太田愛著の『天上の葦(上・下)』を読んだ。
去年の末から急激に増えた読書の時間の中で、太田さんの作品を読んだのはこれまでで初めてのことだった。
登場人物がそれぞれに魅力的で始終ドキドキハラハラさせられるストーリー。
その中で語られる日本の戦前戦中の逸話や実話が凄まじくて、読後しばらくは呆然とした。
そしてこれは絶対に書き出して頭に叩き込んでおかなければならないと思った。
酔うと必ず軍歌を朗々と歌っていた父と、無関心だった母を思い出して、ふと、彼らはその当時何歳だったのだろうと考えた。
彼らの娘の自分がもう64歳になろうとしているのに、これまで一切考えたことがなかったことに驚いた。
本と年表とウィキペディアなどをごちゃ混ぜにして書き出してみた。
もう本当になんとも言えないほどに無責任で無自覚で無恥な人間どもが日本の政治の中枢に陣取っていて、市民は足掻き苦しみながら、あるいは何も知らないまま、暮らしや命を傷つけられていた。
その悲惨な社会がまた戻ってきそうな気配が色濃く漂っている。
太田さんはこの作品を書いたきっかけについて、こう語っている。
「このところ急に世の中の空気が変わってきましたよね。
特にメディアの世界では、政権政党から公平中立報道の要望書が出されたり、選挙前の政党に関する街頭インタビューがなくなったり。
総務大臣がテレビ局に対して、電波停止を命じる可能性があると言及したこともありました。
こういう状況は戦後ずっとなかったことで、確実に何か異変が起きている。
これは今書かないと手遅れになるかもしれないと思いました」
(ダ・ヴィンチ2017年3/6号のインタビューより)
******* ******* ******* *******
満州事変
1931年 父生誕
関東軍の自作自演の鉄道爆破により始まった戦争。
国も新聞もラジオも嘘を伝える。
ニュース映画『輝く皇軍』が全国で上映される。
兵隊を応援する『慰問袋』が作られる。
小学生に兵士慰問の作文募集をする。
国際連盟を脱退
1933年2月
1934年 母生誕
盧溝橋事件
1937年 日中全面戦争 父6歳 母3歳
銀幕対面「映画館でのニュース映画の中に出征した息子や夫の姿を探す」。
『国民精神総動員運動』
乗り物に乗らずに歩くなど、暮らし方の細部までいろいろと指示が出る。
戦費のために倹約をし貯金するよう、国が貯金目標を定める。
婦人会で『銃後の長期戦』という映画を見る。
子どもたちには『貯金爺さん』という紙芝居を見させる。
全国の中等学校以上の生徒たちに勤労奉仕が科せられる。
言論弾圧が強化される。
防空法
1937年
防空訓練への参加、土地家屋の供用、灯火管制などが義務付けられる。
国家総動員法
1938年
国家の全ての人的・物的資源を政府が統制運用できる。
戦時に際し、国家総動員上必要ある時は、政府は事業の廃止や休止、解散を命令する権限を認められた。
全ての事業は国に生殺与奪の権を握られてしまった。
新聞紙等掲載制限令・国防保安法
1939年
治安維持法が全面的に改正される。
日米通商航海条約の廃棄を通告
1939年7月末
第二次世界大戦始まる(ヨーロッパ)
1939年9月 父8歳 母5歳
国家総動員法に基づき価格統制令を発令。
物資が急激に減る中、価格が上げられなくなり、闇市が発生する。
国民の暮らしが急激に苦しくなる。
大本営報道部情報局設立
1940年
26の言論統制のための法律。
違反すると新聞や雑誌の発売頒布禁止、差し押さえ、新聞の発行者や記者、出版物の編集者や著者に懲役や罰金を科した。
実働部隊は特高(今の公安の前身)。
大本営発表の信憑性
敗戦までの8ヶ月は戦果は約六倍に誇張、損害は5分の1に抑えられた
米国が日本の在米資産を凍結
1941年7月
石油の対日全面禁輸を発表
1941年8月
日米英戦争開戦(太平洋戦争)
1941年12月 父10歳 母7歳
