ジーナ・レイ・ラ・サーヴァ/著 棚橋志行/訳 「野生のごちそう 手つかずの食材を探す旅」読了
著者は、地理学者、環境人類学者という肩書を持ったアメリカ人だ。
『未開の土地が消えていくにつれ、食べ物の選択肢は狭まってきた。』そんな中、『ほとんど品種改良を受けず、加工もされてこなかった純粋な食材を摂取するのはどんな心地がするだろう。』という探求心で世界の各地を巡るというルポルタージュだ。
こういうテーマで書かれる書物というと、環境破壊が人間の生き方にどれほどの害悪を与え、人類はどの方向に向かうべきかというようなことを論じている本だと思うけれども、そんな感じはない。人類が自然環境に強力な負荷を与えて始めてから、自然界から直接得られる食材はどのように変化してきたかを淡々と述べている。おそらく彼女はそれも不自然とはいえ自然の流れのなかでの変化のひとつなのだと受け入れているような感じである。
環境破壊は悪で環境保護は善であると思い込んでいること自体、僕の頭はすでに二元論に冒されており硬直化しているということだろう。
欧米では現在、自然から直接得た食材に注目が集まっているそうだ。それはつい最近まで人間が普通に食べてきたものだけれどもおそらくは産業革命を境にして急激にそういうものを食べる機会が少なくなった。では、今、どうして注目を集めているのか。
そういったことを歴史や世界の各地の様々な場面を通して考えている。
旅はコペンハーゲンから始まる。ここでは都市の公園で採られるハーブについて語られる。いわば現在の自然から直接とれる食材についてのルポだ。ラムソンという、形は違うが日本でいうノビルのような食材が出てくる。コペンハーゲンでは有名な自然食材を出すレストランでも都市の公園で採れたものを使うそうだけれども、都市の土壌というのは鉛や農薬で汚染されていることがある。それでも彼らなぜ自然からの食材を欲するのか。それは、『不快感や暴食、健康の低下や種の絶滅、汚染や危機のさらされている現代において、野生の食材は人の心を酔わせるシンボル』となっているからだという。
時代をさかのぼり、封建時代の狩猟による大型獣の肉について語られる。ここではポーランドについて書かれている。封建領主が生まれ、庶民が使っていた土地を占領しそこを狩場として使うことで食肉というものは貴族に独占されることになってしまうのだが、この国は列強の侵略により領主がよく入れ替わった。そんななか、庶民はたくましくも追い出された土地に戻り猟を繰り返した。
外敵からずっと包囲されてきた文化は、森にかかわるという伝統によってひとつに束ねられてきた。国境が移動しても土地への忠誠心は変わらないということだ。それがアイデンティティだったのだという。
大航海時代ではウミガメを取り上げている。
ウミガメの移動範囲はかつてアフリカから新大陸へ奴隷を運んだルートと同じであったらしく、ウミガメは道中で食料として重宝されたそうだ。それがなければ多数の奴隷を運ぶことはできなかったという。アメリカの発展はウミガメが支えたといっても過言ではないということにもなるのだが、これも乱獲によってどんどん数を減らし、とうとう上流階級だけが食べることができる貴重な食材となった。
時代と環境が変わると食材の価値が一気に変わるという例として挙げられている。
世界の主役が新大陸に移ろうとする頃のことは、幾種類かの鳥類について書かれている。過酷な労働環境のもと、労働者の貴重なたんぱく源となる。しかし、これも乱獲により絶滅、もしくは保護の対象となっていくのである。
こうやって自然から直接得られる食材の種類は減り続け、代わりに家畜であったり栽培植物がとって変わっていくのである。自分がよく行くスーパーでも、魚はイワシ、サバ、アジ、鮭くらいしかなく、その他の魚介類でもエビは冷凍のバナメイエビかホタテの冷凍貝柱くらいしか種類は並んでいない。そういえばカレイのパン粉焼きともとは何という魚が使われているか知らないが、白身魚のフライというのもあったか・・。それでもそのくらいだ。野菜も白菜やキャベツ、レタス、大根、ニンジン、ホウレンソウくらいかそんなものだ。肉も当たり前だが牛、豚、鶏の3種類しかない。
