ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

かくも悩ましい電気代とワンコのうんち

2023年03月22日 | ひとりごと
まだまだ外気は冷たくて、つぼみはカチカチのままで、地下ではセントラルヒーティングのボイラーが唸り続けていて、だからピアノ部屋の2台の加湿器はずっと24時間付けっぱなしで、だけど外に一歩でると春の匂いが漂っている。
春が、自分の出番をみんなが待ち焦がれているのをわかってて、舞台裏の分厚いカーテンの後ろでスカした顔で隠れているのだ。
さっさと出て来てくれないと、うちの電気代がいつまで経ってもえげつない。

いつも一番に、もうそろそろだからねって教えてくれるクロッカス。

花はまだまだ先だけど、若いみどりを見せてくれるだけでも嬉しくなる。



食事中の人には申し訳ないのだけど、うちの真ん前の歩道と道路の間の枯芝に、何度もワンコのウンチを放置していく人がいる。
先日は、それを踏んづけたままうちに中に入ってきた誰かが、ブツを床やラグの上にべったりと擦り付けていて、掃除がそりゃもう大変だったので、とうとう頭にきて警告することにした。

うちの松の老木がふんだんに落としてくる松ぼっくりで囲んで囲んでみた。
もう2度と置きっぱなしにしないでください、というメッセージを込めて。
伝わっただろうか…。
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ヨーヨー・マ & エマニュエル・アックス

2023年03月20日 | 音楽とわたし
YO-YO MAの演奏を生で、死ぬまでに一度でいいから聴いてみたいと、随分長い間願ってきた。
こちらに移り住んでから、その機会は何度もあったのだけど、その都度あれこれ事情があって諦めなければならなかった。
今回は気づくのが遅くて、値段が高い席しか残っていなかったのでちょいと躊躇したのだけど、ヨーヨー・マだけではなくてエマニュエル・アックスとレオニダス・カヴァコスのトリオだというので、これはもう行くしかないだろうと決心した。
アックスのピアノはなんとも軽やかで上品で心地良く、うっとりと聴いているといきなり音楽の深淵にグイッと引き込まれて呆然となったりする。
カヴァコスのバイオリンはユジャ・ワンとの共演で初めて聴いて、ただただぶったまげたままで気がついたらコンサートが終わっていた、というくらいの凄さで、あんな激しい感情の吐露ととんでもなく高度な技術の合体は可能なのか?と、今も思い出すたび唖然としてしまう。
そんな二人とヨーヨー・マのトリオなのだ、聴き逃している場合ではないではないか。
コンサートが刻々と近づいてきて、ワクワク感がハンパじゃなくなってきた頃、いきなりコンサート会場からメッセージが届いた。
「カヴァコスが病気のため、今回のコンサートに出演できなくなりました。
よって、ヨーヨー・マとエマニュエル・アックスの二人によるコンサートに変更します。
プログラムは当日、本人たちがお伝えします」
が〜〜〜ん😦

がっかりしたのも束の間😅、やはり当日は朝から落ち着かない。
今回の演奏会場はNJPAC(New Jersey Performing Arts Center)。


うちから車で15分弱で行けて、駐車も会場近くの通りのどこか空いている場所を見つけてできるから無料。
とても気楽に出かけられるのがありがたい。
いつもは一番安い席(5階)の前の方で聴くことが多いのだけど、チェロのヨーヨー・マの顔が斜め前方に見える位置の前から2列目の席を買った。


ほぼかぶりつきであるのだが、今回はトリオからデュオに変更になったので、ヨーヨー・マに目力でアピールする計画は頓挫してしまった。



さて、二人が和気あいあいと笑顔で語り合いながら舞台に登場し、まだ一音も出していないのに会場はもう大興奮。
プログラムは二人の写真と経歴だけのペラペラの一枚の紙で、もちろん曲目などどこにも無い。