情報局から各新聞社に通達が送られた。
大本営の許可したもの以外は一切、掲載禁止。
日本軍に不利な事項も掲載禁止。
敵愾心(相手に対する怒りや闘争心)を高揚させる記事は書いてよい。
情報局と報道機関の懇親会で、日本軍にとって有利な内容の記事を書くよう指導する。
防空法改正
1941年
都市からの事前撤去の禁止、空襲事の応急消火義務が新たに盛り込まれる。
これで都市の住民は防空要員となり、空襲事の応急消火義務を負わされた。
この二つの規定に背いた者には懲役や罰金の罰則を科した。
よって都市の住民は空襲があると解っても逃げずに消化することを法律で義務づけた。
『家庭防空の手引』
防衛に任じないものがあるとすれば、法の制裁は別として、道義的には非国民であると言われても申し訳がない。
このようなものは、空襲されなくなっても都市に立ち戻る資格はない。
イギリスがとった対応
ドイツとの開戦以前に、すでに都市の学童や母親、老人らを地方に退去させる準備を整えた。
国が人々の地方への移動手段と転居先を確保し、交通費を無料にした。
ドイツがポーランドに侵攻したその日に退避を開始させ、二日後に学童82万人を含む母親、幼児、老人ら非戦闘員147万人の地方分散を完了させた。
トラック諸島
1919年
第一次世界大戦の戦勝国として日本の委任統治領になる。
1942年
連合艦隊の拠点を前線に近いトラック諸島に移し、その後日本軍による基地化が進んだ。
2万人近くの日本人が住んでいた。
軍の士官はみな、戦況が悪化していると認識していた。
ガダルカナル島
1942年8月
米軍がガダルカナル島の飛行場を占領。
陸軍および海軍陸戦隊は、武器と食糧の補給を絶たれ、飢えと病によって倒れる兵が続出した。
日本軍によるアメリカ本土(オレゴン州)攻撃と空襲
1942年6月・7月
アメリカにとってはアメリカ本土初の事であり、軍や一般市民を大いに恐れさせた。
これが米空軍による焼夷弾の開発に踏み切らせ、日本無差別空襲攻撃を招く一因となった。
第三次ソロモン海戦
1942年11月
在学徴収延期臨時特例
1943年10月 父12歳 母9歳
理科系・教員養成学校を除く満20歳以上の学生・生徒は入隊を課せられることになった。
クェゼリン島玉砕
1944年2月
トラック諸島大空爆を受け全壊
1944年2月
日本軍の南太平洋での戦いを放棄する直接の引き金となった。
さらに「特攻」が戦法として採用される遠因ともなった。
決戦非常措置要網が閣議決定
1944年2月末
夕刊の廃止
1944年3月
学徒動員実施要網が閣議決定
1944年3月 父13歳 母10歳
国民学校初等科を卒業した12歳以上の少年少女らは全員、勤労動員の対象となり、戦地に駆り出された男たちに代わる労働力として次々に軍需工場に送り込まれた。
1944年5月
都の国民学校学童約80万人のうち、7万数千人の疎開しか実現していなかった。
学童疎開促進要網及び帝都学童集団疎開実施要領が閣議決定
1944年6月末
親戚縁故などに疎開できない国民学校3年以上6年までの児童を、計画的に疎開させると決定。
費用は国と保護者が折半。
1年生と2年生の学童と未就学児童の疎開はまだ手付かずのまま。
マリアナ諸島(テニアン島)が陥落
1944年8月
これにより、日本本土全体への空襲が可能になった。
国が乳幼児、老人、妊産婦は集団疎開を行わない旨を明言
1944年8月
東京帝大法学部学生自治会・緑会主催の出陣学徒のための壮行音楽会
1944年8月6日
第九の第三楽章・最終楽章を日本交響楽団(合唱は東京高等音楽学院生徒)が演奏。
全曲演奏は栄養不良と猛暑のため断念。
歌謡音曲一切禁止のため教室で行われた。
開演時間は灯火管制のため日盛りの2時になった。
楽器搬入はガソリン配給がなかったため馬車2台で行った
無差別絨毯(じゅうたん)爆撃
少しでも早く戦争に勝って自国の兵力の損失を防ぐために、敵国の女子ども年寄かまわず焼き殺す。
