夫とわたしがワシントンD.C.から戻った日曜の夜、彼女と歩美ちゃんは台所にいて、お茶を飲みながらくつろいでいた。
小柄な彼女は、椅子から立ってもちっちゃくて、そのちっちゃい体をペコンと折って、「おじゃましてます」と微笑んだ。
その可愛らしいこと。
わたしはいっぺんに好きになって、ばばちゃん(彼女のあだ名)大好き!と、心の中で叫んでいた。
彼女の名前は、笹森恵子さん。
恵子と書いてしげこと読む。
今年84歳になる彼女は、13歳の夏、真っ青に晴れた空を、銀色の光をキラキラ輝かせて飛ぶ『Bちゃん』から落とされた、世にも恐ろしい破壊力を持つ爆弾の、爆心地に立っていた。
歩美ちゃんから彼女のことを聞いた時、わたしはいつもの早とちりをして、日本からこちらにいらっしゃったのだと思い込んでいた。
でもそうではなくて、彼女はカリフォルニアに暮らしながら、世界平和の実現を使命に持ち、広島での体験を各地で語り続ける人なのだった。
彼女と出会った日曜日の夜から水曜日の朝までのことを、わたしはきっと一生忘れないし、これからもまた、もっと一緒に時間を過ごしたいと思っている。
原爆というものが、そしてそのような化け物を作ろうと考えた軍隊というものが、そしてその人殺しを実行するのが当たり前という狂った認識が正しいとされる戦争というものが、わたしは憎くて憎くてたまらなかった。
まだ漢字がそれほど読めないぐらいの頃から、図書館に行っては、原爆についての本を読んだり見たりしていた。
読んでいるうちに、文字や写真がぼやけてきて、涙をポトポトとページの上に落としているのに気づいて、慌てて拭いたりした。
それはそれはたくさんの本を読んだつもりでいたけれど、しげ子さんのような経験をした、25人の女性のことを、わたしは全く知らずにいた。
『原爆乙女』と、しげ子さんたちは呼ばれていた。
こちらでは『HIROSHIMA MAIDEN』
しげ子さんは、「この『原爆乙女』という呼び名が嫌いだった」と言った。
わたしも嫌いだ。
話しても話しても尽きることのなかった話を、自分の頭の中で整理して、なんとかまとめようと思うのだけど、気持ちが絡み付いてしまってうまくできない。
けれども、ばばちゃんを空港で見送った後、彼女のことをもっと深く知りたくなって、自分で読んだたくさんの記事の中に、話したことが散りばめられていたので、その中から数件、ここに紹介させてもらう。
↓転載はじめ
記憶1 笹森 恵子さん
被爆した10年後、手術のため渡米。
平和のため使命を持って、広島の体験を語る。
【戦争の記憶・Memories of War】2015.9.25
http://memories-of-war.com/m1-shigeko-sasamori/
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笹森 恵子さん
ささもり・しげこ/1932年6月16日広島生まれ。
アメリカ・カリフォルニア州在住
1945年8月6日、13歳で被爆した笹森恵子さん。
真っ青な空に、銀色の飛行機が、キラキラと輝き、白いものが落ちてきた…。
その瞬間のことは、鮮明に覚えているという。
大火傷を負った恵子さんだが、両親の献身的な看護で、なんとか回復することができた。
10年経って、ケロイドの手術のために、アメリカに渡ることとなり、その後、アメリカ人ジャーナリストのノーマン・カズンズさんの養女に。
「それもこれも神様の思し召し」という恵子さんの体験と、平和への想いを聞いた。
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銀色の飛行機から白いものが落ちるのを見た
──恵子さんは広島ご出身ですね。1945年8月6日は、どこで何をされていましたか?
当時、私は女学校一年生で、13歳でした。
その頃すでに、東京や大阪には、傷痍爆弾が落ちていて、大火事でたくさんの方が亡くなっていました。
私がいた広島にも、B29はしょっちゅう来ていました。
でも、爆弾はまだ落とされたことはなかったので、B29が見えても、慣れてしまっていましたね。
当時、「建物疎開」といって、爆弾が落ちたときに逃げやすいように、建物を壊して間引いていたんですね。
若い男たちは兵隊にとられていますから、建物を壊すのは年寄りや女性です。
瓦礫の片付けをするのは、中学1、2年生でした。
その日は、私たちの学校が、はじめての作業に当たっていました。
朝8時に集合し、これから作業にあたろうというときに、飛行機の音がして、私は空を見上げました。
雲ひとつない、真っ青なきれいな空でした。
銀色にキラキラ光る飛行機が、白い飛行機雲を出しながら、飛んでいます。
私は、近くにいたクラスメイトに、「見てごらん、きれいよ」と言って、空を指さしました。
その瞬間、白いものが落ちるのが見えました。
あとから聞いたら、爆弾がついた落下傘だったのです。
ものすごい爆風が起こりました。
そして私は倒されました。
私がいた場所は、爆弾が落ちた中心地から、1.5㎞以内にありました。
今で言うと平塚町です。
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──その瞬間は、爆弾が落ちたということもわからず、怖いとか痛いといった感覚もなかったのでしょうか。
ええ。
だから、中心地にいた人たちは、一瞬のうちに丸焦げで、熱いも痛いもなかったんじゃないかと思います。
私の姉は、「太陽が地球に落ちたのかと思った」と言っていました。
姉たち上級生は、軍の仕事をするため、海田にある工場にいました。
大きな音がして、何事かと思って建物から出て見たら、大きな火の玉が沈んでいくのが見えたと。
──僕たちはいわゆる「きのこ雲」をイメージしますが…。
雲が見えるのは、最後なんじゃないかしら。
火の玉が見える前に、私は飛ばされたわけですが、火の玉のあとに雲ができるんだと思います。
雲の前に、赤い火柱を見たという人もいます。
私は、長い時間、気を失っていました。
意識が戻ってから周りを見たら、真っ黒でした。
暗いのではなくて、黒いのです。
大火傷を負っていたのに、何も感じませんでしたね。
真っ黒の中にしばらく座っていたら、霧が出てきたように、少しずつ明るく、グレーになってきました。
ああ、きっと、近くに傷痍爆弾が落ちたんだ、と思いました。
「爆弾が落ちたときは、大人について行け」と言われていましたから、とにかく、近くを歩いている大人について行こう、と思いました。
着ているものがボロボロだったり、足を怪我していたり、火傷で皮膚がめくれ、ピンク色になっている人たちが、歩いていました。
川のほうへ向かっていたんです。
川べりまで来ると、たくさんの人が集まっていました。
川の中にも、人が大勢入っていたので、水が見えないくらいでした。
「ぎゃーん」
ふと、赤ちゃんの泣き声が聞こえました。
ーまうみ注ー
この母子とも焼けただれていた。
母親はそれでも、なんとかして赤ん坊にお乳をあげようとしていたのだそうだ。
しげ子さんの耳には、その赤ん坊の泣き声が、今もはっきりと残っている。
周囲のざわめきも聞こえてきました。
それまでは無感覚で、何も聞こえなかったんです。
音が聞こえるようになっても、自分の火傷には気づきませんでした。
体の4分の1が、焼けていたんですけどね。
橋を渡って、避難所になっている小学校へ行きました。
大きな木の下に座ったら、そのまま倒れてしまったようです。
いつの間にか、講堂に運ばれ、私はそこに5日間いました。
目が開かなくて、昼も夜もわからないのですが、とにかく、
「千田町一丁目の新本恵子です。お水ください。両親に伝えてください」と叫びました。
だんだん、声を出すのもしんどくなってきます。
あともう1回だけ、もう1回だけ叫ぼう。
そうしたら、誰かが聞いてくれるに違いない。
そう思いながら、声を出していたことを覚えています。
結局、お水はもらえませんでした。
それで良かったんです。
大火傷を負っている人に、お水をあげてはいけないそうですね。
お水を飲んで、「ああ、美味しい」と言って死んだ人が、たくさんいるそうです。
母は、焼け跡に毎日通い、私の名前を呼んで、探していたそうです。
火傷をした人の収容所があると聞けば、そこまで歩いていって探しました。
似島へも、船で行きました。
でも、見つからなくて、また帰ってくるんです。
「炭団」のような私を、母が見つけてくれた
