イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

水軒沖釣行

2021年08月08日 | 2021釣り
場所:水軒沖
条件:大潮 5:34満潮
釣果:ボウズ

今日は当初の予定ではNさんの船に乗せてもらってちからさんと3人、再び加太でタイラバの釣りをするはずであったが台風がふたつも近づいているということで早々と中止にしていた。ところが、10号はかなり東にそれてゆき、9号の影響は少しあとになりそうで、今日は意外と穏やかな天気になるという予報に変わった。

それならばひとりで近場にでも行こうかと前日に思案を巡らせた。選択肢はいろいろある。紀ノ川の下流からさかのぼってゆくと、タチウオ、スズキ、キス、それにハゼも釣れ始めているらしい。少し場所を変えてサゴシも釣ってみたい。
そのうち、どれに的を絞るかだが、セルが回らないバイクの点検もしたいし、お盆を前に散らかっている家の中も整理しなければならない。だからすぐに帰ってくることができる釣りということとで暗いうちにスズキを試してみてタチウオをやってみて最後にサゴシを狙って午前8時には家に帰りつこうと計画してみた。


出港は午前4時過ぎ。



もう、法則ではなくなったが、8月1日から8月15日まで双子島でスズキが釣れるというのをまた検証したいところだがそれたとはいえ台風のうねりが心配だ。暗いうちに外洋に出るのは怖いので大事をとって紀ノ川にした。
いつもの場所とは違い、前回にも入った右岸側に錨を下した。



もう少し上流側でやってみたかったのだが、お盆を前の3連休、水際にはいたるところに釣り人がいる。



目的の場所としていた紀ノ川のテトラ帯にも人が乗っているようで電気ウキの光が見える。無用なトラブルを避けるため人の影の見えないところで釣りを開始。いつものトップウォーターを投げてみるが反応はまったく無し。少し明るくなってくると青岸の灯台付近にタチウオを狙っている船が数隻現れてきた。それを機に僕も移動。

今日は前回よりも重い仕掛けで深い場所を流している。幸先よくかすかなアタリがあり仕掛けを回収してみると今日もエソだ。う~ん、今日も魚があってもエソばかりなのかと少し落胆する。
徐々に新々波止のほうに移動しUターンして東向きに流していると間違いなくタチウオのアタリがあった。おお、今日はタチウオがいるじゃないかと仕掛けを回収してみたがこれはバラシ。ちょっとやる気が出てきてアタリがあった海域を行ったり来たりしてみたがその後は沈黙。太陽が昇りきらないうちに転戦だと今度はサゴシ狙いに変更。
前々回の教訓を踏まえ、テトラに乗っているルアーマンを避けて仕掛けを流す。岸近くを流せないのがいけないのか、まったくアタリがない。もしくは前回あれほどアタリがあったのはやはり岸からルアーを投げるというプレッシャーがなかったからだろうか。ここをあきらめ、仕掛けを流したまま紀ノ川を横断し住金一文字のほうへ移動。



立ち入り禁止になって久しい釣り公園だが、ここにも人が侵入している。釣り人のあくなきフロンティアスピリットには感心してしまう。事故だけは起こさないようにしてほしいものだ。
しかし、ここでもアタリがない。これで万事休すとそのままUターンして終わりにしようと釣り公園の護岸沿いに移動していると不意のアタリ。ツバスが掛かってきた。