日本本土空襲
八幡空襲
1944年6月
八幡製鉄所を目標とした初めての空襲
これを機に、大規模な航空基地を建設するため、マリアナ諸島を攻略、日本本土の大半が攻撃目標となった。
凄まじい被害は下記を参照してください。
1944年10月
八幡、沖縄県全域、長崎県大村市、熊本市
1944年11月(3回)
東京空襲
1944年12月(12回)
東京空襲
《手袋の威力》
東京空襲の翌日の新聞記事
「落下した焼夷弾は油脂弾で3キロから10キロ程度のものらしいが、老人や女性が手袋をはめた手づかみで外に投げ出して消している。
手袋をはめて掴めば熱くもなんともない。
挺身敢闘の精神さえあれば、全く恐れるに足りぬことを強調したい。
大体この焼夷弾は、布類、砂、水、火たたきなどによって容易に消しとめ得ることが解った。
『時局防空必携』
1941年に全国の都市部の家庭に400万部に配られた。
《空襲の実害》
弾は滅多に目的物に当たらない。
爆弾、焼夷弾に当たって死傷する者は極めて少ない。
焼夷弾も心掛けと準備次第で容易に火災とならずに消し止め得る。
我が国の防空壕は爆弾が落とされた場合一時その破片を避け、次の瞬間には壕を飛び出して勇敢に焼夷弾防火に突進しようというためのものだ。
逃げれば間違いなく国からも世間からも非国民の烙印を押され、その非国民が生きられる場所はない。
都が疎開新方針を発表
1944年12月
軍需生産に携わる者や防空要員などの要残留者が疎開する場合は、都、または職場の許可が必要になった。
勤労動員となり軍需工場で働いている少年少女たちは、都市に足止めされることになった。
《必勝の道は”一億特攻”》
《絶対神聖な防衛線 究極の勝利確信》
《溌剌たり東亜魂 世界正義の顕現近し》
《新聞は国家最大の公器であり、最大の思想戦闘機隊》
1945年1月
東京、横浜、名古屋、京都
アメリカ軍による最後通牒
1945年2月17日
「日本国民に告ぐ。
あなたは自分や親兄弟友だちの命を助けようとは思いませんか
助けたければこのビラをよく読んでください。
数日のうちに裏面の都市の内全部、もしくは若干の都市にある軍事施設を米空軍は爆撃します。
この都市には軍事施設や軍需品を製造する工場があります。
軍部がこの勝ち目のない戦争を長引かせるために使う兵器を米空軍は全部破壊します。
けれども爆弾には目がありませんから、どこに落ちるかわかりません。
ご承知のように、アメリカは罪のない人たちを傷つけたくはありません。
できから裏に書いてある都市から避難してください。
アメリカの敵はあなた方ではありません。
あなた方を戦争に引っ張り込んでいる軍部こそ敵です」
1945年3月
宇佐、大分、佐伯、鹿児島、呉軍港、小倉
同年3月10日
東京大空襲
同年4月
東京、立川、玉野、郡山、川崎、倉敷、鹿児島
同年5月
東京、呉市、徳山、横浜
同年6月
尼崎、奈良市、土浦、日立、千葉、鹿児島、浜松、四日市、福岡、静岡、豊橋、姫路、水島(現
倉敷)、岐阜、呉、奈良、呉、佐世保、岡山
水島空襲
108機による水島空襲
乙島の高射砲も発射され十数機に損害を与えるが撃墜は無い
同年7月
熊本、呉市、下関、姫路、高松、徳島、高知、千葉、甲府、静岡、明石、境、岐阜、仙台、宇都宮、敦賀、一宮、釜石、北海道、室蘭、大分、平塚、沼津、桑名、日立市、千葉、福井、日立、銚子、岡崎、犬山、半田、津、呉、大分、串本、松山、平、徳山、鹿児島、青森、一宮、宇治山田、浜松、大垣、津、清水
同年8月
水戸、八王子、長岡、富山、前橋、佐賀、今治、広島(原爆)、豊川、福山、八幡、長崎(原爆)、大湊、釜石、花巻、久留米、加治木、阿久根、長野、岩国、山口、熊谷、伊勢崎、小田原、土崎
対空砲火の不足により、P-51が爆撃機を離れ、機銃掃射で飛行場を襲撃することも増えたため、航空機や飛行場を様々な手段で隠す手法が用いられた。
