ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

藤田真央カーネギーコンサート in 2023

2023年01月27日 | 音楽とわたし
先週の辻井伸行さんのコンサートのプログラムにこんなお知らせが挟まれていた(バッグの中に入れておいたのでくしゃくしゃになっていた…)。
夫が「なんかK(次男くん)によく似た女の子だなあ」と言うので見てみると、確かによく似ている。


真央ちゃんか…。
そこで辻井さんの演奏が始まったので、真央さんのことはプツンと終わってしまった。

演奏会が終わって家に辿り着き、辻井さんのピアノの音の余韻を楽しみながらプログラムをあらためて読み直そうとカバンから出した時、真央さんのチラシが床に落ちた。
真央さんの笑顔がわたしを見上げている。
ふむふむ、ちょっとどんな人なのか調べてみようと思ってパソコンに名前を入れてみた。
わたしはもともと、物事や人のことをよく知らない。
知ろうとしないからなのだけど、知っておかなければならないことも知らないことが多い。
居直っているのか?と言われても仕方がないほど知らない。
藤田真央さんは女性ではなく男性だった。
にこやかで、柔らかで、静謐で、ゆったりしてて、でも突然ヒャヒャヒャ!と声を張り上げて笑ったりする、24歳の小柄な若者だった。
そしてとんでもなく素晴らしいピアニストだった。
モーツァルトのソナタはこんなに面白くて楽しくて清らかでキラキラ輝いて切なくて深いものだよと知らせてくれる人だった。
ピアニシモ、いやピアニシッシモ、いやピアニシッシッシモっていう音があるんだよ、と教えてくれる人だった。
どんなに微かな音にも魂があって、存在しているその一瞬の間に、人の心を鷲づかみにする力があると聴かせてくれる人だった。
その夜わたしは、真央さんの記事や動画を、深夜までずっと読んだり聞いたりして、慌ててチケットを購入した。
それもチラシの15%引きコードを使って。

平日の冷たい雨が降り続く夜だったけど、心はワクワクと温かかった。
一人で行くには電車が便利。
しかもわたしはシニア料金で往復6ドル。
マンハッタンの街は歩いてどこかに行くのがいいのだけど、こんな日は地下鉄を使う。
32丁目のペンステーションから42丁目のタイムズスクエアまで行って、別の路線に乗り換えて57丁目まで行くと、出口を出てすぐのところにカーネギーホールがある。

心地良いジャズを聴かせてくれるミュージシャン。


3年ぶりに乗った地下鉄の構内がやけにきれいになっていた。

乗り換えもスムーズにできるようになった。


今回の席は、2階のボックス席。
一コマに8席で3列に分かれて座る。
わたしの席は一番後ろの3列目で、後ろになるほど椅子が高くなっていて、だからよじ登るようにして座らなければならなかった。
でも椅子は固定されていなくて自由に動かせるので、わたしの前には誰もおらず、舞台をスポーンと見下ろせる。



プログラムは、
モーツァルト:デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲 K.573
モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第8番 K.311
リスト:バラード第2番

休憩を挟んで、
ブラームス:主題と変奏 Op.18b
クララ・シューマン:3つのロマンス Op.21
ロベルト・シューマン:ピアノ・ソナタ第2番 Op.22
だった。

いやもう、ビデオとは桁違いのすごさだった。
聴いた音を言葉で言い表したいのだけど、コロコロ、キラキラ、ズンズン、サラサラ、シンシン、ドンドン、ジンジン、ガンガン、ゴリゴリ、どれも十分じゃないし当てはまらない。
そんな言葉では言い表せない音が次から次へとホールいっぱいに溢れ出てきて、それがもう幸せだの楽しいだの嬉しいだの切ないだのやるせないだの、これまたどう言ったらいいのかわからない感情を、会場いっぱいの聴衆の心に染み込ませていく。
それら全てが一瞬だ。
いやもう、完全にノックアウト。
変な言い方だけど、真央さんのピアニシモの音にガツンとやられた。

彼のリストはモーツァルトの時とは違ってドラマティックで、最後は柔らかな音で終わるのだけど、彼の指が鍵盤から離れ、倍音が消え、それでもまだ彼の指と鍵盤が深く繋がっているのを感じた聴衆は、誰も拍手をせずにひたすら待った。
やがて真央さんの手がふわりと膝の上に乗ったのを合図に拍手の大音響とブラボーの声と口笛。
まだ前半が終わったところなのに…。

今夜の調律師さんは大柄でユニークなやり方で調律している。


後半の最初は前半と同じく変奏曲で始まった。
どちらかというと変奏曲はあまり好きじゃなかったのだけど、こんなに面白くて新鮮で楽しくてびっくりさせてもらえる変奏曲なら何度だって聞きたい。
クララ・シューマンの切ないロマンチックな3曲が終わり、次はとうとう最後の曲だなあと思いながら拍手をしていたのだが、真央さんは一向に立とうとしない。
こちらに顔を向けることもなく、ずっとうつむいたままでびくとも動かない。
あまりに拍手が続くので、チラリと客席の方を見たのだけど、その時もうつむいたままだった。
ようやく、ああ彼はこのまま演奏したいのだなと気がついた聴衆が拍手を止めるとすぐに、最後のピアノ・ソナタが始まった。
至福の時の終わりを告げるに相応しい、真央さんのピアノの魅力を余すことなく見せてくれる曲だった。
客席からは大きな歓声が沸き、熱狂的なスタンディングオベーションで幕は閉じられた。

彼がどこかの音楽祭で弾いているのを、たまたま休暇で訪れていたカーネギーホールの館長が聴き、うちで演奏してくれと誘ったのがきっかけだったと聞いた。
ありがとう館長さん!

