ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

イチオシの素晴らしきプロフェッショナルたち

2023年01月08日 | 日本とわたし
今回の日本行きで出会って心底素晴らしいと思った方々のことを書きます。

まずは瀧本一先生、鍼灸と整体の先生です。

ウェブサイトの自己紹介より:
「医者より養生 薬より手当」
これは私が学ばせて頂いた仲野整體に代々伝わる治療哲学です。
どんな良い医者にかかるより自分が行う日々の養生(生活に留意して健康の増進を図ること)が大切であり、どんな高価で速効性のある薬を飲むより心のこもった手当がカラダにとっては有効である。

もうここだけでわたしの心のツボにハマったのですが、実際に治療を受けてみるともう、もしもできるならこの治療院の近くに引っ越したい!と思うほどに。

ウェブサイトはこちら。
facebookはこちら

とにかくユニークですごい腕の持ち主です。
自分でどんどん改装し、いろんなアイデアを形にして治療に取り入れていくそのエネルギーがすごい。

冒頭で紹介した先生の自己紹介の続きです。
「この言葉に出会った当時の私は、2年間過ごしたオーストラリアから帰国したばかりの時でした。
オーストラリアで私は、競走馬の調教の仕事に携わり、毎日馬に乗り、お世話をする日々を過ごしていました。
競走馬は、走る為に人工的に作られた動物でとても貧弱です。
毎日獣医の診察があり、飲み薬や注射が処方されう彼らの汗からは、薬の臭いがする程でした。
そんな中で時々変わったドクターが、厩舎(馬を飼う施設)にやってきて、馬の背骨や足の関節を動かしたり鍼をしたりしています。
それがカイロプラクターであり、鍼灸であると気がつき、自分も薬や注射でなく、自然な形でカラダの調子を整える彼らの様な仕事がしたいと思うようになりました。
帰国して…
そして帰国後、すぐに医療機器の専門商社に入社し、全国の医療機関や治療院を飛び回りながら鍼灸学校で学ぶ日々が始まったのです。
そんな矢先に2年前から交通事故で足を病んでいた弟の症状が悪化していきます。
左足の複雑骨折から感染を起こし、何度も手術を繰り返してきた弟ですが、繰り返される手術と長期のステロイドの投与でカラダはぼろぼろになり、本人だけでなく家族も疲弊し、重い空気が流れていました。
もう少しこの治療を続けるか?
それともいっそのこと義足にするか?
そして悩んだ末私達家族が出した答えは、「医者より養生 薬より手当」の仲野整體でのセカンドオピニオンでした。
驚くことに、わずか半年弱の治療で状態はどんどん良くなり、川に入って遊べるようになり、好きだったサッカーができるまでに回復したのです。
これを目の当たりにした私は卒業後、迷うことなく仲野整體の門をたたき、修業生活に入っていきました。
仲野整體での5年間の日々は、素晴らしい環境に恵まれ、非常に充実した期間となりました。
日々の臨床で様々な患者さんと出会い、仲野先生の「人間学」を学び、様々な学会に参加して自分の知識を深めていきました。
そして、「あっ」というまの5年間がすぎ去り、私の学んできたことが少しでも世のお役にたてればとの想いで開院を決意しました。
「医療者である前に人間であれ」
の言葉を胸に、毎日の臨床に取り組んでいます。
ご縁のある方のカラダの悩みの解決と、より豊かな人生のサポートをいたします。
1人でも多くの方と出会える事を楽しみにしています」

もしお近くにお住まいでしたら、いや、車や電車を使ってなら行けなくも無いというところにお住まいでしたら是非是非!

院内はほぼはじめ先生の手作り。
まずは手前の部屋の緑色の電動式ベッドにうつ伏せになり、整体をしてもらいつつ体全体の様子を診てもらいます。
わたしの場合、首や背骨に外れていた部分があったからか、ボキボキと整体を施してくださいました。
いつもなら苦手で言われても断ることが多かったのですが、はじめ先生の整体は気持ちよく受けることができました。
腕がいいことはもちろんだけど、大丈夫、安心していいんだっていう気持ちにさせてくれる力があるんだと思います。
それが済んだら奥の部屋に移動して、いよいよ鍼治療が始まります。
鍼治療のベッドから天井を見ると、何本もの細い鉄パイプが取り付けられていて、そこからクライミングなどに使うロープが何本もぶら下がっていました。
一体これは…と眺めていると、「ちょっと横向きに寝て、ここに腕を通してください」と言われて、痛む方の左腕を通したのですが、無防備に開いた脇下をツンツン突いて「じゃあここら辺に一本刺しますね」と、脇から10センチほど下がったところに的を絞ったはじめ先生。
見学していた夫が慌てて、「彼女は大の鍼嫌いで、一番細い日本製の鍼しか受け付けないのです」と言ったところ、「うーん、多分大丈夫ですよ、ぶっとくてもズンと刺しちゃうとかえって痛みを感じなかったりするので」と先生。
「いや〜そりゃないですよ、絶対にわたしに限ってそんなことは」と口答えしようと思う間もなく、結構ぶっとい鍼が入っていました。
全く痛くなかったし…。