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私たちは家が二つあって、「夏の家」と呼んでいたほうの家は、川沿いの魚市場の近くにありました。
そちらの家は、たまたま魚市場の陰になって、爆風でも倒れませんでした。
当時、母は、ここにいたんです。
家の中で飛ばされ、起き上がってから外を見てみたら、周りの家がぺたんこにつぶれていたそうです。
そこから、普段、私たちが暮らしていたほうの家の、二階ベランダ部分が見えました。
それで、母は、ぺたんこになった家々の屋根を歩いて、行ってみました。
でも、やはり潰れていて、どうすることもできません。
隣の家の人の声が聞こえますが、どこにいるのかわかりません。
瓦礫をどかしてもどかしても、人らしき姿は見えません。
そうこうしているうちに、あちこちから火の手があがり、母のいる場所にも火が近づいてきました。
「ごめんねぇ。どこにいるかわからないの」
お隣さんを助けることができないまま、母は、その場を去らざるをえませんでした。
父は、その時ちょうど、外にいました。
前の日に釣りに行ったので、ご近所のおじいさんたちのところに、魚を持って行っていたのです。
そして、私と同じように、飛行機から、白いものが落ちるのを見たそうです。
「爆弾落ちたから、逃げえ!」
おじいさんたちにそう叫んで走り、魚市場にある、大きなセメントの冷蔵庫へ、すべりこみました。
爆音が消えてから、外の様子を見てみたら、さっきまで一緒にいたおじいさんたちは、座った格好のまま、皮膚が真っ赤に焼けただれていたそうです。
一瞬遅かったら、父もそうだったのでしょう。
両親と家が無事だったおかげで、私は良くなることができました。
家で、両親が、治療してくれたんですから。
薬もないし、病院はいっぱいだし、私は、食用油で治療してもらったんです。
──想像もつかないような体験をされたんですね。
想像できないでしょう?
元気になってから、自分がどのような状態だったのか、母に質問したんですが、いつも「今度ね」、と言われていました。
年をとってから、ようやく教えてくれたんです。
だからいま、こうしてお話ができるわけ。
避難所の講堂は真っ暗で、母は、ロウソクを1本持って、「しげこ~しげこ~」と、名前を呼びながら探したそうです。
そうしたら、蚊の鳴くような声で、「ここよ~」と言ったと。
ハっと声の主を見ても、それが本当に娘なのかどうかわかりません。
「炭団(たどん 炭を丸めた燃料。黒く丸く、ざらざらしている)のようだった」、と言っていました。
私の顔は、黒く腫れ上がっていて、目も鼻もわからなかったんですね。
もちろん、髪も焼けてしまっていました。
でも、おかっぱにしていた髪の毛のおかげで、額の上半分と頭の部分、耳のあたりの皮膚は、焼けていませんでした。
父は、黒く焼けてしまった皮膚を、はいでくれました。
母は、とにかく、私の目・鼻・口を開けようと、食用油と布を使って、私の顔を拭いてくれました。
膿がどんどん出てくるので、洗い流す必要があるんです。
本当に、つきっきりで看病してくれました。
──目が開けられるようになったり、食事できるようになるのに、どのくらいかかったのでしょうか。
はっきりとは覚えていません。
新円切替(1946年2月16日に幣原内閣が発表した戦後インフレ対策)の前だった、と思います。
私が寝ていると、近所の学友のお母さんが来て、私の母と話しているのが、聞こえたことがあります。
「恵子ちゃんは、本当に良かったねぇ。
私の娘は、半分瓦礫の下敷きになってしまって、一所懸命引っ張り出そうとしても、ダメだったの。
だんだん火がまわってくるでしょう?
『お母さん、早く逃げて。お母さんがいなかったら、下の子たちはどうなるの』って言うの」
生きたまま別れなくてはならなかったなんて、どんなに辛い気持ちだったでしょうね。
他にも、地獄のような広島の町の様子を聞きました。
町には死体がゴロゴロと転がっていて、兵隊さんたちがそれを、ゴミでも拾うかのように拾って、焼き場へ持って行くんだそうです。
真っ黒になるほど蝿がたかって、ウジもわいていて。
──そういったお話を聞いたときの恵子さんの心境は、どのようなものでしたか。
戦争ですから、人が死ぬということ自体は、わかっていたわけです。
それで、最初は、「広島にも、そんなにたくさんの爆弾が落とされたのか」と思っていました。
次第に、みんなが、「ピカドン」と言っているのを聞くようになりました。
たくさんの爆弾ではなくて、一つの大きな爆弾だったんですね。
「そんなに大きな爆弾があったのか」と、驚きました。
また落とされるかもしれない、と怖い気持ちがありました。
私は、終戦のときのラジオ放送は聞きませんでしたが、家族や近所の人がうちに集まって、話しているのを聞きました。
日本は負けた、と。
でも、終戦になる前から、そういうムードはあったと思います。
だって、食べるものもないし、家にあるものは指輪でも鍋でも、軍に差し出さなければならなかったくらいですから。
「こんなものまで出させて…。この戦争は負けるでぇ」
そうやって、大人たちが、陰で言っているのを聞きました。
──今考えると軍部はおかしかったなど、いろいろな考えがあると思うのですが、当時はどうだったのでしょうか。
当時、天皇は神様でしたよ。
神様だから、直接見てはいけない、と言われていたのです。
とにかく私は、戦争が終わったことが嬉しかったです。
戦後、広島には、外国から、食べ物や着るものが送られ、建物も建つようになり、人様のおかげで復興していきました。
その頃になるとまた、「戦争がなければ、みんな友達になれたのに。どんなにか幸せだったのに」と、強く感じるようになりました。
年を経るにつれ、戦争の悪を自覚します。
だからこうして、聞いてくださる方がいるところへ行っては、戦争の話をしています。
いま、憲法を変える、という話もありますよね。
私は「なんで?」って、すごく驚きました。
戦争が起こる可能性のある方向へは、進んでほしくないです。
原発と日本人の品格
──こうしてお話を伺っていると、リアルな「戦争」のことを知らないのは、本当に怖いと感じます。
恵子さんの凄まじい体験をお聞きして、ようやく少し知ることができていますが、知らない人も多いと思います。
生まれる前にあったことは、どうしてもぴんと来ないんですよ。
私も、明治維新や関東大震災のことを、映画で見たりして、「ああ、そういうことがあったんだ」とは思いますけど、ぴんと来ないですもの。
先日、若い人たちと話をしていて、原子力発電所のことが話題に出ました。
原発は廃止したほうがいいか、続けたほうがいいか、みんな手を挙げたんですね。
一人の青年は、どっちがいいのかわからない、と言いました。
私は、
「あなたの気持ちはよくわかる。
私の体験談を聞いても、『そういうことがあったのか』とは思うけど、ぴんと来ないわよね。
生まれる前の話だもの。
でも、これからの未来のために考えるのよ。
積極的に、現状はどうなのか研究して、それで意見を決めてごらん」と伝えました。
私は、原発に反対です。
理由は、いまだに放射能が出ているから。
放射能を浴びて、ガンになって、死んでいった人は多いんです。
私の父も母も、放射能で亡くなりました。
すぐに火傷で死ななくても、遅かれ早かれ不調が出るんですよ。
原子力じゃなくたって、電気は作れるはずです。
これだけ技術は発達しているのだし、もっと日本の科学者が、新しいエネルギーの研究に力を入れれば、原子炉なんて要らないと思います。
一人の技術者の方が、こう言いました。
「原発は、廃止できるに越したことはないと思うけど、いまは技術が発達して、絶対に壊れないようなものが作れるから、全部なくす必要はない」
「それなら、福島にある原子炉は、修理できないんですか?放射能が漏れているのは、どうにかなりませんか」
私が尋ねると、
「私は、作るほうの技術者なので、直すことについてはよくわかりません」ということでした。
まずは、止めなければいけない、と思うんですけどね。
いま、世界から見て、日本は人気がすごく落ちています。
そういうデータを見たことがありますし、私の実感としてもそうです。
「絶対に戦争をしない。核兵器を持たない。原発はすべて止める。」
そう宣言して立ち上がったら、元の日本のように、尊敬されると思います。
原発は、今日明日止めるのは無理でしょう。
でも、少しずつなくしていくのです。
手術のためにアメリカへ。そして看護士に
──恵子さんは、顔のケロイドの手術のために、アメリカに渡られたそうですが、それは何歳の頃ですか。
