ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

映画『ひろしま』 核廃絶へ 世界は今、この映画を待っている!

2024年08月08日 | 世界とわたし
ひろしま / Hiroshima (1953) [カラー化 映画 フル / Colorized, Full Movie]

この映画は、広島に原子爆弾が投下されてからわずか9年後の、1953年10月に公開されました。(私事ではありますが、わたしはそれから3年半後の1957年4月に生まれました)。
監督は関川秀雄さんです。
当然、それよりも前に撮影は始まっていたのですから、この映画の中には生々しく激しい感情が映し込まれています。
9万人近くもの市民がエキストラとして撮影に参加したのですが、その中には実際に被ばくした人たちもいて、原爆投下直後の混乱を如実に再現しました。
撮影中、「あの日」のことがよみがえってきて、体調を崩したり、泣き叫んだ人もいたそうです。

この映画は、大手の映画会社の協力は得られませんでした。
『原爆』を落とされた広島の地獄をとことん描いた作品の、一部の場面の削除をめぐり、大手配給会社と製作者との意向が折り合わなかったからだと言われています。
映像があまりに悲惨で、反米的な先導を招くような誤解を受けると、松竹や新東宝などの大手配給会社が尻込みをしたそうです。
「アメリカが真珠湾を忘れないと同時に、日本もヒロシマを忘れない」
「原爆犠牲者の頭蓋骨を外人に売りつけようとする」シーンの2箇所のカットを条件に上映を申し入れたのは松竹で、製作者側がこれを拒否した、と報道されています。
ですから国内では大々的な上映はできずじまいで、徐々に忘れ去られ、「幻の映画」と呼ばれていました。
国外では、1955年のベルリン国際映画祭において、長編映画賞を受賞しています。

2010年台から、自主上映会の活動が始まりましたが、フィルムの劣化が激しいことから、デジタル化をする必要が出てきました。
けれどもそれにかかる費用が莫大なため、なかなか進まなかったのですが、アメリカの映画会社から協力のオファーがかかり、北米で配信が始まりました。
今では日本でも、AmazonプライムやYouTubeで観られるようになっています。

今、このようなきな臭い情勢の中、これは世界中の人々に観てもらうべき映画だと心から思います。
核兵器の恐ろしさ、惨たらしさ、悍ましさを、目で見、耳で聞き、心に深く刻み込んでほしいと思います。







もう一つ、これはアメリカの実写が中心のドキュメンタリーです。
男性ナレーターが句読点無しで話すのがちょっと聞きにくいですが、ぜひご覧ください。

広島の知られざる映像|完全日本語ドキュメンタリー。
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「核廃絶は、遠くに掲げる理想ではなく、今必死に取り組まなければならない人類存続に関わる差し迫った現実の問題です」広島県知事・湯崎英彦氏

2024年08月07日 | 世界とわたし

広島県知事・湯崎英彦氏のスピーチの一部、文字起こし
先般、私は、数多の弥生人の遺骨が発掘されている、鳥取県青谷上寺地遺跡を訪問する機会を得ました。
そこでは、頭蓋骨や腰骨に突き刺さった矢じりなど、当時の争いの生々しさを物語る、多くの殺傷痕を目の当たりにし、必ずしも平穏ではなかった当時の暮らしに思いを巡らせました。

翻って現在も、世界中で戦争は続いています。
強いものが勝つ。
弱いものは踏みにじられる。
現代では、矢じりや刀ではなく、男も女も、子どもも老人も、銃弾で打ち抜かれ、あるいはミサイルで粉々にされる。
国連が作ってきた世界の秩序の守護者たるべき大国が、公然と、国際法違反の侵攻や力による現状変更を試みる。
それが、弥生の過去から続いている現実です。
いわゆる現実主義者は、「だからこそ力には力を」と言う。
「核兵器には核兵器を!」。
しかし、そこではもう一つの現実は、意図的に無視されています。
人類が発明して、かつて使われなかった兵器はない。
禁止された科学兵器も引き続き使われている。
核兵器も、それが存在する限り、必ずいつか、再び使われることになるでしょう。
私たちは、真の現実主義者にならなければなりません。
核廃絶は、遠くに掲げる理想では無いのです。
今、必死に取り組まなければならない、人類存続に関わる差し迫った現実の問題です。


