またもや三原じゅん子議員が、『八紘一宇』をしつこくアピールし始めています。
三原じゅん子氏「八紘一宇、むつみ合う精神」 長州「正論」懇話会
【産経新聞】2017年7月9日
http://www.sankei.com/region/news/170709/rgn1707090037-n1.html
山口県下関市で、8日に開かれた長州「正論」懇話会の講演会で、自民党の三原じゅん子参院議員は、
行きすぎたグローバル資本主義の歪みで、世界は混乱しており、「八紘一宇」という日本古来の家族主義的な精神こそが、新しい価値を生み出すと訴えた。
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ある閉ざされた空間で、右傾も甚だしいお仲間に向かって、自説を滔々と述べるのは自由です。
けれどもこの人は、どうしてか、次の内閣改造(改造なんかしなくていいから解体しろ!)で、入閣するかもしれないと噂されている人なのです。
こんなトンデモな自説(日本古来とか家族主義的とか、見た目は美味そうな皮に包んだ毒まんじゅう)を、報道の媒体に乗せ、いつの間にかそれを認めてもいいかもと思わせる。
そんな恐ろしい人を、入閣なんてさせてたまるもんですか。
この二つの、2015年に書かれた記事を読めば、三原じゅん子議員の『八紘一宇』発現の危うさや、隠された企みが、本当によくわかります。
長いものになりますが、ぜひ時間を見つけて読んでください!
三原じゅん子議員の「八紘一宇」発言とその背景について《山崎雅弘》
https://togetter.com/li/802234
表題に関連するツイートをまとめてみました。
2015年3月16日の参議院予算員会で、三原じゅん子参院議員が行った、
「八紘一宇(はっこういちう)は、日本が建国以来、大切にしてきた価値観」との発言について、
何が問題なのかを考える材料にしていただければ幸いです。
また、以下のまとめも関連するテーマを扱っていますので、合わせて読まれることをお薦めします。
「歴史修正主義」の政治家に国政を委ねるリスクについて
http://togetter.com/li/734637
「大東亜戦争」と「アジア植民地の解放」について
http://togetter.com/li/521489
戦後の日本人が上書きし損ねた「愛国心」について
http://togetter.com/li/754335
「侵略の定義は定まっていない」という詭弁について
http://togetter.com/li/799852
山崎 雅弘 @mas__yamazaki 2015-03-16
人権や人道、人命を、考慮外にすることを当然視した「当時の国家体制の価値判断」を、批判も否定もせず、
それを強力に助長した靖国神社に、参拝して手を合わせる人間が、首相や閣僚であるなら、
現在の「国家体制の価値判断」が、日々それに近づいていくのは、自然な成り行きだろう。
その変化を、国民は承認するのか。
橋の上のルル @ruruonthebridge
いま、出先のテレビ音に、椅子から落ちるほど驚愕。
「八紘一宇の理念の下、世界が家族のように睦みあう社会目指し日本がイニシャチブを」
「八紘一宇は、世界に誇る日本のお国柄」と三原じゅん子!
侵略戦争のスローガンだった4字熟語で、三原が国会で、首相に気合い入れるというヤンキー度マックスの風景!
