イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「新装 アニミズムという希望―講演録 琉球大学の五日間」読了

2021年08月21日 | 2021読書
山尾三省/著 山極 寿一/解説「新装 アニミズムという希望―講演録 琉球大学の五日間」読了

この本もタイトルが面白そうだと思い手に取ってみたのだが、読み始めてから著者の名前を見てみて、この人の名前に見覚えがあると気付いた。
僕はかつてアウトドア雑誌というものを2冊買って読んでいたのだが、そのうちの1冊が「OUTDOOR」というタイトルだった。隔月刊で、もうひとつの雑誌「BE-PAL」に比べるとちょっと硬派な感じの内容であり、そのなかで連載記事を書いていたのがこの人であった。連載内容がどんなものであったか、確かに屋久島に家族で移住した人だということ以外は思い出せないが、連載の執筆者の中で、遠藤ケイとこの人はかなりストイックな生活をしているなというのとこんな生活はかっこいいと思いながら読んでいたことを思い出した。名前だけでも記憶に残っていたというのは、自分でも気が付かないほどこの人に何か印象深いものを持っていたのだと思う。

もういちどプロフィールを調べてみると、
『1938年10月11日 - 2001年8月28日)は日本の詩人。東京市神田区神田松住町(現・東京都千代田区外神田)生まれ。
東京都立日比谷高等学校卒業、早稲田大学第一文学部西洋哲学科中退。1960年代の後半にななおさかきや長沢哲夫らとともに、社会変革を志すコミューン活動「部族」をはじめる。1973年、家族と、インド、ネパールへ1年間の巡礼の旅に出る。1977年、屋久島の廃村に一家で移住。以降、白川山の里づくりをはじめ、田畑を耕し、詩の創作を中心とする執筆活動の日々を屋久島で送る。1997年春、旧知のアメリカの詩人、ゲーリー・スナイダーとシエラネバダのゲーリーの家で再会。ゲーリーとは、1966年に京都で禅の修行をしていた彼と会ったのが最初で、そのとき、ふたりは1週間かけて、修験道の山として知られる大峰山を縦走している。ゲーリーがアメリカに戻り、三省はインドへ、そして屋久島へ移住したため、長い間交流が途絶えていた。三省は、ゲーリーの近年のテーマがバイオリージョナリズム(生命地域主義)であることを知り、自分が20年来考え続けてきた、「地球即地域、地域即地球」というコンセプトとあまりに近いことに驚いたという。2001年8月28日、屋久島にて胃癌のため死去。』
となっている。
この本は、1999年に琉球大学の講義内容を編集して2000年に出版されたものを復刊したものだそうだから、著者はその後すぐに亡くなったということになる。

講義内容は、自身が書いた詩をもとにして、人はどう生きてどう死んでゆくべきかということをアニミズムという言葉もひとつのキーワードとしながら進められている。
そして、プロフィールにも書かれているが、「バイオリージョナリズム(生命地域主義)」という考えが考え方の大きなベースとなっている。

アニミズムというと、僕自身は八百万の神々ということで、森羅万象のものすべてにひと柱ずつの神様が宿っているという考えだと思っていたのだがそれは少し違っていて、著者の説明では、『森羅万象に「アニマ」が宿っているという考え方を「アニミズム」という。アニマとは、生命、精霊、霊魂のことを指す。』となっていて、神が宿っているのではなく、生命や精霊、霊魂が宿っているという考えだそうだ。アニメーションの”アニ”も同じ意味だそうで、確かに絵が動いているというのは魂が宿っていると思える。
そしてそこに神を見出すのは自分自身の心であるというのが著者の考えだ。
『生きていく上で、神と呼べるものを持てるか持たないかということは、とても大事なことである。古くから継承されてきた間違いのない世界というものを自分のものにすることが出来れば、それだけで確かな人生を送れる。』というのである。
そして、この考え方がバイオリージョナリズムに発展してゆく。バイオリージョナリズムというのは、「里山資本主義」「脳と森から学ぶ日本の未来」などに書かれているものとほぼ同じで小さなコミュニティの中で生活を完結させるというものだ。
従来、ひとの生活圏というものは山や川などの自然地形によって区切られていた。そういう地形が人の往来を妨げるからだ。そしてその中で生活するひとがひとつの集団(著者が言う「部族(tribe)」)を形成して社会が成り立っていた。それに戻るべきであるというのである。

山尾三省がほかの2冊の著者と違うのは、それが経済面だけではなく、精神面でもそうあるべきであるというところだ。古くから伝えられているものを守りながらそこに自分の神を見出す。古くから伝えられていることを身をもって知るということはすなわち生まれ育った場所で最後まで暮らしてゆくということと同義である。
生活するということは、生きて働いて死ぬことである。著者はそこへも言及してゆく。
生きることとは。
生きることとはその意味を探し、見出すことである。かつては無限の成長が当たり前とされていた時代には生きることの意味というものは容易に見つけることができた。しかし、有限な資源の中で無限の発展はありえないとわかった以上、それができなくなった。『生きることに積極的な意味を見出せないとすれば、それを見出すということが仕事である。』という風に考え方を変えなくてはならないという。逆にいうと、それだけでいいとも受け取れる。
そして、働くということとは。
ここでは、シーシュポスの神話の例を挙げ、『不条理という視線から見るのではなく、生命に与えられた小さな喜びの相から見ていくならば、大岩を担ぎ上げて登っていくという行為そのものが喜びのためのひとつの労働として転換されてゆく。』というのである。
シーシュポスは、永遠の罰を受けて大きな岩を山の頂上に運んではそれを麓まで落とされるということを永遠に繰り返すのだが、著者はその不条理な労働の中にも、岩を担ぎ上げた後に見る頂上からの景色に感動し、麓に下る途中に受ける風に爽快感を感じるのではないだろうかというのである。
死ぬということとは。
『旅の終わりというのは、自分が死ぬという、この個体が死んでいくのが旅の終わりになる。そのときに一人できっちりと孤独に死んでいくというのも死に方だと思うが、やはり家族がいたほうがいい。妻なら妻、夫なら夫、子供なら子供、最も親しい者達その中で死んでいくというのが願わしいのじゃないかなと思う。』と答える。
まあ、妥当な考え方だなとは思う。