二人がそれぞれにマイクを手に話し始めた。
二人は52年来の親友で、演奏はもちろん家族ぐるみで仲が良い。
会場にはアックスの家族が来ていて、それをヨーヨー・マが必死で見つけようとする。
ひとしきり二人で冗談を言い合って会場を沸かせ、なんだこのおもろさは、などと思って油断していると、いきなりベートーベンのソナタが始まる。
もうその一音一音が音楽の神さまのひとしずくのようで、いや、音というより声、いや、声でもない、なんだろうこの響きは。
ヨーヨー・マが目の前で、まるで温泉の湯船につかってはぁ〜っと弛緩してるような按配で、ふふふ〜んと鼻歌でも歌うような気軽さで、ベートーベンやブラームスのソナタを奏でる。
その音は、もうチェロという楽器を通り越して、なんとも言えない肉薄さでもって、わたしの耳から心に届き、時には眉間の辺りから天井に向かって昇華したり、時には腹の底に留まって身体中を震わせたりした。
たった一音が、決して涙もろくはない夫を涙ぐませたこともあったらしい。

ところでひとつ面白かったのは、ヨーヨー・マはエンドピンのストッパーを使わないみたいで、舞台の床をエンドピンの尖った先でゴツゴツ打ってへこましていた。
まあ、ぶっちゃけて言うと、舞台の床を傷つけていたわけだ。
でも、演奏中に気持ちが高揚してきたら体も大きく動くので、何回もエンドピンの先がへこみからずれて、楽器がツルッと滑りそうになっていた。
ずれても平気でそのまま演奏を続けることもあれば、曲の途中で新たな穴を作ったり、椅子をちょっとずらしたり、そんな余計なことをしていてももちろん素晴らしいパフォーマンスは絶賛続行中。
あとで、「いやあまいったよ、何度も楽器が吹っ飛んでいきそうになっちゃってさ。実はチェロってかなり危険なんだよね、だってかなりとんがってるからね、先っちょが」なんて言ってまた笑わせていた。

二人は異様に近い距離で演奏していたので(ヨーヨー・マの左肩とエマニュエル・アックスの右肩がほとんど触れるぐらい)、チェロの弓の先っちょがピアノを付きはしないかとハラハラしたが、もちろんそんなことは全く起こらなかった。
この写真は同日行われた別の演奏会場のもの。


ヨーヨー・マは3曲ともほぼ暗譜、ずっと目を閉じるか半眼で、自分が奏でている音をすぐそばで聴いて楽しんでいるような感じで、それがもうなんとも言えないほどに心地良いのだという感じがひしひしと伝わってきた。
エマニュエル・アックスの姿は、わたしの席からはほとんどヨーヨー・マの体で隠されていて見えなかったのだけど、その地味な動きからは想像できないような、多様でしっかりと掘り下げられた感情表現が次から次へと聞こえてきて、その音の響きに包まれているだけで幸福になった。

偉大な二人の音楽家に心から感謝する。
カヴァコスとのトリオがもし実現したら、なにがなんでも聴きに行く。
またしっかり働いてへそくらないと😅
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ちちとらん

2023年03月10日 | 日本とわたし
ここ最近、夫がうるさかった。
「ちちとらん、これ、絶対読むべきやって」と、しつこく言ってくるのだ。
なんやそれ、ちちとらんって、とウザがりながら考えているわたしの頭の中では、ちちとらんは父と乱という漢字変換がされていて、なんのこっちゃ、意味不明やし、と無視し続けていた。
コンサートのバタバタも終わり、自分がピアノを学ぶ生徒になった緊張感もやや薄れ、口内手術の腫れや痛みも徐々に治ってくると、「絶対ええって、日本語で読むべきやって」、という夫の勧めをこれ以上聞きたくなかったので購入した。
ちちとらんは『父と乱』ではなく『乳と卵』だった。
なんでたまごではなくランなんやろうと思いながら、最初の一行を読み始めた途端にえ?っとなった。
なんやこれ?

