木俣冬 「ネットと朝ドラ」読了
著者は2015年から毎日朝ドラのレビューを書いているというフリーライターで「みんなの朝ドラ」の著者でもある。
多分、「#ちむどんどん反省会」の盛り上がりに乗じて急ごしらえで出版したもののように思えるような構成だった。
「ネットと朝ドラ」というくらいだから、ネットでの反響がどれだけドラマ作りに影響したのかとか、視聴者のドラマの見方がどれだけ変わったかというようなことを論じているのかと思ったが、375ページの大半は著者が以前に書いた各ドラマのレビューを再録したものであった。
出来としては、「みんなの朝ドラ」のほうがはるかに良く、ただ、それ以降に放送されたドラマのレビューについては、こういう見方もあったのかというほど見識が深かった。
まず、タイトルに沿った、“ネットと朝ドラ”の関係だが、これはあとがきにすべて書かれていたのだが、ちょっとこじつけ過ぎだとも思える結論であった。こんな感じだ。
『「あまちゃん」でネットを介してみんなで分かち合い楽しむようになり、「ひよっこ」で朝ドラ語りが一般化し、「おかえりモネ」ではこんなになんでも言えるツールがあって何も言えない人がいることを感じ、「カムカムエブリバディ」で朝ドラ語りが、登場人物までもがおこなうことによってある種の成熟を迎え、「ちむどんどん」では物言う人、それも作品に意見する人が増え、ドラマ対視聴者(ネット民)という対立構造(一部では愛ゆえの批判も含まれる)が生まれた。10年、そして5年の間、急速にネットと朝ドラの関りは様変わりしながら、より多くの人たちの関心事になっている・・・』
ということである。
少し注釈を加えると、「おかえりモネ」における“何も言えない”というのは、思いついたことを熟慮しないままにつぶやくシステムによって一気に殺到する批判によって口をつぐむ人たちが出てきたという現象を差している。「あまちゃん」の頃、Twitterは気軽に意見を述べることができるツールであったが、10年も経たないうちにうかつなことを言うと非難の的になるという危険もはらんできたということである。「カムカムエブリバディ」ではネットを使ったパブリシティに工夫をし、新聞、雑誌、ネットなど、メディアによって報道される時間のタイムラグに応じて提供する情報を分けていたということを指している。
まあ、こういうことは朝ドラだけではなく、日常生活とネットの関り一般に言えることである。だからこじつけにしか見えないのである。
それよりも、それぞれのドラマに対する見方の奥深さのほうが素晴らしいと思う。ドラマの解説だけというのならNHKも出版を許可しないのか、わざわざネット論に言及しているのだろうが、そこは省いてもよかったように思う。
取り上げられている10作のドラマのうち、僕が全編観たのは「なつぞら」「スカーレット」「おかえりモネ」「カムカムエブリバディ」の4作だが、それぞれの著者の評価を見てみると、
「なつぞら」は、なつを中心にしたホームドラマではなく、なつと天陽が広大なく暗バスに自分たちの人生を描く物語であった。
「スカーレット」は、「ここ、見せ場です!」という、ズームアップの瞬間がなく、引いた視点でずっと舞台を見ているような印象で、行間を読ませるという小説のようなスタイルであった。
「おかえりモネ」は、登場人物みんなが公的な場では微笑みながら礼儀正しく振る舞うが、社交的にふるまう努力を懸命にしているだけであり、内心は不安や恐れを抱えている。主題歌の歌詞、「ヤジロベエみたいな正しさ」のように、かすかに揺らぎバランスをとりながら相手や社会との間合いを慎重にはかることは極めて知的な行為だと感じると同時に生きづらい世の中を表していたのだという。
「カムカムエブリバディ」は100年という長い物語が、パンデミックをはじめとする不安定な状況のなか、世界がこのままずっと平穏に続いて、大切な家族や友人や恋人や仲間と仲良く過ごしていきたいという祈りが色濃く出ている物語であったという。
どれもなんだか普通のひととは視点が違うような気がする。ボ~っと観ている僕はヒロインの恋の行方が気になるくらいで、もうひとついうと、僕のネットと朝ドラの関係は出演俳優や脚本家のプロフィールや過去の出演作を検索するくらいで、やたらと仮面ライダーばっかり出てくると思うくらいだ。確かに、「ちむどんどん」のストーリー展開についてはみんなどんなツッコミをしているのだろうと気になってTwitterを見ることがあったけれども、それも、ドラマはドラマチックなことが起こるからドラマなのであって平穏に物語が進むのならそれはドラマではないと思うのでどんなドラマでもこれはドラマだと思えばいいと考えている。ただ、沖縄の人の性格をおっちょこちょいで無神経だというステレオタイプ的な描き方というのは気になったところではあるが・・。