被爆の10年後で、23歳の頃です。
1年ちょっといました。
──アメリカで寄付が集まり、25名の方が、一緒に行ったそうですね。
(アメリカ人ジャーナリストのノーマン・カズンズさんが、ケロイドを負った若い被爆女性のための、寄付金プロジェクトを発足。
ノーマン・カズンズさんはのちに、恵子さんの養父となる)
原爆を落とした国に行くことについては、複雑な気持ちではありませんでしたか。
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当時私は、流川教会の谷本清先生を囲んで行なわれていた、「聖書の会」に行っていました。
谷本先生が、日本に来ていたノーマン・カズンズに、「この子たちの手術はなんとかならないだろうか」と、言ってくださったんじゃないでしょうか。
アメリカに戻ってから2年かけて、お金を集めたそうです。
あるとき牧師さんに言われて、私もみんなと一緒に、市民病院に行ったんです。
そこに、ノーマン・カズンズとお医者さん、看護士さんが来ていて、問診を受けました。
手術をして機能が回復する、アメリカに渡る元気がある、等の条件を満たした人が、対象に選ばれたようです。
問診の際に、「アメリカに行きたいか」と聞かれたのですが、私はきっと行かないだろう、と思っていました。
すでに、東京大学の附属病院で、何度も手術をしていましたから。
アメリカに行くと言われても、ぴんと来なかったです。
全然期待していませんでした。
でも、選んでもらってアメリカに行った。
これも、神の摂理だと思います。
「なぜ私が大火傷を負ったのか」と考えたとき、「神の証」なのではないか、と思いました。
神は、人間が幸せになることを望んでいます。
戦争なんてしちゃいけないの。
でも、それを伝える術がないでしょう?
だから、私たちは、それを伝える使命を負ったのです。
私の火傷の痕、傷を見れば、単に言葉で伝えるよりも、感じるものがありますよね。
ああ、そのために私は、こんな火傷を負ったんだ、と思いました。
アメリカに渡ったこともそうです。
私の人生はすべて、神の摂理なのです。
──そのように思えるようになったきっかけはあるのでしょうか。
もともと、私の家は、仏教を信仰していました。
おばあちゃん子だったので、おばあちゃんについて、お寺によく行っていました。
被爆後、歩けるようになって、友達の家に行く道すがら、きれいな音楽が流れてきたので、近寄ってみたんです。
それが、キリスト教の教会でした。
讃美歌を歌っていたんですね。
「どうぞお入りください」と言われて中に入り、後ろのほうに座って、牧師さんのお話を聞きました。
意味はよくわからなくても、とにかく居心地が良かったです。
それから毎週日曜日に、教会に通うようになりました。
谷本先生が、「あなたのような状態の人を、他にも知りませんか」とおっしゃったので、私と同じように火傷を負っている、女学生たちを集めました。
そして、週に1回、「聖書の会」を開くようになったのです。
私は、子供の頃から、看護士になりたいと思っていました。
東大病院で手術を受けるたびに、その思いを強くしていました。
アメリカで手術をし、帰国する直前に、将来のことを聞かれたとき、日本に帰ったら、看護士になるつもりだと答えました。
そうしたら、「ここでやってみないか」と言われたんです。
すぐには決められなくて、両親に相談しました。
父は、
「お前といつまでも一緒にいられるわけじゃない。だから、自分で決めなさい」と言いました。
アメリカでは本当に良くしてもらったので、またみんなに会えるという喜びで、それほど深く考えずに、また渡米することになったんです。
飛行機の手配等は、みんなノーマン・カズンズがやってくれました。
私は、ノーマン家の養女になったから、アメリカで学ぶことができたんです。
──最後に、これをお聴きの方にメッセージをいただけますか。
愛の心、思いやりの心を育てることが、大切だと思います。
そうすれば、自然に、戦争反対の気持ちも生まれるでしょう。
この世で一番大事にしなければならないのは、命です。
命を大切に、頑張って生きていきましょうね。(了)
(インタビュー/早川洋平 文/小川晶子 写真/河合豊彦)
米国で伝える
一人の命の大切さ
笹森 恵子さん(在米被爆者)
【ピースデポ】
http://www.peacedepot.org/essay/interview/interview31.htm
被爆後、しばらくの記憶は、断片的です。
目が腫れて開かず、あまりのことで、痛みも感じませんでした。
私は、ぞろぞろと歩く人々の後を付いて行き、段原国民学校(現在の段原小学校:広島市南区)までたどり着き、木の下に倒れ込み、そこで気を失いました。
次に私の意識が戻ったのは、千田町の自宅でした。
顔が全部、真っ黒に焼けただれ、前も後もわからない状態だったそうです。
まず父が、ちりちりに焼けていた髪を切り、顔の皮膚を剥いだところ、その下は、膿で真っ黄色だったそうです。
母は、「はよう口を開けなくちゃ」と必死になって、布に食用油を塗り、膿を取りました。
8月のものすごい暑い中、それが5日間続いたのです。
母は、この話を、被爆後何年も経ってから、私が何度も訊くので、ようやく話してくれました。
当時、私は、泣きわめく力さえなく、いつ死ぬのかと、とても不安だったとのことです。
だいぶ良くなってから、皮膚にひっついたガーゼを剥ぐ時に、痛かった記憶はありますが、それまでは、痛みもまるで感じないような状態が続きました。
私が今生きているということは、今後大変な世の中になるから、その時のために生きろと、神様が生かしたのかなと思います。
みんな、核の恐ろしさを、頭ではわかっていても、心まで理解できている人はどれだけいるのか、と考えます。
心に応えていたら、平和運動などにも一生懸命になりますよね。
私がいつも話すのは、「命の大切さ」についてです。
自分の身内が戦争に行って、犬死にすることを考えると、本当に命がもったいない。
「何十万人亡くなった」、という数字は大事だけれど、数字だけでは私も忘れてしまうと思います。
「一人の命が大事」、という思いが強いです。
一人ひとりを動かす、という力は大切なのです。
あるアメリカの人とお話をした時のことですが、彼には13歳の娘がいるということで、
「私は、同い年の時に被爆したんだ」と話したら、彼は震え出し、涙を流し出しました。
自分の娘のことを思っての反応です。
みんながそういう風に感じてくれれば、良い方向に変わっていくと思います。
私の経験は、大変でなかったと言えば嘘になるけれど、あのとき両親は、大火傷を負った私を治療しながら、
毎日いつ死ぬかもわからず、治った後も元には戻らない状況で、その心の痛さは、私どころではないと思います。
私は、若い人たちに、
「あなたがお父さん、お母さんになったときに、自分の娘がそんな状態になったらどうする?」、という風に話します。
被爆証言は、たくさんの方がされているし、本もたくさんあります。
だから私は、私が、どういう感じで命の大切さを考えているか、ということを話します。
難しいことを話すよりも、気持ちで伝える方が、届くと思うからです。
アメリカの学校で話をすると、よく、その後に手紙が届きます。
その中には、私の話を聞いて、原爆・核兵器への考え方を変えた人や、
「高校を出たら軍隊に入ろう、と思っていたけどやめた」という反応が、かなりあります。
「家に帰って、お母さんに話をしたら、涙を流した」なども。
そういう知らせを知ると、やっぱり嬉しいですよね。
アメリカの高校には、米軍のリクルーターが入ってきて、子どもたちを軍隊に囲い込もうとするのですが、
私は、
「戦争というのは、いくら大義があろうが、人殺しをすることには変わらず、あなたたちがもし、軍隊に入って戦争に行ったら、罪人になるんだよ。
それだけじゃない、殺されるんだよ」と話をします。
私にも息子がいますが、その子が生まれた時に、
「この子は、絶対に戦争には行かせない。
この子は、戦争に行って人殺しをするため、また、殺されるために生まれてきたんじゃない」と思いました。
息子には、
「例えば、もし、赤紙のようなものが来たとしたら、私が先に行くよ」と言いました。
自分が殺されるのなら、それでもいいという気持ちです。
世の中の親は、みんなそう思うはずです。
最近は、大学で、話をする機会が多くあります。
広島市が行っている、全米各地での原爆展に、私も行って、様々な州で、学生さんに話をしてきました。
