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イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「生き物を殺して食べる 」読了

2020年06月08日 | 2020読書
ルイーズ・グレイ/著、宮﨑 真紀 /訳 「生き物を殺して食べる 」読了

著者は環境活ジャーナリストである。その活動の中から、工業的に生産される食肉について疑問を持つ。その疑問は、衛生的に安全であるかどうかではなく、人間という動物が生きていくうえで必要な食肉を産業として生産されたものに頼って生きているということが、自然な姿であるのかどうかということであった。そういった工業的に生産された食肉は減らすべきであると考えている。
ベジタリアンになろうとしても、農家であった実家ではおすそ分けや狩りで獲れた肉がふつうに家にやってくる。それに対して特に違和感はなかったが、平気な顔をしてパクパク肉を食べる人間にはなりたくなかった。それならばその食肉についてもっと知らなければならないと考え、思い至ったのが、1年間、口にする食肉は自分の手で獲った動物のものだけで生活してみようというものであった。著者は女性であるけれども、男ではまず思いつかないことであるというのが最初の感想だ。そして、その生活を続けていく中で現代の食肉事情というものを考えようというのが大まかな内容だ。
1章目の扉に書かれている文章は、ソローの文章だが、著者もソローの「森の生活」に倣ったのかもしれない。

まずは銃の扱いを覚えて実家の農場でウサギを仕留める。動物を殺すということに対する切迫感を身をもって感じるのである。
しかし、この本の中心になっているのは屠畜される動物についてである。著者は何か所かの屠畜現場を見学する。
そこは近代的な設備が整っていて衛生的だ。しかしの現場は大量の血と臓物があふれている場所。家畜の命が消えていく場所でもある。
多分、僕が口にしている食肉もそんな過程を経て食卓にやってきたのだろうけれども、最近の精肉現場というのは、“動物工場”と表現されるように家畜が生まれてから精肉されるまで一貫してひとつの場所で行われているらしい。豚は種付けから出産、育成、そして炭酸ガスで眠らされて肉の塊になる。鶏も同じようにわずか43日で首を回転刃物で切り取られて肉になる。ブロイラーという言葉は、「ボイル」と「ロースト」を組み合わせて作られた造語らしいけれども、もうそこには生き物としての尊厳はないようにも思える。

そこは命がなくなる場所であり、人の命をつなぐために食料が生産される場所であるけれどもほとんど誰にも知られていない。(そういえば、テレビでも紹介されていたのを見たのは1回だけだ。それもわずかな時間しか放送していなかったように思う。)この本はイギリス人が書いているが日本でも同じで、差別的な問題が影を落としていることもあるのか、一般の社会からあまりにもかけはなれた世界に存在しているように感じる。僕も、そんな現場の存在を考えたこともなかった。ちなみに和歌山県には新宮市に1か所あるそうだ。それも意味深である。
かつて動物の肉というのは祝祭日や季節の節目など特別な時に食されるものであった。その食材は自分たちで屠ったものであった。しかし、現代、肉を日常的に食べるのは普通のことだ。それを可能にしたのが動物工場である。ひきかえに屠りの場面というものが日常生活から消えていった。

筆者はこの、市場と現場のあまりにもかけ離れた距離と家畜に対する扱いについて世界に対してもっと知ってほしいという思いがこの本を書くきっかけのひとつになったようだ。
工場の担当者は、家畜にはできるだけストレスと苦痛を与えないようにして殺すようにしているという。イスラム教ではハラルという基準があって、食肉はコーランの一節を聞きながら死んでいったものの肉しか食べてはいけないということになっているそうだが、一部だが、今では先に気絶させて痛みや恐怖(やっている人たちはコーランを聞いているから動物たちは痛みも恐怖も感じていないのだと考えているらしいが・・。)を感じないように、コーランを聞いていなくてもしきたりに則った方法で処理をされていれば問題ないということになっているらしい。
しかし、現場では生きている動物に電気を流したりガスを吸わせたり、脳天にボルトを打ち込んだりして命を奪う。考えてみなくてもかなり残酷だ。そうしないと世界の食糧事情を賄えないのが事実であるから著者はそれを非難しているわけではない。ただ、それを知ったうえで肉を食べてほしいと考えているようだ。そして、そういう行為を自ら体験するためにウサギからはじまり、鹿、豚、羊、鶏と自分の手で屠るという行為を体験する。