むしろ、いつも違和感を感じるのは、「朝ドラには悪人は出てこない」ということだ。これについてはそれが朝ドラのドグマであるということを念頭において観ていればいいのだが、その他のドラマや映画を観るときと気持ちを切り替えるのが大変だ。「舞い上がれ!」でも、リュー北条と秋月史子はなんだか怪しい雰囲気だったが、結局、この人たちも舞の恋を後押しするという清々しい役割を担っていた。もちろん、これはこれで、ああ、よかったとホッと胸をなでおろすのである。
幸いにして、創っている人たちの側は、そういう評価をあまり気にしているようなことはないらしい。むしろ様々なこだわりをもって創っているということが収録されているインタビュー記事のなかからわかってくる。これからもいろんなパターンの物語を創ってほしいと願っている。
観たくなければ観なければいいというだけだ。万人が肯定するドラマというのは稀有なもので、それはきっと伝説の「あまちゃん」くらいのものだろう。
だから僕も朝ドラをいつも観ていたかというと意外と観ていなくて、ここでも10作品のうち4作品しか観ていなかった。
「ひよっこ」はヒロインが能年玲奈ちゃんのポジションを簒奪した女優であったので観る気がせず、「わろてんか」や「エール」は主人公が偉人であったというのがネックになった。そんな人たちと自分の人生を比べてしまうと自分が嫌になってしまう。
「まんぷく」はヒロインが若くなかったという理由だけで、「おちょやん」は子役が出ていた2週間が名作すぎて続きを観る必要はないと判断した。「半分、青い」はやっぱり青すぎた。
で、結局、大体は最後のひと月分くらいは観てしまうので、その時になって、やっぱり観ておけばよかったと後悔したりするのである。
朝ドラの観方はそれくらいでいいのだと思うのである。
著者は2015年から毎日朝ドラのレビューを書いているというフリーライターで「みんなの朝ドラ」の著者でもある。
多分、「#ちむどんどん反省会」の盛り上がりに乗じて急ごしらえで出版したもののように思えるような構成だった。
「ネットと朝ドラ」というくらいだから、ネットでの反響がどれだけドラマ作りに影響したのかとか、視聴者のドラマの見方がどれだけ変わったかというようなことを論じているのかと思ったが、375ページの大半は著者が以前に書いた各ドラマのレビューを再録したものであった。
出来としては、「みんなの朝ドラ」のほうがはるかに良く、ただ、それ以降に放送されたドラマのレビューについては、こういう見方もあったのかというほど見識が深かった。
まず、タイトルに沿った、“ネットと朝ドラ”の関係だが、これはあとがきにすべて書かれていたのだが、ちょっとこじつけ過ぎだとも思える結論であった。こんな感じだ。
『「あまちゃん」でネットを介してみんなで分かち合い楽しむようになり、「ひよっこ」で朝ドラ語りが一般化し、「おかえりモネ」ではこんなになんでも言えるツールがあって何も言えない人がいることを感じ、「カムカムエブリバディ」で朝ドラ語りが、登場人物までもがおこなうことによってある種の成熟を迎え、「ちむどんどん」では物言う人、それも作品に意見する人が増え、ドラマ対視聴者(ネット民)という対立構造(一部では愛ゆえの批判も含まれる)が生まれた。10年、そして5年の間、急速にネットと朝ドラの関りは様変わりしながら、より多くの人たちの関心事になっている・・・』
ということである。
少し注釈を加えると、「おかえりモネ」における“何も言えない”というのは、思いついたことを熟慮しないままにつぶやくシステムによって一気に殺到する批判によって口をつぐむ人たちが出てきたという現象を差している。「あまちゃん」の頃、Twitterは気軽に意見を述べることができるツールであったが、10年も経たないうちにうかつなことを言うと非難の的になるという危険もはらんできたということである。「カムカムエブリバディ」ではネットを使ったパブリシティに工夫をし、新聞、雑誌、ネットなど、メディアによって報道される時間のタイムラグに応じて提供する情報を分けていたということを指している。
