イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「レヴィ=ストロース 構造 (講談社学術文庫)」読了

2022年07月20日 | 2022読書
渡辺公三 「レヴィ=ストロース 構造 (講談社学術文庫)」読了

レヴィ=ストロースという人については名前だけは知っていた。アマゾン(ネットショップではない方の)という単語で検索するとこの人の著作である「悲しき熱帯」という本がヒットする。僕はアマゾンの釣りであったり生態であったりを目当てに検索をしているのであまり興味がなかったが、この人が書いた、「野生の思考」という本がほんの少しだけ話題になっていた。
「シン・ウルトラマン」という映画の中に、変身する前の主人公がこの本を読んでいるシーンがあるというのだ。この映画は庵野秀明がプロデュースをしたというので話題になったが、「エヴァンゲリオン」はかなり哲学的な内容だと勘違いをしている僕は、きっと「シン・ウルトラマン」にも何か哲学的なテーゼが埋め込まれており、「野生の思考」という本にも何かメッセージが込められているのではないかと一度読んでみたいと思った。しかし、いったいどんなことが書かれているのかがわからなくて、おそらく相当難解な本なのだろうから、その前にレヴィ=ストロースとはどんな人であったかとか、どんな思想を持っていた人かということを知った方がいいのではないかと思って調べているとこの本を見つけた。

この本を読み始める前にウイキペディアでレヴィ=ストロースという人を調べてみると、フランスの社会人類学者であり、「構造主義」という考えを唱えた人であるということがわかった。構造主義というと、哲学の中にも出てくる考えなのでこれは哲学を知ることのひとつにもなるかもしれないと早速読み始めたわけである。

レヴィ=ストロース南北アメリカの先住民族の社会構造を研究する中で、どの部族にも共通する普遍的な構造があるということを発見した。これは婚姻、親族、家族のありかたなどについての構造であるが、そこから、「人間社会は基本となる構造に支配されており、人が人の中で生きてゆく上では構造から抜け出すことはできない。」ということを見出した。これが構造主義と呼ばれるものである。

近代哲学の流れでは、実存主義→構造主義・ポスト構造主義→脱構築と変化してゆく。
それぞれを簡単に説明しておくと、
実存主義はサルトルが提唱した考え方であるが、「実存」の反対語である「本質」とは何かから始まる。本質とは、自分が「~である」ということを意味する。つまり、「男性である」とか「女性である」、「黒人である」、「ユダヤ人である」、「労働者である」、「学生である」というように、自分が社会のなかでどのように「見られているか」ということを表わす。
そのような本質は、「~である。」ということを社会から押し付けられ、自分たちから自由を奪おうとするものであると考えた。このような「本質」に対抗して、「何者でもないこの私」として提示されたのが「実存」なのである。自分自身の「自由」を直視することで、本質という役割からはみ出して生きること。これが実存主義なのである。
文学との関係で表すと、サルトルの実存主義では他人からどのように見られているかに、かなり重要なポイントがある。つまり、他人から見られた自分と、自分から見た自分のズレをとおして、新しい自分を作り出していくのである。代表的な作家としては、サルトルのほかに、カミュ、カフカ、安部公房、大江健三郎、開高健らがいる。確かに師は、1968年のパリの5月革命の際にサルトルと期待を持って会見しているので同じ志向を持っていたのだろうと思う。
この、5月革命の理論的支柱となったのは、実存主義とマルクス主義であるが、それに失敗し、挫折した人々が向かったのが構造主義とポスト構造主義であった。
現在の社会システムがあるのは、「構造」のためであるので、仕方がないと人々は考えたのである。
「脱構築」で有名な哲学者はジャック・デリタである。
それは、構造主義の言う「構造」を内部から破壊するための方法のことである。例えば、男性/女性という二項対立があり、男性のほうが社会の中で強い位置にあったとする。この二項対立を脱構築するためには、「男性」という概念そのものが「女性」なしでは成り立たないことを指摘すればよい。
あるシステムにおいて、排除されたり、抑圧されたりするものがあったとしても、その抑圧されるものなくしては、システムが成り立たないことを示すことで、システムを内部から自壊に追い込むという考えが脱構築なのである。
しかし、システムを破壊することが脱構築ではなく、それは、システムによって否定されたものを「肯定」する思想なのである。社会の中で抑圧されたものを肯定することで、あり得るかもしれない「もう一つの可能性」を提示すること、これが脱構築である。
それは、男性中心主義的な社会が抑圧した、男女平等の可能性を提示することでもあったのだ。