アンコールは3曲。
モーツァルトのピアノソナタK. 545の第一楽章、スクリャービンのエチュードOp.8-12、モシュコフスキーの15のエチュードOp.72-11。

Facebookのお友だちの話では、彼の大学の先生がこうおっしゃっているそうな。
「彼は『練習が大好きで大好きで仕方ない!』という感じが滲み出る練習をいつもいつもしてるし、それが全く苦になってないどころかすごく幸せそうなんだよねえ!」

そうなのだ、すごく幸せそうなのだ。
彼は本当に幸せそうにピアノを弾く。いや、きっと幸せなのだろうと思う。
そして彼はその幸せを、彼のピアノを聴く人たちと分かち合いたい、その人たちも幸せを感じてほしいと思っている。
彼がすごいのは、ピアノまで幸せにしちゃってることだ。
ピアノが舞台の上で、え?わたしってこんな音も出せるの?え?ほんと?マジ?って言って喜びに打ち震えているのを何度も見た。

そんな彼だけど、彼の登場シーンはかなりユニークだ。
ちょっと猫背で、左手の指でハンカチの端っこを掴んでぶらぶらさせながらやって来る。
ひょこひょこと、ひょうひょうと、たまに両手を軽く組んで寄席に姿を現す落語家みたいにも見える。
そして座ったと思ったらすぐに弾き始めるので、拍手を止めるタイミングには気をつけなければならない。
若き24歳の、けれどもすでに成熟し、その成熟さは今後もどんどんと進化していくだろう素晴らしいピアニスト。
うんと長生きして見守っていきたいなあ。
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辻井伸行カーネギーコンサート in 2023

2023年01月19日 | 音楽とわたし
辻井伸行さんの演奏を聴きに行ってきた。
彼のカーネギーでのコンサートに行くのはこれが2度目。
今夜のプログラムは、ベートーヴェンのムーンライトソナタから始まって、リストのコンソレーション第二番、ピアノの調律&休憩を挟んでラベルの比較的小曲を三つ、そして最後はニコライ・カプースティンの八つの演奏会用エチュードだった。
Nikolai Kapustin - Eight Concert Etudes, Op 40

そしてもちろんこの夜も、怒涛のアンコールに応えて3曲演奏してくれたのだが、その最後にリストのラ・カンパネラを弾き始めた彼に、いやもう今それを弾くか?!という幸せに満ち満ちたため息があちこちから聞こえきた。

「今日の演奏曲の中で辻井氏自身が一番気に入ってる曲はなんだと思う?」と夫。
「そりゃ最後のカプースティンでしょうよ。あなただってそうだったでしょ?」とわたし。
「今夜の会場の、一体何割が日本人だったんだろうね」
「半分ではないにしろ、かなりいたね」

彼が盲目であること、なのにあんなふうにピアノが弾けること、それを見聞きしたくて来た人。
もうそんなことはとうの昔にどうでもよくなってて、ただただ彼のピアノが聴きたくて来た人。
ピアノ弾きのわたしは、彼の演奏を見聞きしている間、自分がもし全く目が見えなかったらと時々考える。
もちろん彼は、そんなわたしの経験や常識などとは違う世界でピアノを弾いているのだから、比べること自体が馬鹿げている。

ピアノを弾くという作業はまず、厳然たる楽譜を読むことから始まる。
まずは音符と指番号に従いながら音に出してみる。
楽譜を隅々まで読んで読んで読み込んで、そこから見えてくる風景や伝わってくる感情を、作曲者に寄り添ったり自分なりのスタイルにすり替えたりしながら、じりじりとした焦燥感と共に曲作りを進めていく。
盲目の彼が曲を自分のものにするまでの過程は、インタビューや本などで知ることができるのだが、それでもやっぱり、彼にしか見えない、彼にしかわからない、言葉では説明できないプロセスがあるんじゃないかと思う。

3年前よりも彼のテクニックは進化していた。
細かな音の粒がキラキラと降り注ぎ、やわらかな響きや重厚な響きのベールがふわりふわりと現れては消えていく。
ゾッとするほどの静謐さ、深みのある極弱、高速なのに一音たりとも欠けることのない連打、バランスが整った和音の響き。
本当に、本当に素晴らしい演奏なのだけど、この夜わたしは聞き惚れながら、最後の曲が終わった頃にはすっかり疲れてしまった。
なぜだろうと帰りの車の中でずっと考えて、多分それは彼が、今の彼が出来得ることを最大限に聴かせられるプログラムを組んだからと思った。
贅沢言ってら〜と、自分でも呆れるのだけど。

満席とは聞いていたが本当にぎゅうぎゅうで、マスクをつけている人はあまり見かけなかった。



休憩時間の調律。

ラ・カンパネラを弾いた後、もう一度カーテンコールに応えて出てきてくれて、けれどももう弾かないからねとピアノの蓋を閉めてみんなを笑わせ、スタンディングオベーションで讃え続ける聴衆にバイバイと手を振って、扉の奥に消えていった。
ほんと、優しい人だ。

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わきあがる気持ち

2023年01月19日 | ひとりごと
先週末に長男くんがポケットから出して、おかあさんにもええんちゃうかと思て、と言いながらくれた指のグリグリ輪っか。
クライミングの人たちが、指の故障(へバーデン結節など)の症状緩和のために使うのだそうな。
ちなみに彼はなかなかのクライマーです。
これを指にはめて、膨らんでいるところをグリグリすると、最初はイテテテッ!だったのが、途中から気持ちよくなった。

今朝からいきなり、そうだ、レッスンを受けよう!と決心して、ピアノの先生を探し始めた。
インターネット上にワラワラと現れてくるピアノ教師の履歴やポリシーを読み、演奏ビデオが掲載されていたらそれを聴く。
なかなかに手間と時間がかかる作業だが、ここで面倒がったりすると後悔する可能性が大きいので手を抜くわけにはいかない。
長年の付き合いである指のへバーデン結節の症状は、今は右手が深刻な状態で、特に4の指(薬指)の第一関節の変形と痛みがわたしを悩ませている。
指をできるだけ使わないように、できればしっかりと休ませるように。
それが一番の療養だとわかっているが、それができなくしているのがわたしの職業であり生き甲斐でもあるので致し方がない。
右手薬指の先はもう、どんなに頑張って伸ばしても真っ直ぐにはならず、もちろん他の指先のように反ることもできない。
その凝り固まった第一関節は、打鍵の瞬間の、三つの関節それぞれの、微妙で巧みな動きを滞らせる。
ほとんど聞き分けられないような、一瞬のうちに消えていってしまう音だけど、そのやや平坦な響きが耳についてがっかりすることも少なくはない。