幸いにして調理法というのがいろいろあるからなんとなくたくさんの食材を食べているように思うがよく考えれば本当に種類は少ない。たぶん縄文人たちはきっとこれの数倍の種類の食材を食べていただろう。
たかが食べることなのだし、同じ調理法でいろいろな味わいができればそれでもいいのではないかと思ったりもする。そんなに栄養価も変わらないし・・。とはいっても、たくさんの種類の食材を食べなければ、腸内細菌の種類が激減するそうだ。これはただの統計上の話だが、腸内細菌の種類が多いほど長寿になる。縄文時代のウンコの化石からは現代人の数倍の種類の腸内細菌が見つかり、長寿な地域の人たちの腸内細菌は普通の地域の人よりも多いということがわかっている。縄文人は現代人よりも明らかに短命であったのだろうが、それは医療技術の違いであるのだからやっぱりたくさんの種類の食材を食べるということは健康上必要であるには違いない。
ただ、これは幸いにしてというか、僕自身が釣りや山菜採りに行って普通ではあまり食べることができない食材を手に入れることができたり、叔父さんの家でもスーパーには出てこないような野菜をもらえたりしているからそういう風に思うだけなのかもしれない。個人的には種類よりも鮮度だと思っているところもある。
ただ、これはあくまでも貧乏人の考えのようで、この本では上流階級になるほどそういった珍しい食材を追い求めたくなるようなのである。
確かに貧乏人のコストコよりもたとえ三流でも百貨店のほうがいろいろな食材を取り揃えている。鮮度がいいかどうかは別だが。
著者はそういった欲求をこうまとめている。
『貧しい時は文明の産物にあこがれる。金持ちになると必要が満たされて、自然の産物が欲しくなる。』『人が野生の食材を食べると過去の自然の豊かさと物質的貧困両方への郷愁が押し寄せてくる。人間であることに現在と違う意味があった時代を経験したい。そんな思いがある。いつでも好きなときに快適な文明へ戻れる恩恵を手にしているからこそ。』だというのだ。
まさしくその通りだと思う。
そういった矛盾がどんなところに出てくるのか、コンゴ共和国の旅で現実をルポしている。
密猟が横行し、それを逃れるための賄賂、密輸、裏の経済が回り始め、自然の管理の歯止めが利かなくなってゆく。それらはヨーロッパの各国に流れてゆく。一方北欧では家畜を襲うオオカミは害獣とされ駆除の対象となりそのために増えすぎる草食動物があり、環境破壊の一端を担う。
すべてを見てみると、人間の過剰な自然への介入がすべてを引き起こしているように見える。
食べるものの種類が減ったのはまさしく自業自得だ。おそらく自分の身の回りの範囲で自分たちの分だけの食材を調達する分には自然は何の変化も起こさなかっただろう。ほかの場所のひとの分まで取ろうとするところから破綻が始まる。増えすぎた人口を維持するためには仕方がなかったのか・・。安全で便利な生活を得るためには仕方がなかったのか・・。それの答えがコロナショックだったのだろう。
自然は自分の身の回りだけで生きてゆけと警告しているのだ。もともと、「人と人はわかりあえない。」というテーゼは存在していた。23日の夜、オリンピックの開会式をやっていたが、国家ではない選手団もあったが全部で205の国や地域が入場してきた。国境というのは、そもそも分かり合えない同士だからここを境に干渉し合わないでおきましょうという境目だったはずだ。それを超えてモノやヒトが行き来するというのは、本来は好ましくないものであり、その禁を冒すことで様々な矛盾が生じるのだということがコロナショックでようやくわかり始めた。