これは最近完成したパワーラック、もちろんはじめ先生の手作りです。
だから世界でたった一台!
体幹作りや筋肉増強、そして患者さんのリハビリにも使われます。

この枕ももちろん手作り。

一鍼灸院のはじめ先生、めっちゃオススメです!

場所:
三重県名張市丸之内29-1
電話番号:
予約:
info@hajime-karada.com


次はG-KENEYES(ジーケネイズ)、メガネ屋さんのマネジャー、小川都志朗さんです。
ジーケネイズ、変わった名前でしょう?
彼のことはピアノの師匠から教えてもらいました。
2年前に、こちらで作ってもらったレンズがまるでトンチンカンだったにもかかわらず、5万円以上も払わされて大いに困っていたわたしに、ちゃんとしたメガネを作ってもらいたかったらここがいいと教えてくれたのです。
まず検眼に対する姿勢と情熱がすごい。
だから信頼して何年も通っている。
三重県から大阪まで、メガネを作ってもらいに通い続けたくなる人ってどんな人なんだろう。
行く気満々になった頃は、すでに日本はコロナ禍で鎖国状態。
だから楽譜はそのクソったれレンズを通してほぼ予想読みしなければならず、ストレスの連続でした。
なので今回小川さんにメガネを作ってもらうのは、今回の日本行きの大きな目的の一つでもあったのでした。
久々の大阪の地下鉄を乗り継いで行ったのは土佐堀通り。
相愛の子供音楽教室に通っていた頃のことを思い出しながらの、妙に懐かしい道中でした。
約束の時間ギリギリに到着し、簡単な自己紹介をして、早速検眼が始まりました。



ウェブサイトの紹介文より:
ジーケネイズでは、日本国内はもとより、ヨーロッパなどへ私どもの眼鏡にかなうフレーム探しに出向き、相思相愛、良い出会いがあれば買い付け、それをお色直しをして、ショップ内のチェストに大切に仕舞っております。
そんな思い入れがある大切なメガネ、大切なお客様にご覧いただければと願っております。

ジーケネイズのメガネは、視力や視機能を矯正する道具だけでなく、お洒落(演出)のアイテムでもあります。
どう自分を作るかは、選ぶポイントで変わります。
思い込みや偏見で選ぶ人が多い中、隠れた魅力を引き出すステージ作りをしています。

フレームが決まれば、視力・屈折・視機能検査になります。
良いメガネを作るためには、良い視力は当然ながら、両眼視に於いても正しく見えることが必要となってきます。
そのため、年齢にかかわらず、眼位や調節の検査をし、時には内・外(融像幅)の検査(米国式21項目検査から)も追加し、お客様との共同作業により、快適なメガネをお作りしております。

当ショップは、20数年前に日本眼鏡技術研究会が発足した当初からお世話になり、メガネ店に於ける両眼開放屈折検査や、両眼視機能検査を勉強させていただき実践してまいりました。
両眼開放屈折検査とは、片眼遮閉屈折検査で得た値を、両眼を開けたままで各眼の屈折度をチェックし、時には日常視力の屈折度に修正し、快適な眼鏡度数を得る検査をいいます。

つまり、左右の眼が同じ視標を両眼で同時に見る両眼視力ではなく、左右の眼がそれぞれ違った視標を両眼を開けた状態で、左右それぞれの眼を測定する方法です。


実に2時間半もの時間をかけて、測定してくださった小川さん。
裸眼で1.2まで見えることがわかりびっくり!
けれどもそこに老眼だの乱視だのが混ざり込んで、なんとも複雑怪奇な目の持ち主のわたしに、それはそれは辛抱強く応対してくださったのでした。
測定のための仕法の細かさ、はっきりとした結果が出るまでの粘り強さ、そしてその過程において選ぶレンズの適切さは本当に見事で、これぞ真のプロフェッショナル!と唸りたくなるほどの仕事っぷり。
感動の測定が終わり、いよいよフレームの選定です。