OMP(さらば暴政) @ompfarm
三原じゅん子参議が、今日の質疑で、「八紘一宇は、世界に誇るべき日本の考えかた」発言、歴史修正主義以前の、無知蒙昧の恥ずべき認識だな。
この「誇るべき」に反応できないジャーナリズムは、看板を下ろした方がいい。
明日の朝刊、各紙はどんな反応をするやら。。
DouGaneBuiBui @AnomalaCuprea
しかし、「八紘一宇」って標語、最近、そこらの神社の境内で見るんだよなあ。
おおおっ!?となったりしたけど、あっという間に国会でも出たか。
pic.twitter.com/eIpJAVZmP9(この写真は削除されています)
石田昌隆 @masataka_ishida
これか。
安倍が、配られた資料を、真顔で見てるな。
麻生も何言ってるんだか→三原じゅん子 日本が建国以来大切にしてきた価値観「八紘一宇」
youtube.com/watch?v=TCtwwO…(この画像は削除されています)
山崎 雅弘 @mas__yamazaki
国会議員が、国会の公的な質問で、「八紘一宇の考え」を礼賛し、自国のあるべき姿の手本だと論じ、
現職大臣兼与党副総裁が、それに同調して、「八紘一宇の考え」を肯定する。
乗り物に乗っている乗客は、自分の乗っている乗り物が、移動していることに気づかないことも多いが、今この乗り物は確実に移動している。
mold @lautrea
参議院 平和条約、及び日米安全保障条約特別委員会 6号 昭和26年10月30日
○ 国務大臣(吉田茂君)
戰争中においても、或いは戰争以前から、日本は八紘一宇とか、そういうようないわゆる独善の思想に捉われて、海外の情勢に余り耳を傾けないとか、
或いは、聞き苦しい海外の批評は聞きたくない、というような狹隘な考え方、日本だけが選ばれた天孫人種くらいに考えておつた、という話を聞きました。
これが禍いをしたのではないか。
<参議院 平和条約及び日米安全保障条約特別委員会 6号 昭和26年10月30日>より
田川滋 @kakitama
続)大日本帝国の領土拡大には、必ず ”国家神道” が付随していた。
植民地とした台湾にも朝鮮にも、第二次大戦期に占領した国にも、大量に「神社」を建て、イスラムのメッカよろしく、日本の皇居の方角を「遥拝」させている。
それが「八紘一宇」の意味。
今、海外に、その”信仰”は残骸すら殆ど残っていない。
山崎 雅弘 @mas__yamazaki
八紘一宇とは、戦前戦中の日本が、アジア諸地域を自国の傘下に収め、
「世界で最も優れた存在」である天皇と、それに従う日本人を、ピラミッドの頂点とする形で、アジアに一大勢力圏を築くという、大義名分に使用された政治的スローガン。
「天皇を戴く日本は、最も優れた国である」という、自国優越思想が根底にある。
「日本はこんなに素晴らしい」
「日本は外国からこんなに尊敬されている」という本やテレビの氾濫が、政治的な自国優越思想に進んでも、驚くに値しないが、
戦中には、この「大義名分」のために、数百万人の日本人と他国人が、命を落とした。
戦後の感覚では誇大妄想的だが、当時の日本人は、本気でそれに従った。
@tigercatver2
八紘一宇は、「内実に入らせない為に、神武天皇の御言葉をとつたと云へる。批評を許さないために御言葉をとつて来たと云へる」(海軍省調査課思想懇談会)
山崎 雅弘 @mas__yamazaki
読売、産経、毎日、朝日のサイトで、「八紘一宇」を検索した結果。
読売と産経は「該当なし」、毎日と朝日は、発言内容のみ淡々と報じる、小さい記事があるだけ。
三原じゅん子議員が、靖国神社に、「20代の頃からほぼ毎年参拝した」などの背景には踏み込まない。
pic.twitter.com/4f6a6Xjn2g
三原じゅん子議員
「8月15日は毎年靖国参拝」
「私はこの日だけではなく、自分が精神的に辛くなった時等にも度々靖国へ行く」
「ご英霊に感謝の祈りを捧げるという当たり前なこと」
(2013年8月3日)
on.fb.me/1O1yZ8n pic.twitter.com/CE2k4ThXzb
「大東亜戦争」を肯定する人の多くは、日本は、アジアの植民地を「欧米列強から解放した」という、自国自讃の物語を好むが、
実際には、
第一次世界大戦の講和会議(ヴェルサイユ条約)等で、欧米列強の戦勝国と仲良く、「ドイツが持っていた植民地の山分け」を行い、植民地を「持つ側」にどっぷり浸かっていた。
「日本の植民地支配は、欧米の植民地支配ほど過酷では無かった」という、言い逃れを好む人も少なくないが、
俺の方があいつよりも奴隷を丁寧に扱った、というのは弁明になってない。
現実には、戦況が悪化して余裕がなくなると、植民地の住民も「労務者」として徴用され、建設労働現場などで死ぬ人が大勢いた。