スーパーの棚に並んでいる肉には何の違和感もない。しかし、そう考えてみれば、この肉の持ち主?もひと月くらい前まではちゃんと息をしていて、生まれる場所が違っていればいまでもどこかの牧場で草を食んでいたのかもしれないし、無機質で太陽の光を浴びることなく生涯を終えることもなかったのかもしれない。僕の家ではほぼ米国産格安牛肉か豚肉しか食べないからきっと牛はともかく、豚のほうはおそらく工場で生まれて工場で死んでいった豚であろうと思う。
そう考えるとなんと無知ということはなんと残酷なことだろう。しかし、ヴィーガンになることもヴェジタリアンになることもできない。

きっと、汚いところも見なさいよ。そう著者は訴えているのだ。

魚を釣って食べるということはこういうことに近いだろうか。哺乳類とはあまりにもかけ離れた姿かたちをしているから、そして僕も魚を捌くことや〆ることにはかなり慣れっこになってしまっているから恐怖感はや残酷だという感覚はかなり薄れてしまっている。しかし、いつも心に留めているのは、確かに、「僕は殺しているのだ。」ということだ。それだけは忘れたくないと思っている。食べない魚は殺したくない。できるだけ元気に海に帰してやりたい。食べるからには美味しく食べてやりたい。そう思っている。などというと自分でもこれは偽善でしかないなと思えてくる。なにせそれを食べなくても僕は飢えることはない。それに加えてこんな本を読んでしまうと精肉が作られるその裏の世界を知らないままでこの肉は硬いなどと言っている自分は恥の塊ではないのかと思えてくるのだ。
だからといって、それを食べないと生きてゆけないのだから死ぬまで偽善者を通さなければならないということか・・。

著者は漁業についても体験をしている。これについては環境ジャーナリストとしてかなり手厳しい表現をしている。
乱獲による資源の枯渇と養殖魚の遺伝子組み換えや遺伝を組み替えた餌の使用、抗生物質の大量投与についてだ。著者も魚が苦痛を感じるという認識を持っているが、それよりも環境に与えるダメージのほうを強調している。そして、イギリスではその環境を守れと声を上げているのが普段は魚に対していってみれば無駄な残虐行為をしている釣り人であるというのがどこか頼もしいと著者は言う。
1年の期間が終わり近づくころ、再び自らの手で獲物を獲得する行動に出る。それは鳥追い猟であったり鹿のハンティング、または路上で事故に遭った動物の死骸を見つけるものであるが、そこでこんな感想を漏らしている。『スーパーマーケットが全店閉まることになったらほかの人々と同じように大混乱するかもしれないが、生き延びるいくばくかのチャンスはあるだろう。』後半では著者のハンターやアングラーに対する肯定的な意見が目立ってきているけれども、ちょっとノスタルジックに浸りすぎているのではないかと思うのである。もしくは日本よりも自然が残っているイギリスではそう思うことができるほど狩りや釣りで豊富な獲物を獲得できる環境が整っているのだろうか。

どちらにしても、確かに、「生きるためには命を奪わねばならない。そしてそこから目を背けてはならない。」という主張は汲みとることができそうだ。

それではそういう罪悪感から逃れたいという人たちは、倫理的肉食者としてもっと知り、来歴のわかっているものだけを食べるべきだ。そして、環境保護のためにもその量を減らすべきだという。さらに、環境負荷の少ない代替肉や昆虫食ということも考えるべきだと締めくくっているのだが、そんな本を読んだからといって、多分僕の食生活は変わらないと思うのだ・・。
コメント
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