広島に原爆が投下されて、50年になる。
当時小学生だった私は、爆心地から1、2キロの地点で被ばくした。
幸い、学校の塀のそばにいたため奇跡的に助かったが、前にいた女性は全身を熱線で焼かれて即死した。
爆風で家並みはつぶされ、街には全身の皮膚を焼かれた人々の幽霊のような行進が続いた。
私の父と姉、弟は、倒れた家の下敷きになり、母が必死で助け出そうとしたが、柱はびくともしなかった。
火災が起きて、弟は、「お母ちゃん、熱い、熱い」と叫びながら死んでいった。
その悲惨さは、とても『地獄』などと言う言葉で表せるようなものではなかった。
以後、私は、『原爆』という言葉から目と耳を塞いで逃げ回った。
あの時の凄惨な光景が目に浮かんでくるからだ。
だが、被ばく後21年間生き抜いた母が死んだ時、放射能の影響か、火葬でボロボロになってしまった遺骨を見て、「原爆は大事な母の骨まで奪っていくのか」と怒りに震えた。
この気持ちをエネルギーに、原爆をテーマにした漫画、『はだしのゲン』を書き続けた。
それは私の自伝で、書いてあることはすべて体験したことだ。
その後、大勢の読者から手紙をいただいた。
「戦争や原爆がこんなに悲惨だとは知りませんでした」
「二度とこんな事は許しません」
という内容がほとんどだったが、これで次の世代にバトンタッチできると思うとうれしかった。
「これから先、誰かが戦争や原爆を肯定するようなことを言っても、絶対に信じるなーー」。
それが、原爆体験者としての私が将来に託すメッセージだ。
(埼玉県所沢市・漫画家中沢啓治 56)
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【台湾地震】発生後3時間で避難所…スピード開設ができたワケ

2024年04月05日 | 世界とわたし
今朝、遅い朝ごはんを食べている最中に、家がゆらゆらと揺れ始めました。
え、なに、まさか揺れてる?とビビりまくりながら、テーブルの下にもぐろうかどうか思案すること30秒あまり、いやらしいほどに長く揺れた地震でした。
震源地はニュージャージー州ホワイトハウスステーション付近で、マグネチュードは4.7だったことを知り、愕然としています。
ホワイトハウスステーションってどこ?と思って調べてみました。
熱気球を上げるお祭りやアンティークショップで有名な、風光明媚な街です。

東海岸に引っ越してきた理由の一つが、ここは滅多に揺れないところだから、だったのに…😭
万が一、ここで規模の大きな地震が発生したら、慣れないことに右往左往して、とんでもない騒動になるだろうなあ、と思います。

でも、日本ほどの地震大国であっても、過去に何万回もの経験を積んでいても、いまだに避難所では雑魚寝が続き、被災地の自治体やボランティア、そして自衛隊のみなさんに援助活動を丸投げし、改善策も新しいシステム作りも為されないということを、もっと問題視するべきじゃないかと思います。

【台湾地震】発生後3時間で避難所…スピード開設ができたワケ 

花蓮の避難所にやってきました。
震源から最も近い街ということで、こちらの避難所なんですけれども、普段は小学校として使われているもの、その体育館が現在、避難所になっています。
避難所を運営する市役所の方にお話を伺ったところ、現在は80人近くがこちらに身を寄せている、ということです。

後ろのスペースには、避難されている方が食事をするスペースとして、テントがいくつも設置されています。

運営する市役所の方にお話を伺ったところ、避難所の中に食事の匂いがこもらないように、あえて外に設置をした、というふうに聞きました。

それでは、特別な許可いただいておりますので、これから避難の中で取材をさせていただきます。

たくさんの方が避難をされているということで、いくつかのブースがあるんですが、まずこちらのブースでは、地震が起きた時に、携帯電話などを持って出ることができなかった方のために、電話を使えるようになっています

また、Wi-Fi、インターネットも、全て無料で使用できるということなんです。


中をお邪魔してみますと、たくさんのテントが並べられています。

その手前には、被災されたみなさんが、自由に取ることができる食事が並んでいます。
お菓子や食べ物、こちらにはピザといった温かい食事も用意されていました。

奥に目を転じてみますと、タオルやティッシュ、さらには石鹸や歯磨きなど、日用品もたくさんこちらに届いています

こういった物は、被災された方が自由に利用することができるそうです。

そして私の後ろに並んでいるのがテントですけれども、プライベートな空間が守られた作りになっています。
こちらのテント1つにつき最大で6人寝泊まりすることができるそうで、現在こちらにはベッドが2台用意されています。


こういったテントが、現時点で、46個設置されているということなんです。
実はこの花蓮なんですけれども、6年前にも大きな地震がありました。
その時には、この避難所ができるのが、地震発生からおよそ1日かかったということなんですが、今回は、地震発生後3時間で避難所ができて、受け入れが可能になったということなんです。

台湾の今の避難所の環境が、とても整っているように感じてびっくりしました。
能登の避難所では、1ヵ月たってもまだ雑魚寝が続いているような状況のところもありまして、なぜこの台湾ではスピード感を持って、避難所の環境を整えることができるんでしょうか。