みなさん、とても真摯に受け止めてくださり、私も、とても良いフィードバックをもらっています。
私が行く所は、事前学習をしっかりしていることもあり、行くとすでに受け入れ態勢ができていることが多いのですが、
私は、核兵器の問題に関心がなく、賛成・反対どちらでもない、道端を歩いているような人たちにも、話を聞いてもらいたい、動いてもらいたいと思います。
オバマさんの、「核兵器のない世界」は、彼が本気で思っているから言われたのだと思いますが、
これがオバマさん一人だったら、やっぱり消えていくと思います。
目的を果たせるよう、私たちみんなが、支えなくてはいけません。
私は、学校に行ったときにも、いつも言います。
誰だって、一人の力ではできない。
私たちがやらなくちゃいけない。
私もそのためにも頑張ります。
(談。まとめ、写真:塚田晋一郎)
↑以上、転載おわり
ばばちゃんが、うちから30分ほど車で行った町の私立高校で、講演したときの様子。
前日の日曜日に、講演やインタビューで6時間、休み無しで話し続け、戻ってきたわたしたちとまた話に花を咲かせていたばばちゃんは、
さすがに疲れが出ていたのか、真っ直ぐに歩けない状態で、おまけに耳鳴りがひどくて、自分の声も変に聞こえると言っていた。
けれども、いざ壇上に立つとこの通り。
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高校生たちも身じろぎもせず、真剣に話を聞いている。
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泣いたり笑ったりの30分。しげ子さんの言葉は、彼らの心に、どんなふうに届いたのだろうか。
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講演の後、昼食までの間、ここで休憩を取ってくださいと案内された広間。
そこに一人、しげ子さんと話をしたいと、青年がやって来た。
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するとさらに二人、話をしてくださったことにお礼を言いたくてと、生徒たちがやって来た。
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さらにさらに、続々と生徒たちがやって来て、しげ子さんに質問を投げかけた。
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入れ替わりに今度は、歴史を学んでいるクラスの生徒たちが、先生と一緒にやって来た。
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しげ子さんは、自分が見えない所に座らないでと、生徒たちにお願いする。
そうして、ゆっくりと、大きな声で話して欲しいとお願いする。
ー手術のためとはいえ、アメリカに来ることに抵抗は無かったか。
ーアメリカに対してどう感じたか。
ー世界の核問題についてどう思うか。
・手術が受けられて、それで自分が良くなると信じていたので、場所はあまり関係が無かった。
・アメリカという国のせいで、アメリカ人のせいで、わたしはこんな酷い傷を負ったと、そんなふうに考えたことは無かった。
これは戦争のせい。
戦争は人を殺し、傷つける。
だから、人間は、戦争など起こしてはいけないの。
・アメリカに降り立ち、暮らし始めるうちに、日本はどうして、こんな豊かで広大な国と、勝てるはずの無い戦争をしてしまったのだろうかと思った。
・核と人類は、共に生きていくことなどできない。
だからわたしは、あなた方のような若い人たちにお願いしたい。
今は、わたしの話を聞いて、頭の中がこんがらがっているかもしれない。
意味があまり分からないかもしれない。
それでもいいから、時間をかけて、よくよく自分で考えて。
自分たちの、そして自分たちの子どもの未来に、平和が存在しているか否かは、わたしたち一人一人の平和への強い意思が必要なのだから。
・オバマ氏が今度、伊勢志摩サミットで訪日する際に、もしかしたら広島を訪問するかもしれないと言われている。
「わたしはその頃、ちょうど広島に居るので、ちっちゃい体を活かし、こっそり近づいてって、
『オバマさん、核兵器の無い世界を実現してください!実現すると言うまでこの手を離しません!』と捕まえる」と言って、周りを大笑いさせていた。
これは、うちに滞在中に報じられた記事。
↓
原爆乙女「謝罪より被爆感じて」
オバマ大統領の広島訪問歓迎
【共同通信】2016.4.26
http://this.kiji.is/97586238448173062?c=39546741839462401
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13歳の時に、広島で被爆し、戦後、米国に渡って治療を受けた「原爆乙女」の一人、笹森恵子さん(83)が26日、
訪問先の米東部ニュージャージー州ハズブルックハイツで取材に応じ、
オバマ米大統領が、5月に広島を訪問する見通しとなったことを歓迎し、
「大統領には、被爆がどんなに大変だったのか、広島で感じてほしい。謝ってほしいとは思わない」と述べた。
大統領の広島訪問が、「謝罪外交」とみなされる可能性を、米側が懸念していることに関して、
「大統領が、原爆慰霊碑の前で、『安らかに眠ってください』と心から祈ってくれればいい。そうすれば(被爆者の)魂が休まると思う」と話した。
この高校の食堂は、うちの息子たちが通った公立のそれとは違い、丁寧に調理されたおかずや、砂糖抜きの飲み物が用意されていた。
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最後に、この企画を立ち上げ、しげ子さんのお世話役を務めてくれた生徒と一緒に。
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そしてこの高校から戻ってすぐに、レッスンがあるわたしだけを降ろし、しげ子さんと歩美ちゃんはお墓参りへ。
しげ子さんの養父ノーマン・カズンズ氏と、親戚が眠るお墓。
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その晩、まだまだこの先に講演や家族との嬉しい再会が、あちこちの出先で待っているしげ子さんの、耳鳴りとふらつきを治そうと、
夫は鍼治療を、わたしはマッサージを、心を込めてさせてもらった。
しげ子さんは、夫が鍼を刺し始めても、
「まうみさんはここ、ここに寝なさい」と、彼女のすぐ横をパンパンと叩いて催促する。
そうして、夫が問診をしようが、刺した鍼の状態を問おうが、まるで聞かずに、わたしがまだまだ聞きたいことがいっぱいあるのを知ってか、いろんな話をしてくれた。
ばばちゃんの足や背中は、まるで赤ん坊のようにきれいな肌で、つやつやしていた。
その健康な皮膚を削り、時にはソーセージのように肉ごと剥ぎ取り、それをまず別の部分に移植して、それからやっと治療部位に移植する。
ばばちゃんが闘ってきた痕のすべてを、見たり触れたりさせてもらったことを、わたしの心と目と手のひらは、これからもずっと忘れないだろう。
ずっと肩が痛んでいると言っていたので、仰向けになってもらい、夫の続きでわたしがマッサージをすると、
「ああ気持ちがいい。なんでわかるの?ここをこういうふうにしてもらいたいっていうのが」と言って、気持ち良さそうに目を閉じた。
しげ子さんの辛かったこと、苦しかったこと、痛かったこと、そんなものの一切合財を溶かして、わたしの手を通じて減らしてあげたい。
そう思った時急に、自分が辛い思いをしていた頃のことが蘇ってきて、わたしはその時、彼女とひとつになった気がした。
翌日のしげ子さんは、たっぷりと睡眠も取ることができ、耳鳴りも痛みも半減して、とてもすっきりしたと言った。
ランチを一緒に食べながら、とてもプライベートな話にまで花が咲き、あっという間に時間が過ぎていった。
昼過ぎから、近くにある『NJ Peace Action』での会合に行き、そこから歩美ちゃんと一緒に、『王様と私』のブロードウェイのショーを観劇。
その間に、わたしときたら、急に襲ってきた吐き気とどうしようもない怠さに、気持ちが動転してしまっていた。
まさか、昼間に作った料理にあたったか?
