4月8日、満開のぽんちゃんに見送ってもらった。
3月をほとんどまるまる、しんどい、辛い、苦しいと言いながら過ごし、4月の1週目で無理やり元気を取り戻して漕ぎ着けた出発だった。
夫が空港まで車で送ってくれた。
「忘れ物はないよね、パスポート、財布、陰性証明…」と、いつものように夫が聞いてくる。
「バッチリ、大丈夫」と即答しつつ、念の為に大事な物をまとめて入れているポーチの中を手で探る。
あれ?このもやもや感はなに?
あっ…そういや日本で必要な証明書類を荷物に入れた覚えがない…まさか…。
途端にわたしの頭の中はパニックになった。
車はもうほぼ空港に近づいている。
正直に言って家に戻ってもらおうか、いや、夫は空港からとんぼ返りで患者さんを診なければならないのに、そんなことは頼めない。
空港に到着し、パッパと荷物を降ろし、バタバタとさよならをして、チェックインと荷物預けを終え、出国検査の列に並んだ。
並びながら悶々と考えた。
夫に書類の在処を伝えるのは難しい。
見つけたとしても、それを急ぎの便で送ってと言われた時の夫の顔が目に浮かび、やっぱりこれは自分で家に取りに戻るしかないという結論に達し、ごった返していた列を逆行し、空港の外に出た。
最寄りのウーバーを探し、あと2分で到着するという時になって、車が1階の到着ロビーの外に来ることを知り、そりゃ普通に考えて、タクシーがこれから出国する人間を迎えに行かないだろうと、慌てて2階の出国ロビーから1階に降りた。
もう空港に入ったら暑いだろうからと薄着になってしまっていたので、その数分の待ち時間が寒くて、焦る気持ちが増長した。
車に乗るや否や、「ごめんなさい、めちゃくちゃ急いでいます。わたしはこれから飛行機に乗る人間で、忘れ物を取りに帰るので、また空港に戻ってもらわなければなりません。飛行機に乗り遅れることもできません。できますか?」と聞いた。
運転手さんはかなりビビったみたいだけど、「今の時間帯は空いてるから、多分ギリギリ間に合うと思います」と言って、結局本当にギリギリだったけれど間に合わせてくれた。
いやあ、我ながら、何事もなく普通に旅の始まりを迎えるということがどうしてできないのかと思う。
日本に到着。
日本の電車に心が癒される。
今回は母の家にずっと居る予定なので、到着した夜だけ浅草に泊まった。
ホテルで鰻の美味しいお店を聞いて食べに行った。
母は鰻が嫌いなので、まず食べておこうと思った。
ホテルの朝食券を使って朝からハンバーグ😅
病気で痩せた5キロがみるみる戻ってくる予感…。
母の家に向かう。
前回、昨年の11月から12月にかけて行った時、母はどんどん気弱になって、また3月に来るんやろと何回も繰り返し、とうとうその約束をしてこちらに戻ってきた。
そしてその約束を守るべくチケットを買い、準備したのだけど、体調を崩して4月になった。
歩きづらい、食欲が無い、何を食べても美味しくない、眠れない、体が怠い、ふらつく、ちょっとした動作が元でひっくり返る、気分が悪い。
88歳の母は、日毎それらのことを並べて嘆く。
わたしにできることは、LINE電話で話を聞くこと、行って食事を作り、できるだけ楽しい話をして一緒に時間を過ごすことぐらい。
今回もそう思って行った。
だけど母はしんど過ぎたからか機嫌がすこぶる悪く、大きなため息と愚痴と文句を朝から晩まで吐き続け、同じ部屋にいる義父とわたしの気持ちを萎えさせた。
特に義父は一日中、些細なことで怒られ、貶され、時には罵倒されて、横で見ているだけでも相当滅入るのに、その精神力の強さというか慣れというか、一体どうやって添い続けられているのかと不思議で仕方がない。
そんなわたしたち3人の毎日に、程よいクッションになるのがやっぽんぽんの湯なのである。
母と義父の家から車で40分。滋賀県の山奥にあるこの宿の湯と料理は本当に素晴らしい。
コロナ禍前の、まだ母が元気だった頃は、ミニゴルフと温泉を楽しむだけに通っていたほどのファンだ。
少食版晩ごはん
朝食のバイキング
母は自分はもう絶対に温泉もゴルフも無理!と頑なに拒否していた。
そういう時は無理に勧めても仕方がないので、知らんふりして気分が変わるのを待った。
彼女の体調不良は気分が大いに影響していると、わたしはその道の専門家ではないけれども長年の付き合いでそう思っている。
しばらくすると、ゴルフならと言い出した。
よし、行こう。
母は88歳になってようやく、夫に手をとってもらって歩くことを自分に許した。
ほんの半年前までずっと、杖も人の腕も借りない、そんな物を借りて歩いている姿を見られるぐらいなら死んだほうがマシだと言っていた。
もう90歳近くになって、一体何を言っているのだと何度言っても、かくしゃくとして歩いている人はいっぱいいる、それに比べてなんと惨めな姿だろうと嘆く。
きっと容れ物の年齢と心の年齢がかけ離れているのだろう。
こうでありたい、こんなはずがないと、事あるごとに混乱し失望しているのだろう。
母を温泉にどうしても浸からせたくて、もう一晩泊まった。
ゴルフを2日続けてできた母は気分が少し軽くなったのか温泉にも浸かりに行った。
二日目の食事は洋食のバイキング。
この日は昼過ぎから雨が降ってきたので、なんと初めてカラオケもした。
コロナ禍になる前までは、趣味友達と一緒にカラオケルームで5時間も過ごしていた母だったが、この3年の籠城生活で喉も体力も一気に萎えたのか歌い辛そうだった。