海外在住のお客さんに人気のフレームを紹介してもらいました。


弾力性がありながら頑丈で、ちょっとやそっとでは壊れないのが心強い。
偶然にもこのフレームは、クソったれレンズをはめたメガネのフレームと同じく、福井の鯖江で作られた物なんだそうです。
レンズはまるで役立たずですが、フレームはある著名人が使用してから値段が急激に上がり、今では手に入れるのが難しくなったんだそうな。
値上がりしたと噂のフレームはこちら。


どちらのフレームもとても軽くて、長い時間かけていても負担になりません。
特に新しい方のフレームは、耳にかけるというより頭がやんわり掴まれている感じ。
レンズはピアノの楽譜立てに置いた楽譜を、左右上下、どこを見ても焦点が合うという特別仕様です。
家に戻ってからすぐに、ピアノの蓋を開け、楽譜を置いてみました。
お〜見える見える♪♪
音符はもちろん指番号までくっきり見えます♪♪
幸せだなあ〜…。

住所:
大阪市西区江戸堀1-24-16  
TEL:
営業時間:
月~金曜日 10:00~20:00
土・日・祝日 10:00~17:00
休業日・不定休
URL:
http://www.g-keneyes.com/


最後に『まんまる』さんという、介護に必要な用具の販売、組み立てや設置を請け負ってくださっているお店の代表、田中勇仁さんを紹介させていただきます。

母がこれまで張り続けてきた意地を捨て、米寿を迎え、やっと介護保険を使わせてもらう決心をして、ケアマネさんが家に来てくださったのが昨年の冬のことでした。
そのケアマネさんが教えてくださったのが『まんまる』さんなのでした。
パンフレットを持ち帰ったら良かったのですが、うっかり母の家に置いてきてしまいました。
日本の介護制度はここに比べたら月とスッポン、本当に素晴らしいと、間近に見させていただいてさらに実感しました。
歩くことが困難になり、わけもなくバタンと倒れるようになった母を心配して、手すりの棒を何種類か買って用意していた弟が、わたしを大阪から送りがてらそれらを置いて帰ったのですが、そのことを知った『まんまる』さんが、その優しい息子さんの気持ちを大事にしたいと、予定外なのに急遽取り付けてくださったのがこのトイレの手すりです。

一度付けて使ってみると、指が入りにくいことがわかり、手すり棒に同封されていた板をはめて再度取り付けてくださいました。


取り付けをしてくださっているのが田中さんです。
介護ショップ『まんまる』の代表で、福祉用具専門相談員・福祉用具選定技能士さんです。
アメリカでは絶対にあり得ないことなので、もう胸の中は熱くなりっ放し。
もうほんと、大袈裟ではなく、神さまのように見えました。

彼のおかげで、母の家のお風呂場、廊下、そして玄関から道路までの階段に、とてもしっかりした手すりが付いて、母は「有ると無いとでは大違い。恐々と動かなくてもよくなった」と大喜びです。
だ〜か〜ら〜、もう10年近くも言ってたでしょうが〜と、深いため息と一緒に言いたいのをグッと堪えて、良かったね〜と言う今日この頃です。

介護ショップ「まんまる」
住所:
〒519-0111 三重県亀山市栄町1488-205
電話:
0595-84-0202 / FAX 0595-84-0203
営業時間:
月曜日~土曜日 8:30~17:00
定休日 日曜日・祝日・12/30~1/3
Eメール:
info★manmarukaigo.co.jp (★を@に変えてください)
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2023年、遅ればせながら明けましておめでとうございます!

2023年01月08日 | 日本とわたし
と、明けてもう7日も経った今日、やっとそう言える気になった。
ちょっと大袈裟に言うと、茫然自失状態で半月を過ごし、時差ボケも重なって、おせちも掃除も何もする気が起こらなかったのだけど、とりあえず習慣的に体が動き出し、なんとか間に合わせた正月だった。

昨年末のクリスマスもそうだった。


例年のごとく、夫の姉(といっても6歳も下)におんぶに抱っこで、わたしはただほうれん草の胡麻和えを作って持ってっただけで、集まってきた人たちとなんとなく楽しそうに話して時間を過ごした。
二人の息子たちはそれぞれに事情があってどちらも来られなかったのだけど、長男くんの奥さんのTちゃんが一緒にいてくれて、話がいっぱいできてよかった。


去年の11月中旬から12月中旬にかけて、約3年ぶりに日本に行った。

随分時間が経ったと思って確かめたら、まだ国から出てもいないことを知って呆然としたが、こうやって見ると行程の約半分がアメリカ大陸なのだと思い知る。


コロナ禍が勃発する直前に、頚椎の手術を受けた母が、感染を恐れて家の中から一歩も出ない毎日を2年近くも続けているうちに、みるみる弱って歩けなくなり、食べられなくなった。