そのあたりを運営する市役所のスタッフに伺ったんですけれども、実は市役所だけではなくて、支援する民間団体が本当にたくさんあるということなんですね。

台湾では、6年前に、17人が亡くなった大きな地震があったんですけれども、その時には、避難された住人のプライベートを守るというような空間が全くなかったそうです。
また、食事も寝泊まりするスペースでされていて、匂いがこもってしまったということで、今回その経験を生かして、ボランティアの団体支援団体との連絡線を事前に作っていて、災害が起きたときに、まずその民間団体に連絡をする、そして連絡をしたら、町中にその民間団体が持っている倉庫があるそうで、その倉庫からこちらの避難所に、物資が送られるようにシステムを既に作っていた、
ということなんですね。



とてもスピーディーなんですね。
避難されているみなさんは、避難所の生活について、どんなことを話していらっしゃるんでしょうか。

こちらには、80人近くの方が現在避難されていますけれども、今回、17歳の男性にお話を伺ったんです。

「今、避難所で足りていないものはありますか」と聞いたところ、「特にありません」とおっしゃっていたんですね。
「いろいろな人が支援をしてくれていると感じている」とお話になっていました。

この17歳の男性、6年前の大きな地震の時にも、この、まさにこの避難所を使っていたということなんですけれども、その時には「プライバシーが守られる空間がなかった、食事の匂いが充満していた、それが改善されている」というふうに語っていました。

避難所を応援するスタッフの方にお話を伺ったら、「現在この状況に満足していることではなくて、さらにもっと広いスペースが必要なんじゃないか」ということも語っていました。
というのも、「災害が起きたときには、被災されたみなさんの健康、さらにメンタルケアが大切だ」と言ってるんですね。
今こちらにも、マッサージをするようなスペースがあったり、この体のケア、そしてメンタルのケアというのが非常に意識されている避難所だな、ということを強く感じました。

こういった避難所の開設、さらには物資の提供がすばやくできるように心がけているということで、これまでの経験を活かして、そしてそこにとどまることなく、何か災害が起きたときに迅速に被災者の皆さんに寄り添えるようなシステム作りができている、と強く感じました。


おまけ
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この映画をぜひ観てほしい!『Silent Fallout・サイレント・フォールアウト~乳歯が語る大気汚染~』by 伊東英朗監督

2023年11月19日 | 世界とわたし
明るくて温かくてひまわりのような友人ゆかさんが紹介してくれたこの映画のトレーラーを観て、久しぶりに、深くて冷たい枯れ井戸の底で、膝を抱えているような気持ちになりました。
映画のタイトルは『Silent Fallout・サイレント・フォールアウト~乳歯が語る大気汚染~』、元幼稚園の先生&テレビ局ディレクターの、伊東英朗監督の作品です。
この作品は、先日のハンプトン映画祭に引き続き、昨日はセントルイス映画祭で上映されましたが、また配給会社が決まっておらず、上映がままなりません。

ゆかさんが自身のFacebookに載せたメッセージと写真をお借りして、わたしなりに紹介させていただこうと思います。

映画「Silent Fallout』予告編
















































『神奈川新聞』


引用はじめ:
日本は唯一の戦争被爆国と言われるが、米国ではネバダ核実験場で100回もの大気圏内核実験が行われた。
本番も実験も同じ核爆発と考えると、米国は凄まじい『被爆国』。
それも自国によるオウンゴールだということを米国民は知らない。

『デイリースポーツ』

アレック・ボールドウィン“ノーギャラ”ナレーション 伊東英朗監督あぶり出す米の放射能汚染

引用はじめ:
作品であぶり出された放射能汚染の実態は、米国人のボールドウィンにも衝撃を与え「自分は、この事実を知らなかったが伝えないといけない。できることは何でもやる」との言葉ももらったという。
実際に頼もしい理解者の尽力もあって、ハンプトン国際映画祭での特別上映が決定。
上映後のシンポジウムには一緒に登壇することになっている。  
(まうみ注・セントラル映画祭ではこれが2回目の上映、そしてハンプトン国際映画祭が10月に行われ、ボールドウィン氏が登壇してくださいました)
伊東氏が核実験による被曝問題に取り組み始めて19年。
愛媛・南海放送のディレクターとして数々のドキュメンタリー番組、映画を製作し、上映活動も行ってきたが、
「何も変わらなかった。福島(第一原発事故)が起こっても何も変わらない」。
ジレンマを抱え、出した結論が「核の問題の本場である、アメリカでうねりを作ること」。
米議会を動かし、日本に波及させることが目指すところだ。