「カギ十字のシンボルの起源は、もともと…(中略)…であり、特に政治的な意味も、人種差別の意図もなかったのだから」と言って、
ナチスドイツと全く同じデザインのカギ十字を、党のシンボルマークに使う政党が、ドイツに出現すれば、即刻逮捕される。
起源論は形式であり、実質の政治的影響力とは関係がない。
「八紘一宇」持ち出した三原じゅん子氏に、沈黙する国会の異常(日刊ゲンダイ)
bit.ly/1Fv02oZ
「一昔前なら、大問題となったはずの暴言だが、16日の参院予算委で、三原議員の発言をとがめる議員はゼロ。
共産党も社民党も、黙って聞き流していた」
三原じゅん子議員の、「八紘一宇」発言の問題は、
この大正期に作られ、昭和初期に、日本のアジア支配を正当化する大義名分とされた概念を、
「日本が建国以来、大切にしてきた価値観」と錯覚していること。
与党議員が、事実でない嘘を国会で発言したら、野党議員は、「そんな事実は無い」と指摘しないとだめだろう。
「八紘一宇は、日本が建国以来、大切にしてきた価値観」という、日本のアジア支配を正当化する、政治的意図に基づいて語られ、
戦前戦中の僅か15年ほどだけ、国内で「事実」とされた、自国中心思想の「物語」が、
2015年の国会で、再び「事実」であるかのように語られ、嘘だと指摘されずに話が終わっている。
三原じゅん子議員は、2015年3月16日の参議院予算員会で、合計8回、「八紘一宇」という語句を用いたが、
現在の社会問題を説明する、「無難な形式」に転用することで、批判を回避した。
野党も大手メディアも、形式思考でこれをスルーしてしまったので、今後、この言葉は、社会で多用されていくかもしれない。
戦前戦中の『国家神道体制』において、国民の人権や自由、さらには命まで軽視した価値判断の、根底にある理念やキーワードは、どれも個別に見れば無難なものが多い。
『教育勅語』も、原文は、「緊急時には公のために奉仕せよ」程度の教えだったが、「国家体制への際限のない奉仕」を、実質的に強制する思想となった。
三原じゅん子議員の発言と、それに対する野党と大手メディアの無反応で、「八紘一宇」という語句は、「日本の国会で使っても全然問題がない言葉」に認定された。
国家神道の政治勢力にとっては、大きなポイントで、今後は、この一見無害な言葉に、様々な解釈が施され、『国家神道的価値観』の宣伝に使われるだろう。
イタリアとドイツ、日本の、第二次大戦期の国家体制は、一般に「ファシズム」と評価されるが、
共通するのは、自国や自民族の「起源」についての、気宇壮大な「物語」を創造し、膨らませ、自国や自民族の優越性の根拠としたこと。
幻想の物語を、自尊心の拠り所にしてしまった時点で、暴走と破滅は約束されていた。
世界を家になぞらえて、「共栄の見本」にする考えは、戦前戦中の日本国内と支配圏で、数多く語られたが、
そこでは、家長や長兄は、常に「日本」であることが当然視され、日本以外の国や民族が「上座に座る」状況は、一切想定されなかった。
自国優越思想を巧妙に擬装する、大きな思考のトリックが、内蔵されていた。
こうした、日本の「自国優越思想に対する無自覚と傲慢さ」に、強い不快感を示す指導者は、日本に「解放されたとされる」植民地にもいた。
フィリピンのホセ・ラウレル大統領は、1943年11月に、東京で開催された『大東亜会議』で、
「大東亜共栄圏は、これを形成するある一国のために、建設されるものではない。
発展の結果として生ずる、特定国家の繁栄を、ある一国が独占することがあってはならない」と警告した。
インド独立を目指して、日本の側に立ったスバス・チャンドラ・ボースも、表向きは東條と仲良くしたが、
側近には、日本以外のアジアを無意識に見下す、東條ら日本人の傲慢さに、不快感を漏らしていた。
荻上チキ・Session-22 @Session_22
TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」生放送中。
今夜は、「三原じゅん子議員が言及した“八紘一宇”」
先ほど入手した、三原議員が予算委員会で配布した資料。
山崎 雅弘 @mas__yamazaki
「本当の『愛国』とはなにか」bit.ly/1B9uNdy でも書いたが、
自国の負の歴史から目を背け、無謬性や、他国との比較での優越性ばかりに目を向けることが、本物の「愛国」だとは思えない。
実際、昭和前期には、その路線を進めた結果、愛したはずの国を、破滅寸前へ追い込んだ。
20世紀のわずか10数年間、この国を支配した『国家神道体制』は、
建国神話や天皇の言葉などを、巧みに援用して、独自の精神世界を作り上げ、
日本国民に、その政治的な創作物語が、「日本の伝統」であるかのように、錯覚させることに成功した。
