世良康 「釣りの名著50冊」読了
月刊「つり人」に連載されている、「釣本耽読」というコラムをまとめたものだそうだ。
50の著作について委細詳しく解説されている。よくぞここまで調べられたものだと思うほど、作品のあらすじだけではなく、作家の人生、釣りとの関わり、人間関係にいたるまで書かれている。
登場する作家同士の関係も詳しく書かれ、例えば、井伏鱒二の「川釣り」には太宰治が出てくるが、その次には太宰治が書いた釣りにまつわる作品が紹介され、そこに出てくる場面は「川釣り」に出てくるこの場面のエピソードである。と、いうような感じである。僕はこの本を読むまで、太宰治が井伏鱒二の弟子であったとは知らなかった。太宰治が井伏鱒二に初めて釣りに連れられたときは魚が釣れなかったそうだが、もし、そこで魚を釣り上げることができていたならなら、あんなに悲劇的な人生を歩まなかったのではないだろうかと書いている。多分、これは、釣りは人生そのものだと思っている釣りキチのひとりよがりの感想にほかならないのだろうけれども、そのひとりである僕には納得できる見解だ。
そのほか、ロッキード事件の黒幕の児玉誉士夫の次にはその時の法務大臣であった稲葉修が取り上げられ、師の次に林房雄の「緑の水平線」が取り上げられているのは、師がよく使った、「釣り師は 心に傷があるから釣りに行く。 しかし、彼はそれを知らないでいる。」という半句はこの本から取られたものだからだ。
うまい構成だと思う。
そして、その師の著作は「戦場の博物誌」が取り上げられている。「オーパ」でもなく「フィシュ・オン」でもない。あまり知られていない作品だが、この選択が著者の考えを物語っている。
魚釣りそのものの躍動的な場面を切り取るのではなく、その作家が人生を送る中で“釣り”というものがどういう役割を担ったか。食糧難の時代のたんぱく源であったり、人生の悩みの逃避先であったり、仕事に疲れた時の気分転換であったり、はたまた人生を破綻させる原因になったりするのだが、そういうところを深く深く掘り下げている。テーマは「釣り」であるけれども、これは作家論そのものということになるのである。
師の作品では、ベトナム戦争の前線に近いところで地元の住人たちが砲弾の飛び交う中でライギョを釣っているという場面が取り上げられている。著者の見解では、その光景にかつて空襲におびえながら飢えをしのぐためにライギョを釣った自分の姿を見ているのだということだが、僕の考えでは逆に師はそこに何も見ることができなかったのではないかと思う。師の言葉に、「入ってきて生と呼び、出て行って死と呼ぶ。」というものがあるが、人生とはただそれだけであるということを極限状態の中でただ釣りをしてだけの姿に感じたのではなかったのかと思うのだ。
取り上げられている作家はほとんどが明治から戦前までの生まれで、ほとんどの人がすでに亡くなっている。今の時代を生きる人たちが釣りの中に人生を見るには現代の釣りはシステマティックになりすぎてしまったのだろうか。どのひともどうやったら釣れるのだろうかということが第一義になり、テグスをとおして人生を透かし見る余裕がないように思う。暇なときには釣りビジョンを見ているけれどもそこにも能天気な釣り人しか出てこない。もう、釣り文学というものは新しく生まれないないのだろうか。
俳優の山村聰はこう書いている。『釣りはどうしても一種の人生哲学に行きつかざる負えない。釣り自体が遊びを超えてその人の人生になりうるのである。』
いつかの時代まではきっとこんな人がたくさんいたのだと思う。この本に収録されている作家たちと同じように、悩みの種であったり反対に悩みから救ってくれるものであったり悩みから逃げる先であったりしたはずだ。それがいつの頃から人生哲学の部分が消えてしまったのだろうか。ひょっとしたら「釣りバカ日誌」が映画になったころだろうか。それともダイワやシマノのカタログがやたらと分厚くなるにつれて釣りをするのにお金がかかるようになってからだろうか。
いづれにしても人並みに仕事ができないのに釣りに熱中してしまっていると僕にも後ろめたさという人生哲学が残ってしまう。そんなことを思わずにただ釣ることだけに熱中したいものだが、山村聰のことばを借りると、「釣り自体が遊びを超えてその人の人生になりうるのである。」から、その釣りにはそのひとの人生観が反映されるのだから仕方がない。
僕の最後の釣行は一体どこにいって何を釣ることになるのかはまだ知らないが、その時まで僕の悩みは終わらないのかもしれない。
取り上げられている本の中で、間違いなく過去に読んでいるという本は、13冊あった。ほとんどはこのブログに書いていないということは15年以上前に読んだものなのだろうが、それにしてもほとんどまったくといっていいほど記憶に残っていない。これが情けない。
名前の知らない作家でもその人の略歴や釣りとの関わりについてのエピソードが書かれているのでなんとなくとっつきやすく感じるので機会があれば読んでみようと思える。そういう書き方も好感が持てた。