『週刊金曜日』田中優子氏

ゆかさんの記事


河野洋さんの記事

引用はじめ:
映画監督でありTVディレクターである伊東が2004年から追い続けているテーマがある。
それは、原爆、原発、核、水爆実験などと切っても切り離せない放射線だ。
1942年から始まったマンハッタン計画は45年の原爆投下に繋がり、続く核実験、54年のビキニ環礁水爆実験で被曝した第五福竜丸は氷山の一角で、62年にかけて米国や英国が太平洋で行った水爆実験の数々で被曝したであろう日本人たちは数知れない。
このテーマを追い続けているのには理由がある。
ビキニ事件における放射線の被害を調査し、報道を続けている人が他にいないからだ。
「僕が止めてしまうと、この調査はストップしてしまいます。放射能がいかに私たちの生活にとって脅威であるかということにみんなが気がついて、事実を突き止めようと動き出してくれる人が出てくるまで、僕がやるしかないと思っているのです」

伊東は元々、奏者になることを夢見てトランペットを演奏していた。
養護学校で音楽を教えたかったが、それが実らず、就いた仕事は幼稚園の先生。
映像について勉強をしたこともない伊東は、映画監督になるとは夢にも思っていなかった。
「もともと、僕は子供たちに教えることが好きで、幼稚園の先生を16年やっていました。いわゆる公務員です。40歳の時、教育委員会への異動が決まり、現場で教えることにこだわっていたので、退職届けを出しました」
自称「変な人」を名乗るように、幼稚園教師から映画監督になった人間は世の中に数えるほどしかいないだろう。


【日本語字幕付き】Oppenheimer / オッペンハイマー 予告編2

日本ではまだ上映されていない、もしかしたら上映されない可能性もある(どうしてなのでしょう?)という映画『オッペンハイマー』。
この映画は、『原爆の父』と言われた物理学者、オッペンハイマーの生涯を描いたものです。
彼は、第二次世界大戦時の核兵器開発プロジェクト「マンハッタン計画」を主導した理論物理学者です。

*「マンハッタン計画」
アメリカ、イギリス、カナダが主導となり行われた核兵器開発プロジェクト。
科学者や技術者たちが、原爆開発のために、ニューメキシコのロスアラモスに総動員された。
オッペンハイマーは、ロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、化学部門のリーダーを務めた。

彼が41歳だった1945年の7月16日に、アメリカにおいて、人類史上初の核実験『トリニティ実験』が行われ、それから21日後の1945年8月6日に、広島に原子爆弾(通称リトルボーイ)が、そしてその3日後、長崎に原子爆弾(ファットマン)が投下されたのでした。
彼は、原爆投下後の惨状を目の当たりにして、自らが犯した過ちの大きさに気づきました。
その後、原子力委員会(AEC)のアドバイザーとなり、核兵器の国際的な管理を呼びかけ、水爆をはじめとする核開発に反対の意を示したため、マンハッタン計画で研究を共にしたエドワード・テラー「水爆の父」と対立するようになります。
そして原爆投下から9年後、彼が50歳になった年に、「ソ連のスパイである」との容疑をかけられ、オッペンハイマー聴聞会が開かれ、スパイに仕立て上げられてしまいました。
アイゼンハワー大統領は、大統領命令として、オッペンハイマーを一切の国家機密から隔離、政府公職追放を決定します。
それから後は、国家機密を漏洩する可能性を持つ危険人物と断定され、FBIによる尾行や盗聴など、晩年まで厳しい管理下に置かれました。

伊東監督がこのオッペンハイマーの遺族にインタビューをした時のエピソードが、facebook上に書かれていました。
「15年前、ボストンで、オッペンハイマーの遺族をインタビューしたことを思い出す。
2008年、タフツ大学で上映された僕のドキュメンタリー番組を見た、ハーバード大学の教授から突然「遺族にインタビューする気はないか」と声をかけられ、急遽、大学内でインタビューすることに。
当時、オッペンハイマーや原爆開発の背景把握が十分でなかった僕には、インタビューはかなり重荷だった。
彼が何を語ったかは、今、軽はずみに言えるものではないが、当時80代だった彼の言葉や表情は忘れらない…」

実は、わたしが住む町の、それこそ歩いて数分のところにある隣町の通り一帯が、マンハッタン計画と深く関連していたらしく、どなたかの引越し手続きの過程で地面を深く掘り下げたところ、とんでもなくひどい汚染が見つかり、慌てて大規模な除染をしたらしい、という話を聞いたことがあります。
それほど前の話ではありません。
なので「マンハッタン計画」はとても身近に考えられる現実のものなのでした。
そして…アメリカ大陸に落とされた100発もの原子爆弾…。

伊東監督の映画を観ると、戦争という世にも愚かな行為は、その場で繰り広げられる人や暮らしや自然の破壊だけでなく、その前後にも悲惨な破壊が伴うものなのだと、しみじみ考えさせられます。
わたしを含む、平坦で安全な暮らしを与えられている者たちは、戦争という事件は他人事で、胸を痛めることはあっても実際に傷つけられて血を流したり、空から降ってくる凶器に怯えることもありません。