現在でも、当時の錯覚にとらわれたままの人は、少なくないように見える。
TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」3月18日「三原議員が言及した『八紘一宇』は、どのように使われたのか」は、ポッドキャストで聴ける。
bit.ly/18NujCk
「言葉は、使う人の説明する意図だけでなく、過去にどんな使われ方をしたかを、踏まえることも重要」
「八紘一宇」の一件は、非常に手の込んだ、巧妙な、「政治宣伝工作」だと思う。
まず、戦前戦中の、「アジア侵略を正当化する文脈」とは全く関係の無い話で、国会議員が国会の議場で、この語句を繰り返し使う。
意表を突かれるような、全く関係の無い話なので、批判する側も、批判のポイントを絞り込みにくい。
その結果、「八紘一宇」という語句は、
「アジア侵略を正当化する文脈とは、まったく関係の無い意味であれば、国会で繰り返し議員が口にしても問題無い言葉」として、事実上認定され、日本社会での「市民権」を回復する。
いわば、「言葉の名誉回復」を果たしたことになる。
ネガティブなイメージが払拭される。
三原議員によって、「八紘一宇は、日本が建国以来大切にしてきた価値観」という、昭和前期に創り出された政治的フィクションが、国会の議場で語られた時、
誰も、「それは違う」「そんな事実は無い」と指摘しなかったので、現在の国会が、その戦前戦中のフィクションを、「事実」だと追認した形式が、創り出された。
戦前戦中の日本人は、『国家神道体制』が創り出す、「建国神話や、天皇の言葉を、独自解釈で援用した政治宣伝」に疑問を差し挟まず、
引用元の言葉が持つ、「教訓的・美談的側面」に酔い、その解釈が、特定の政治目的を正当化する文脈で使われることに無防備だった。
細部にのみ目を向け、全体には注意を払わなかった。
誰もそれを否定も反対もできない、「正しい教え」を土台に、意味の拡大解釈を重ね、権力行使の道具として使用する。
古今東西の歴史で、数多く見られるパターンだが、
出発点の「正しい教え」だけを議論の範囲とし、「どこが悪いの?」「ならばこの正反対がいいの?」と、論点をすり替える詭弁には要注意だろう。
今回の一件で、国内のさまざまなメディアに、「八紘一宇という言葉はもともと…」という、起源の説明が氾濫したが、
神社本庁などの『国家神道系政治団体』から見れば、この『国家神道』の政治理念を示す語句を、一円の宣伝費も費やさずに、「宣伝」できたことになる。
形式を重視する思考が、最大限に利用されている。
『リー・クアンユー回顧録(上)』の記述、
「日本人は、我々に対しても、征服者として君臨し、英国よりも残忍で常軌を逸し、悪意に満ちていることを示した。
日本の占領の三年半、私は、日本兵が人々を苦しめたり殴ったりするたびに、シンガポールが英国の保護下にあればよかった、と思ったものである」
「同じアジア人として、我々は日本人に幻滅した。
日本人は、日本人より文明が低く、民族的に劣ると見なしているアジア人と、一緒に思われることを嫌っていたのである。
日本人は、天照大神の子孫で、選ばれた民族であり、遅れた中国人やインド人、マレー人と、自分は違うと考えていたのである」
これが八紘一宇の実態。
そのリー・クアンユー氏の、葬儀に出席した日本国の首相が、インドのモディ首相の横で、居眠りする姿が報道され、話題になっているが、
太平洋戦争で、日本軍が、シンガポールで何をしたかについては、こちらを参照。
on.fb.me/1xNQJPL
イスラム国の蛮行は、異世界の出来事ではない。
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リー・クアンユーの証言
「深刻なのは、(日本の)指導者たちの、過去の戦争で行われた残虐行為に対する姿勢だった。多くは、いまだ曖昧な態度で、言を左右にしている」
2015年3月23日
https://www.facebook.com/notes/小西-誠/リークアンユーの証言深刻なのは日本の指導者たちの過去の戦争に対する残虐行為に対する姿勢だった-多くはいまだ曖昧な態度で言を左右にしている/784797608263195
シンガポールの名宰相、リー・クアンユー氏が亡くなった。
政府・メディアは、「奇跡の経済成長」をとげたと、彼の功績を評価するが、
氏の遺言とも言えるあの大検証、(大虐殺)に対する「日本の戦争賠償」責任追及を、黙殺している。
以下は、拙著『シンガポール戦跡ガイド』の解説と、『リー・クアンユー回顧録』の証言。
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●華人大検証(大虐殺)とは?