滑走路を畦道や水田に偽装したり、普段は車輪を付けた住宅の張りぼてや樹木を滑走路に置き、離着陸時に動かすなどの手法が考案されたが、これらは偵察写真で判明しておりあまり効果が無かった。
決戦教育措置要網
1945年 父14歳、母11歳
1年の授業停止と学徒勤労総動員(学生・生徒は軍需工場などで働く義務)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「天上の葦」の作中人物の言葉より
ひとつの国が危険な方向に舵を切る時、その兆しが最も端的に表れるのが報道である。
報道が口を噤み始めた時はもう危ないのだ。
次第に市井の人々の間にも、考えたこと、感じたことを口にできない重苦しい空気が広がり始める。
非国民、国賊などという言葉が普通に暮らす人々の間に幅を利かせ始めるのは、そういう時なのだ。
恐怖は、巨大な力に抗するための連帯を断ち切る。
そしてどんな時代の報道の中にも進んで権力にすり寄る者たちがいる。
自らの下劣さを処世術や政治力と思い違いをした人々だ。
批判の声は、権力の名を借りた暴力によって次々とねじ伏せられていく。
常に小さな火から始まるのだ。
そして闘えるのは、火が小さなうちだけなのだ。
自分も家族も人生の全てを失う。
無実でありながら犯罪者の烙印を押されて。
「同じ目には遭いたくない」
そうやって権力への恐怖が植えつけられる。
多くの者が、同じ目に遭わないように権力の都合をこれまでよりも何倍も忖度するようになる。
これは報じても大丈夫だろうか、こう言わない方がいいのではないかと。
権力側の目的は、報道に携わる人間に自己検閲の核となる恐怖を植え付けることだ。
ある者を社会的に抹殺することで、黙っていても報道に携わる者の多くが自己検閲を始めて権力に不都合なことは言わなくなる。
まさに一罰百戒だ。
他人の前ではもちろん家の中でさえ滅多なことは言えなくなる。
まだ分別のつかない子どもがそれを聞いて外でうっかり喋ったりしたら大事になるからだ。
お国のために自分は死ぬ、みんなも死ぬと思っていた。
そうでない者はお国を一番に考えない非国民だ。
そんな輩は罰を与えて間違えた精神を正さなければならない。
最初からものが言えなかったわけではない。
満州事変の頃から世の中が変わり出した。
それまでは軍縮の方向で来ていたのが、いったん戦が始まると、いつの間にやらこれは応援しなければならないという空気になっていた。
その頃からだんだんとものが言えないようになっていき、やがて下手にものを言うと大変な目に遭うようになった。
国が危ない方向に行くと思っていた人間は少なくなかった。
それでも集まって何かしようものなら、いつ治安維持法で検挙されるか解らない。
目を付けられた者は特高に引っ張られ、拷問の末、転向させられた。
転向しない者は投獄され、獄死も珍しいことではなかった。
だから口を噤むことで自衛した。
自分のせいで家族が非国民と言われないように。隣組から村八分にされて配給が回ってこなくなったりしないように。
『北のアッツ、南のビアク』と呼ばれる玉砕の島
生還できたのはわずか4パーセント弱。
連合国軍を侵入させない防衛ラインの第一線となった。
ジャングルを切り開き、三つの飛行場を造り上げたが、日本軍にはもうそこに配備する航空兵力がなくなっていた。
やがて米軍が飛行場を奪いに上陸し、大本営に見捨てられ、圧倒的に戦力が劣った日本軍は、食糧も弾薬も無くなり、大勢の兵士が飢餓とマラリアで死んでいった。
生きて虜囚の辱めを受けずという戦陣訓を守り、何百人もの若い兵士が手榴弾で自決した。
治安維持法ができ、いつの間にか国家総動員法ができて、国中が戦争にまっしぐらで、もうどうやっても止められないところまで来てしまっていた。
都市に住む者が地方に退去する場合、新たな住居を自分で確保し、移動にかかる旅費を含めて転居に必要な費用を全て自費で負担する。