しかし、こんなにたくさんの国があるのかというほど知らない国があった。入場行進は50音順で並んでいたが、マ行やラ行で始まる国がこんなにあったのかと思った。それをいうなら、ア行の国も多かったが・・。それだけ線を引いておかないとあれこれ問題がおきるということだろう。それでもいたるところで問題は起きているが・・。
それと、もうひとつ。国旗や大会旗、聖火を運ぶ人たちの中には、エッセンシャルワーカーと言われる人たちが多数出てきたが、ヒャッカテンノテンインやテンボウダイノカンリニンなどという人はひとりも出てこなかった。これも当たり前のことではあるけれども、なんだか虚しくなってきた。
「人は楽をしたがる。」というのもひとつのテーゼである。だから安く食べられるものがあればそれが多彩でなくてもそこのところは我慢をして楽をしよう、インフラも整ったものがあれば楽ができる。そういうことも人のこころの根底にある。
「楽をしたい。」と「人と人はわかりあえない。」のはざまで、人は永遠に右往左往するということなのだろう。
釣りもそうだが、ハンティングというのもそれを生業としている人というのは世界中を見てもごく少数だろう。趣味としての(釣りを含めてもいいのだろう)狩猟について、著者はこう言う。
『娯楽としての狩猟は、いうなれば節度のある暴力だ。ひとときの野生を体験して気力を復活させる。そのために狩猟に出る。』
これもなるほどだと思う。
僕もさすがにハンティングは無理だが釣りには行く。師は、「釣り師は 心に傷があるから釣りに行く。 しかし、彼はそれを知らないでいる。」と語ったが、僕はなぜ釣りに行くのかと考えてみると、実はあまりよくわからなかったりする。釣ることが楽しいのか、この本のように、自然から直接得た食材を食べたいという欲求がそうさせるのか。この2択で考えると52対48くらいかななどと思ったりもするが、かっこいい言葉で締めくくると、俳優の山村聰が書いているように、「釣り自体が遊びを超えてその人の人生になりうるのである。」と思いたいのである。
著者は、地理学者、環境人類学者という肩書を持ったアメリカ人だ。
『未開の土地が消えていくにつれ、食べ物の選択肢は狭まってきた。』そんな中、『ほとんど品種改良を受けず、加工もされてこなかった純粋な食材を摂取するのはどんな心地がするだろう。』という探求心で世界の各地を巡るというルポルタージュだ。
こういうテーマで書かれる書物というと、環境破壊が人間の生き方にどれほどの害悪を与え、人類はどの方向に向かうべきかというようなことを論じている本だと思うけれども、そんな感じはない。人類が自然環境に強力な負荷を与えて始めてから、自然界から直接得られる食材はどのように変化してきたかを淡々と述べている。おそらく彼女はそれも不自然とはいえ自然の流れのなかでの変化のひとつなのだと受け入れているような感じである。
環境破壊は悪で環境保護は善であると思い込んでいること自体、僕の頭はすでに二元論に冒されており硬直化しているということだろう。
欧米では現在、自然から直接得た食材に注目が集まっているそうだ。それはつい最近まで人間が普通に食べてきたものだけれどもおそらくは産業革命を境にして急激にそういうものを食べる機会が少なくなった。では、今、どうして注目を集めているのか。
そういったことを歴史や世界の各地の様々な場面を通して考えている。
旅はコペンハーゲンから始まる。ここでは都市の公園で採られるハーブについて語られる。いわば現在の自然から直接とれる食材についてのルポだ。ラムソンという、形は違うが日本でいうノビルのような食材が出てくる。コペンハーゲンでは有名な自然食材を出すレストランでも都市の公園で採れたものを使うそうだけれども、都市の土壌というのは鉛や農薬で汚染されていることがある。それでも彼らなぜ自然からの食材を欲するのか。それは、『不快感や暴食、健康の低下や種の絶滅、汚染や危機のさらされている現代において、野生の食材は人の心を酔わせるシンボル』となっているからだという。