それからは一気読み。
そして今、あの独特の語り口調が脳内に棲みついてしまったばかりか、ああいう書き方でわたしも書いてみたいというよこしまな欲求がムラムラと沸いてきて、前に書いた物語を書き換えてみようかとか、いや、そうじゃなくて自分がこれまで気持ちが合う人に出会っては話してきた話をあれ風にまとめてみようかとか、いやもうこれはただの興奮状態だから、落ち着くまで一旦保留にしとくべきだとか、もうすでにプチ『乳と卵』口調になってしまってる。

わたしがこれまで書いてきた物語は、もちろん好きだし大事に思ってるけど、そして読んでくれた友人や知人は話を好いてくれたり自己出版を勧めてくれたりしたけど、なんかホンモノではないっていう気がしていた。
そして今、かれこれ14年も前に出版されていた川上氏の物語を読んで、そのホンモノではない感がどこからきているのかがほんのりとわかったような気がする。

さて、どうしたものか…もう少し落ち着くまで待ってみようか、それともここで始めてしまおうか。
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痛い思いをして大金を払わされることについて

2023年03月07日 | 日本とわたし
先週の金曜日の歯の治療は、これまでで一番きつかった。

以前にも何回も話したことがあることだけど、今から30年以上も前の離婚間近だった頃に、かなり貧乏になることが確定していたので、事前に虫歯治療を済ませておこうと思ったわたしは、巷で好評だった歯科医院に行った。
虫歯はまだ始まったばかりだったけれども前歯のど真ん中だったので、早期治療で簡単に終えられると思っていた。
すると歯科医は、
「これから先、ずっと心配しなくてもいいようにしておいた方がいいですよ」と言って、気がついたら上の前歯4本を、全て差し歯にされてしまった。
気がついたら、なんて信じてもらえないだろうけど本当のことで、治療が始まってからずっと頭の中は真っ白で、目の前にいる歯科医のマスクに自分の血肉が飛び散っていくのをぼんやりと見つめていた。
時間にして4時間以上もかかり、頭が朦朧としていた時に、健康だった歯も含む4本の前歯が全て消えてしまった口を手鏡で見せられて気を失いそうになった。
その費用、当時にして一本7万円、合計28万円にもなってしまい、離婚の話を進めている際に何度も夫から「ギリギリのギリギリまで僕の金を使う魂胆だったのだな」と責められた。
そんなつもりなど毛頭無かったのに。

今回の治療は、その前歯の差し歯の根っこにずっとつきまとっていた膿の除去と、その差し歯の抜歯。


抜いてみたら、案の定、骨にも随分と悪さをしていたので、ガリガリと削り取る作業が延々と続いた。
途中で麻酔が切れてきて痛んだので、追加で麻酔を打ってもらったのだけど、体が辛かったんだろう、泣こうと思っていなかったのに涙が耳の中に入ってきてびっくりした。
ああ、こんなことならケチらずに、笑気麻酔か全身麻酔を頼むんだったと、かなり時間が経ってからだったけど後悔した。
今回の治療は合計3000ドル(日本円で41万円)、現金で支払うと10%引いてくれるので現金払いにした。
わたしの口の中には、大掛かりな治療が必要そうな歯が、まだまだ何本も控えている。
なんてこったと思うしかないのだけど、今回の術後の痛みと腫れは、3日目の今日でもまだけっこう辛いので、なかなか気が晴れない。
でもまあ、夫の鍼と漢方薬で、これでも随分と助けてもらっているのでありがたい。

ただ、ほうれい線がすっかり消えた右頬を見るのは楽しい。
なるほど、こんなに簡単にシワは姿を消すのだ。
なんだ、膨れればいいのか。
この子みたいに。

と、右側だけリス顔のわたしは、ひひひと左頬だけでニヤついている。
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音楽とわたし

2023年03月03日 | 音楽とわたし
あれれ、気がついたらもう3月になっている。
今年の冬は雪が積もらなかったなあ、などと言っていたら、急に降ってきて6センチほど積もった。
雪を見るのは、お昼間より夜の方が好きだ。
音もなく空から降りてくる雪が、道路や家の屋根や木の枝を、少しずつ白くしていくその時間の静けさが好きだ。