しかし、このサイズのツバスを1匹持って帰ったところでおかずにもならない。もうすぐお盆だし無駄な殺生をすることもはばかられるので放流して終了。

結局、クーラーボックスの中には電気ウキがひとつ・・。



しかし、電気ウキが流れているということは間違いなくタチウオがいるということだ。どうして僕には釣れないのか・・・。そこが悲しい・・・。

何も獲物はないが、叔父さんの家に寄って、帰省しているいとこにバイクを診てもらった。彼はガレージに置かれたままになっているR32スカイライン(残念ながらGT-Rではなく、2000CCのほうだ。)を帰省のたびに少しずつレストアしているほど機械に詳しいのでセルが回らないのはバッテリーかそれともほかのところに原因があるのかがわかるのではないかと思ったのだ。
まあ、ついでに空っぽのクーラーボックスに少しでも野菜を入れてくれるのでないかという期待も込めているわけだが・・・。
まだ寝ているいとこを無理やり起こしてまずはバッテリーの電圧を測ってもらうと13ボルト近く出ている。あら、バッテリーには異常がないということだろうか。せっかく新しいバッテリーをアマゾンで買ったのに・・。セルモータにつながるリレーなんかを診てもらったが異常はなさそうだ。その間もセルが回ったり回らなかったりする。
取りあえずせっかく買ったものなので取り替えて様子を見てみるわと叔父さんの家をキックで始動して後にした。家に戻って早速交換。中華製のバルク品のようなバッテリーなので信頼性というところではかなり不安があるが、国産有名メーカー製と比較すると4分の1以下の値段というのは魅力的だ。さっそくパッケージを開けてみるといきなり端子が歪んでいる。そこを無理やりねじ込んでセット完了。
試しにセルを回してみると今度はちゃんと回った。やっぱりバッテリーであったかと一安心したものの次に始動してみるとまたかからない。
ホンダのバイクはブレーキレバーを握りながらセルスイッチを押すという仕様になっているのだが、よくよく観察してみると左のブレーキレバーを握って始動しようとするとセルが回らないことに気付いた。多分、左ブレーキのどこかが断線しているのかもしれない。
ああ、もっと注意深く観察しておくべきだった。そうすればバッテリーを買う必要はなかったのに・・・。出品者がお盆休みに入る前に買っておかねばバイクが動かなくなると焦ったのがいけなかった。



ただ、ブレーキランプは点灯している。見た目はどこも異常なしという感じなのだが、ネットで調べてみると、その部分のケーブルというのがアップされていて、端子が2本出ている。おそらく1本はブレーキランプにつながっていて、1本はセルのリレーにつながっているのだろう。なんとか右ブレーキだけでしのいでお盆明けにバイク屋さんに持って行こう。
あとは汗だくになりながら家の中の整理。全然片付いたというレベルではないが、坊さんやお参りの人が来てくれても少しはましだろう・・。

今日はまったく釣果がなかったので釣行記よりもバイクの話のほうが多くなってしまった・・・。


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高瀬隼子 「水たまりで息をする」読了

2021年08月06日 | 2021読書
高瀬隼子 「水たまりで息をする。」読了

最近読んでいる本は図書館の新規購入本の棚に置かれている本で、特に内容を見ることもなくタイトルが面白そうだから借りてみたという本たちだ。だからこの前に読んだ本も生物学の本かと思ったら数学の本であったということになる。
この本も小説だとはわかっていたがこの作家のことはまったく知らなかった。あとから知ったのだがこの作品は、第165回の芥川賞候補作だったそうだ。

あることがきっかけで夫が風呂に入らなくなった。そのことが原因で夫婦の距離感というものは一体なんであるかということが浮き彫りになってくる。
多分、純文学というものは読む人それぞれで物語が語りたいと思っているであろうことの捉え方が異なると思うのだが、僕は、この、「夫婦の距離感」だと思った。

主人公である妻は、結婚という決断をしたことをこう回想している。
『結婚した方がいいから結婚した。子供がいた方がいいから作ろうとしたけど、できなかった。夫婦二人仲良く生きていく選択をしたほうがいいから、そうした。』
「そうした方がいい」それが主人公の人生の決め方のようである。子供がいない共働きで食事も別々で買ってきたものを食べる。そんな生活を義母は「おままごとみたい」というけれどもそれのどこが悪いのかと思っている。
風呂に入らなくなりだんだんと臭くなり、それが原因で会社も辞めてしまうような夫だから見捨てようと思えばいつでも見捨てることができるはずだがそれができない。しかし夫婦だから、離れない方がいいから別れない。二人で生きてきたのだから。
無数に選択肢がある人生で、熟慮して選んでこなかったといって、全てが間違いになるわけではない。だからそれでいいと思っている。
結末はこのストーリーには似合わないように思うが、主人公の考え方はこんな感じだ。