レッスンを受けるとなるとしっかり練習したいから、弾く時間がうんと増えるのだけど、学ばずに教えるのは詐欺行為に等しいと考えているのでやるっきゃない。
何度か連絡を取り合って選んだのは、ジュリアード音楽院の博士課程を終了した若い女性で、彼女の演奏ビデオを何曲か見聞きしてすごく納得し、共感し、魅了されたので、これは習うっきゃないと思った。
彼女はマンハッタン在住なので通えないこともないけれど、とりあえずバーチャルレッスンの申し込みをした。
開始は2月の第二週目から。
毎週だと練習がちょっときついので、隔週でお願いすることにした。




先日、夫が激怒した。
わたしが思い余ってfacebookのウォールに書き込んだ文章が原因だった。
どんなに頑張ってケアしても一向に減っていかない虫歯の高額治療費に打ちのめされて、なんとかしてマシな歯の保険を見つけようとしても叶わず、ずっと長い間不安や不満に包まれていた。
誰に相談を持ち掛けても、ほとんの人が深い同情の気持ちを目に浮かべながら、深いため息と共に首を振る。
いないのだ、本当に、この国では余程の大企業にでも勤めていない限り、歯の治療を受けたいときに受けたいだけ受けられるような人は。
だけどもしかしたら、わたしの友人知人以外に、何かいいアイディアや保険を知っている人がいるかもしれない。
その時のわたしには、もうそれは最後の手段だと思えた。
SNSという、公の、巨大な沼に糸を放り投げてみよう。
けれどもわたしが書いたそれは、夫からするとあまりにもプライベートで、あまりにもナイーブで、あまりにも配慮に欠けていたのだろう。
30年以上にもなる結婚生活でもダントツの激オコだった。
夫は確かに、わたしが歯の治療が必要だと話すたびに、それが歳を取るということだ、治療費は仕方がない、一部の幸運な人を除いて、誰もが通らなければならない道だと言っていた。
治療費を気にする必要がない、自分たちには払えるのだからとも言っていた。
彼の言うことは十分ありがたいし理解もしているのだけど、やはり悔しいではないか、健康保険の中に歯の保険が無いというこのシステムが。
それに毎年50万から80万という金を自分の歯のためだけに使わなければならないことも。
払えるにしても、できたらそれが、せめて20万以内とかになる保険があったら…。
だから書いてしまった。
そんなにダメなことだとも思っていなかった。

そのことを先日、セラピストに話した。
彼も深刻な歯の問題をいくつも抱えている仲間で、だからわたしの気持ちは誰よりもよくわかってくれている。
彼と話したことをぼんやりと思い出していると、わたしが夫に、というか人に、もっと頻繁に、ざっくばらんに、自分の気持ちを伝えればいいのだが、それが1番の苦手なことなのだと気がついた。
今回はそのことを深く掘り下げて考えようと思った。
なぜ苦手なのか、理由は何なのか、いつからなのか。

そして思い至ったのが幼児の頃のわたしの癖だった。
わたしはその場その場の、一緒にいる人の顔色を見ては、その人たちが気に入るような、喜びそうなことをしたり言ったりすることにエネルギーを費やしていた。
一番身近にいた母は、もっともそのエネルギーを使わねばならない人だった。
なにしろ、そんじゃそこらのことには喜ばない、何某かの不平を口にしなければ気が済まない人だったし、ちょっとしたことでみるみる険しい表情をして怒り始めるので、わたしはついつい母の顎の辺りを観察してしまうのだった。
彼女の顎の辺りに梅干しのようなシワができるのが、怒りの始まりの合図だったからだ。
だからいつだって気を抜かず、懸命に良い子を演じた。
頭の良い子というのも大事だった。
口ごたえを一才せず、叱られている間は俯いて時が過ぎるのを待ち、機嫌が再び普通の状態に戻るまで静かにしていた。
怒られないために、いろんな話を作って我が身を守った。
それが嘘になるのだと気がついたけどもうやめられず、小さな嘘は際限なく、わたしの口をついて出た。
わたしが何を思い、何を考えているかなど、誰も興味が無かったし、わたしもそれを伝えたいとも思わなかった。
というか、何を思い何を考えていたのかまるで覚えていない。
ただ、毎晩ひどい喧嘩を繰り返す両親が互いを傷つけたり殺したりしないことを祈り、弟だけは守らなければと思っていた。
そんなこんなで自分の心や体を大切に思う余裕が無かったけれど、もしかしたらそういう習慣も無かったから、どうしたらいいのかわからないまま大人になってしまった。
そんなふうに、昔のことをゆるゆると考えているうちに、なるほどわたしは65歳にもなった今でも、自分の言動が元で人が不快になったり怒ったりするのが怖くてたまらないのだと気がついた。
今のわたしにとって夫が母の代わりになっている。
だから何かというとビクビクしてしまう。
言いたいこと、頼みたいことが積もり積もってきて、自分なりに気を遣って伝えても、タイミングが悪いだの言い方が悪いだのと叱られる。
不快そうな顔を見た途端に、自分の心がシュルシュルと音を立てて萎んでいくのがわかる。
そんなだから、わたしはいつまで経っても、言いたいことを言ったり頼み事や願い事を伝えるのがとても下手くそだ。

セラピストがポツンと最後に、まうみが知らず知らずのうちに育ててきてしまった怖がり気質は、あなたが作ったのではなくて、それは数え切れないほど怖がらされてきたからだよ。
そういうのもトラウマなんだよ。
だから、自分だけが悪いなんて思ってはいけない。
そもそもどちらが悪いという話ではない。
あなたが何か伝えたいことを話したとき相手が嫌な態度をとったら、そんな顔されたら怖い、そんな言葉は聞きたくない、そう思ったならそう言ったらいいんだよ。
そうやって伝えていくのは勇気が要るし、勇気が要るってことは怖いってことなんだけど、あなたの夫は多分その勇気を待っていると思うし、言えば聞いてくれると思う。
もちろん、いつもとは違うまうみが目の前に立ってるんだから、初めはギョッとして慌てるかもしれないけど、きっとわかってくれると思うよ。
気づいて欲しい、汲んで欲しい、察してほしい。
そういう欲求がこの国の会話文化にはあまり合わないってこと、もう長年一緒にいるのだから知ってるでしょ?
僕のワイフが僕に何かを頼むときはね…と、セラピストの話はさらに続き、その小さな実話の中にも、わたしの背中を優しく押してくれる柔らかで温かい手のひらが隠れていた。