それとも、食べた量が多過ぎたか?
もしそれなら、しげ子さんも同じ物を、それも同じ量を、残してもいいと言うのに、昔人間だからと、お茶まで一滴も残さず飲んでいたくらいだったのだ。
おかしなことになってなかったらいいのだけども…と、くよくよと心配しながら、その日は結局断食をして、彼女たちの帰りを待った。
ショーが終わり、こちらに戻る車中から、「あと30分ほどで着きます」と、歩美ちゃんから連絡があった。
歩美ちゃんの声の向こうから、いつものように後部座席に座っているであろうしげ子さんの、元気そうな話し声が聞こえて、わたしはホーッと一息ついた。
よかった…しげ子さんは元気だ。
翌日の朝、しげ子さんを空港まで見送ってからも、わたしの体の変調は良くならなかった。
わたしはしげ子さんの中に、わたし自身を見ていたのだと思う。
奇しくも、しげ子さんと同じ13歳から22歳ぐらいまでのわたしに起こった、大小さまざまな辛い出来事を、
それらはしげ子さんのに比べたら、てんで比較にならないほどの些細なことかもしれないけれど、わたしにとっては充分に、自死を願い続けるほどに辛かったことを、
これまたしげ子さんと同じく、その折々に手を差し伸べてくれる人に恵まれながら、そしてその人たちが口にする希望の言葉を信じながら、
ひとつ、またひとつと乗り越えていた若かったわたしが、わたしの中にまた戻ってきているのだ。
何度も何度も、死にかけたり殺されかけたりした。
そんな恐ろしいことだらけだった十代の、自分の身の上に起こったことをおもしろ可笑しく人に話していると、何となく本当のことでは無かったような気がして楽になる。
そのことに気がついたのは、ずいぶん大人になってからだ。
しげ子さんがアメリカに、整形手術のために渡った頃の写真。
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25人のうちの一人の方が、麻酔事故で亡くなった時のことを話してくれた。
必死の思いで蘇生に努めた医師や関係者だったが、その甲斐もなく息を引き取ったその日、しげ子さんは病院で、ノーマン氏の迎えを待っていた。
いつもは笑顔のノーマン氏が、ひどく憔悴した姿でやって来て、今日は帰れないと言った。
それから3日後に、やっと迎えに来てくれたノーマン氏と一緒に、病院から帰る車中の窓から、セントラルパークの風景が見えた。
しげ子さんは、独り言のように、
「冬が終わると春が来る、ね」とポツリとつぶやいた。
その途端、ノーマン氏の顔にパッと笑顔が浮かび、いつもなら避けているファーストフードのお店に入った。
家に着いたら、夕食の準備が整っていて、お養母さんに叱られるかとびくびくしながら、「もう食べてきた」と告げると、
お養母さんはそれはそれは嬉しそうに微笑んで、「よかった!」と言ったのだそうだ。
彼はその時まで、食事が全くのどを通らなかったのだそうだ。
わたしはこのエピソードを聞いた時、ノーマン氏がなぜ、しげ子さんを養女にしたいと思ったのか、理解できたような気がした。
彼女の中にある、希望を捨てない心、信じる心、前に進もうとする強さ、生きとし生けるものを思いやる優しさを、見抜いていたのではないかと思う。
ばばちゃんにもわたしにも、お互いが自分の中にすうっと入ってきて、家族のようだねと言い合ったのだけど、
今わたしは、家族というよりも、わたし自身のような気がする。
もしわたしがばばちゃんだったら、きっとばばちゃんのように生きたし、もしばばちゃんがわたしだったら、きっとわたしのように生きた。
そんな感じ。
ばばちゃんは自分のことを「おてんてんだから」と何度も言った。
それを聞くたび、父がわたしに、「おまえはほんまにおつむてんてんやな」と言っていた声が蘇った。
ばばちゃん、わたしら、「おてんてん」やから生き延びられたのかもね。
人の言うことをすぅっと信じて、深刻に考えず、良くなることだけ思いながら前ばっかり見ていた。
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逢わせてくれた歩美ちゃんに、心から感謝!
また逢おうね、そうして、またいっぱいおしゃべりしようね、ばばちゃん。
小柄な彼女は、椅子から立ってもちっちゃくて、そのちっちゃい体をペコンと折って、「おじゃましてます」と微笑んだ。
その可愛らしいこと。
わたしはいっぺんに好きになって、ばばちゃん(彼女のあだ名)大好き!と、心の中で叫んでいた。
彼女の名前は、笹森恵子さん。
恵子と書いてしげこと読む。
今年84歳になる彼女は、13歳の夏、真っ青に晴れた空を、銀色の光をキラキラ輝かせて飛ぶ『Bちゃん』から落とされた、世にも恐ろしい破壊力を持つ爆弾の、爆心地に立っていた。
歩美ちゃんから彼女のことを聞いた時、わたしはいつもの早とちりをして、日本からこちらにいらっしゃったのだと思い込んでいた。
でもそうではなくて、彼女はカリフォルニアに暮らしながら、世界平和の実現を使命に持ち、広島での体験を各地で語り続ける人なのだった。
彼女と出会った日曜日の夜から水曜日の朝までのことを、わたしはきっと一生忘れないし、これからもまた、もっと一緒に時間を過ごしたいと思っている。
原爆というものが、そしてそのような化け物を作ろうと考えた軍隊というものが、そしてその人殺しを実行するのが当たり前という狂った認識が正しいとされる戦争というものが、わたしは憎くて憎くてたまらなかった。
まだ漢字がそれほど読めないぐらいの頃から、図書館に行っては、原爆についての本を読んだり見たりしていた。
読んでいるうちに、文字や写真がぼやけてきて、涙をポトポトとページの上に落としているのに気づいて、慌てて拭いたりした。
それはそれはたくさんの本を読んだつもりでいたけれど、しげ子さんのような経験をした、25人の女性のことを、わたしは全く知らずにいた。
『原爆乙女』と、しげ子さんたちは呼ばれていた。
こちらでは『HIROSHIMA MAIDEN』
しげ子さんは、「この『原爆乙女』という呼び名が嫌いだった」と言った。
わたしも嫌いだ。
話しても話しても尽きることのなかった話を、自分の頭の中で整理して、なんとかまとめようと思うのだけど、気持ちが絡み付いてしまってうまくできない。
けれども、ばばちゃんを空港で見送った後、彼女のことをもっと深く知りたくなって、自分で読んだたくさんの記事の中に、話したことが散りばめられていたので、その中から数件、ここに紹介させてもらう。
↓転載はじめ
記憶1 笹森 恵子さん
被爆した10年後、手術のため渡米。
平和のため使命を持って、広島の体験を語る。
【戦争の記憶・Memories of War】2015.9.25
http://memories-of-war.com/m1-shigeko-sasamori/
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笹森 恵子さん
ささもり・しげこ/1932年6月16日広島生まれ。
アメリカ・カリフォルニア州在住
1945年8月6日、13歳で被爆した笹森恵子さん。
真っ青な空に、銀色の飛行機が、キラキラと輝き、白いものが落ちてきた…。
その瞬間のことは、鮮明に覚えているという。
大火傷を負った恵子さんだが、両親の献身的な看護で、なんとか回復することができた。
10年経って、ケロイドの手術のために、アメリカに渡ることとなり、その後、アメリカ人ジャーナリストのノーマン・カズンズさんの養女に。
「それもこれも神様の思し召し」という恵子さんの体験と、平和への想いを聞いた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
銀色の飛行機から白いものが落ちるのを見た
──恵子さんは広島ご出身ですね。1945年8月6日は、どこで何をされていましたか?
