イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「戦争は女の顔をしていない」 読了

2022年07月03日 | 2022読書
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ/著 三浦みどり/訳 「戦争は女の顔をしていない」 読了

この本は、「同志少女よ、敵を撃て」を書いた作家が参考文献のひとつとして挙げていた本だ。
ノーベル文学賞受賞作家が、ロシアでは大祖国戦争と言われる第二次世界大戦での独ソ戦に従軍した女性たちにインタビューした記録である。
確かに、この小説に出てくるエピソードと同じような内容の話がところどころに出てくる。

僕のスットコでヘッポコなブログの感想文に載せるなどということが間違いなくはばかられる本である。簡単に”死ぬ”と書いてしまえるが、その人にとってはその時点で自分が生きてきたことすべてが突然途切れてしまうということを意味する。戦争においては全く自分の責任ではなく他人の都合によってだ。それはあまりにも重すぎることではないかといつも思うのである。

この戦争ではソ連側からは200万人を超える女性が戦争に参加していたそうだ。それは後方支援というようなものだけではなく、前線に立ち、銃を持って戦ったという。
ある人は狙撃兵として、ある人は砲兵隊員として、または斥候部隊、パルチザンとして。それらの指揮官として従軍したひともいた。もちろん、医師や看護婦としても。
そういう経験をした人たちが、当時はどんな思いで参戦し、そして今はそれをどんな思いで回想しているのか、そういったものを、インタビューしたひとりひとりについて短い文章にまとめてつなげられている。

「女の顔をしていない」というタイトルについてであるが、著者はたくさんの取材ののち、自分が戦争について本を書くにあたりこう書いている。
『戦争についての本がまたもうひとつ出るだけなのか?なんのために?戦争はもう何千とあった。小さなもの、大きなもの、有名無名のもの。それについて書いたものはさらに多い。しかし、書いていたのは男たちだ。私たちが戦争について知っていることは全て「男の言葉」で語られていた。わたしたちは「男の」戦争観、男の感覚にとらわれている。男の言葉の。女たちは黙っている。・・・・戦地に行っていた者たちさえ黙っている。もし語り始めても、自分が経験した戦争ではなく、他人が経験した戦争だ。男の規範に合わせて語る。』
しかし、その女性たちが家や戦友たちの集まりのときにだけ少し泣きながら語る戦争は今まで著者が知っていた戦争とはまったく違うものであった。「女たちの戦争」にはそれなりの色、臭いがあり、光があり、気持ちが入っていたという。
近年、女性の地位は向上したにも関わらず、自分の物語を守り切らなかったのだろう。そういう気持ちから女性たちの戦争の物語を書きたいと考えたのである。

これにはおそらくふたつの理由があるのだろうと思う。それは、ソ連は戦勝国であったということと、侵略された側であったということではないだろうか。
勝った側だから武勇伝がまっとうに伝えられ、一方では市街戦では民間人がたくさん殺された。一説では1500万人の民間人が亡くなったとされる。前線に出て行った女性たちも家族を失い、その悲しみはおそらく男性よりも女性の方が大きかったからだろうし、出征する女性たちは父親や夫が出征した後、子供や母親を残して出征していったという。だから、そういった記憶はできることなら思い出したくないという意識があったのだと想像する。また、女性兵士に対する偏見も多く、自らの戦歴を隠して生きてきた人たちも多かったのだとも書かれていた。
これは驚きであったのが、復員してきた女性兵士たちの多くは英雄として迎えられたのではなく、何か違う価値観を持った異人のような扱いを受けたという。そういうことがばれると就職や結婚ができず、また、家族からでさえ遠ざけられることもあった。だから、そういった経歴を隠し、自ら退役軍人として受けるはずの恩恵も放棄して生きてきた人が多かったらしい。この本の中にもそういった経験を語る内容がたくさん書かれていた。こういったことも、この本以前に女性兵士たちの言葉が公に出なかった理由のひとつであった。
それに加えて、女性でありながらその性を捨て、泥まみれ血まみれになり、またシラミに喰われながら戦っていたという自分の姿を他人に伝えるというのを憚ったということもあるのかもしれない。