国は一切面倒を見ないので自己負担でするように。
国がやったことは内地の重要都市の住居を無理やり取り壊し、官庁や工場を地方に移動させただけだった。
一般の疎開者は家族主義のもと、家族全員で疎開するべきだと強調した。
自発的に家族で疎開して家を明け渡させたら、何の補償もする必要が無い。
産業戦士のために家屋を提供することは国家のために大きな貢献となる。
一軒でも多くの家を無料で確保したい。
1944年10月、大本営の戦果発表は水増しの域を超えて完全に架空のものになった。
国はでたらめの戦果で国民を喜ばせながら、一方で終始一貫して、一億一心でこの聖戦を戦い抜けと教え込んできた。
そうして国民にこの戦争を継続させるために、何もかもに馬鹿馬鹿しいほどの検閲や指導を行なって戦意高揚を図った。
国が子どもたちを都市に縛り付けて見殺しにするのを誰も止めることができない。
同盟国ナチス・ドイツのロンドン空襲以降、この大戦において無差別絨毯爆撃はすでに常態化していた。
日本軍自らも重慶で市民を盲爆した。
都市に対する敵の無差別絨毯爆撃を早くから予期し、防空法で国民に様々な義務を課しておきながら、伝単の予告があってさえ女子どもを退避させず、都市に囲い込み、犠牲者の山を築いた。
東京大空襲が起こった日の朝、陸軍記念日の軍楽隊パレードが予定通りに行われた。
空襲での死者のうち最も多かったのは4歳以下の乳幼児、次いで15歳から19歳の青少年、三番目が5歳から9歳の子どもだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
防空総本部が発表した『原子爆弾に対する心得』
1944年8月10日
新型爆弾は軍服程度の衣類を着用して防空頭巾と手袋をつけていれば、完全に火傷から保護することができる。
終戦
1945年8月15日
陸海軍、内務省、外務省、大蔵省は何日もかけて文書を全て焼いた。
新聞社にも軍部から写真、文書の償却命令が出た。
爆弾で人間と国土を焼かれ、自らの手でそこに至る真実を焼き払った。
新聞は戦争が始まった時点で死んでいた。
その骸の上で旗を振っていた。
軍部から新聞への圧力
軍は、軍に批判的な記事を載せる新聞社に対し、右翼を使って脅迫し、不買運動を始めた。
屈服した大手新聞社は路線転換をし、軍を支持する記事を書き始め、結果的に莫大な利益をもたらした。
地方新聞は軍部の暴走に反対した。
東北河北新報
特高と憲兵隊を引き連れて社屋に乗り込み、軍部批判をした記者を出せと恫喝した際に、
《社屋は小なりといえども言論の城郭》《圧力に対しては言論の自由を死守する》として記者を守った。
大手新聞社
紙面で国民に献金を呼びかけ、大量の軍用機を陸海軍に献納した。
戦争を記念する展覧会を次から次へと主催し、国策標語や戦時歌謡の歌詞を公募して戦意の高揚を図った。
後に軍は政府と一体となり、着々と報道を縛る方を作った。
結果、軍の許可した事実しか報道できなくなった。
政府が新聞事業主に譲渡や合併を命じることができるようになり、従わない場合は事業を廃止させることも可能になった。
新聞発行になくてはならない紙が配給制となり、政府の管理下に置かれた。
新聞は完全に報道機関としての息の根を止められ、国の宣伝機関になった。
******* ******* ******* *******
86歳の母に初めて戦時中のことを尋ねた。
武庫川在住だった母は田舎のお寺に、学校の担任夫婦と一緒に疎開していた。
食べ物は良い方だったらしい。
大豆を炒ったのを食べさせてもらったと言う。
学徒動員年齢に引っかからず、まともな食事を与えてくれた寺に疎開できた母は幸運だった。
学徒動員で三重県に残っていただろう父は、21年前に68歳で亡くなっており、それまでにただの一度も話を聞かなかったので不明のままである。
おまけ・作業中の写真