LINE電話やビデオ通話でどんなに励ましても、状態は一進一退を繰り返すだけで、一向に前向きな気持ちにならない。
寂しいのだろう。
母は寂しいだの悲しいだの、人に心配をかけるような言葉は一切使わないと心に決めているのだが、全身でそう訴えていることに気づいていない。


成田空港の入管手続きでばかばかしいほどに時間がかかり、わざわざ事前に2時間ほどもかけて手に入れなければならなかったQRコードはまるで役立たずで、外国人旅行者はほぼ全員怒っていた。
その意味不明のノロノロ手続きのせいで、乗り継ぎの飛行機に乗れない人もいた。
疲れ切った心身を奮い立たせて東京から新幹線とJR線を乗り継いで母が住む町まで行き、予約しておいたオンボロなビジネスホテルに泊まり、翌朝母の家に行った。
ようやく会えたというのに、彼女は足のマッサージ機の前に座って新聞を読んでいて、こちらに顔を向けようともしない。
不機嫌マックスである。


実に母は人をがっかりさせる天才である。
けれどもそんなことには慣れっこなので、とっとと無視して近くの温泉行きの準備をする。
そして見てしまった。
母は本当に自力では歩きづらいほどに弱っていて、そんな姿を誰にも見られたくないのに自分ではどうしようもなくて、だから怒っているのだった。
でも、出かける先は母のお気に入りの、とても良いお湯が出る温泉である。
料理も美味しいし、おまけにパークゴルフができる。
前にも何度か歩きにくくなった時、ここに行ったら突如歩き出して、元気に18ホールを2回も回ったことがあるので、きっと今回もなんとかなるはずだと思っていた。
1泊目、温泉に入ることを拒否して部屋風呂に入った母が、同行している従姉とわたしが両側から抱えてあげるからと言うと、やはり部屋風呂は物足りなかったのか、2泊目の夜は温泉のお湯に浸かった。
温泉での2日半の間に、腕を貸してあげれば結構歩けるようになり、食欲も増して姿勢も良くなったが、家に戻ると空気が抜けた風船のように萎んでしまった。
わたしは普段の仏頂面を棚に上げ、ぎこちない笑みを顔の皮膚に貼り付けて、ありとあらゆる前向きな言葉や態度を押し付けがましくならないように注意しながら、朝から晩まで母の近くから離れなかった。
母に、人に助けてもらうことは恥ずかしいことでも屈辱的なことでもないのだということをわかってもらいたかった。
でもわたしはただの娘で、セラピストでもなければ医者でもないので、空回りする言葉や行動が悲しくて、孤立無縁の虚しさに押しつぶされそうになった。


小休止に伯母と弟夫婦に会いに行った。
ずっと会いたかった97歳の伯母は元気にしてくれていたし、昨年から闘病中の義妹も、辛い治療が続いているにも関わらず元気な姿を見せてくれた。
その二人の元気さが、きっとそれぞれに大変な思いを抱えているだろうに、それを隠して見せてくれた元気さが、わたしにとってどれほどの励みになったかわからない。

弟夫婦とわたしたちで、コリアンタウンに繰り出した。










母の家までは弟が車で送ってくれた。
3年ぶりなので、少しでも長く一緒に時間を過ごしたかったから、忙しい最中に申し訳なかったのだけど、お言葉に甘えさせてもらった。

日本は外国人旅行者を受け入れたけど、街を歩く人たちはほぼ全員マスクをつけていたし、一人で車に乗っている人もマスクをつけていた。

夜は母と同じ部屋に布団を敷き、彼女のベッドのすぐ隣で寝た。
わたしと弟がまだ子どもだった頃、母は洋楽と洋画にかぶれていて、だから和式のものは一切受け付けなかったのに、スナックバーを経営してから突如演歌にハマったらしい。
数年も経たないうちに母とは別れ別れになったので、その後の経過は知らないのだけど、ずっと贔屓にしている歌手は森進一で、眠り薬に彼の歌を3曲聴いて寝るのだった。
とんでもなく古いカセットテープデッキに、何百何千回と回されて擦り切れたカセットテープに吹き込まれた森進一の歌は、途中で切れたり飛んだりする。
それが気になって仕方がないわたしは、律儀にデッキのスイッチを切ってから1分も経たないうちに聞こえてくる母の寝息を聴きながら、離れるまでに絶対に吹き込み直してやろう決心した。
宅配のおかずの配達を中止して、いろいろと料理をしたのだけど、あまり喜んではもらえなかった。
母の好みやルールは日どころか時間で変わる。
数時間前なら喜んだであろうものが、いきなり気に入らなくなることなどざらにある。
けれども確かに口から入れる量を増やすことはできた。
ろくに食べずに栄養失調になり、それを補いたいからとインターネット販売のなんちゃって漢方やサプリメントを手に入れて、それが原因で体調を崩したりする母に、何度やめろと言っても聞く耳を持たない、というか忘れてしまう。
米寿の直前に料理はもうしないと決めた彼女には、健康的なおかずだの料理だのは意味の無い物事で、どんなものを目の前に置いてもぼんやりと眺めるだけで、美味しそう、なんて絶対に言わない。
けれどもとりあえず口に入れてくれただけでもありがたいと思う。