当時、私は女学校一年生で、13歳でした。
その頃すでに、東京や大阪には、傷痍爆弾が落ちていて、大火事でたくさんの方が亡くなっていました。
私がいた広島にも、B29はしょっちゅう来ていました。
でも、爆弾はまだ落とされたことはなかったので、B29が見えても、慣れてしまっていましたね。
当時、「建物疎開」といって、爆弾が落ちたときに逃げやすいように、建物を壊して間引いていたんですね。
若い男たちは兵隊にとられていますから、建物を壊すのは年寄りや女性です。
瓦礫の片付けをするのは、中学1、2年生でした。
その日は、私たちの学校が、はじめての作業に当たっていました。
朝8時に集合し、これから作業にあたろうというときに、飛行機の音がして、私は空を見上げました。
雲ひとつない、真っ青なきれいな空でした。
銀色にキラキラ光る飛行機が、白い飛行機雲を出しながら、飛んでいます。
私は、近くにいたクラスメイトに、「見てごらん、きれいよ」と言って、空を指さしました。
その瞬間、白いものが落ちるのが見えました。
あとから聞いたら、爆弾がついた落下傘だったのです。
ものすごい爆風が起こりました。
そして私は倒されました。
私がいた場所は、爆弾が落ちた中心地から、1.5㎞以内にありました。
今で言うと平塚町です。
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──その瞬間は、爆弾が落ちたということもわからず、怖いとか痛いといった感覚もなかったのでしょうか。
ええ。
だから、中心地にいた人たちは、一瞬のうちに丸焦げで、熱いも痛いもなかったんじゃないかと思います。
私の姉は、「太陽が地球に落ちたのかと思った」と言っていました。
姉たち上級生は、軍の仕事をするため、海田にある工場にいました。
大きな音がして、何事かと思って建物から出て見たら、大きな火の玉が沈んでいくのが見えたと。
──僕たちはいわゆる「きのこ雲」をイメージしますが…。
雲が見えるのは、最後なんじゃないかしら。
火の玉が見える前に、私は飛ばされたわけですが、火の玉のあとに雲ができるんだと思います。
雲の前に、赤い火柱を見たという人もいます。
私は、長い時間、気を失っていました。
意識が戻ってから周りを見たら、真っ黒でした。
暗いのではなくて、黒いのです。
大火傷を負っていたのに、何も感じませんでしたね。
真っ黒の中にしばらく座っていたら、霧が出てきたように、少しずつ明るく、グレーになってきました。
ああ、きっと、近くに傷痍爆弾が落ちたんだ、と思いました。
「爆弾が落ちたときは、大人について行け」と言われていましたから、とにかく、近くを歩いている大人について行こう、と思いました。
着ているものがボロボロだったり、足を怪我していたり、火傷で皮膚がめくれ、ピンク色になっている人たちが、歩いていました。
川のほうへ向かっていたんです。
川べりまで来ると、たくさんの人が集まっていました。
川の中にも、人が大勢入っていたので、水が見えないくらいでした。
「ぎゃーん」
ふと、赤ちゃんの泣き声が聞こえました。
ーまうみ注ー
この母子とも焼けただれていた。
母親はそれでも、なんとかして赤ん坊にお乳をあげようとしていたのだそうだ。
しげ子さんの耳には、その赤ん坊の泣き声が、今もはっきりと残っている。
周囲のざわめきも聞こえてきました。
それまでは無感覚で、何も聞こえなかったんです。
音が聞こえるようになっても、自分の火傷には気づきませんでした。
体の4分の1が、焼けていたんですけどね。
橋を渡って、避難所になっている小学校へ行きました。
大きな木の下に座ったら、そのまま倒れてしまったようです。
いつの間にか、講堂に運ばれ、私はそこに5日間いました。
目が開かなくて、昼も夜もわからないのですが、とにかく、
「千田町一丁目の新本恵子です。お水ください。両親に伝えてください」と叫びました。
だんだん、声を出すのもしんどくなってきます。
あともう1回だけ、もう1回だけ叫ぼう。
そうしたら、誰かが聞いてくれるに違いない。
そう思いながら、声を出していたことを覚えています。
結局、お水はもらえませんでした。
それで良かったんです。
大火傷を負っている人に、お水をあげてはいけないそうですね。
お水を飲んで、「ああ、美味しい」と言って死んだ人が、たくさんいるそうです。
母は、焼け跡に毎日通い、私の名前を呼んで、探していたそうです。
火傷をした人の収容所があると聞けば、そこまで歩いていって探しました。
似島へも、船で行きました。
でも、見つからなくて、また帰ってくるんです。
「炭団」のような私を、母が見つけてくれた
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私たちは家が二つあって、「夏の家」と呼んでいたほうの家は、川沿いの魚市場の近くにありました。
そちらの家は、たまたま魚市場の陰になって、爆風でも倒れませんでした。
当時、母は、ここにいたんです。
家の中で飛ばされ、起き上がってから外を見てみたら、周りの家がぺたんこにつぶれていたそうです。
そこから、普段、私たちが暮らしていたほうの家の、二階ベランダ部分が見えました。
それで、母は、ぺたんこになった家々の屋根を歩いて、行ってみました。
でも、やはり潰れていて、どうすることもできません。
隣の家の人の声が聞こえますが、どこにいるのかわかりません。
瓦礫をどかしてもどかしても、人らしき姿は見えません。
そうこうしているうちに、あちこちから火の手があがり、母のいる場所にも火が近づいてきました。
「ごめんねぇ。どこにいるかわからないの」
お隣さんを助けることができないまま、母は、その場を去らざるをえませんでした。
父は、その時ちょうど、外にいました。
前の日に釣りに行ったので、ご近所のおじいさんたちのところに、魚を持って行っていたのです。
そして、私と同じように、飛行機から、白いものが落ちるのを見たそうです。
「爆弾落ちたから、逃げえ!」
おじいさんたちにそう叫んで走り、魚市場にある、大きなセメントの冷蔵庫へ、すべりこみました。
爆音が消えてから、外の様子を見てみたら、さっきまで一緒にいたおじいさんたちは、座った格好のまま、皮膚が真っ赤に焼けただれていたそうです。
一瞬遅かったら、父もそうだったのでしょう。
両親と家が無事だったおかげで、私は良くなることができました。
家で、両親が、治療してくれたんですから。
薬もないし、病院はいっぱいだし、私は、食用油で治療してもらったんです。
──想像もつかないような体験をされたんですね。
想像できないでしょう?