さて、うまくいくかな。
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安倍首相のみっともなさの上を行く岸田首相のみっともなさよ

2023年01月16日 | 日本とわたし
男性が二人並んでいる時に、肩に手を置いた男は自分が年上か格上だと自認していて、肩に手を置かれた男はそのことを承知の上でバカ笑いするか、腹を立てて手を外すかのどちらかだという話を聞いたことがあります。
それくらい、肩に手を置くというのは、男同士の力関係を如実に現す行為であるのですが、岸田さんは承知していたのでしょうか。

アメリカの政治家や軍人は、支配する時のやり方がとてもうまいのです。
戦争を仕掛け、町という町、生き物という生き物、そして社会も文化もぶっ壊しておいて、後始末や復興や統治を現地の責任者にやらせます。
容赦の無い攻撃によって弱りきった支配国の住民には、これは支配ではなく同盟しているのだと思い込ませ、お金や資源や知能をどんどん貢がせます。

外国の軍隊が居座っているのみならず、常識はずれのもてなしを続けている国。
相手の言いなりといっても過言ではなく、過剰な優遇措置がまかり通っている国。
その国の与党として、戦後77年半の間のほぼ全体に居座って統治してきた政党総裁のこのありさまは、実に今の自民党の実態を如実に現していると言えます。

それのみならず、こんなみっともないアピールも。

この500億円は一体、どこから出てきたのでしょう?
国民から吸い上げた税金ですか?
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ウォシュレット5秒以内洗浄は守るべきかどうか?

2023年01月15日 | 日本とわたし
ウォシュレット…。
日本での普及率は世界一かもしれないと思えるほどに、今やありとあらゆる場所に設置されているウォシュレット。
こちらに移住してこの春で23年を迎えるのだが、我が家にも8年前からウォシュレットが登場した。
このウォシュレット、わざわざTOTOの物を注文し、業者さんが「こんなん見たことも付けたこともね〜よ」と、取扱説明書と睨めっこしながら取り付けてくれたのだけど、ものの1年もしないうちにぶっ壊れてしまった。
ビデを使うとノズルが登場してから退場するまでの間、ずっと水を噴射し続けるものだから、用事のないお尻までの間がびしょ濡れてしまう。
さらに、自動洗浄とやらがとち狂ってしまい、便器の外に水をジャアジャア撒き散らすので、そいつが出てくるまでにとっとと電源を切らねばならず、だから冬の温かい便座なんてものは望む術もない。
TOTOのくせにと頭にくるが、買い換える気も起こらず、今日も朝から電源をつけたり消したりしている。

去年の末に母の家にやって来たTOTOのウォシュレットくんは、非常に優秀で気遣いができて大人気である。
母は88歳にして、義父は76歳にして、出会った全自動ウォシュレットくんに惚れ込んでいる。
どのタイミングでふたが開くか、どのタイミングでふたが閉まるかを見極めるために、トイレのドアの外でこっそりと見張ったり、試しに手を出したり足を出したりしたらしい。
さらにはどのタイミングで水が流れるかを知りたいがために、パンツがまだ中途半端なまま立ち上がったり座ったりしていたらしい。
部屋に入ろうとするとパッとふたが開くトイレに慣れるにはしばらく時間がかかるわたしだが、あまりにも両親が興奮してるので、いつもより好意的に思えたのか、すぐに慣れてしまった。
確かに便利である。
特にろくに歩けなくなった母にとって、杖をついてようやく到着し、ドアを開けるや否やスウッとふたを上げてくれるトイレは、まるで「ようこそいらっしゃいました、お待ちしておりましたよ」と言われているような気になるのだろう。
さらには、彼女はちょっとした動作がきっかけになってバタンと倒れてしまう症状が出てきているので、ふたの上げ下げや水を流すノズルに手を伸ばさなくてもよくなったことは、大きな助けになっただろう。
とにかく二人の惚れようは横で見ていてもほっこりする。
名前をつけて呼びそうなほどの惚れっぷりである。

そんな二人と先日LINE電話で話していたのだが、突如こんなことを言い出した。
「あんた、お尻は何秒洗てる?」
一体何の話なのだとしばし唖然としていると、
「あんた、5秒以上洗たらあかんのやで!」ときた。

さっそく「ウォシュレット」「5秒以上」で検索してみたら、出てくる出てくる、いろんな説がいろんな人によって語られていた。

・温水は5、6秒あてれば十分
・長くあてすぎると、肛門周辺の皮脂まで洗い流されてしまう
・皮脂は、皮膚を刺激から守るバリアのような働きをするものなので、洗い流してしまうとかゆみやかぶれなどトラブルのもとになる

と、ここまで読んで、ふむ、どこかで聞いたことがあるなと思った。
ああ、洗顔に同じようなことが書かれてあって、わたしはそれを読んで以来、朝は生ぬるいお湯だけで顔を洗っているわけで、まさかお尻にも共有されることだとは思いもしなかった。

・お尻の穴に直接あてない

別に狙ったわけでもないのに肛門に直接当たるのか、見事に水が入ってしまうことが少なからず、わたしにはある。
わたしは大腸検査の大ベテランで、一度など2本のぶっといチューブを同時に突っ込まれて、長い時間かけて検査されたこともあるので、肛門の締まりがあまりよろしくないからか余計に水が入りやすい。
やばいのではないか?