大本営の計画的な華人大虐殺
1942年2月15日、シンガポールを占領した第25軍は、前述のように、当初、市内の警備を憲兵隊に担当させ、次いで同17日には、第5師団・歩兵第9旅団長の河村参郎少将を、シンガポール警備司令官に任命した。
この任命を受けた河村に対し、第25軍司令官・山下奉文は、直ちに「抗日分子絶滅の掃討作戦命令」を下した。
対象は、「元義勇軍兵士・共産主義者・略奪者・武器を隠している者」などであり、掃討作戦の期間は、2月21~23日の間であった。
この方法として、指揮下の地域の周辺に「哨兵線」を張り、逃亡を防ぎ、その地域を五つの地区に区分し、抗日分子などを区別・分離する。
また、全ての抗日分子を、秘密裡に処分するというものだ。
この作戦の直接の監督は、辻政信参謀にするとした(『シンガポール華僑粛正』高文研)。
こうして、アジア・太平洋戦争での、日本軍のもっとも非道な行為、重大な民間人虐殺事件とされる、「華人大検証」(粛清)が始められた。
この政治的・軍事的目的は、以下の、河村警備司令官声明に示されている。
「昭南港ノ華僑ハ、今ニ至ル迄重慶政権ノ宣伝ニ誤ラレ、英国ト協力シ重慶政権ニ対シ政治経済上ノ援助ヲ続ケ来レリ。
即チ或ハ義勇軍ヲ編成シテ英軍ニ参加シ……此等反逆ノ華僑ヲ掃蕩シ治安ヲ確立シ、以テ民衆ノ安泰ヲ図ルハ、現下最モ喫緊ノコトナリ……」
(昭南日報2月22日付・昭南警備司令官声明)
この声明に表れているように、華人の大粛正の目的は、重慶政権への援助の阻止だ。
つまり、長期化・泥沼化している中国との戦争に、苛立った大本営が、シンガポール占領を機に、「援蒋禁絶」「抗戦力の減殺」の方針のもとに、計画的に行った占領政策であったのだ。
現地司令官の山下奉文も、この大本営の命令を、遂行したに過ぎないのである。
およそ5万人の華人の虐殺
これらの軍命令の下、憲兵隊は2月19日、シンガポールの青壮年男子の華人に、市内数カ所への集合を命令した。
「昭南島在住華僑18歳以上50歳までの男子は、21日正午までに、指定の五つの地区に集合すべし」
(日本軍司令官布告)
この最初の3日間の大検証は、第1次粛正と言われるもので、その後、大検証は、2月28日よりの第2次粛正(近衛師団による)、そして、3月上旬まで第3次粛正と、3回続いたのだ。
この3回にわたる「大検証」(粛正)で、在シンガポールの華人約5万人が殺されたと言われる。
(河村参郎シンガポール警備司令官の日記では、「処分人員は総計約5千名」[2月23日の隊長会議報告]と明記されている。ただし、2月23日の時点である)
その対象は、「元義勇軍兵士・共産主義者・略奪者・武器を隠している者」とは名ばかりで、
「学校教師・新聞記者・専門職・社会的地位のある者」のほか、「小学校以上の学歴所有者」「財産を5万ドル以上持っている者」なども含まれ、
実際は、何の基準もない恣意的なものだったという(軍事裁判での河村証言)。
こうして、無差別に選ばれた華人たちは、シンガポールの島内の各所で、大量に銃殺・刺殺されたのだ。
大量虐殺の現場
この大虐殺の最初の現場が、すでに本書で紹介してきた、チャンギ・ビーチであった。
ここでは、2月20日、トラック2台に後ろ手に縛られた華人約70人が連行され、海岸の波打ち際で、二列に並ぶように命令された。
そして、日本軍の機関銃の一斉射撃が始まり、情け容赦のない大虐殺が行われた(チャンギ海岸には、記念碑が建立)。
すでに紹介してきた、『シンガポール華僑粛正』や『日本のシンガポール占領』(凱風社)によると、その虐殺の状況は、以下のようであった。