僕と僕の奥さんの関係もこんな感じなのかもしれない。多分、お互いに、「そろそろ結婚する相手を見つけなければ。」と思っていたところでそんな感じになったというところだろう。相手はどうか知らないが少なくとも僕はそんな感じだった。
お互い趣味も違うし(というか、奥さんにはまったく趣味や興味というものがないように思う。)生活の好みも違う。唯一似ているのがお金を使いたくないというところくらいだ。僕は風呂には入らないことはないが、休みとなると海や山に行き、家にいるときにも木を切ったり塗料を塗ったりしている。あまり清潔とは言えない生活で確かに奥さんはそれが嫌いらしく僕のそういう遊び着は脱ぐとすぐにそれだけを洗濯し始める。
だからふとした時に、この人なんでここに居るのだろうと思う時がある。僕と結婚したことで何のメリットがあったのだろうと思う時もある。『向こう側にいるような感覚がある。足元を見ると深く抉れたような割れ目がある。』とまではいかないが、近い感覚だ。
お金をたくさん稼いでくるわけではないし、顔もいいわけではない。僕の趣味に付き合うわけでもないから休日も別行動だ。
だから、どうして、「もう飽きました。」と言わないのかというのがある意味不思議だと思うのだが、この本を読むと奥さんの心理も主人公のようなものなのかと思えてくるところがある。
「そうしたほうがよい。」という前提で人生を送ってきたということか。まあ、それもお互いさまというところだろうが・・。ひとはそうやって人生を送るものだとなんとなく納得してしまう内容であった。しかし、『二人で生きてきたのだから。』という言葉はかなり重い・・・。


臭いということと風呂に入らないということについて物語とはまったく関係がないがいくつかのことを書いてみたいと思う。
もう、40年近く前だが、おそらくその頃はラジオ少年だったのでラジオから流れてきた話だったと思うが、伊勢正三という歌手が語っていた内容だ。伊勢正三というと「かぐやひめ」のメンバ―で今や伝説のシンガーというところだが、その頃から伝説のひとで一線からすこし身を置いて富士山の麓で農業をしながら暮らしているということだった。伊勢正三もこの頃、まったく風呂には入っていないとそのラジオで言っていた。人間は長いこと風呂に入らないと最初はベトベトして体が臭くなるが、ある時を境にそういうことがなくなって臭いもしなくなり体もさらさらしてくるというのだ。なんで僕がそんなことを覚えているかというと、ちょうどその頃僕は大学受験を前にして水疱瘡に罹った。
水疱瘡になると風呂に入れないから僕も多分2週間ほど風呂に入らなかったのだが後半は伊勢正三が言っていた通り、体がサラサラしてきたのだ。あの人の言っていたとおりだとその時思った。まさか今、そういうことを実践しようとは思わないが、芥川賞の審査員の中にそういうことを知っていた人がいて、この話にはリアリティがないというので受賞を逃したのではないかというのはかなり勘繰りすぎだろうか・・・。

主人公の夫は、風呂に入らないことで同僚を苦しめたという一種のハラスメントに当たるということで改善がされなければ解雇すると通告され退職することになるのだが、臭いということはやっぱりハラスメントになるのだということが明らかになった。去年の職場の臭い同僚にも、あなたはハラスメントをしていると堂々と言ってやればよかったと悔しい思いがする。しかし、あんなに臭いと思ったのに、その臭さを頭の中で再現できないというのは以前に書いた感想のとおりだ。
芥川賞の審査員もその臭いを想像できなくてこれはリアリティがないというので受賞を逃したのではないかというのはやっぱり勘繰りすぎだろうか・・・。


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加太沖釣行

2021年08月05日 | 2021釣り
場所:加太沖
条件:中潮 3:04満潮 
潮流:6:14転流 10:41 下り2.9ノット最強
釣果:マアジ16匹 真鯛1匹

暑い最中だが、今日は珍しく加太へ行ってみた。前回の初島の飲ませサビキはまったく不調であったので2回目の失敗はしたくないし、SNSの投稿には加太でたくさんのマアジやハマチを釣り上げた書き込みが出ているので僕もそっちに行ってみようと考えた。ベイトがあれば飲ませサビキもやってみたいと考えている。