時代をさかのぼり、封建時代の狩猟による大型獣の肉について語られる。ここではポーランドについて書かれている。封建領主が生まれ、庶民が使っていた土地を占領しそこを狩場として使うことで食肉というものは貴族に独占されることになってしまうのだが、この国は列強の侵略により領主がよく入れ替わった。そんななか、庶民はたくましくも追い出された土地に戻り猟を繰り返した。
外敵からずっと包囲されてきた文化は、森にかかわるという伝統によってひとつに束ねられてきた。国境が移動しても土地への忠誠心は変わらないということだ。それがアイデンティティだったのだという。
大航海時代ではウミガメを取り上げている。
ウミガメの移動範囲はかつてアフリカから新大陸へ奴隷を運んだルートと同じであったらしく、ウミガメは道中で食料として重宝されたそうだ。それがなければ多数の奴隷を運ぶことはできなかったという。アメリカの発展はウミガメが支えたといっても過言ではないということにもなるのだが、これも乱獲によってどんどん数を減らし、とうとう上流階級だけが食べることができる貴重な食材となった。
時代と環境が変わると食材の価値が一気に変わるという例として挙げられている。
世界の主役が新大陸に移ろうとする頃のことは、幾種類かの鳥類について書かれている。過酷な労働環境のもと、労働者の貴重なたんぱく源となる。しかし、これも乱獲により絶滅、もしくは保護の対象となっていくのである。
こうやって自然から直接得られる食材の種類は減り続け、代わりに家畜であったり栽培植物がとって変わっていくのである。自分がよく行くスーパーでも、魚はイワシ、サバ、アジ、鮭くらいしかなく、その他の魚介類でもエビは冷凍のバナメイエビかホタテの冷凍貝柱くらいしか種類は並んでいない。そういえばカレイのパン粉焼きともとは何という魚が使われているか知らないが、白身魚のフライというのもあったか・・。それでもそのくらいだ。野菜も白菜やキャベツ、レタス、大根、ニンジン、ホウレンソウくらいかそんなものだ。肉も当たり前だが牛、豚、鶏の3種類しかない。
幸いにして調理法というのがいろいろあるからなんとなくたくさんの食材を食べているように思うがよく考えれば本当に種類は少ない。たぶん縄文人たちはきっとこれの数倍の種類の食材を食べていただろう。
たかが食べることなのだし、同じ調理法でいろいろな味わいができればそれでもいいのではないかと思ったりもする。そんなに栄養価も変わらないし・・。とはいっても、たくさんの種類の食材を食べなければ、腸内細菌の種類が激減するそうだ。これはただの統計上の話だが、腸内細菌の種類が多いほど長寿になる。縄文時代のウンコの化石からは現代人の数倍の種類の腸内細菌が見つかり、長寿な地域の人たちの腸内細菌は普通の地域の人よりも多いということがわかっている。縄文人は現代人よりも明らかに短命であったのだろうが、それは医療技術の違いであるのだからやっぱりたくさんの種類の食材を食べるということは健康上必要であるには違いない。
ただ、これは幸いにしてというか、僕自身が釣りや山菜採りに行って普通ではあまり食べることができない食材を手に入れることができたり、叔父さんの家でもスーパーには出てこないような野菜をもらえたりしているからそういう風に思うだけなのかもしれない。個人的には種類よりも鮮度だと思っているところもある。
ただ、これはあくまでも貧乏人の考えのようで、この本では上流階級になるほどそういった珍しい食材を追い求めたくなるようなのである。
確かに貧乏人のコストコよりもたとえ三流でも百貨店のほうがいろいろな食材を取り揃えている。鮮度がいいかどうかは別だが。
著者はそういった欲求をこうまとめている。