やけに水前寺清子の「365歩のマーチ」が思い出される毎日だった。
3歩進んで2歩下がる。
時には2歩進んで3歩下がることだってある。
けれどもとりあえず前を向いて前進したり後退したりしているうちに、気づいたら前に進んでいるはずだ。
母の家を出る日が近づくと、急に前向きなことを言い始める彼女が可愛らしかった。
何かを取ろうとする指が小刻みに震えていたり、靴を履こうとしても痺れたままの足が言うことを聞かず、結局は幼い子どものように履かせてもらったりする母、歩くとすぐによろけて、前や横に倒れていく母。
この3年の間にこんなに弱ってしまったのは、家にこもってどこにも行かなくなったからだ。
頚椎の手術を急に受けることにしたのは、長男くんの結婚式に欠席したかった母の言い訳作りのためだった。
そこまでして欠席したかった理由は、もちろん外科医の勧めもあったのだけど、老いてみすぼらしくなった姿を晒したくないという、彼女独特のプライドの高さだった。
そして手術を受け、コロナ禍が始まり、その後のリハビリや運動をほとんどしないまま家に篭り、身体中の筋肉や骨や腱がじわじわと弱っていった。
養子をとって子育てしていた50代から70代の間は、年齢を偽っていたので友だちもできず、せっせと内職に励んでいた母が、やっと人生で初めての友だち付き合いをするようになったのに、それも一切やめてしまった。
得意だった車の運転も、免許証を返納してできなくなった。
連れ合いの義父は一回り年下で、ものすごく親切なのだけど耳が遠くて気が回らないので、母からいつも怒鳴り散らされているのだが、流石にここ数年は頼りにせざるを得なくなったからか、少しは感謝されている。

家を出る日の朝、よろよろしながら母が靴を履き、玄関の戸の外に姿を現した。
じゃあ行ってくるね、と言って彼女を抱きしめて、手を振りながら階段を降りたのだけど、縮んで小さくなった体を心許なそうに揺らせている姿を見て、たまらなくなってもう一度階段を駆け上り抱きしめた。
また3月に来るから、それまで待っててね。
そうだ、3月に来よう。
また3月に来るならアメリカに戻っても良いと、なぜだか急に言い出したのは母だった。
どうして3月なのかはわからないけど、これまでに絶対にそんなことは言わなかった彼女が、アメリカに帰って欲しくないという気持ちをぶつけてきたのだ。
88年目に初めて見せてくれた正直さに胸を打たれた。

東京に移る前にT先生の家にお邪魔した。
美味しいものをいっぱいご馳走になり、積もり積もった話もして、また元気が戻ってきた。




可愛すぎる雀ちゃんたち

東京では、大好きな人たちと会って話をした。



とにかく独りになりたかったので、予定を変えてホテルを予約したのだけど、それがまたとんでもなく狭い部屋で、畳敷だというのにベッドの周りに背びれや尾びれのようについているだけの酷いもので、6階だというのに底冷えがした。
9階のなんちゃってラウンジからの景色だけが良かった。


歩きまくった浅草の町









普段は縁遠いオシャレな銀座。

日本最後の夕飯は、テイクアウトのインド料理。
グルテンフリーなんてポリシーは最初の日からぶっ飛んじゃってたのだけど、〆にナンを食べたらお腹周りがボコボコ膨れた。

空港に着いても悲しい気持ちが一向に離れてくれない。
たまにアメリカに戻る自信が無くなることは今までにもあったけど、今回のは途方に暮れるサイズの揺れ方だ。
自分が一体どこで息をしているのか、どこに行こうとしているのか、ぼんやりしてるのにやたらと力が強い何ものかに押されて、涙がじわじわと出てくるのだった。

飛行機はわたしの体をアメリカに移動させることができるけど、わたしの心はどこに行くのだろう。


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