出港は午前4時半。



今日は東の方に低く厚い雲があり空が明るくならない。風はほぼ無風なので日本製鉄の煙突の煙が雲とつながっている。不思議な光景だ。



まずは禁断の仕掛けを使って何か青物を狙ってみようと加太の別荘の前の海域を流してみる。ここで釣れれば新しく作った仕掛けは万全だろうと思うのだがそんなに甘くはない。何のアタリもなく田倉崎まできてしまった。

潮は下りなので非武装ポイントへと思っているのだが、四国沖ポイントに数隻の船が集まっていたのでここでアジが釣れれば燃料を節約できると思い仕掛けを下した。



燃料というと、船速が一気に落ちた。前回の初島への釣行ではそんなに気にならなかったが航跡もかなり乱れている。今日はかなりの燃料の浪費を覚悟せねばならない。これでボウズで帰ることになったら最悪だ。
釣りをしている途中で魚に走られ、仕掛けが切れた時にチラッとスクリューを見てみたらいくらかのフジツボが見えたので、ああ、もうこんなになってしまっているかと、悲しくなってきた。またけれん棒を持ってきてフジツボを掻き落とさねばならない。

四国沖ポイントではまったくアタリはなく、非武装ポイントへ移動。



そもそも、今日使っている仕掛けはもともと春先に使おうと思って作っているサビキ仕掛けなのでこの季節に通用するかというのを疑問に思っている。どんな仕掛けがいいのかというのもわからないのでとりあえずこれしか手立てがないのだからこれを使うわけだが、これがダメなら完全にボウズだ。燃料だけを損失することになる。
しかし、神様もそんなに意地悪ではなかった。到着してすぐにアタリがあった。小さいけれどもマアジだ。本当に小さいが何匹か釣れれば夕食のおかずにはなる。そして頻繁にではないがアタリは続く。このポイントは水深50メートルくらいの場所がいいとのことだが、今日は40メートルラインがいい感じだ。潮の流れと海底の地形を見ながらいくつかのラインを流すとアタリが続く。途中、大きな魚が食いついた。マアジなら海底に向かって引いてゆくがこの魚は横に走り始めた。大きなアジだと思って口切れをさせないようにゆっくりリールを巻いてきたのが悪かったか、船の下に潜り込まれた。そしてどうもスクリューに引っかかってしまったようだ。幹糸を何度か引っ張たり緩めたりしてみたがだめだ。そのうちに船底に付着したフジツボにこすれたか仕掛けが半分無くなってしまった。

今日は飲ませサビキもやりたいと思っていたのでそんなに長い時間サビキ釣りはやらないだろうと思い予備の仕掛けはひとつだけしか持ってきていない。これを失くせば万事休すだ。これからは仕掛けの保護を優先して魚とのやりとりを素早くやらねばならない。
しかし、そこがうまくいかない。秋のようにメジロクラスの青物は掛からないと考え、ハリスは3.5号にしている。今日は型が小さいとはいえときたま大きなアタリがある。竿も飲ませ用の少し硬い目の竿なので少し強引にやり取りをするとハリスが切れてしまうか口切れを起こしてしまう。気がつけばハリスが2本飛んでしまっていた。
なんとか鬼アジと言える魚を1匹だけ取ることができたが、おそらく4、5匹は逃しているだろう。最低4号は必要のようだ。
最初に切れてしまった仕掛けの残骸から枝素を移植して釣りを再開。この時点で午前8時を回っていたのだが、暑さが半端ではなくなってきた。気がつけば帝国軍もすべて軍港に引き上げてしまっている。



もう10匹以上釣っているのでこれでよかろうともうひと流しして終わりにしようと考えた。
そしてその最後のひと流しで真鯛が来た。これは貴重な1匹だ。しかし、この大きさの真鯛を獲れるのにあのハリスを切っていく魚はなんなのだろう。やっぱりサゴシなんかも泳いでいるのだろうか。まあ、夏だもんな・・・。
結局、ベイトはまったく見つからず仕掛けも仕掛け巻きに収納したままで終わった。