元気になってから、自分がどのような状態だったのか、母に質問したんですが、いつも「今度ね」、と言われていました。
年をとってから、ようやく教えてくれたんです。
だからいま、こうしてお話ができるわけ。
避難所の講堂は真っ暗で、母は、ロウソクを1本持って、「しげこ~しげこ~」と、名前を呼びながら探したそうです。
そうしたら、蚊の鳴くような声で、「ここよ~」と言ったと。
ハっと声の主を見ても、それが本当に娘なのかどうかわかりません。
「炭団(たどん 炭を丸めた燃料。黒く丸く、ざらざらしている)のようだった」、と言っていました。
私の顔は、黒く腫れ上がっていて、目も鼻もわからなかったんですね。
もちろん、髪も焼けてしまっていました。
でも、おかっぱにしていた髪の毛のおかげで、額の上半分と頭の部分、耳のあたりの皮膚は、焼けていませんでした。
父は、黒く焼けてしまった皮膚を、はいでくれました。
母は、とにかく、私の目・鼻・口を開けようと、食用油と布を使って、私の顔を拭いてくれました。
膿がどんどん出てくるので、洗い流す必要があるんです。
本当に、つきっきりで看病してくれました。
──目が開けられるようになったり、食事できるようになるのに、どのくらいかかったのでしょうか。
はっきりとは覚えていません。
新円切替(1946年2月16日に幣原内閣が発表した戦後インフレ対策)の前だった、と思います。
私が寝ていると、近所の学友のお母さんが来て、私の母と話しているのが、聞こえたことがあります。
「恵子ちゃんは、本当に良かったねぇ。
私の娘は、半分瓦礫の下敷きになってしまって、一所懸命引っ張り出そうとしても、ダメだったの。
だんだん火がまわってくるでしょう?
『お母さん、早く逃げて。お母さんがいなかったら、下の子たちはどうなるの』って言うの」
生きたまま別れなくてはならなかったなんて、どんなに辛い気持ちだったでしょうね。
他にも、地獄のような広島の町の様子を聞きました。
町には死体がゴロゴロと転がっていて、兵隊さんたちがそれを、ゴミでも拾うかのように拾って、焼き場へ持って行くんだそうです。
真っ黒になるほど蝿がたかって、ウジもわいていて。
──そういったお話を聞いたときの恵子さんの心境は、どのようなものでしたか。
戦争ですから、人が死ぬということ自体は、わかっていたわけです。
それで、最初は、「広島にも、そんなにたくさんの爆弾が落とされたのか」と思っていました。
次第に、みんなが、「ピカドン」と言っているのを聞くようになりました。
たくさんの爆弾ではなくて、一つの大きな爆弾だったんですね。
「そんなに大きな爆弾があったのか」と、驚きました。
また落とされるかもしれない、と怖い気持ちがありました。
私は、終戦のときのラジオ放送は聞きませんでしたが、家族や近所の人がうちに集まって、話しているのを聞きました。
日本は負けた、と。
でも、終戦になる前から、そういうムードはあったと思います。
だって、食べるものもないし、家にあるものは指輪でも鍋でも、軍に差し出さなければならなかったくらいですから。
「こんなものまで出させて…。この戦争は負けるでぇ」
そうやって、大人たちが、陰で言っているのを聞きました。
──今考えると軍部はおかしかったなど、いろいろな考えがあると思うのですが、当時はどうだったのでしょうか。
当時、天皇は神様でしたよ。
神様だから、直接見てはいけない、と言われていたのです。
とにかく私は、戦争が終わったことが嬉しかったです。
戦後、広島には、外国から、食べ物や着るものが送られ、建物も建つようになり、人様のおかげで復興していきました。
その頃になるとまた、「戦争がなければ、みんな友達になれたのに。どんなにか幸せだったのに」と、強く感じるようになりました。
年を経るにつれ、戦争の悪を自覚します。
だからこうして、聞いてくださる方がいるところへ行っては、戦争の話をしています。
いま、憲法を変える、という話もありますよね。
私は「なんで?」って、すごく驚きました。
戦争が起こる可能性のある方向へは、進んでほしくないです。
原発と日本人の品格
──こうしてお話を伺っていると、リアルな「戦争」のことを知らないのは、本当に怖いと感じます。
恵子さんの凄まじい体験をお聞きして、ようやく少し知ることができていますが、知らない人も多いと思います。
生まれる前にあったことは、どうしてもぴんと来ないんですよ。
私も、明治維新や関東大震災のことを、映画で見たりして、「ああ、そういうことがあったんだ」とは思いますけど、ぴんと来ないですもの。
先日、若い人たちと話をしていて、原子力発電所のことが話題に出ました。
原発は廃止したほうがいいか、続けたほうがいいか、みんな手を挙げたんですね。
一人の青年は、どっちがいいのかわからない、と言いました。
私は、
「あなたの気持ちはよくわかる。
私の体験談を聞いても、『そういうことがあったのか』とは思うけど、ぴんと来ないわよね。
生まれる前の話だもの。
でも、これからの未来のために考えるのよ。
積極的に、現状はどうなのか研究して、それで意見を決めてごらん」と伝えました。
私は、原発に反対です。
理由は、いまだに放射能が出ているから。
放射能を浴びて、ガンになって、死んでいった人は多いんです。
私の父も母も、放射能で亡くなりました。
すぐに火傷で死ななくても、遅かれ早かれ不調が出るんですよ。
原子力じゃなくたって、電気は作れるはずです。
これだけ技術は発達しているのだし、もっと日本の科学者が、新しいエネルギーの研究に力を入れれば、原子炉なんて要らないと思います。
一人の技術者の方が、こう言いました。
「原発は、廃止できるに越したことはないと思うけど、いまは技術が発達して、絶対に壊れないようなものが作れるから、全部なくす必要はない」
「それなら、福島にある原子炉は、修理できないんですか?放射能が漏れているのは、どうにかなりませんか」
私が尋ねると、
「私は、作るほうの技術者なので、直すことについてはよくわかりません」ということでした。
まずは、止めなければいけない、と思うんですけどね。
いま、世界から見て、日本は人気がすごく落ちています。
そういうデータを見たことがありますし、私の実感としてもそうです。
「絶対に戦争をしない。核兵器を持たない。原発はすべて止める。」
そう宣言して立ち上がったら、元の日本のように、尊敬されると思います。
原発は、今日明日止めるのは無理でしょう。
でも、少しずつなくしていくのです。
手術のためにアメリカへ。そして看護士に
──恵子さんは、顔のケロイドの手術のために、アメリカに渡られたそうですが、それは何歳の頃ですか。
被爆の10年後で、23歳の頃です。
1年ちょっといました。
──アメリカで寄付が集まり、25名の方が、一緒に行ったそうですね。
(アメリカ人ジャーナリストのノーマン・カズンズさんが、ケロイドを負った若い被爆女性のための、寄付金プロジェクトを発足。
ノーマン・カズンズさんはのちに、恵子さんの養父となる)
原爆を落とした国に行くことについては、複雑な気持ちではありませんでしたか。
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当時私は、流川教会の谷本清先生を囲んで行なわれていた、「聖書の会」に行っていました。
谷本先生が、日本に来ていたノーマン・カズンズに、「この子たちの手術はなんとかならないだろうか」と、言ってくださったんじゃないでしょうか。
アメリカに戻ってから2年かけて、お金を集めたそうです。
あるとき牧師さんに言われて、私もみんなと一緒に、市民病院に行ったんです。
そこに、ノーマン・カズンズとお医者さん、看護士さんが来ていて、問診を受けました。
手術をして機能が回復する、アメリカに渡る元気がある、等の条件を満たした人が、対象に選ばれたようです。
問診の際に、「アメリカに行きたいか」と聞かれたのですが、私はきっと行かないだろう、と思っていました。
すでに、東京大学の附属病院で、何度も手術をしていましたから。
アメリカに行くと言われても、ぴんと来なかったです。
全然期待していませんでした。
でも、選んでもらってアメリカに行った。
これも、神の摂理だと思います。
「なぜ私が大火傷を負ったのか」と考えたとき、「神の証」なのではないか、と思いました。
神は、人間が幸せになることを望んでいます。
戦争なんてしちゃいけないの。
でも、それを伝える術がないでしょう?