まず、タナメラ海岸(現在は、海岸の拡張で、チャンギ国際空港の下になる)に、ある政府官吏の1人は、120人の人々と一緒に連行された。
また、別の官吏は、トラック20台ぐらいで、まとまって連行された。
この彼らのいずれも、波打ち際で機関銃で撃たれ、倒れた者は、銃剣でトドメをさされた。
ここでは、およそ千人が殺されたという。
セントーサ島北端のコンノート要塞(現ゴルフ場下)では、ここを警備していた義勇軍兵士が、沖合から機関銃の音がするのを聞いた。
それによると、ランチの上から水中に向かい、機関銃が撃たれ、銃声は毎日2回~4回、これが2~3日も続いていたという。
この他では、ブキ・ティマ・ロード沿い、ベドック海岸、ボンゴール海岸など、島内の15カ所で、大虐殺が行われたのだ。
「華人掃討命令」を証言する日本軍将兵
シンガポールの華人大虐殺は、当時、この占領直後に、軍に配属されていた多くの日本軍将兵によって、証言されている。
1942年3月以降、シンガポールなどの治安維持の担当者であった、大谷敬二郎憲兵中佐は、
「日本軍の暴虐として、世界の批判にさらさるべき最大の汚点」(大谷著『憲兵』)と非難している。
すでに引用してきた、シンガポールの元近衛師団通信小隊長・総山孝雄『南海のあけぼの』(叢文社)の証言を、もう少し詳しく述べよう。
「軍司令部から各師団に、『華僑の抗日分子を摘発して、厳重に処分せよ』という命令が出た。
厳重処分というのは、処刑しろという意味である。
……住民の密告によって、急襲したりして、少数のものを逮捕・処刑して報告していたところ、軍参謀から、数が少ないと電話でどやしつけられたという。
例のT参謀らしい。
『五師団は、すでに300人殺した。十八師団は500人殺した。近衛師団は何をぐずぐすしているんだ。足らん。足らん。全然足らん』
……やむなく補助憲兵の小隊は、ある町の一角を包囲して、すべての男子を駆り出し、一列になって検問所を通らせた。
しかし、そんな検問で、抗日ゲリラが見分けられるはずがない。
それで、検問係の下士官は、それを人相によって右と左に振り分けたという……
100人になると、それをトラックに積んで、チャンギー要塞近くの海岸に運び、機銃で掃討して、死体を海に棄てた」
また、シンガポール上陸の第一線部隊で戦った、第18師団第114連隊の曹長・荒井三男は、『シンガポール戦記』(図書出版)で、次のように証言する。
「第25軍が、慰霊祭(この戦争の戦死者の3507人の慰霊祭)を施行した翌日から、シンガポールで、残虐な血の粛清がはじまった。
……第一回目は、シンガポール島内20数カ所で、約6〜7000人、第二回目はジョホール水道付近で、約4〜5000人と、合わせて10000人前後が処刑されたという(数は辻政信・軍参謀談)」
このシンガポールでの華人虐殺が、約6~7000人というのは、その実行責任者・辻参謀の言動を根拠にしているものだが、
いずれにしても、日本軍のシンガポール占領直後に、華人の大虐殺が行われたことは、多くの日本軍の将兵が証言しているのだ。
この大検証(大虐殺)責任者として、戦後処刑されたのは、歩兵第九旅団長・河村参郎少将(昭南警備司令部司令官)、第2野戦憲兵隊長・大石正幸中佐などであったが、
しかし、この最高責任者は、山下奉文軍司令官であり、直接指揮したのは、大本営参謀・辻政信であったことを、明記しなければならない(この辻政信が、戦犯を逃れたことは重大だ)。
約10万人ともいわれるマレーシアでの大虐殺
このジョホール・バル―シンガポール陥落後には、マレーシアでも、華人の大虐殺が行われた。
これは、第18師団の犯行と言われている。
この華人虐殺は、ジョホール・バルの王宮の、西側の広場で実行された。