日本は敗戦国だから、かえって男性自らが悲惨な体験を語ることが恥ずかしくはなかったであろうし、本土で戦闘がおこなわれなかったということは、幸いにしてという表現はおかしいが敵兵が自分の身内を殺す場面に遭遇することはごくまれであったということが大きかったのだろう。それでも、復員してきた人たちの中には亡くなるまで口を閉ざしていた人がたくさんいたというのだから戦場とは想像もできないほどよほど壮絶な場所であったに違いない。
それでも日本の戦争に関する書物のほうが、より市井のひとの目線で書かれてきたものが多いのだと思うのである。だから、ロシアの人々には余計にこういった記録は衝撃的でかつ反政府的であったに違いない。著者はベラルーシの出身だが、本国でも長く出版ができなかったそうだ。

前半は実際に線上に出た女性兵士たちの言葉、後半は家族の死や思いを寄せた人たちの運命、また、戦場にあっても女性らしさを忘れなかった思い出、そういったものが書かれている。
この本に登場する女性兵士たちは自ら志願し前線に立つ。歳も若く、15歳で年齢を偽って戦場に立つ少女もいた。そしてその場所で想像を絶するほどの体験をするのだが、それでも自分の任務を全うしようとする。特に西欧諸国との境目であったウクライナやベラルーシといったところはこの時代以前から領土紛争や民族問題によって戦争が絶えなかった場所だ。自分たちで自分たちの土地を守らないことにはいとも簡単に主権を奪われてしまう。そういった思いが相当強い人たちだったのである。

家族との別れやドイツ兵たちのパルチザン狩り、または拷問、そういった場面は悲惨極まりない。文章はおそらくわざと淡々としたものにしているのだろうが、いたるところに横たわっている死体、また、病室であろうが戦場であろうがひとつの村の中であろうが、どこからでも漂ってくる血の臭いであったり死体の臭いであったり、僕が経験したことのない世界で想像できないのだがその淡々とした表現ゆえその無残さがさらに無残に見えてくる。しかし、一番恐ろしいのは、『憎むということを身につけたあとで、愛するということを学び直さなければならなかった。』という言葉だ。
戦争というのは体だけでなく、心も蝕む。文字で書くのは簡単だが、戦争は恐ろしい。やはり実感がついてこない。

しかし、現実には海の向こうでこの時と同じ行為が行われている。さすがに今の時代、生きたまま足を切り落とすというようなことはしないのだろうが、家を焼かれ、家族を目の前で失うというようなことは頻繁に起こっているに違いない。
あれとこれはべつだとは思うのだが、これほどひどい侵略を受けたロシアという国が今の時代になって今度は侵略する側に回ることができてしまうというのがまったく解せない。
それもウクライナという国はこの戦争を一緒に戦った同朋だったのだからよけいに解せない。確かに属国扱いをされていた国ではあったので立場は弱かったのかもしれないが、それが西側に近づきすぎるのは生意気だという発想で戦争を仕掛けるというのはもっと解せない。たとえこの国がNATOに加盟したとしてもロシアを攻めるなどということがあろうはずはないと思うのだが。
国と国の関係は人間関係と同じというわけにはいかないのだろうが、他人のことなど放っておけばいいのじゃないかといつも思ってしまう。降りかかる火の粉は払わねばならないが、わざわざ他人に火の粉をふりかけることもあるまい。変にちょっかいを出すから出された方も身構えるというものだ。

自分の国を守るためには武器を持たねばならなくて、いざという時には命を落とすことも辞さないという覚悟と実行が必要だというのはわかるのだが、これが今、突然自分の身に降りかかってきたとき、自分から進んで戦場に赴くことはできないだろうとも思うのである。
だから、ウクライナの人々というのはそうとう勇敢な人々なのだと思えるのである。
この国の人々の大半は僕と同じような程度の考え方しか持ってはいないと思う。だからこの国は国際社会から落ちこぼれてゆくというのは仕方がないことなのかもしれないと思うのだ。

コメント
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