たかを括っている間に、危険は突然空から襲いかかってくる。
たかを括っている間に、危険は地の底でとぐろを巻いて機を狙っている。
たかを括っている間に、危険は生き物や自然の命をジュクジュクと蝕んでいく。

核兵器の空気汚染は、その最たるものの一つだと思います。
だから伊東監督は、膨大な資料と格闘し、忍耐強く精査し、コツコツと拾い集めた事実を元に映画を作り続けておられるのだと思うのです。

この映画が、少しでも多くのみなさんの目に、胸に、入り込んでいくことを心から願っています。
オンライン上映会などのアイディアや強力なツテがある方はぜひご一報を!
よろしくお願いします!
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梨泰院ハロウィン圧死事故から改めて反省したこと

2022年10月30日 | 世界とわたし
夕飯を食べた後、夫に「韓国で大変なことが起きたの知ってる?」と聞かれた。
今日は朝からずっとまた、発表会関連の必要な物を発注したり、発注してからミスに気がついて慌てて訂正してもらおうと思ったら間に合わなくて、その解決策をうんうん唸って考えてたり、通常のレッスンに来られない人たちの代替えレッスン日を決めようとしたら、あーでもないこーでもないと言ってどの日も来られそうになくて、仕方なくこちらが時間をやりくりして決めたりしていたので、世間で何が起こってるのかなんてところにまで頭が回らない。
韓国のことならWooさんにって思ってちょこっとTwitterを覗いてみた。

なんてこった…。

こちらのテレビでもかなり放送されてたみたいだったけど、テレビは夜にドラマを1時間ほど観るのにつけるだけで、普段は全く観ていないから全然知らなかった。
今では亡くなった方が150人を超えてしまっている。
中でも若い女性が多かったらしい。

わたしはよく、夫からも息子たちからも、「おかあさんは危機感が無さ過ぎる」「普通寄って行かないようなところにフラフラと近づいていく傾向がある」「明らかに危険な兆候が見えてきた時に限ってボーッとする」と言われる。
マンハッタンの通りを歩いている時など、夫や息子にいきなり服の袖をグイッと引っ張られることが何度もある。
なのでさすがにこの歳になって、そういうクセは直さないとな、とは思っている。
だからこういう事件を知ると必ず、知らず知らずのうちに巻き込まれてしまっている自分を想像してしまう。
一度、何年か前のマンハッタンでのハロウィン祭りに出かけたことがあって、その時も狭い通りに人が集結してしまって、身動きが取れなくなったことがあった。
ほんの数分の間に、あれよあれよという間におしくらまんじゅうみたいな状態になって、そうなるともう自分の意志ではどうしようもなくなってしまってゾッとした。
その時も夫が、いきなりわたしの腕を掴んで、店の軒先のわずかな空間に無理矢理引っ張り出してくれた。
なんていうか、なかなか引っこ抜けなかったワインのコルク栓をスポンと抜いたみたいに。
これはもう今ここで諦めてやめるべきだ、というふうに決心がつかないまま、ゆるゆると危険地帯に近づいてしまうのがわたしで、無理も我慢もせずにさっさと止められるのが夫。
おかげで何度も助けられた。
なのでもう、人混みにはできるだけ近づかないようにしている。

でもあそこまで人が集まってしまうことを予想できなかったのだろうな。
コロナ禍でずっと鬱積していた人々のフラストレーションが、お祭り気分で一気に爆裂したのだろうな。
こんなことで死にたくなんか無かっただろうな。
ご本人の無念とご遺族の悲しみを思うとたまらなくなる。
せめて通行規制がちゃんと取られていたら、ここまでの事故にはならなかっただろうに。
亡くなった方々のご冥福を心からお祈りします。

韓国では大きな事故が起こるたびに、いろいろなシステムが新しく整備されたり、二度と繰り返されるようなことが無いような対策が全国規模で取られる。

追加情報です。
警備が手薄になっていたのは、こんな事情があったからだろうか。

Wooさんの追加情報。
追加報道によりますと、当時梨泰院に警察兵力200人を配置しましたが、龍山の大統領室警護のためにこの兵力さえも相当数を再び大統領室警護に投入したということです。 
そして梨泰院の商人たちに自ら秩序維持をしろと言いました。
 結局この惨事が発生しました。 
必ず審判しなければなりません。

おまけに。
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世界から戦争と武器が消える日

2022年03月27日 | 世界とわたし
上記(↑)の写真はwww.helabimarice.com よりお借りしました。
www.helabimarice.com(ヘレビマ)については、下記で説明しています。

******* ******* ******* *******

よく一緒に演奏しているソプラノ歌手のヴェロニカからメッセージが届いた。
彼女はウクライナ人で、家族は全員ウクライナに暮らしていることを知っていたので、ロシアの蛮行が始まってからずっと心配していた。