広場には、100メートルあまりの長さの壕が、2~3メートルの間隔に2本、10列に掘られていたという。
この壕では、一列ずつ、その壕の前に座らせ、後ろから機関銃で撃つ。
すると、ひとりでに壕の中に落ちるので、直ちに兵がすっ飛んできて、円匙(小型シャベル)で埋めるというものだ。
ここでは、全体で、約3千人が殺されたという。
だがこれは、マレー半島での処刑の一部にすぎない。
マレー半島では、50カ所という華人の村のほとんどで、日本軍による虐殺が行われた。
また、都市部でも、「敵性華人」と見られた人々が、虐殺されたという。
さらに、ジャングルに近い村々では、皆殺しに近い虐殺も行われた、と伝えられている。
(マレー半島の人口は、1940年に約550万人、うち中国系マレー人235万人、マレー人228万人、インド人74万人、ほか先住民など)。
シンガポール初代首相・リー・クアンユーの証言
シンガポールでの「大検証」という、華人虐殺の実態については、近年、本書で紹介した「口述歴史センター」を含め、シンガポールの中からも詳細な証言が記録されている。
ここでは、シンガポールの初代首相で、1990年に首相を辞任して以降も、未だにシンガポールにおいて絶大な影響力を保っている、リー・クアンユー氏の体験を紹介しよう。
氏は、以下のように証言している(『リー・クアンユー回顧録(上)』日本経済新聞社)。
「日本兵が、我が家から立ち去ってまもなく、華人はすべて、尋問を受けるため、ブサール通りの華人登録センターに集合するよう、日本軍からの命令が来た。
近所の人が、家族と一緒に出向くのを見て、私も行ったほうが賢明だと思った。
家にいて憲兵隊に捕まると、必ず罰があるからだ。
私は、テオンクーと集合場所に向かった。
人力車の運転手寮にあるテオンクーの部屋は、鉄条網で囲まれた境界線の中にあった。
数万人の華人家族が、小さな一区画に押し込められていた。
すべてのチェック・ポイントでは、憲兵隊が見張っていた。
憲兵隊の周りには、何人かの現地の人々や、台湾人がいた。
私は記憶していないが、彼らの多くが、顔が分からないよう頭巾をかぶっていた、との話を聞いている。
テオンクーの部屋に一泊した後、私は思いきって、チェック・ポイントから出ようとしたが、憲兵隊は外出を許可しなかったばかりか、中に集められていた華人青年グループに加わるよう、指示したのである。
本能的に危険を感じた私は、番兵に荷物を取りに部屋に戻る許可を求めると、それは許可され、私はテオンクーの部屋で、一日半を過ごした。
それからもう一度、同じチェック・ポイントから出ようとすると、理由ははっきりしないけれども、許可が出たのである。
私は、左の上腕とシャツの前部に、消えないインクを使ったゴムのスタンプが押された。
漢字で、「審査済み」のマークがあれば、私が当局のお墨付きをもらった証明だった。
私は、テオンクーと家まで歩いて帰った。
私は本当に胸をなでおろした。
人間の命や生死に関わる決定が、こんなに気まぐれに安易になされるとは、私にはとても理解できることではない。
私は、マレー半島作戦を計画した、辻政信大佐による反逆者一掃作戦から、かろうじて逃れたのである」
別のカ所で、リー・クアンユー氏は、日本の戦後のあり方をも、痛烈に批判している
「日本人は、我々に対しても、征服者として君臨し、英国よりも残忍で、常軌を逸し、悪意に満ちていることを示した。
日本の占領の3年半、私は、日本兵が人々を苦しめたり殴ったりするたびに、シンガポールが英国の保護下にあればよかった、と思ったものである。
同じアジア人として、我々は日本人に幻滅した。