『貧しい時は文明の産物にあこがれる。金持ちになると必要が満たされて、自然の産物が欲しくなる。』『人が野生の食材を食べると過去の自然の豊かさと物質的貧困両方への郷愁が押し寄せてくる。人間であることに現在と違う意味があった時代を経験したい。そんな思いがある。いつでも好きなときに快適な文明へ戻れる恩恵を手にしているからこそ。』だというのだ。
まさしくその通りだと思う。
そういった矛盾がどんなところに出てくるのか、コンゴ共和国の旅で現実をルポしている。
密猟が横行し、それを逃れるための賄賂、密輸、裏の経済が回り始め、自然の管理の歯止めが利かなくなってゆく。それらはヨーロッパの各国に流れてゆく。一方北欧では家畜を襲うオオカミは害獣とされ駆除の対象となりそのために増えすぎる草食動物があり、環境破壊の一端を担う。
すべてを見てみると、人間の過剰な自然への介入がすべてを引き起こしているように見える。
食べるものの種類が減ったのはまさしく自業自得だ。おそらく自分の身の回りの範囲で自分たちの分だけの食材を調達する分には自然は何の変化も起こさなかっただろう。ほかの場所のひとの分まで取ろうとするところから破綻が始まる。増えすぎた人口を維持するためには仕方がなかったのか・・。安全で便利な生活を得るためには仕方がなかったのか・・。それの答えがコロナショックだったのだろう。
自然は自分の身の回りだけで生きてゆけと警告しているのだ。もともと、「人と人はわかりあえない。」というテーゼは存在していた。23日の夜、オリンピックの開会式をやっていたが、国家ではない選手団もあったが全部で205の国や地域が入場してきた。国境というのは、そもそも分かり合えない同士だからここを境に干渉し合わないでおきましょうという境目だったはずだ。それを超えてモノやヒトが行き来するというのは、本来は好ましくないものであり、その禁を冒すことで様々な矛盾が生じるのだということがコロナショックでようやくわかり始めた。
しかし、こんなにたくさんの国があるのかというほど知らない国があった。入場行進は50音順で並んでいたが、マ行やラ行で始まる国がこんなにあったのかと思った。それをいうなら、ア行の国も多かったが・・。それだけ線を引いておかないとあれこれ問題がおきるということだろう。それでもいたるところで問題は起きているが・・。
それと、もうひとつ。国旗や大会旗、聖火を運ぶ人たちの中には、エッセンシャルワーカーと言われる人たちが多数出てきたが、ヒャッカテンノテンインやテンボウダイノカンリニンなどという人はひとりも出てこなかった。これも当たり前のことではあるけれども、なんだか虚しくなってきた。
「人は楽をしたがる。」というのもひとつのテーゼである。だから安く食べられるものがあればそれが多彩でなくてもそこのところは我慢をして楽をしよう、インフラも整ったものがあれば楽ができる。そういうことも人のこころの根底にある。
「楽をしたい。」と「人と人はわかりあえない。」のはざまで、人は永遠に右往左往するということなのだろう。
釣りもそうだが、ハンティングというのもそれを生業としている人というのは世界中を見てもごく少数だろう。趣味としての(釣りを含めてもいいのだろう)狩猟について、著者はこう言う。
『娯楽としての狩猟は、いうなれば節度のある暴力だ。ひとときの野生を体験して気力を復活させる。そのために狩猟に出る。』
これもなるほどだと思う。
僕もさすがにハンティングは無理だが釣りには行く。師は、「釣り師は 心に傷があるから釣りに行く。 しかし、彼はそれを知らないでいる。」と語ったが、僕はなぜ釣りに行くのかと考えてみると、実はあまりよくわからなかったりする。釣ることが楽しいのか、この本のように、自然から直接得た食材を食べたいという欲求がそうさせるのか。この2択で考えると52対48くらいかななどと思ったりもするが、かっこいい言葉で締めくくると、俳優の山村聰が書いているように、「釣り自体が遊びを超えてその人の人生になりうるのである。」と思いたいのである。