まうみへ
できればこの団体に寄付してほしいの。 
戦争が始まった最初の週に、人道的トラックで自らウクライナに来たドイツ人医師とその奥さんに会いました。
私は先週、ドイツで、家族の手伝いをしていました。
ビデオの中で旗を掲げているのは私の弟です。
ありがとう。

Volunteeres "Blago Ukraine" Help for Ukraine допомога Українцям


彼女から教えてもらった募金サイト。
わたしはペイパルで募金をした。
ここでも紹介してみなさんにお願いしようと思ったのだけど、なぜかリンクが開けられない。
彼女に問い合わせて、また再度試そうと思う。

代わりにと言ってはなんだけど、その募金画面に記されている言葉をここに載せておこうと思う。
Persönliche und direkte Organisation medizinischer und humanitärer Hilfe in individuellem Kontakt vor Ort - organisiert vom Münchener Arzt Erwin Lüddecke und seiner Verlobten Kateryna Oksenenko aus Charkiw Wir stehen mit BLAGO einer humanitären Organisation in CERNOWITZ in Kontakt, welcher ihr Bruder initiiert hat. Daher können wir genau und zielgerichtet die Hilfe leisten und wissen genau wer es bekommt. Mit viel Herz, familiär und direkt. Helfen sie uns das Leid zu mindern. Danke Erwin Lüddecke und Kateryna Oksenenko  

現地で個別に連絡を取り合いながら、医療・人道支援を直接組織する - ミュンヘンの医師Erwin Lüddeckeとハリコフ出身の婚約者Kateryna Oksenenkoが主催。
彼女の兄が始めたCERNOWITZの人道団体BLAGOと連絡を取り合っています。
そのため、的確で的を射た支援を提供することができ、誰がその支援を受けるかを正確に把握することができます。
心を込めて、親しみを込めて、直接的に。
苦しみを減らすために助けてください。
Erwin Lüddeckeさん、Kateryna Oksenenkoさん、ありがとうございました。

Helebima(ヘレビマ) 2012年12月22日、医師エルヴィン・リュデッケの主導により、バイエルン州アンプフィングに非営利団体Helebima e.V.が設立されました。
設立メンバーは、スリランカ・コロンボ出身の国際的に著名なアーユルヴェーダ医師、ジャヤナス・アベイウィクラマ博士の長年の教え子であり支援者である22名です。
協会の目的は、伝統的なアーユルヴェーダ、文化、医療、精神的な交流を促進することです。
協会はワークショップやセミナーを開催し、同時に設立された非営利会社RiceForLifeは、スリランカのエコロジーとスピリチュアルに栽培された米の輸入と貿易をコーディネートしています。
現在の役員は、第1代会長Roland Niedermeier氏、第2代会長Anneliese Jilg氏、会計担当Martina Niedermeier氏で構成されています。
さらに詳しい情報は、www.helebima.info 
アメリカでは、カリフォルニア州リノ出身の著名な実業家であるシャリ・チェイスが、同じ目標を掲げて、2013年にヘラビマ協会を設立。 
www.helabimarice.com 
ヘラビマワールドのミッションは、人類を養い、貧困と飢餓を減らし、ホリスティックな生活の価値を人々に伝え、健康と幸福を増進する道しるべとなることです。
2022年3月、同協会は医師エルヴィン・リュデッケと婚約者カテリーナ・オクセンネンコのウクライナ向け、および開戦直後の人道的使命を支援しました。
ルーマニア、ポーランド、モルドバの国境で難民を自ら迎え入れ、宿泊施設を手配し、初期医療を提供しました。
その後、ドイツでの輸送と宿泊は家族ぐるみで手配されました。
ドイツやウクライナの親戚や友人と連絡を取り合いながら、ドイツから直接、CERNOWITZに援助物資の輸送が行われました。
インスリンなど緊急に必要な医薬品は、1日以内に手渡すことができました。
現在、被災地へ直接お届けできるよう、現地の方々のご協力をいただきながら調整中です。
現地のパートナーはノンプロフィット(非営利団体)です。


自国民に命を捧げよと声高に訴える政治家は政治家ではない。
自国民が殺されることを前提に正義を語る政治家は政治家ではない。
戦争を仕掛けた政治家は失脚する、あるいは終身刑を課せられる。そんな制度や法律が作られないものか。
戦争を行った軍は解散する。そんな憲法が作られないものか。
戦争は暴力だ。
戦争は人を殺し、街を破壊し、ズタズタにする。
そんなものに正義などあるわけがない。
人を殺してはならない、街を破壊してはならないと、誰もがわかっているのに、戦争になると真っ先にそれが行われる。
人間世界は一向に良くならない。
戦争ビジネスをやめない人たちは悪魔の他の何者でもない。
ならば地球が、世界が、絶対に戦争をしてはならないと決めるしかない。
軍は災害時の救助や復興に特化した組織に生まれ変わり、武器の代わりに救助用具や開拓道具を手に持って活躍する。
日本は平和憲法を掲げ、世界をリードしていく国になるべきだ。
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「戦争をやめろ!戦争反対!プロパガンダを信じるな!この人たちはあなたにウソをついている!」