・水圧は弱めに設定する

これは困った…。しっかり洗えてる感じを得たいが為に、水圧を強くしがちなのだ。
確かに水圧が強い分、飛沫が周りに飛び散る可能性も高まることは知っていたが、皮膚を傷める原因になるということにまで考えが至らなかった。

・腸内、膣を洗浄するための使用は、ウォシュレットの不適切な使い方である

温水が出るノズルはトイレの内部に設置されているので、こまめに清掃していたとしても菌が付着している可能性は否めず、そのノズルから出る水を腸内や膣に流し込むのはとても不衛生、と書かれてあった。

そういや夫は、うちのウォシュレット以外は使う気にならないと言っている。
いや、うちのウォシュレットにだってきっと菌が付着しているはずで、それが夫菌であろうがまうみ菌であろうが、菌には違いないのだが…。

というわけで、赤裸々とまでは言えないが、かなりぶっちゃけた話になったのだけど、あれから5秒が気になって仕方がないトイレタイムなのである。
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明けましてこのやろうでございます。

2023年01月13日 | 日本とわたし
しんぶん赤旗のスクープです。
政治資金規正法違反の疑いで、高市早苗氏らが昨年末、刑事告発されていた、という記事です。

政治家(特に自民党)の悪行、醜態にはキリがありません。
もう癖のように、当たり前の如く、悪いことをしているという意識も無くなって、こういったことを日常に繰り返しているのだろうと思えるほどです。
国会では席に座っているだけで、居眠りをしたり本を読んだり携帯電話遊びをしたり、それで世界で最も高額な収入を得ている国会議員たち(政党交付金については、交付拒否をしている日本共産党など、野党それぞれに差がありますが)。



これで国の政治が腐らなかったらおかしいです。

政治資金規正法違反の疑いで、高市早苗氏らを告発した神戸学院大学の上脇博之教授は指摘します。 
「領収書は支出側と受領側が取り交わした証明書だ。告発後に違法の“証拠”となる領収書を差し替えるなど聞いたことがない。違法性を否定するために、虚偽の領収書を発行したとすればこれ自体が重大問題だ」



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イチオシの素晴らしきプロフェッショナルたち

2023年01月08日 | 日本とわたし
今回の日本行きで出会って心底素晴らしいと思った方々のことを書きます。

まずは瀧本一先生、鍼灸と整体の先生です。

ウェブサイトの自己紹介より:
「医者より養生 薬より手当」
これは私が学ばせて頂いた仲野整體に代々伝わる治療哲学です。
どんな良い医者にかかるより自分が行う日々の養生(生活に留意して健康の増進を図ること)が大切であり、どんな高価で速効性のある薬を飲むより心のこもった手当がカラダにとっては有効である。

もうここだけでわたしの心のツボにハマったのですが、実際に治療を受けてみるともう、もしもできるならこの治療院の近くに引っ越したい!と思うほどに。

ウェブサイトはこちら。
facebookはこちら

とにかくユニークですごい腕の持ち主です。
自分でどんどん改装し、いろんなアイデアを形にして治療に取り入れていくそのエネルギーがすごい。

冒頭で紹介した先生の自己紹介の続きです。
「この言葉に出会った当時の私は、2年間過ごしたオーストラリアから帰国したばかりの時でした。
オーストラリアで私は、競走馬の調教の仕事に携わり、毎日馬に乗り、お世話をする日々を過ごしていました。
競走馬は、走る為に人工的に作られた動物でとても貧弱です。
毎日獣医の診察があり、飲み薬や注射が処方されう彼らの汗からは、薬の臭いがする程でした。
そんな中で時々変わったドクターが、厩舎(馬を飼う施設)にやってきて、馬の背骨や足の関節を動かしたり鍼をしたりしています。
それがカイロプラクターであり、鍼灸であると気がつき、自分も薬や注射でなく、自然な形でカラダの調子を整える彼らの様な仕事がしたいと思うようになりました。
帰国して…
そして帰国後、すぐに医療機器の専門商社に入社し、全国の医療機関や治療院を飛び回りながら鍼灸学校で学ぶ日々が始まったのです。
そんな矢先に2年前から交通事故で足を病んでいた弟の症状が悪化していきます。
左足の複雑骨折から感染を起こし、何度も手術を繰り返してきた弟ですが、繰り返される手術と長期のステロイドの投与でカラダはぼろぼろになり、本人だけでなく家族も疲弊し、重い空気が流れていました。
もう少しこの治療を続けるか?
それともいっそのこと義足にするか?
そして悩んだ末私達家族が出した答えは、「医者より養生 薬より手当」の仲野整體でのセカンドオピニオンでした。
驚くことに、わずか半年弱の治療で状態はどんどん良くなり、川に入って遊べるようになり、好きだったサッカーができるまでに回復したのです。
これを目の当たりにした私は卒業後、迷うことなく仲野整體の門をたたき、修業生活に入っていきました。
仲野整體での5年間の日々は、素晴らしい環境に恵まれ、非常に充実した期間となりました。
日々の臨床で様々な患者さんと出会い、仲野先生の「人間学」を学び、様々な学会に参加して自分の知識を深めていきました。
そして、「あっ」というまの5年間がすぎ去り、私の学んできたことが少しでも世のお役にたてればとの想いで開院を決意しました。
「医療者である前に人間であれ」
の言葉を胸に、毎日の臨床に取り組んでいます。
ご縁のある方のカラダの悩みの解決と、より豊かな人生のサポートをいたします。
1人でも多くの方と出会える事を楽しみにしています」

もしお近くにお住まいでしたら、いや、車や電車を使ってなら行けなくも無いというところにお住まいでしたら是非是非!