月刊「つり人」に連載されている、「釣本耽読」というコラムをまとめたものだそうだ。
50の著作について委細詳しく解説されている。よくぞここまで調べられたものだと思うほど、作品のあらすじだけではなく、作家の人生、釣りとの関わり、人間関係にいたるまで書かれている。
登場する作家同士の関係も詳しく書かれ、例えば、井伏鱒二の「川釣り」には太宰治が出てくるが、その次には太宰治が書いた釣りにまつわる作品が紹介され、そこに出てくる場面は「川釣り」に出てくるこの場面のエピソードである。と、いうような感じである。僕はこの本を読むまで、太宰治が井伏鱒二の弟子であったとは知らなかった。太宰治が井伏鱒二に初めて釣りに連れられたときは魚が釣れなかったそうだが、もし、そこで魚を釣り上げることができていたならなら、あんなに悲劇的な人生を歩まなかったのではないだろうかと書いている。多分、これは、釣りは人生そのものだと思っている釣りキチのひとりよがりの感想にほかならないのだろうけれども、そのひとりである僕には納得できる見解だ。
そのほか、ロッキード事件の黒幕の児玉誉士夫の次にはその時の法務大臣であった稲葉修が取り上げられ、師の次に林房雄の「緑の水平線」が取り上げられているのは、師がよく使った、「釣り師は 心に傷があるから釣りに行く。 しかし、彼はそれを知らないでいる。」という半句はこの本から取られたものだからだ。
うまい構成だと思う。
そして、その師の著作は「戦場の博物誌」が取り上げられている。「オーパ」でもなく「フィシュ・オン」でもない。あまり知られていない作品だが、この選択が著者の考えを物語っている。
魚釣りそのものの躍動的な場面を切り取るのではなく、その作家が人生を送る中で“釣り”というものがどういう役割を担ったか。食糧難の時代のたんぱく源であったり、人生の悩みの逃避先であったり、仕事に疲れた時の気分転換であったり、はたまた人生を破綻させる原因になったりするのだが、そういうところを深く深く掘り下げている。テーマは「釣り」であるけれども、これは作家論そのものということになるのである。
師の作品では、ベトナム戦争の前線に近いところで地元の住人たちが砲弾の飛び交う中でライギョを釣っているという場面が取り上げられている。著者の見解では、その光景にかつて空襲におびえながら飢えをしのぐためにライギョを釣った自分の姿を見ているのだということだが、僕の考えでは逆に師はそこに何も見ることができなかったのではないかと思う。師の言葉に、「入ってきて生と呼び、出て行って死と呼ぶ。」というものがあるが、人生とはただそれだけであるということを極限状態の中でただ釣りをしてだけの姿に感じたのではなかったのかと思うのだ。
取り上げられている作家はほとんどが明治から戦前までの生まれで、ほとんどの人がすでに亡くなっている。今の時代を生きる人たちが釣りの中に人生を見るには現代の釣りはシステマティックになりすぎてしまったのだろうか。どのひともどうやったら釣れるのだろうかということが第一義になり、テグスをとおして人生を透かし見る余裕がないように思う。暇なときには釣りビジョンを見ているけれどもそこにも能天気な釣り人しか出てこない。もう、釣り文学というものは新しく生まれないないのだろうか。
俳優の山村聰はこう書いている。『釣りはどうしても一種の人生哲学に行きつかざる負えない。釣り自体が遊びを超えてその人の人生になりうるのである。』
いつかの時代まではきっとこんな人がたくさんいたのだと思う。この本に収録されている作家たちと同じように、悩みの種であったり反対に悩みから救ってくれるものであったり悩みから逃げる先であったりしたはずだ。それがいつの頃から人生哲学の部分が消えてしまったのだろうか。ひょっとしたら「釣りバカ日誌」が映画になったころだろうか。それともダイワやシマノのカタログがやたらと分厚くなるにつれて釣りをするのにお金がかかるようになってからだろうか。
いづれにしても人並みに仕事ができないのに釣りに熱中してしまっていると僕にも後ろめたさという人生哲学が残ってしまう。そんなことを思わずにただ釣ることだけに熱中したいものだが、山村聰のことばを借りると、「釣り自体が遊びを超えてその人の人生になりうるのである。」から、その釣りにはそのひとの人生観が反映されるのだから仕方がない。
僕の最後の釣行は一体どこにいって何を釣ることになるのかはまだ知らないが、その時まで僕の悩みは終わらないのかもしれない。
取り上げられている本の中で、間違いなく過去に読んでいるという本は、13冊あった。ほとんどはこのブログに書いていないということは15年以上前に読んだものなのだろうが、それにしてもほとんどまったくといっていいほど記憶に残っていない。これが情けない。
名前の知らない作家でもその人の略歴や釣りとの関わりについてのエピソードが書かれているのでなんとなくとっつきやすく感じるので機会があれば読んでみようと思える。そういう書き方も好感が持てた。