2022年03月15日 | 世界とわたし



ロシアのウクライナ侵攻が始まってから、日を追うごとに酷いニュースが耳に入ってきます。
その中には誤報やプロパガンダも混入していて、一体何が本当なのかよくわからなくなってしまいます。
いろいろな方々の話を聞いて、いろいろな方面からの現状を見て、自分なりに理解しようと思うのですが難しいです。
これまで聞いてきた中で、この方の話がとても興味深かったので、1時間10分と時間は長いのですが、ぜひ聞いていただけたらと思います。

ロシアのウクライナ侵攻①

ウクライナは左上部に位置します。

冒頭の7分弱の部分だけでも、「なるほどなるほど」と何度思ったかしれません。
プーチンの大統領になり方が非常に汚かった。
首相時代、モスクワの3都市で起こったテロ事件をチェチェン人の仕業に違いないと断定する。
少数民族、イスラム教徒というのを利用して、イスラムに対する偏見を利用してイスラム教徒のテロだという話に持っていく。
チェチェン共和国の首都グロズヌイを空爆し、チェチェン人を悪者扱いし、第二次チェチェン紛争を引き起こすことで人気を得て大統領になった。
ではなぜプーチンは、このチェチェンにこだわったのか。
ロシアは、チェチェンの右側、カスピ海沿岸一帯の、バクー油田(19世紀での石油の半分を賄っていたほどの採掘量を誇る)などで有名な非常に豊かな石油と天然ガスを、世界に売り捌いてボロ儲けをしたかった。
チェチェンが独立してしまうと、ロシアの富の源になるパイプラインを管理するのが難しくなるというので、空爆などで独立を阻止している。
ジョージアはチェチェン同様、パイプラインが通っている。
今現在、侵攻しているウクライナにもパイプラインが通っている。

プーチンが仕掛ける侵攻・戦争の本質、天然ガスと石油のパイプラインの利権である。
何度だって言いますが、戦争は人殺しです。
土地や資源を奪うために、自分たちが潤うために、ありとあらゆる手を使って理由や話を作り上げ、権力と金を使って世論を煽り、人と街を破壊する戦争は、この世で最も愚かなことです。
世界中の国が放棄すべきことです。
こんなことを一井の市民であるわたしが言ったところで、世の中は何も変わらないじゃないか。
そんな思いが込み上げてくるたびに、わたしはわたしに言い聞かせます。
変わらなくても言い続けていこう。
それが人として生まれたわたしの使命ですから。
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No War Please!

2022年02月27日 | 世界とわたし
2月25日、ドバイで優勝したロシアのテニスプレーヤー、アンドレイ・ルブレフ選手が、カメラのレンズに「No war please」と書いた。


テレビ東京によるロシア大使および駐日ウクライナ大使への未公開インタビューを聞きました。
どちらも30分ほどで、時間を見つけるのは大変かもしれませんが、たくさんの方々に聞いていただきたいと思いました。

そしてこれはプーチン大統領の「ウクライナ侵攻宣言」とも言える演説を、今井佐緒里氏が訳してくださったものです。


平野氏のおっしゃる通りだと思う。

戦争をやめろ!

もちろんロシア本国でも。


ウクライナと隣接している国々が、パスポートやビザ無しで入国し避難できるように対応しているのを知りました。


インターネット時代の戦争
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モルダウを弾きながら

2022年02月25日 | 世界とわたし
前々からいつか真面目に取り組んでみたいと思っていたモルダウの連弾を、ジェーンと一緒に練習していくことになりました。
スメタナはチェコ(今はチェコ共和国という名前になりましたね)出身の作曲家です。
チェコは「ヨーロッパの心」「芸術の都」と言われています。
10年ほど前に、ほんの1日でしたがチェコを訪れたことがありました。
どこを見てもまるで絵本や映画の中に入ってしまったような、それはそれは美しい景色に浮かれながら歩いていたのですが、
その際に案内してくれた若い女性のガイドさんが、「こんなふうに自由に自分が思ったことを、誰かに普通に話せるようになったのは、ほんの少し前なんです」と言って、その生々しさに胸がギュッと締めつけられたことが忘れられません。