家に帰って一息ついて燃料の補給へ。いつも買っているスタンドはとうとう2000円の大台に乗ってしまった。



こうなってくるとお店との良好な関係よりも少しでも安いところに行きたいのが人情だ。ほんの数百メートル手前のスタンドを久々に訪ねた。ここの今日の値段は20リットルで1920円。リッター当たり4円安いことになる。たかが4円だがこの際貴重だ。まだまだ軽油の価格も上がりそうだし・・。
と、そこでトラブルが発生した。バイクのエンジンがかからない。何度かアイドリングの状態でストップしてしまうことがあり、この時もスタンドに到着してエンジンを切る前に止まってしまって嫌な予感がしていたがまったくセルが回らない。キックで始動しようとしてもエンジンがかからない。
う~ん、となっていた時、スタンドのアルバイトのおじさんが声をかけてくれた。バッテリーなら予備のに繋いであげるからこっちにおいでとピットまで誘導してくれたのだがそれでもだめだ。ここのスタンドのスタッフの方は親切だ。
叔父さんの家はここからすぐだから電話して家まで運んでもらおうと考えてダメもとでもう一度セルを回してみると、予備のバッテリーから少し充電されたか(じゃあ、バッテリーをつないだ時にセルが回らないのはなぜだったのだろう?電流の規格が違うとセルは回らないものなのだろうか・・。)セルが回った。これでなんとか家に帰れる。とりあえず港まで行って燃料補給を済ませて速やかに帰宅。
家に戻ってもう一度エンジンをかけてみるとまた沈黙・・・。今度はキックで始動するし、セルのボタンを押すと、「カチッ」という音がするのでやっぱりバッテリーがあがっているのかもしれない。このバイクを中古で買って早4年。中古ゆえのトラブルでなければよいが・・。とりあえずバッテリーを交換して様子をみてみようと思う。

獲物のアジはというと、おなかの中にこれでもかというほどの脂を蓄えていた。真夏のこんな時期にこんなに脂を持っているとは恐るべき魚だ。家に持って帰った11匹を捌くと包丁も手も脂でズルズルになってしまった。刺身の切り身は醤油につけると醤油の上に脂がいっぱい浮かんでいる。もちろん味も格別だ。暑さにめげずみんな釣りに行くはずだ。
燃料食いまくりだがもう一度行ってみたいと思わせてくれる獲物であった。

台風が近づいている。昨日の予報では紀伊半島をかすめていく進路だったので港に戻って台風に備えてロープを追加したり錨のロープを対台風用に巻きなおしたりした。



家に帰って進路をチェックしてみるとかなり東にそれてくれそうだ。多分大きな影響はなさそうでとりあえずホッとした。これからふた月ほどはどんどん台風が日本に向かってやってくるはずだ。何事もなく過ぎ去ってくれればありがたいのだが・・。

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「計算する生命」読了

2021年08月04日 | 2021読書
森田真生 「計算する生命」読了

生物学の本かと思って借りてみたが、数学について書かれた本だった。著者は、数学をテーマとした著作・講演活動などを行う日本の「独立研究者」という肩書を持ったひとだ。

数学というのはまったく苦手な科目で、共通一次試験では最初の年は200点満点で50点ほど、2回目の年でも100点ほどしか取ることができなかった。ちなみに二次試験では出題されていた5問中解けたのが2問半だけだった。あれでよく大学に合格できたものだと思った。
ちなみにあと50点でも取れていたら僕は師の後輩になれたことは間違いがなかった。僕は数学のせいで大和川を渡れなかったのだ。
その恨みも込めて読み進めることになった。

この本はほぼ全部、数学史というものについて書かれている。ものを数えるためということから始まった数学は、数字と記号を作り出し、代数学が生まれ、幾何学と融合し図形を数式で表すことができるようになった。そしてコンピューターが生まれ人工知能、さらにその先には自律的にモノを考える人工生命に続こうとしているのではないかというのがこの本の大雑把な内容である。というか、そんな大雑把なことしか理解ができなかった。とくにたくさんの数式が盛り込まれているというのでもなく、ほぼ全部普通の文章なのだけれども理解ができない。もともと数学の発祥というのも物理学と同じように哲学が元になっているそうだ。だからこの本は数学の本といいながら哲学に関する本と言ってもいいような内容なのである。だからよくわからないのである。

