で支えられるかぎりの丈に戻りたがっている。』
最後の編、朽ちかけた小屋を薪にして燃やしている炎の中に先に逝ってしまった仲間の姿が浮かび上がる。その自然な姿を見て、より一層その思いを深める。
そんな物語である。
主人公は幻想を見てカタルシスを得ることができただろうか。
「ゼロを掛けられてきっぱり意味をなくす」という半句が身に染みる。
人生の玄冬期にさしかかった医師の物語である。
著者は、1989年に芥川賞を取った医師で作家だ。恥ずかしながらこの作家の名前は知らなかった。この小説にも書かれているが、『納豆の味噌汁の朝食を摂って病院に向かうふつうの医者たちが、子供たちの学費のために貯金してきた金をじぶんの病気のために使ってしまうのを嘆くふつうのひとたちの生死を扱う医療現場を可能な限りそのままことばで描きたい・・。』というように、ほぼ自身の体験を私小説として書いている。その他の作品も同じような作風らしい。
生まれ育った土地に戻り、うつ病を発症しながらも医師と作家の二足の草鞋を履きながらなんとか定年を迎え、非常勤で人間ドックの担当医師を続けながら地元の同世代の「小さな悪党」と著者が表現する人たちとの交流が4篇の短篇としてまとめられている。
農家、公務員をしながら登山を続けた人、地元の建設会社の元役員、そんな人たちと小屋を建て、それを壊すまでの流れがメインだ。
医者をしながら作家として本を出版し、おまけにそれが映画になるほどヒットしてそれのどこに不満と不安があるのかと思うけれども、主人公は自分の来し方が決して自慢できるようなものではないと感じている。病気を理由にしてあまり重要ではない部署に異動し、おまけにそこから逃げ出すためにカンボジアへ医療支援に行ってしまった自分を恥じているのであろうか。
裕福でなくても自分の足で立っている仲間を尊敬の念を込めて「小さな悪党」と呼ぶ。
若いころの経験を生かして食料を自然の中から見つけ出してきたり、丸太を切り出してみんなが集まって酒を飲む小屋まで作ってしまう。そのたくましさに主人公はあこがれているようだ。
医師としての人生のなかで、他者との交渉事に疲れ、
『背を高く見せるべく懸命に背伸びし、あげくのはてに足首の関節を痛め、それでも努力して背負う荷の嵩を増やすための足し算を重ねてきたつもりの半生の、ささやかな総和がいきなりゼロを掛けられてきっぱり意味をなくす。』
ようなことが起こったのだろう。それは多分、病を発症したせいであったのだろうか、こんな言葉も書かれている。
『いったん精神を病む男の役をひき受けてしまえば俗世との縁は簡単に切れる。』
そんな苦労を潜り抜けてきて老いを前に出会った仲間たちを見ながらこう思うのである。
『永年の背伸びにくたびれ果てた心身が、今の根のはりの範囲で支えられるかぎりの丈に戻りたがっている。』
最後の編、朽ちかけた小屋を薪にして燃やしている炎の中に先に逝ってしまった仲間の姿が浮かび上がる。その自然な姿を見て、より一層その思いを深める。
そんな物語である。
主人公は幻想を見てカタルシスを得ることができただろうか。
「ゼロを掛けられてきっぱり意味をなくす」という半句が身に染みる。