まあ、こういうことは朝ドラだけではなく、日常生活とネットの関り一般に言えることである。だからこじつけにしか見えないのである。
それよりも、それぞれのドラマに対する見方の奥深さのほうが素晴らしいと思う。ドラマの解説だけというのならNHKも出版を許可しないのか、わざわざネット論に言及しているのだろうが、そこは省いてもよかったように思う。
取り上げられている10作のドラマのうち、僕が全編観たのは「なつぞら」「スカーレット」「おかえりモネ」「カムカムエブリバディ」の4作だが、それぞれの著者の評価を見てみると、
「なつぞら」は、なつを中心にしたホームドラマではなく、なつと天陽が広大なく暗バスに自分たちの人生を描く物語であった。
「スカーレット」は、「ここ、見せ場です!」という、ズームアップの瞬間がなく、引いた視点でずっと舞台を見ているような印象で、行間を読ませるという小説のようなスタイルであった。
「おかえりモネ」は、登場人物みんなが公的な場では微笑みながら礼儀正しく振る舞うが、社交的にふるまう努力を懸命にしているだけであり、内心は不安や恐れを抱えている。主題歌の歌詞、「ヤジロベエみたいな正しさ」のように、かすかに揺らぎバランスをとりながら相手や社会との間合いを慎重にはかることは極めて知的な行為だと感じると同時に生きづらい世の中を表していたのだという。
「カムカムエブリバディ」は100年という長い物語が、パンデミックをはじめとする不安定な状況のなか、世界がこのままずっと平穏に続いて、大切な家族や友人や恋人や仲間と仲良く過ごしていきたいという祈りが色濃く出ている物語であったという。
どれもなんだか普通のひととは視点が違うような気がする。ボ~っと観ている僕はヒロインの恋の行方が気になるくらいで、もうひとついうと、僕のネットと朝ドラの関係は出演俳優や脚本家のプロフィールや過去の出演作を検索するくらいで、やたらと仮面ライダーばっかり出てくると思うくらいだ。確かに、「ちむどんどん」のストーリー展開についてはみんなどんなツッコミをしているのだろうと気になってTwitterを見ることがあったけれども、それも、ドラマはドラマチックなことが起こるからドラマなのであって平穏に物語が進むのならそれはドラマではないと思うのでどんなドラマでもこれはドラマだと思えばいいと考えている。ただ、沖縄の人の性格をおっちょこちょいで無神経だというステレオタイプ的な描き方というのは気になったところではあるが・・。
むしろ、いつも違和感を感じるのは、「朝ドラには悪人は出てこない」ということだ。これについてはそれが朝ドラのドグマであるということを念頭において観ていればいいのだが、その他のドラマや映画を観るときと気持ちを切り替えるのが大変だ。「舞い上がれ!」でも、リュー北条と秋月史子はなんだか怪しい雰囲気だったが、結局、この人たちも舞の恋を後押しするという清々しい役割を担っていた。もちろん、これはこれで、ああ、よかったとホッと胸をなでおろすのである。
幸いにして、創っている人たちの側は、そういう評価をあまり気にしているようなことはないらしい。むしろ様々なこだわりをもって創っているということが収録されているインタビュー記事のなかからわかってくる。これからもいろんなパターンの物語を創ってほしいと願っている。
観たくなければ観なければいいというだけだ。万人が肯定するドラマというのは稀有なもので、それはきっと伝説の「あまちゃん」くらいのものだろう。
だから僕も朝ドラをいつも観ていたかというと意外と観ていなくて、ここでも10作品のうち4作品しか観ていなかった。
「ひよっこ」はヒロインが能年玲奈ちゃんのポジションを簒奪した女優であったので観る気がせず、「わろてんか」や「エール」は主人公が偉人であったというのがネックになった。そんな人たちと自分の人生を比べてしまうと自分が嫌になってしまう。
「まんぷく」はヒロインが若くなかったという理由だけで、「おちょやん」は子役が出ていた2週間が名作すぎて続きを観る必要はないと判断した。「半分、青い」はやっぱり青すぎた。
で、結局、大体は最後のひと月分くらいは観てしまうので、その時になって、やっぱり観ておけばよかったと後悔したりするのである。
朝ドラの観方はそれくらいでいいのだと思うのである。