平松 洋子 「忘れない味 「食べる」をめぐる27篇 」読了
平松洋子のエッセイだと思って借りたら、これもアンソロジーだった。平松洋子の文体もなんだか食に関する文章にしては純文学っぽい感じがするのだが、彼女が選ぶ文章もはやりそんな感じがする。
27人の作品が収められているが、読んだことのある作家は江國香織くらいしかなかったということはやっぱり僕の読書癖からはほど遠い文学の世界のようだ。
ショートショートあり、エッセイあり、またどちらともとれるような文章を、「味」というキーワードでまとめている。
食材や食べることが主題ではないが、どの作品にもどこかにそういうものが入っている。
人は食べるために生きているわけではないが、食べないことには生きられない。だから生きていゆくそこここに必ず食べることが入り込んでくる。
そんな一コマを切り取った文章たちだ。
食べることはもちろん嫌いではない。むしろいろんなものを食べたいと思うほうだ。しかし、特に美味しい店を食べ歩くというのでもなく、百貨店で高級食材を買い求めるのでもない。
もともと何かを作ることが好きな性分だから料理も自分で作るのが好きだ。このブログも釣りと読書以外の記事では料理を作ったというのが多いように思う。
料理を自分で作ろうと思ったきっかけはメジロを飼うことから始まったように思う。メジロには練り餌を与えるのだが、それに大根の葉をきざんでミキサーにかけ、ペースト状にして混ぜる必要がある。叔父さんの家から大根の葉(もちろん本体も)をもらってきてきざむのだが、そんなことをしているうちに野菜のみじん切りが上手になってきた。同じころ、義理の兄が「美味しんぼ」の単行本をたくさん貸してくれた。それにテレビでは、「味の招待席」という、桂米朝が司会をしている5分ほどの番組が放送されていて毎日それを見ていた。どちらも食べるというより作るほうに重点が置かれた構成だった。
そんなものを見ていて自分でも料理を作ってみようかという感じになってきた。父親が亡くなり魚は自分で釣ってくるものというようになるとそれにますます拍車がかかるようになった。素材はたくさんある、というか、いつも同じ魚ばかり釣ってくるものだから家族が飽きないようにしなければならない。そういうことも自分で料理を考えたり作ったりする要因だ。そのうちいくつかの定番料理ができあがり、今に至っている。作るのをやめてしまった料理もあるし、進化を続けている料理もある。
そして我流ながら包丁をうまく研げるようになってくると何でもいいから切りたくなる。
あれもこれもやりたいという年齢はすでに過ぎているのだが、料理をつくりことは適当に続けていこうと思う。
インスタントとか、出来合いの総菜ものというのは大嫌いだ。できることなら食べたくない。それに頼り切るようになったら僕の人生は終わったも同然だ。
たかが食べることではあるけれども、この本の小作品のように、食べることというのは日常のどこにでも存在し、消えてはいけないものなのであるから。
平松洋子のエッセイだと思って借りたら、これもアンソロジーだった。平松洋子の文体もなんだか食に関する文章にしては純文学っぽい感じがするのだが、彼女が選ぶ文章もはやりそんな感じがする。
27人の作品が収められているが、読んだことのある作家は江國香織くらいしかなかったということはやっぱり僕の読書癖からはほど遠い文学の世界のようだ。
ショートショートあり、エッセイあり、またどちらともとれるような文章を、「味」というキーワードでまとめている。
食材や食べることが主題ではないが、どの作品にもどこかにそういうものが入っている。
人は食べるために生きているわけではないが、食べないことには生きられない。だから生きていゆくそこここに必ず食べることが入り込んでくる。
そんな一コマを切り取った文章たちだ。
食べることはもちろん嫌いではない。むしろいろんなものを食べたいと思うほうだ。しかし、特に美味しい店を食べ歩くというのでもなく、百貨店で高級食材を買い求めるのでもない。
もともと何かを作ることが好きな性分だから料理も自分で作るのが好きだ。このブログも釣りと読書以外の記事では料理を作ったというのが多いように思う。
料理を自分で作ろうと思ったきっかけはメジロを飼うことから始まったように思う。メジロには練り餌を与えるのだが、それに大根の葉をきざんでミキサーにかけ、ペースト状にして混ぜる必要がある。叔父さんの家から大根の葉(もちろん本体も)をもらってきてきざむのだが、そんなことをしているうちに野菜のみじん切りが上手になってきた。同じころ、義理の兄が「美味しんぼ」の単行本をたくさん貸してくれた。それにテレビでは、「味の招待席」という、桂米朝が司会をしている5分ほどの番組が放送されていて毎日それを見ていた。どちらも食べるというより作るほうに重点が置かれた構成だった。
そんなものを見ていて自分でも料理を作ってみようかという感じになってきた。父親が亡くなり魚は自分で釣ってくるものというようになるとそれにますます拍車がかかるようになった。素材はたくさんある、というか、いつも同じ魚ばかり釣ってくるものだから家族が飽きないようにしなければならない。そういうことも自分で料理を考えたり作ったりする要因だ。そのうちいくつかの定番料理ができあがり、今に至っている。作るのをやめてしまった料理もあるし、進化を続けている料理もある。
そして我流ながら包丁をうまく研げるようになってくると何でもいいから切りたくなる。
あれもこれもやりたいという年齢はすでに過ぎているのだが、料理をつくりことは適当に続けていこうと思う。
インスタントとか、出来合いの総菜ものというのは大嫌いだ。できることなら食べたくない。それに頼り切るようになったら僕の人生は終わったも同然だ。
たかが食べることではあるけれども、この本の小作品のように、食べることというのは日常のどこにでも存在し、消えてはいけないものなのであるから。