院内はほぼはじめ先生の手作り。
まずは手前の部屋の緑色の電動式ベッドにうつ伏せになり、整体をしてもらいつつ体全体の様子を診てもらいます。
わたしの場合、首や背骨に外れていた部分があったからか、ボキボキと整体を施してくださいました。
いつもなら苦手で言われても断ることが多かったのですが、はじめ先生の整体は気持ちよく受けることができました。
腕がいいことはもちろんだけど、大丈夫、安心していいんだっていう気持ちにさせてくれる力があるんだと思います。
それが済んだら奥の部屋に移動して、いよいよ鍼治療が始まります。
鍼治療のベッドから天井を見ると、何本もの細い鉄パイプが取り付けられていて、そこからクライミングなどに使うロープが何本もぶら下がっていました。
一体これは…と眺めていると、「ちょっと横向きに寝て、ここに腕を通してください」と言われて、痛む方の左腕を通したのですが、無防備に開いた脇下をツンツン突いて「じゃあここら辺に一本刺しますね」と、脇から10センチほど下がったところに的を絞ったはじめ先生。
見学していた夫が慌てて、「彼女は大の鍼嫌いで、一番細い日本製の鍼しか受け付けないのです」と言ったところ、「うーん、多分大丈夫ですよ、ぶっとくてもズンと刺しちゃうとかえって痛みを感じなかったりするので」と先生。
「いや〜そりゃないですよ、絶対にわたしに限ってそんなことは」と口答えしようと思う間もなく、結構ぶっとい鍼が入っていました。
全く痛くなかったし…。


これは最近完成したパワーラック、もちろんはじめ先生の手作りです。
だから世界でたった一台!
体幹作りや筋肉増強、そして患者さんのリハビリにも使われます。

この枕ももちろん手作り。

一鍼灸院のはじめ先生、めっちゃオススメです!

場所:
三重県名張市丸之内29-1
電話番号:
予約:
info@hajime-karada.com


次はG-KENEYES(ジーケネイズ)、メガネ屋さんのマネジャー、小川都志朗さんです。
ジーケネイズ、変わった名前でしょう?
彼のことはピアノの師匠から教えてもらいました。
2年前に、こちらで作ってもらったレンズがまるでトンチンカンだったにもかかわらず、5万円以上も払わされて大いに困っていたわたしに、ちゃんとしたメガネを作ってもらいたかったらここがいいと教えてくれたのです。
まず検眼に対する姿勢と情熱がすごい。
だから信頼して何年も通っている。
三重県から大阪まで、メガネを作ってもらいに通い続けたくなる人ってどんな人なんだろう。
行く気満々になった頃は、すでに日本はコロナ禍で鎖国状態。
だから楽譜はそのクソったれレンズを通してほぼ予想読みしなければならず、ストレスの連続でした。
なので今回小川さんにメガネを作ってもらうのは、今回の日本行きの大きな目的の一つでもあったのでした。
久々の大阪の地下鉄を乗り継いで行ったのは土佐堀通り。
相愛の子供音楽教室に通っていた頃のことを思い出しながらの、妙に懐かしい道中でした。
約束の時間ギリギリに到着し、簡単な自己紹介をして、早速検眼が始まりました。



ウェブサイトの紹介文より:
ジーケネイズでは、日本国内はもとより、ヨーロッパなどへ私どもの眼鏡にかなうフレーム探しに出向き、相思相愛、良い出会いがあれば買い付け、それをお色直しをして、ショップ内のチェストに大切に仕舞っております。
そんな思い入れがある大切なメガネ、大切なお客様にご覧いただければと願っております。

ジーケネイズのメガネは、視力や視機能を矯正する道具だけでなく、お洒落(演出)のアイテムでもあります。
どう自分を作るかは、選ぶポイントで変わります。
思い込みや偏見で選ぶ人が多い中、隠れた魅力を引き出すステージ作りをしています。

フレームが決まれば、視力・屈折・視機能検査になります。
良いメガネを作るためには、良い視力は当然ながら、両眼視に於いても正しく見えることが必要となってきます。
そのため、年齢にかかわらず、眼位や調節の検査をし、時には内・外(融像幅)の検査(米国式21項目検査から)も追加し、お客様との共同作業により、快適なメガネをお作りしております。

当ショップは、20数年前に日本眼鏡技術研究会が発足した当初からお世話になり、メガネ店に於ける両眼開放屈折検査や、両眼視機能検査を勉強させていただき実践してまいりました。
両眼開放屈折検査とは、片眼遮閉屈折検査で得た値を、両眼を開けたままで各眼の屈折度をチェックし、時には日常視力の屈折度に修正し、快適な眼鏡度数を得る検査をいいます。

つまり、左右の眼が同じ視標を両眼で同時に見る両眼視力ではなく、左右の眼がそれぞれ違った視標を両眼を開けた状態で、左右それぞれの眼を測定する方法です。


実に2時間半もの時間をかけて、測定してくださった小川さん。
裸眼で1.2まで見えることがわかりびっくり!
けれどもそこに老眼だの乱視だのが混ざり込んで、なんとも複雑怪奇な目の持ち主のわたしに、それはそれは辛抱強く応対してくださったのでした。
測定のための仕法の細かさ、はっきりとした結果が出るまでの粘り強さ、そしてその過程において選ぶレンズの適切さは本当に見事で、これぞ真のプロフェッショナル!と唸りたくなるほどの仕事っぷり。
感動の測定が終わり、いよいよフレームの選定です。

海外在住のお客さんに人気のフレームを紹介してもらいました。


弾力性がありながら頑丈で、ちょっとやそっとでは壊れないのが心強い。
偶然にもこのフレームは、クソったれレンズをはめたメガネのフレームと同じく、福井の鯖江で作られた物なんだそうです。
レンズはまるで役立たずですが、フレームはある著名人が使用してから値段が急激に上がり、今では手に入れるのが難しくなったんだそうな。
値上がりしたと噂のフレームはこちら。


どちらのフレームもとても軽くて、長い時間かけていても負担になりません。
特に新しい方のフレームは、耳にかけるというより頭がやんわり掴まれている感じ。
レンズはピアノの楽譜立てに置いた楽譜を、左右上下、どこを見ても焦点が合うという特別仕様です。
家に戻ってからすぐに、ピアノの蓋を開け、楽譜を置いてみました。
お〜見える見える♪♪
音符はもちろん指番号までくっきり見えます♪♪
幸せだなあ〜…。

住所:
大阪市西区江戸堀1-24-16  
TEL:
営業時間:
月~金曜日 10:00~20:00
土・日・祝日 10:00~17:00
休業日・不定休
URL:
http://www.g-keneyes.com/