「プラハの春」は1968年の春、共産党の一党独裁だったチェコスロバキアで新たに第1書記に就任したアレクサンデル・ドプチェク(Alexander Dubcek)が、「人間の顔をした社会主義」を目指して進めた民主的改革運動
しかし、同年8月20日から21日にかけて、ソ連を主体にブルガリア、東ドイツ(当時)、ハンガリー、ポーランドのワルシャワ条約機構(Warsaw Pact)5か国軍がチェコスロバキアに侵攻
民主化の動きは徹底的に弾圧され、「プラハの春」は終わった。
歴史家らによると、弾圧の初日だけで約50人のチェコスロバキア人が死亡。
ソ連占領下の犠牲者は約400人とされる。

■「1968年と今(2018年8月)は似ている」
「プラハ市民は断固として占領を拒否したのに、一部のロシア人はいまだに占領は国際的な支援だったと思い込んでいる」
「50年前のような介入は現在も起きている。ただし現代の介入は戦車ではなく、プロパガンダやフェイクニュース、選挙に影響を及ぼす手法によるものだ」
抗議デモではチェコ国旗や欧州連合、北大西洋条約機構(NATO)の旗のほか、ウクライナの旗も見られた。
「ソ連共産党による1968年の(プラハ)侵攻と、オリガルヒ(新興財閥)が実質的に権力を独占している現在のロシアの状況とは、確実に似ている」


ロシアのウクライナへの軍事侵攻が始まってしまいました。
人口減少、原油の枯渇、支持率の低下、NATOとのせめぎ合い、などなど、読んでも読んでもキリが無いし、本当のところがどうなのかよくわかりません。
でも、始まってしまいました。
空から恐ろしいものが飛んできて、人や動物や町の命を粉々に壊していく悍ましい戦争が、また始まってしまいました。
国際的な支援、人道的な措置、正義などなど、どんな理由があっても戦争はしてはいけないことなのだと、世界中の首長を集めて徹底的に教育して欲しいです。
戦争や侵攻を犯した人間は、どんな立場の者であれ、殺人の罪で一生刑務所の外に出られないようにして欲しいし、
どの国の軍も、まず戦争放棄を誓い、自国民を災難から救助することを一番の仕事とする組織になるよう、一国残らず集まって協議を重ねればいいと思っています。
こういうことを言うと、よくお花畑っていう言葉で括る人がいますが、お花畑の真ん中で呆けているのは、自分は絶対に巻き込まれる危険は無く他人事であると思い込んでいる人のことを言うのだと思います。
ウクライナ出身の友だち、ロシア出身の友だちが、それぞれに苦しんでいるのを見るのが本当に辛いです。
1日も早く、この愚かな侵攻が終わることを祈ります。
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アフガニスタン

2021年08月16日 | 世界とわたし

アジア記者クラブ(APC)https://twitter.com/2018_apc さんのツイートで今更ながら学んでいるわたし…。
まだまだ知らない、勘違いだらけの自分が情けないです。


アフガニスタン問題は、どの方向からの記事や論説を読んでもどこか腑に落ちない、けれどもこの20年間はアメリカが先頭に立って起こした混沌なのだから、できるだけ知らなければと思いつつ、やはり理解度は低いままでした。
この20年間は、わたしたち家族が移住した20年間と重なります。
こちらに移り住んだ翌年に同時テロが起こり、その場面を直に目にしたことで心を病み、その後数年間苦しみました。
世の中がみるみるうちに物騒になり、いくら抗い非難しても戦争が始まり、普段は冷静な新聞テレビまでもが大本営もどきの報道をするようになった時、大勢の人々は自身の非力さを呪いました。
この間、大統領が4人も入れ替わり、意味のない、けれども破壊だけは十分にし尽くした戦争が、今終わろうとしています。
それもわざわざ9月11日という日を選んで…。



昨日一緒に夕飯を食べた友人夫婦と、このことについて話しました。
彼はケニア人で彼女は生粋のアメリカ人。
わたしたちより政治のことに詳しく、寄ると必ず政治話に花を咲かせるのですが、このアフガニスタン侵攻については口が重くなってしまいます。
あまりに複雑で、だからそれを簡略して話すと本当の事が抜け落ちてしまい、結局意味がなくなってしまうからです。
わたしたちはありったけの時間を使って、行ける所には行って、愚かな戦争を起こすなと抗議しましたが、巨大な軍と莫大な量の武器を所有する国にそんな声は届きません。
絶望し、止められなかった力不足を恥じ、アフガニスタンの人たちの安否を心配し、そしていつかほとんど忘れてしまう…。
それぞれの国のそれぞれのやり方で解決していくしかないのに、そこに首を突っ込んで、実はそれは正義のためなどではなく、介入することで利用できる何かがあるからだったりする行動が、良い結果を生むはずがありません。

わたしの周りではほとんどの人がこう考えていました。

中村哲さんこそが、アフガニスタンを救うにはどうしたらいいかを示してくれた人でした。

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