ここまでと庵野秀明の作品群とを比べてみると、実存主義というものはまさしく、「エヴァンゲリオン」の世界観と一致するように思える。「シン・ウルトラマン」に「野生の思考」という本を登場させたのは、おそらく実存主義(エヴァンゲリオン)の次にくる思想として近代哲学史をなぞっているのではないかと思えてくるのである。映画を観ていないので本当にそうなのかどうかはわからないが・・。宇宙の中でも人間の持っている欲望や葛藤は普遍のものであるとでも表現しているのだろうか。テレビで放送するのを待つしかない。
そこまで書いていると、じゃあ、「シン・ゴジラ」と「シン・仮面ライダー」はどんな位置付けなのだと問われそうだが、そこまではわからない。
「脱構築」などはおそらく世界中で作られているドラマや映画のプロットの根幹といってもよい考え方だと思うが、現代のジェンダー問題が解決してしまうと、世界中からドラマと映画が消えてしまうのではないかと思えてくる。

そんなことを予備知識としてこの本を読み始めた。

これだけ前置きをたくさん書いてきたというのは、本文を読んでみてもその内容がまったくわからなかったからなのである。
確かに、レヴィ=ストロースの膨大な著作をたかだか350ページほどのページで解説できるわけもなく、それをこれ1冊で知ったかぶりをしてやろうと思う方も厚かましいのである。
ということで、この本はレヴィ=ストロースの思想を理解するためのほんのアウトラインに過ぎないのである。

レヴィ=ストロースの主要な著作には、「親族の基本構造」「悲しき熱帯」「構造人類学」「野生の思考」「やきもち焼の土器づくり」「神話論理」というものがある。
この一連の著作を通して、レヴィ=ストロースは、人間の本質、もしくは人間が構成して作り上げている社会構造には、地球上どこに行っても共通の構造があるのではないかということを考えた。そして、構造主義を理解するためには「野生の思考」だけを読んでいても無理だと著者の渡辺公三は言う。

レヴィ=ストロースは、この研究を南北アメリカの原住民の社会構造の観察を通しておこなったのであるが、文明を手に入れ、一見、自然の世界と切り離されてしまった社会構造を作り上げてきたかに見える西洋社会ではあるが、自然を頼りに、自然と共に生きてきた時代の構造をきちんと残しているのだと結論づけるのである。効率を追求する近代の科学的な「飼いならされた思考」に対比して「野生の思考」と名付けたのだ。
その代表例としてトーテミズムを上げており、社会の基本構造である「親族関係」の大元としている。
この社会構造は、交換の体系でもあり、これは婚姻(お嫁さんとして女性を交換する)という行為も含めてであるが、こういった人間における他社とのコミュニケーションから生じる帰結としての社会構造を、人間が自然種、いいかえれば、自然の生命形態の多様性を手段として作り上げる思考の体系であり、トーテミズムという自然界の体系の中に置き直すというのが「野生の思考」なのである。たしかに、ものをもらったりひとにあげたりするという行為は人間関係のいちばんの取っ掛かりであるというのは理解ができる。

「野生の思考」の後、レヴィ=ストロースは南北アメリカの先住民族に伝わる神話の研究と分類によりさらに人間の社会に連綿と受け継がれている構造を見出そうとした。

・・・の、であるが、結局、その構造というものがさっぱりわからなかったのである。『構造とは要素と要素間の関係からなる全体であって、この関係は一連の変形過程を通じて普遍の特性を維持する』ものとされているらしいが、この文章からして意味がわからないのである。なんとなく考えるのは、人は自然の摂理からは逃れられることができないのだから自然と共に生きなさいと言われているのかなということだが、それではあまりにも結論がベタすぎるのではないかと思うので、その真相はもっと深いところにあるのではないかとは思っている。

また、レヴィ=ストロースは実存主義のサルトルに対しては批判的な立場であったそうだ。自分は自分らしくという考えと、社会構造は太古から定められていて、ある意味、その運命からは逃れられないのだという考えは確かに相反するものだが、一方では、こうも言っている。『「野生の思考」といっているものは、「他者」を「わたしたちに」翻訳したりまたその逆をおこなうことができるようなあるコードを作りだすのに必要な前提や公理の体系であり・・・私の意図においては、彼らの位置に自分を置こうとする私と、私によって私の位置に置かれた彼らとの出会いの場であり、理解しようとする努力の結果なのです。』
共通の尺度を持つことで互いを認識し合うことができるのだということを言っているのだと思うが、これはまったく、「本質」という普遍の方向から「実存」という個性を見るという、サルトルとは限りなく同じ考えかたを示しているのではないかと思うのだ。「本質」を”対極”として置くのか、「本質」を“起点”として置くのか、その違いだけのように思える。決して個を没入させてしまうものではなく、構造の中に個を見出すことができるのだと言っているのだと思う。やはり個は尊重されるべきなのだとレヴィ=ストロースも考えていたのだと思いたい。

「シン・ウルトラマン」を観ることでそこのところが解明できるのだろうか・・。


コメント
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