ここからはそういうことを前提にして僕の想像と妄想で感想を書いてみる。
数学というものは、哲学から生まれたということは、もちろん人間が創り出したものである。数字が1から0の10個で構成されているのもたまたま人間の手の指が5本であり、人間はそれを元に物を数え始めたからではないかとこの本には書いている。
この本には数学の行きつく先は人工生命であると書いているが、もうひとつの行きつく先はおそらく宇宙の解明であろう。物質の運動の法則は全宇宙どこに行っても同じであるから数学を使えば宇宙のすべてが解明されるというのがこの世界の常識であり、遠い将来、異星人と遭遇したとき、彼らと会話するための唯一の手段が数学であるようにも思っていたけれども、それが、ただ、この星で人間が創り出しただけのものであるとなるとちょっと違ってくるように思う。
たまたま人間が創り出した数学が自分たちの手の届く範囲の物質の運動を偶然にも記述できただけだったということだったかもしれない。もしくは、宇宙は意思を持っていてそういう風に見せかけているだけなのかもしれない。「惑星ソラリス」という映画はそんな感じの映画であった。この文章もコンピューターを使ってその中で無数の計算がおこなわれた結果ブログにアップすることができるのだが、そう思うとあまりにも奇跡的な偶然なのではないだろうかと思ったりもする。
この本にも紹介されていたが、”虚数”というものなんて、普通の人なら、こんなものどう考えてもおかしいとしか思わない。僕が数学につまづいたもののひとつはこれであった。もちろん、数列、対数、確率、すべてつまづいたもののひとつであり、そうなるとほぼ高校で習う数学の分野のすべてになってしまうのであるけれども・・・。ちなみに、高校生が習う数学というのは、18世紀以前に出来上がった数学の範疇だそうだ。

だから、実は、現代の数学が表している世界というのはほんの幻に過ぎず、それは意思を持った何か、おそらくそれを僕たちは神と呼んでいるのだろうが、その神が僕たちにそう見せているだけなのだと思ってしまうのである。

エデンの園で暮らしていたアダムとイヴは知恵の実を食べたことで寿命という呪いをかけられ、エデンの園を追放されるのだが、アダムには「食べるためには汗を流して働かねばならない」、イヴには「子どもを産むには苦しまなくてはならない」という罰も与えられる。
アダムとイヴは算数をやっていたのかどうかは知らないが、その時代から世界のすべては神が見せている幻なのではないかと三流のSF小説のような感想になってしまったのである。まあ、そう思うと、今の職場の矛盾とあほらしさも幻であると思えて少しは気も楽になるというものだ。

もう少し人工知能の話を。この本では1章分を人工知能の将来についてというもので書かれている。
人工知能と人間の大きな違いは、人間は行為する動機をみずから生み出せるような「自律的」な存在であるが、人工知能は外部からの入力に支配された「他律的」なシステムであり、それをすべて計算でまかなっている。自律的ではないのである。
『機械にとって記号には何の意味もなく、したがって計算の結果の正誤について自ら吟味する余地はない。正しい結果と間違った結果の区別ができないとすれば、それははたして計算と呼べるのか。』と著者はいう。タイトルのとおり、人工知能は『計算する生命』ではないということになる。
逆に言うと、『計算とはもともと、人間による機械の模倣(シミュレーション)』なのである。

かつて、アラン・チューリングという数学者は、人間の思考はすべて数学に置き換えることができるのだという発想からコンピューターのアルゴリズムを考え出したそうだが、著者はどうもそうは見ていないようだ。
『人工知能研究とは、本来、人間のレプリカを作ることでも、SF的な「超人」を生み出すことでもなく、部分的に人間を再現しながら、知能の原理を解明していく地道な営みだったのである。』と書いているように、人間は人間で、機械は機械だという認識を持っている。
数学者なんて偏見かもしれないが、合理的で冷徹な人と思ってしまうところがあるけれども、そうでもないのだと思わせてくれるのだ。



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水軒沖釣行

2021年08月02日 | 2021釣り
場所:水軒沖
条件:小潮 8:52干潮
釣果:ツバス4匹 サバ4匹 エソ1匹

今日の船のローテーションは小船の番だ。前回はまったく反応がなかったタチウオをまた試してみたい。カレンダーはすでに8月に入っている。いくらなんでも反応はあるだろうと考えていた。