最後に『まんまる』さんという、介護に必要な用具の販売、組み立てや設置を請け負ってくださっているお店の代表、田中勇仁さんを紹介させていただきます。

母がこれまで張り続けてきた意地を捨て、米寿を迎え、やっと介護保険を使わせてもらう決心をして、ケアマネさんが家に来てくださったのが昨年の冬のことでした。
そのケアマネさんが教えてくださったのが『まんまる』さんなのでした。
パンフレットを持ち帰ったら良かったのですが、うっかり母の家に置いてきてしまいました。
日本の介護制度はここに比べたら月とスッポン、本当に素晴らしいと、間近に見させていただいてさらに実感しました。
歩くことが困難になり、わけもなくバタンと倒れるようになった母を心配して、手すりの棒を何種類か買って用意していた弟が、わたしを大阪から送りがてらそれらを置いて帰ったのですが、そのことを知った『まんまる』さんが、その優しい息子さんの気持ちを大事にしたいと、予定外なのに急遽取り付けてくださったのがこのトイレの手すりです。

一度付けて使ってみると、指が入りにくいことがわかり、手すり棒に同封されていた板をはめて再度取り付けてくださいました。


取り付けをしてくださっているのが田中さんです。
介護ショップ『まんまる』の代表で、福祉用具専門相談員・福祉用具選定技能士さんです。
アメリカでは絶対にあり得ないことなので、もう胸の中は熱くなりっ放し。
もうほんと、大袈裟ではなく、神さまのように見えました。

彼のおかげで、母の家のお風呂場、廊下、そして玄関から道路までの階段に、とてもしっかりした手すりが付いて、母は「有ると無いとでは大違い。恐々と動かなくてもよくなった」と大喜びです。
だ〜か〜ら〜、もう10年近くも言ってたでしょうが〜と、深いため息と一緒に言いたいのをグッと堪えて、良かったね〜と言う今日この頃です。

介護ショップ「まんまる」
住所:
〒519-0111 三重県亀山市栄町1488-205
電話:
0595-84-0202 / FAX 0595-84-0203
営業時間:
月曜日~土曜日 8:30~17:00
定休日 日曜日・祝日・12/30~1/3
Eメール:
info★manmarukaigo.co.jp (★を@に変えてください)
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2023年、遅ればせながら明けましておめでとうございます!

2023年01月08日 | 日本とわたし
と、明けてもう7日も経った今日、やっとそう言える気になった。
ちょっと大袈裟に言うと、茫然自失状態で半月を過ごし、時差ボケも重なって、おせちも掃除も何もする気が起こらなかったのだけど、とりあえず習慣的に体が動き出し、なんとか間に合わせた正月だった。

昨年末のクリスマスもそうだった。


例年のごとく、夫の姉(といっても6歳も下)におんぶに抱っこで、わたしはただほうれん草の胡麻和えを作って持ってっただけで、集まってきた人たちとなんとなく楽しそうに話して時間を過ごした。
二人の息子たちはそれぞれに事情があってどちらも来られなかったのだけど、長男くんの奥さんのTちゃんが一緒にいてくれて、話がいっぱいできてよかった。


去年の11月中旬から12月中旬にかけて、約3年ぶりに日本に行った。

随分時間が経ったと思って確かめたら、まだ国から出てもいないことを知って呆然としたが、こうやって見ると行程の約半分がアメリカ大陸なのだと思い知る。


コロナ禍が勃発する直前に、頚椎の手術を受けた母が、感染を恐れて家の中から一歩も出ない毎日を2年近くも続けているうちに、みるみる弱って歩けなくなり、食べられなくなった。


LINE電話やビデオ通話でどんなに励ましても、状態は一進一退を繰り返すだけで、一向に前向きな気持ちにならない。
寂しいのだろう。
母は寂しいだの悲しいだの、人に心配をかけるような言葉は一切使わないと心に決めているのだが、全身でそう訴えていることに気づいていない。


成田空港の入管手続きでばかばかしいほどに時間がかかり、わざわざ事前に2時間ほどもかけて手に入れなければならなかったQRコードはまるで役立たずで、外国人旅行者はほぼ全員怒っていた。
その意味不明のノロノロ手続きのせいで、乗り継ぎの飛行機に乗れない人もいた。
疲れ切った心身を奮い立たせて東京から新幹線とJR線を乗り継いで母が住む町まで行き、予約しておいたオンボロなビジネスホテルに泊まり、翌朝母の家に行った。
ようやく会えたというのに、彼女は足のマッサージ機の前に座って新聞を読んでいて、こちらに顔を向けようともしない。
不機嫌マックスである。


実に母は人をがっかりさせる天才である。
けれどもそんなことには慣れっこなので、とっとと無視して近くの温泉行きの準備をする。
そして見てしまった。
母は本当に自力では歩きづらいほどに弱っていて、そんな姿を誰にも見られたくないのに自分ではどうしようもなくて、だから怒っているのだった。
でも、出かける先は母のお気に入りの、とても良いお湯が出る温泉である。
料理も美味しいし、おまけにパークゴルフができる。
前にも何度か歩きにくくなった時、ここに行ったら突如歩き出して、元気に18ホールを2回も回ったことがあるので、きっと今回もなんとかなるはずだと思っていた。
1泊目、温泉に入ることを拒否して部屋風呂に入った母が、同行している従姉とわたしが両側から抱えてあげるからと言うと、やはり部屋風呂は物足りなかったのか、2泊目の夜は温泉のお湯に浸かった。
温泉での2日半の間に、腕を貸してあげれば結構歩けるようになり、食欲も増して姿勢も良くなったが、家に戻ると空気が抜けた風船のように萎んでしまった。
わたしは普段の仏頂面を棚に上げ、ぎこちない笑みを顔の皮膚に貼り付けて、ありとあらゆる前向きな言葉や態度を押し付けがましくならないように注意しながら、朝から晩まで母の近くから離れなかった。
母に、人に助けてもらうことは恥ずかしいことでも屈辱的なことでもないのだということをわかってもらいたかった。
でもわたしはただの娘で、セラピストでもなければ医者でもないので、空回りする言葉や行動が悲しくて、孤立無縁の虚しさに押しつぶされそうになった。


小休止に伯母と弟夫婦に会いに行った。
ずっと会いたかった97歳の伯母は元気にしてくれていたし、昨年から闘病中の義妹も、辛い治療が続いているにも関わらず元気な姿を見せてくれた。
その二人の元気さが、きっとそれぞれに大変な思いを抱えているだろうに、それを隠して見せてくれた元気さが、わたしにとってどれほどの励みになったかわからない。