日本人は、日本人より文明が低く、民族的に劣ると見なしているアジア人と、一緒に思われることを嫌っていたのである。
日本人は天照大神の子孫で、選ばれた民族であり、遅れた中国人やインド人、マレー人と、自分は違うと考えていたのである(『リー・クアンユー回顧録(上)』)」
「池田勇人首相との会談で、私が取り上げたのは、〝血の負債〟すなわち戦時中の、日本軍によるシンガポール人虐殺に対する償いの要求だった。
池田は、シンガポールで起こったことに対して、「心からの遺憾の意」を表明したが、謝罪はなかった。
首相は、日本国民が、「故人の精神に対してなされた不当な行為」を償いたいと述べ、過去の行為が、両国の友好関係の発展を阻害しないことを願うといった。
だが、補償問題の結論は、保留となった。
首相も側近たちも、実に丁寧で、なんとかこの問題を解決しようとしていたが、被害を受けた他国から、補償要求が殺到することを恐れ、先例を作るのをためらっているように見えた。
両国がこの問題を解決したのは、シンガポール独立後の66年10月で、5000万ドルの補償金は、円借款と無償供与が半々だった(『リー・クアンユー回顧録(下)』)。
日本は、経済大国として、先進国首脳会議の正式メンバーとなり、世界の主要国として果たすべき役割を、模索し続けてきた。
とりわけ深刻なのは、指導者たちの、過去の戦争に対する残虐行為に対する姿勢だった。
西ドイツの政治指導者は、明確に、戦争犯罪を認めて謝罪し、犠牲者に賠償を支払い、若い世代に戦争犯罪の歴史を教えて、再発を防ぐ努力を行ったが、日本の指導者はどうだろう?
多くは、いまだ曖昧な態度で、言を左右にしている。
天皇への配慮に加えて、国民を困惑させたくない気持ちや、先祖を侮辱したくない思いがあるのだろう。
理由のいかんを問わず、歴代の自民党政権は、日本の過去と向き合うことはなかった(『リー・クアンユー回顧録(下)』)」
●シンガポール軍事法廷での処刑
日本軍が無条件降伏し、アジア・太平洋戦争が終わった後の1945年9月5日、イギリスは、再びシンガポールに上陸し、9月12日には、日本軍との降伏の調印式を行った(シティ・ホール)。
シンガポールを占領し、軍政を敷いたイギリス軍は、直ちに大検証(大虐殺)を含む、日本軍戦犯の調査を開始した。
こうして、大検証の戦犯裁判は、1947年3月10日より、シンガポールのヴィクトリア・メモリアル・ホールで開かれた(開始が遅れたのは、担当責任者の事故死によるという)。
この事件で起訴されたのは、西村琢磨(近衛師団長)、河村参郎(シンガポール警備司令官)、大石正幸(第2野戦憲兵隊長)、横田昌隆(憲兵)、城朝龍(憲兵)、大西覚(憲兵)、久松春治(憲兵)、水野銈治(憲兵)の8人であった。
法廷では、虐殺で生き残った人々や目撃者が、多数証言し、日本側の「第25軍の命令に従った軍事作戦」という弁護を、当然ながら退けた。
こうして、同年4月2日の判決は、河村参郎と大石正幸に絞首刑、他の6人には終身刑が言い渡された。
2人の処刑は、6月26日、チャンギ刑務所で執行された。
だが、この裁判の死刑判決が、2人だけにとどまったことは、現地の人々からは、強い抗議が巻き起こった。
そして、この大虐殺の実行責任者・辻政信が、GHQの妨害の中で逃亡し、戦犯を免れたことは、
戦犯裁判の不徹底性はもとより、戦後の米軍支配下の占領政策の、重要な問題性を突きつけている。
(大虐殺の現場での最高責任者・山下奉文は、フィリピンの軍事法廷で、シンガポール華人虐殺とマニラ虐殺などの責任を問われ、絞首刑に処せられた)
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