でもまあ滅多にないことができて、義父もわたしも、そして母も、それなりに楽しい時間を過ごせたと思う。
などと偉そうなことを言っているが、温泉旅行の費用は全部彼らが払ってくれた。
わたしには一銭たりとも出させてくれない。
義父はずっと国家公務員として定年まで働いてきた。
少ない給料で暮らすには倹約に倹約を重ねる必要があった。
母はもともと倹約が苦にならない、倹約を美徳として誇りに思う人だったのか、それとも薄給ゆえの生きる術だったのかはわたしにはわからないが、とにかく凄まじい倹約っぷりで、そこに株や証券などを流用して資産を増やす能力も加わり、老後の人生を心配せずに暮らせるまでにした。
だから誰にも頼らず、世話にならず、どこかに出かける際の費用は全て自分たちが持つと言い張る。
ありがたいのだけれど、こんなことでいいのかと必ず自責の念に駆られる。
母は、子どもを置いて出て行ってしまったことへの罪滅ぼしだとたまに言う。
そんな半世紀以上も前のことをいつまでも引きずる必要など無いのだと言っても聞く耳を持たない。
置き去りにされた者の傷と置き去りにした者の傷。
どちらもそれぞれにしかわからない傷なのだけど、心の傷はなんと厄介なものなのだろうと思う。
温泉から家に戻り、わたしの料理&片付け当番が始まった。
いきなり3日も続けてゴルフをした母は疲れ切ったのか、機嫌電池が切れてしまったように不機嫌の極みだ。
わたしが食事の用意をするのも気に触る、作ったものも気に入らない。
母も義父も、普段は配達されるおかず弁当か、スーパーで買ってくるお惣菜しか食べていないので、もう「いただきます」も「ごちそうさま」も言わない。
実に奇妙な食事風景で、義父以外、それぞれ違う理由で機嫌が悪い。
今回は母の、リハビリに通うための良い靴を見つけたかった。
そのためには、前回の旅行の際にお世話になった、一鍼灸院の瀧本先生のところに母を行かせる必要があった。
瀧本先生の整体と鍼灸で、母の痛みやふらつきの治療をしてもらい、さらには靴とインソール選びを手伝ってもらいたかった。
それで母に内緒で2回分の予約を取り、タイミングを見計らって母に伝えたのだけど、案の定断られてしまった。
結局2回とも、義父に送ってもらってわたしが治療を受けた。
外反母趾を緩和するための靴選びを教えてもらい、さっそく購入した靴を持って行ってインソールを入れてもらった。
いわゆる母へのデモンストレーションである。
瀧本先生の治療院までは、車でちょうど1時間かかる。
車に乗るまでにすでに(靴を履いたり家の前の階段を降りたりするための)時間がかかる母は、いくらその先生が優秀でも通えるわけがないと言う。
わたしはひたすらうんうんと頷くだけで何も言わない。
言わないけれど、インソール入りの新しい靴を履いては、「ああこれはいい、長年苦しんできた外反母趾が改善される予感がめっちゃする」とつぶやく。
もちろん瀧本先生がいかに優れた整体師であり鍼灸師であり、かつ外反母趾や足のむくみなどの相談にも真摯に乗ってくれる人だとアピールすることも忘れない。
そんなこんなの、なかなかにヘビーでしんどい思いが続いた10日間だったけれど、最後の最後に神さまがプレゼントしてくれた。
もう今日1日が最後だという日の前夜、義父の入れ歯がいきなり外れてしまった。
それで、早々に歯科医に予約を取らなければならないことになり、翌朝に電話をかけようとしていた彼に、わたしがふざけて「そんなに歯が欠けてたらフガフガになるやんな、こんなふうに」と言ったら、応対に出たスタッフの人が困るほど、わたしたち3人は爆笑してしまった。
可笑しくて、もう本当に可笑しくて、下の前歯が一本欠けている母と、上の前歯が一本欠けているわたしと、たったの9本しか歯が残っていない義父が、大きな口を開けてワハハワハハと涙を流しながら笑った。
可笑しくて、もう本当に可笑しくて、下の前歯が一本欠けている母と、上の前歯が一本欠けているわたしと、たったの9本しか歯が残っていない義父が、大きな口を開けてワハハワハハと涙を流しながら笑った。
なんとか予約を取り付けた後も、思い出しては笑い、また思い出しては笑う母。
やっと初めて、心から、来て良かったなあと思った。
出発の朝、こんなチャンスは2度と無いからと言って、3人で歯抜け爆笑記念写真を撮った。
年齢66歳、77歳、88歳の記念写真である。
こんなにすてきな笑顔の二人を見たのは初めてで、わたしはこの写真を一生の宝物にしようと思う。
追記
なんと母は朝から爆笑した最後の日に、いきなり瀧本先生のところに行くと言い出した。
それで慌ててスポーツ専門店に行って靴を買い、お薬手帳と一緒に持っていくようにと念を押して、あとは義父に任せた。
治療を受けてみて、やはり家から遠く疲れがひどいから通えないと思い、もう2度と行かないと言っていたのだけど、その夜は5時間も続けて眠れて、しかもそれだけ長く寝ると必ず痛んだ足がちっとも痛くなかったので、また治療を受けに行くことにしたらしい。
先生とは治療当日までに何度もLINEで話をし、母の性質や症状などを細かに伝えた。
1時間半かけて、整体と鍼治療、そして歩き方の指導などをし、その様子をLINEで話してくださったのだけど、その中で母のことを「バイタリティ強めのじゃじゃ馬母さん」とおっしゃっていて、そのあまりにも的確なあだ名に感動した。