今日も勇んでかなり早い時間に出港となった。すでに日の出時刻は午前5時10分。いくら早くても午前4時半の出港でいいところを出発の準備を整えたのは午前4時だった。



まあいいや。ゆっくり船を進めて海上で明るくなるのを待てばいい。それに、タチウオが釣れているのなら糸が切れて海面を漂う電気ウキが見つかるはずでそれを探しながらというのもいいだろう。しかし、僕のジンクスは、「電気ウキを拾った日は魚が釣れない。」というものだが、電気ウキが漂っているということは魚がいるということなのだからなんだか矛盾している。

結局、電気ウキは見つからず、海上保安庁の巡視船が停まっているところくらいまで来てなんとか辺りを見回すことができるようになったので仕掛けを流し始めた。ゆっくりしたペースで新々波止に沿って移動し、そこから青岸方面へ舳先を向ける。もう一度新々波止の方へ向きを変える頃になって、今日はえらく仕掛けが重いなと思い始めた。今年はまだ2回目のタチウオ仕掛けなのでいつもの勘が戻っていないのかと思っていたのだけれども、あまりにも小さいタチウオが食いついていたり、ゴミが引っかかっている可能性もあるので念のため仕掛けを点検してみることにした。やっぱり異常があり、エソが2匹も掛かっていた。かなり前から食いついていたのか、胃袋からかなりの海水を吐き出した。まだなんとか生きているので放流。
仕掛けを再度流し始めると、今度は明確なアタリがあった。おお、タチウオかと思ったが今度はエソが4匹。1匹だけ大きいものをキープしてすべて放流。しかし、これだけエソばかり釣れるということは今日もタチウオはいないということだろう。かなり明るくなってきたのでタチウオは諦めてサゴシ狙いに変更。



前回の釣行でなんとも煮え切らない結末を迎えたのでそれを払拭しなければ前へは進めない。なんとも大げさな表現だけれども、これも僕のゆがんだ性格のゆえだ。仕方がない。今日はイトウさんからもらった仕掛けからも卒業すべく、すべて一新している。貴重なヘッドを温存するため、タコベイトとこの前中古で買った大きめの人工パールを頭に取りつけている。タコベイトはグァム島でおみやげとして買ってきたものにすべて変更している。



新々波止の赤灯台の手前から仕掛けを流し始め、波止の南側に回ったところでアタリが出た。おお、こっちは幸先がいいじゃないか。そして上がってきたのはそこそこの型のサバだった。こんなところにこんなサバが泳いでいるのかというのも驚きだが、こんな仕掛けに食ってくるというのも驚きだ。
その後もアタリは続く。ツバスが掛かったり、またサバが掛かったり。
生け簀を殺しているこの船では釣った魚をすぐに絞めてしまわなければならない。今日も神経締めの練習をしたかったので時間がかかる。風は東から吹いていて、その間に船は流され元のところ付近まで戻ってしまう。そんなことを繰り返しているのでほぼ船が進まない状態で魚が釣れ続けることになる。ツバスはそれほどたくさん釣っても仕方がないので大きいものだけをキープ。
前回とは状況がまったく異なるのでなんとも言えないが、サゴシは釣れなかったとはいえ事象だけを見てみるとイトウさんの仕掛けを凌駕していると言っても過言ではない。
これでなんとか前へ進めそうな感じがしたのだが、よく考えればタコベイトはグァム島のおみやげで人工パールも中古で買った両方とも同じものは手に入らないのである意味一品ものだ。これらが無くなると再現性がないということだ。ジキル博士も再現性のない薬に悩まされたが、僕もまだこのタコベイトに悩まされ続けることになるのかもしれない。

ツバスだけだとおすそ分けにならないがサバがあるので叔父さんの家に持っていくことにした。到着したのがちょうど午前7時。サツマイモを満載した軽トラがちょうど帰ってきたところだった。「今日は人手が少なかったので来てほしかったな~」ということだったがあとの祭り。僕でも少しは役に立っていたらしくイモ洗いだけを手伝って帰途についた。

しかし、今年はタチウオがいない。例年なら、この、イモ拾いの頃には釣れ始めているのだが、今年のイモ掘りもあと1回を残すのみだそうだ。今まで釣ったことがないサバが釣れるし、今年の夏の海はどうも様子がおかしい感じがするのは僕の杞憂なのだろうか・・・。

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