弟夫婦とわたしたちで、コリアンタウンに繰り出した。










母の家までは弟が車で送ってくれた。
3年ぶりなので、少しでも長く一緒に時間を過ごしたかったから、忙しい最中に申し訳なかったのだけど、お言葉に甘えさせてもらった。

日本は外国人旅行者を受け入れたけど、街を歩く人たちはほぼ全員マスクをつけていたし、一人で車に乗っている人もマスクをつけていた。

夜は母と同じ部屋に布団を敷き、彼女のベッドのすぐ隣で寝た。
わたしと弟がまだ子どもだった頃、母は洋楽と洋画にかぶれていて、だから和式のものは一切受け付けなかったのに、スナックバーを経営してから突如演歌にハマったらしい。
数年も経たないうちに母とは別れ別れになったので、その後の経過は知らないのだけど、ずっと贔屓にしている歌手は森進一で、眠り薬に彼の歌を3曲聴いて寝るのだった。
とんでもなく古いカセットテープデッキに、何百何千回と回されて擦り切れたカセットテープに吹き込まれた森進一の歌は、途中で切れたり飛んだりする。
それが気になって仕方がないわたしは、律儀にデッキのスイッチを切ってから1分も経たないうちに聞こえてくる母の寝息を聴きながら、離れるまでに絶対に吹き込み直してやろう決心した。
宅配のおかずの配達を中止して、いろいろと料理をしたのだけど、あまり喜んではもらえなかった。
母の好みやルールは日どころか時間で変わる。
数時間前なら喜んだであろうものが、いきなり気に入らなくなることなどざらにある。
けれども確かに口から入れる量を増やすことはできた。
ろくに食べずに栄養失調になり、それを補いたいからとインターネット販売のなんちゃって漢方やサプリメントを手に入れて、それが原因で体調を崩したりする母に、何度やめろと言っても聞く耳を持たない、というか忘れてしまう。
米寿の直前に料理はもうしないと決めた彼女には、健康的なおかずだの料理だのは意味の無い物事で、どんなものを目の前に置いてもぼんやりと眺めるだけで、美味しそう、なんて絶対に言わない。
けれどもとりあえず口に入れてくれただけでもありがたいと思う。

やけに水前寺清子の「365歩のマーチ」が思い出される毎日だった。
3歩進んで2歩下がる。
時には2歩進んで3歩下がることだってある。
けれどもとりあえず前を向いて前進したり後退したりしているうちに、気づいたら前に進んでいるはずだ。
母の家を出る日が近づくと、急に前向きなことを言い始める彼女が可愛らしかった。
何かを取ろうとする指が小刻みに震えていたり、靴を履こうとしても痺れたままの足が言うことを聞かず、結局は幼い子どものように履かせてもらったりする母、歩くとすぐによろけて、前や横に倒れていく母。
この3年の間にこんなに弱ってしまったのは、家にこもってどこにも行かなくなったからだ。
頚椎の手術を急に受けることにしたのは、長男くんの結婚式に欠席したかった母の言い訳作りのためだった。
そこまでして欠席したかった理由は、もちろん外科医の勧めもあったのだけど、老いてみすぼらしくなった姿を晒したくないという、彼女独特のプライドの高さだった。
そして手術を受け、コロナ禍が始まり、その後のリハビリや運動をほとんどしないまま家に篭り、身体中の筋肉や骨や腱がじわじわと弱っていった。
養子をとって子育てしていた50代から70代の間は、年齢を偽っていたので友だちもできず、せっせと内職に励んでいた母が、やっと人生で初めての友だち付き合いをするようになったのに、それも一切やめてしまった。
得意だった車の運転も、免許証を返納してできなくなった。
連れ合いの義父は一回り年下で、ものすごく親切なのだけど耳が遠くて気が回らないので、母からいつも怒鳴り散らされているのだが、流石にここ数年は頼りにせざるを得なくなったからか、少しは感謝されている。

家を出る日の朝、よろよろしながら母が靴を履き、玄関の戸の外に姿を現した。
じゃあ行ってくるね、と言って彼女を抱きしめて、手を振りながら階段を降りたのだけど、縮んで小さくなった体を心許なそうに揺らせている姿を見て、たまらなくなってもう一度階段を駆け上り抱きしめた。
また3月に来るから、それまで待っててね。
そうだ、3月に来よう。
また3月に来るならアメリカに戻っても良いと、なぜだか急に言い出したのは母だった。
どうして3月なのかはわからないけど、これまでに絶対にそんなことは言わなかった彼女が、アメリカに帰って欲しくないという気持ちをぶつけてきたのだ。
88年目に初めて見せてくれた正直さに胸を打たれた。

東京に移る前にT先生の家にお邪魔した。
美味しいものをいっぱいご馳走になり、積もり積もった話もして、また元気が戻ってきた。




可愛すぎる雀ちゃんたち

東京では、大好きな人たちと会って話をした。



とにかく独りになりたかったので、予定を変えてホテルを予約したのだけど、それがまたとんでもなく狭い部屋で、畳敷だというのにベッドの周りに背びれや尾びれのようについているだけの酷いもので、6階だというのに底冷えがした。
9階のなんちゃってラウンジからの景色だけが良かった。


歩きまくった浅草の町









普段は縁遠いオシャレな銀座。

日本最後の夕飯は、テイクアウトのインド料理。
グルテンフリーなんてポリシーは最初の日からぶっ飛んじゃってたのだけど、〆にナンを食べたらお腹周りがボコボコ膨れた。

空港に着いても悲しい気持ちが一向に離れてくれない。
たまにアメリカに戻る自信が無くなることは今までにもあったけど、今回のは途方に暮れるサイズの揺れ方だ。
自分が一体どこで息をしているのか、どこに行こうとしているのか、ぼんやりしてるのにやたらと力が強い何ものかに押されて、涙がじわじわと出てくるのだった。

飛行機はわたしの体をアメリカに移動させることができるけど、わたしの心はどこに行くのだろう。


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