そして、その家族はどうしてその家族になるべくしてなったのかということを、親和力という必然性で説明している。この言葉はゲーテの著作のタイトルだということだが、元の言葉はドイツ語で「ヴァールヘルヴァントシャフテン」で、日本語に直訳すると「選びとられた血縁性」となるらしい。それが意訳されて「親和力」となっている。自然界でも同じ現象があり、著者はアゲハチョウの幼虫は特定の植物の葉しか食べないという食性を例に挙げ説明をしている。それと同じように、赤の他人が結婚し家庭を持つという結果も、何らかの親和力が働い必然としてそうなっているのだ。だから「家族」というひとつの部族が形成され、そういった人たちに看取られながら死んでゆくということがバイオリージョナリズムなのであるというのだ。

以前に書いた感想では、ふと奥さんを見た時、「この人なんでここに居るのだろうと思う時がある。」と書いたが、一方では、この人以外に僕の奥さんですと言われてもそれはそれでまったくしっくりいかないなとも思っている。相手が新垣結衣なら話は別だが・・。
そして、家族であっても、親和力を保てない間柄になってしまったとき、一方はそこを出て旅に立つのだろうなと、そんなことを思った。しかし、それはごくわずかの例外であるのに違いない。
「おかえりモネ」の今週のテーマもそのようなものらしく、温暖化が原因か、気象災害が突然増えてきた危険な場所であってもそこを捨てて新しいところで住むことはできない。それは土地に縛られているということではなく、それぞれが生きてきたすべて、それはきっと家族であり部族であり自然であり、そういったもののすべてがそこに留まらせようとする。そういうことは僕にもすごく腑に落ちる。
僕は生まれたところを離れてわずか5キロほどのところに住んでいるだけだがそれでもこういうことを痛感する。だから水軒というところに惹かれてしょっちゅう行ってしまうし、そこにずっと根付いて生活している叔父さんたちの生き方に憧れているのであると思うのだ。いっそのこととんでもなく遠くに離れて、船も持っていなくて何の縁もなくなってしまえばここでいう親和力がなくなってしまえばそれはそれですっきりして別の場所であたらいい親和力を作り出せるのかもしれないが・・。若いころというのは、逆にそういうものをしがらみと言いそれを嫌って外に出ようとするものなのだろうが、僕は残念ながらそういうことを思ったことがなかった。だからまあ、性格的に言ってそのときはただの引きこもりになってしまうのがオチなのではないかとも思ってしまうが・・。

こういうことを読んでいると、旧約聖書のバベルの塔の物語を思い出す。思いあがった人間に対して神が制裁を加えるという話で、ざっとあらすじを書いてみると、ノアの末裔である人々が東のほうからやってきて、シヌアルの地に天にも届く巨大な塔を建て始めた。それを見た神は、同じことばを使い、一致して事に当たると、人間はこれだけのことをやすやすとやり遂げてしまうのだ。この分だと、これからもどんなことを始めるか、わかったものではない。地上へ降りて行って、彼らがそれぞれ違ったことばを話すようにしてしまおう。そうすれば、互いの意思が通じなくなるだろう。」と言って塔を破壊し、お互いの言葉を通じなくしてしまい世界の各地に人々を散らした。というものだ。
この物語にはいろいろな解釈があるらしいが、僕が勝手に解釈すると、世界のひとが一か所に集まるような世界の中では人は幸せに生きてゆけない。だから神は言葉を異にし、人々を別々の場所に留まって生活をさせるようにしたのではないかと思うのだ。著者のいうバイオリージョナリズムを強制的に実践させたんじゃないかと。
グローバリゼーションが進み、人が再び集まり始めた時、神は今度はコロナウイルスを世に放って人々の往来を制限し始めたのに違いないと思うのだ。東京オリンピックはバベルの塔だったのだろうかと思う時がある。
それならば、この惨禍は遠い昔からの定めであり、小さな世界で生きるということが人として幸せに生きる十分条件として存在しているのであると言えるのかもしれない。
僕は若干自虐的ではあるが、半径10キロで生活をしているなどとこのブログで書いたりしているが、実はそれは正しい生き方のひとつであったのかもしれないのだ。

この講演は22年前に行われたものであるが、つい最近におこなわれたものと言われてもまったくわからない内容に思う。解説の山極寿一も、「今やっと、三省さんの時代が来た。三省さんがかつて語った言葉に真摯に耳を傾け、それをひとりひとりが実行する時代になった。そう心から思う。」と書いているが、本当にそう思う。自分が幸せかどうかというのは人それぞれで異なるはずだ。しかし、なにかよりどころがなければならないと語るのがこの本の本質である。唯識哲学の中で語られる阿頼耶識という考えからすると、世界の万物はその阿頼耶識という鏡に映し出された映像に過ぎないのだそうだ。この時代、技術革新のおかげで遠くに行かなくても情報だけは手に入る。実態は別として、世界の万物の意味の捉え方は自分の中の映像であるのなら、自分の阿頼耶識の求めるものだけをそこから得ることで十分な幸せを感じることが出来るのかもしれない。そういう意味でも確かに、「三省さんの時代が来た。」といえるのではないだろうか。
コメント
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