先週の土曜日、マンハッタンのミッドタウンとダウンタウンの間にあるドイツの教会の聖堂で行われたコンサートが、無事に終わった。
ギリギリのギリギリまで、助っ人の演奏者が来るか来ないかとヤキモキしたり、読みやすい楽譜に換えてほしいと言われて慣れない楽譜アプリと奮闘したりして、まさに怒涛の忙しさが数ヶ月続いていた。
65年生きてきたことを思い知らされる疲れの抜けにくさに狼狽え、君の体はここに居るけど心は居ない(だから『忙』なのだと講釈を垂れたかったが我慢した)嘆く夫を横目に、自身の練習はもちろん、新たに始まったピアノレッスンの練習もし、仕事もフルにしていたから、本番前は言葉通りのフラフラだった。

でも、聖堂に一歩足を踏み入れた途端に、そんなこんなの負のエネルギーがぶっ飛んでしまった。


首席指揮者クリストファーのリハーサルが始まり、

わたしはその演奏を聴きながら握り飯を食らう。

そしてわたしの番。


助っ人の一人が来なかったり、楽譜を持ってこなかった人がいたり、ピアノの調律がちゃんとできてなかったり、大なり小なりのトラブルはあったけど、オーケストラのメンバーはまたまたここ1番の演奏をしてくれて、長い時間にもかかわらず、お客さんたちには最後まで楽しんで聴いてもらえたと思う。

演奏会の録音は、そういうことを生業にしているオケのメンバーが本格的にやってくれた。
デジタルで録音された演奏は、残酷なぐらいにカチカチと、それぞれの音を捕まえていたので、聞いた時はうわぁ〜となってしまった。
どこの誰が、どの部分で、どういうふうに他の人たちとズレていたか、そんなことまでが克明に聴こえてくる。
生々しい現実に唖然とし、練習中の録音を怠ったことを大いに反省したが、あの大聖堂の、内にいる者全てを抱擁してくれる温かさと重厚さに包まれて、いつもとは違う響きを発していた演奏も本物だと思う。

いつもなら、演奏会後の夜は終わった終わった〜と安堵して、ちょっとだけ羽目を外し、日曜日は寝坊して、顔も洗わずにだらだらゴロゴロと時間を過ごし、気がついたら夜だった、みたいなふうになるのだけど、如何せん、月曜日の朝にピアノのレッスンを控えていたわたしには、そんなだらだらゴロゴロは許されなかった。
ボーボーの頭をこんこん叩きながら、宿題に出されていた曲の練習を何回かに分けてやり(最近は長時間の集中ができない)、それでも間に合いそうになかったので、翌日のレッスン時間ギリギリまで焦りまくって練習した。
生徒たちの気持ちがしみじみとわかる。
次のレッスンまでに出された宿題の多さに仰天して、いやそれはいくらなんでも…と言おうとしたが、この際ちょっくらチャレンジしてみっかと思い直して、その1時間後には思い直したことを激しく後悔した。
ジュリー先生は、コンサート旅行や録音の合間を縫ってレッスンをしているような人だから、わたしが宿題曲の多さにビビっているのがよくわからないみたいだ。
でも、彼女の感性や構成力にとても共感するし、高度なテクニックや体全体の使い方をたくさん学びたいので、ここは一つ頑張ろうではないかと思っている。

ピアノは肩甲骨はもちろん、背骨や丹田、太ももや骨盤、そして足の裏に至るまで、全てが一つ一つの音につながっている。
そういう肉体的な運動と、耳で聴く、心で歌う、先を見通す、頭で構成するという精神的かつ機械的な働きが、どうやったらうまく共存できるのか。
ピアノはもちろん、多分どんな楽器でもどんな音楽でも、そして個人的に言えば指揮棒を振ることも、学ぼうとすると本当にキリがない。
わくわくするなあ。
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