だから、私たちは、それを伝える使命を負ったのです。
私の火傷の痕、傷を見れば、単に言葉で伝えるよりも、感じるものがありますよね。
ああ、そのために私は、こんな火傷を負ったんだ、と思いました。
アメリカに渡ったこともそうです。
私の人生はすべて、神の摂理なのです。
──そのように思えるようになったきっかけはあるのでしょうか。
もともと、私の家は、仏教を信仰していました。
おばあちゃん子だったので、おばあちゃんについて、お寺によく行っていました。
被爆後、歩けるようになって、友達の家に行く道すがら、きれいな音楽が流れてきたので、近寄ってみたんです。
それが、キリスト教の教会でした。
讃美歌を歌っていたんですね。
「どうぞお入りください」と言われて中に入り、後ろのほうに座って、牧師さんのお話を聞きました。
意味はよくわからなくても、とにかく居心地が良かったです。
それから毎週日曜日に、教会に通うようになりました。
谷本先生が、「あなたのような状態の人を、他にも知りませんか」とおっしゃったので、私と同じように火傷を負っている、女学生たちを集めました。
そして、週に1回、「聖書の会」を開くようになったのです。
私は、子供の頃から、看護士になりたいと思っていました。
東大病院で手術を受けるたびに、その思いを強くしていました。
アメリカで手術をし、帰国する直前に、将来のことを聞かれたとき、日本に帰ったら、看護士になるつもりだと答えました。
そうしたら、「ここでやってみないか」と言われたんです。
すぐには決められなくて、両親に相談しました。
父は、
「お前といつまでも一緒にいられるわけじゃない。だから、自分で決めなさい」と言いました。
アメリカでは本当に良くしてもらったので、またみんなに会えるという喜びで、それほど深く考えずに、また渡米することになったんです。
飛行機の手配等は、みんなノーマン・カズンズがやってくれました。
私は、ノーマン家の養女になったから、アメリカで学ぶことができたんです。
──最後に、これをお聴きの方にメッセージをいただけますか。
愛の心、思いやりの心を育てることが、大切だと思います。
そうすれば、自然に、戦争反対の気持ちも生まれるでしょう。
この世で一番大事にしなければならないのは、命です。
命を大切に、頑張って生きていきましょうね。(了)
(インタビュー/早川洋平 文/小川晶子 写真/河合豊彦)
米国で伝える
一人の命の大切さ
笹森 恵子さん(在米被爆者)
【ピースデポ】
http://www.peacedepot.org/essay/interview/interview31.htm
被爆後、しばらくの記憶は、断片的です。
目が腫れて開かず、あまりのことで、痛みも感じませんでした。
私は、ぞろぞろと歩く人々の後を付いて行き、段原国民学校(現在の段原小学校:広島市南区)までたどり着き、木の下に倒れ込み、そこで気を失いました。
次に私の意識が戻ったのは、千田町の自宅でした。
顔が全部、真っ黒に焼けただれ、前も後もわからない状態だったそうです。
まず父が、ちりちりに焼けていた髪を切り、顔の皮膚を剥いだところ、その下は、膿で真っ黄色だったそうです。
母は、「はよう口を開けなくちゃ」と必死になって、布に食用油を塗り、膿を取りました。
8月のものすごい暑い中、それが5日間続いたのです。
母は、この話を、被爆後何年も経ってから、私が何度も訊くので、ようやく話してくれました。
当時、私は、泣きわめく力さえなく、いつ死ぬのかと、とても不安だったとのことです。
だいぶ良くなってから、皮膚にひっついたガーゼを剥ぐ時に、痛かった記憶はありますが、それまでは、痛みもまるで感じないような状態が続きました。
私が今生きているということは、今後大変な世の中になるから、その時のために生きろと、神様が生かしたのかなと思います。
みんな、核の恐ろしさを、頭ではわかっていても、心まで理解できている人はどれだけいるのか、と考えます。
心に応えていたら、平和運動などにも一生懸命になりますよね。
私がいつも話すのは、「命の大切さ」についてです。
自分の身内が戦争に行って、犬死にすることを考えると、本当に命がもったいない。
「何十万人亡くなった」、という数字は大事だけれど、数字だけでは私も忘れてしまうと思います。
「一人の命が大事」、という思いが強いです。
一人ひとりを動かす、という力は大切なのです。
あるアメリカの人とお話をした時のことですが、彼には13歳の娘がいるということで、
「私は、同い年の時に被爆したんだ」と話したら、彼は震え出し、涙を流し出しました。
自分の娘のことを思っての反応です。
みんながそういう風に感じてくれれば、良い方向に変わっていくと思います。
私の経験は、大変でなかったと言えば嘘になるけれど、あのとき両親は、大火傷を負った私を治療しながら、
毎日いつ死ぬかもわからず、治った後も元には戻らない状況で、その心の痛さは、私どころではないと思います。
私は、若い人たちに、
「あなたがお父さん、お母さんになったときに、自分の娘がそんな状態になったらどうする?」、という風に話します。
被爆証言は、たくさんの方がされているし、本もたくさんあります。
だから私は、私が、どういう感じで命の大切さを考えているか、ということを話します。
難しいことを話すよりも、気持ちで伝える方が、届くと思うからです。
アメリカの学校で話をすると、よく、その後に手紙が届きます。
その中には、私の話を聞いて、原爆・核兵器への考え方を変えた人や、
「高校を出たら軍隊に入ろう、と思っていたけどやめた」という反応が、かなりあります。
「家に帰って、お母さんに話をしたら、涙を流した」なども。
そういう知らせを知ると、やっぱり嬉しいですよね。
アメリカの高校には、米軍のリクルーターが入ってきて、子どもたちを軍隊に囲い込もうとするのですが、
私は、
「戦争というのは、いくら大義があろうが、人殺しをすることには変わらず、あなたたちがもし、軍隊に入って戦争に行ったら、罪人になるんだよ。
それだけじゃない、殺されるんだよ」と話をします。
私にも息子がいますが、その子が生まれた時に、
「この子は、絶対に戦争には行かせない。
この子は、戦争に行って人殺しをするため、また、殺されるために生まれてきたんじゃない」と思いました。
息子には、
「例えば、もし、赤紙のようなものが来たとしたら、私が先に行くよ」と言いました。
自分が殺されるのなら、それでもいいという気持ちです。
世の中の親は、みんなそう思うはずです。
最近は、大学で、話をする機会が多くあります。
広島市が行っている、全米各地での原爆展に、私も行って、様々な州で、学生さんに話をしてきました。
みなさん、とても真摯に受け止めてくださり、私も、とても良いフィードバックをもらっています。
私が行く所は、事前学習をしっかりしていることもあり、行くとすでに受け入れ態勢ができていることが多いのですが、
私は、核兵器の問題に関心がなく、賛成・反対どちらでもない、道端を歩いているような人たちにも、話を聞いてもらいたい、動いてもらいたいと思います。
オバマさんの、「核兵器のない世界」は、彼が本気で思っているから言われたのだと思いますが、
これがオバマさん一人だったら、やっぱり消えていくと思います。
目的を果たせるよう、私たちみんなが、支えなくてはいけません。
私は、学校に行ったときにも、いつも言います。
誰だって、一人の力ではできない。
私たちがやらなくちゃいけない。
私もそのためにも頑張ります。
(談。まとめ、写真:塚田晋一郎)
↑以上、転載おわり
ばばちゃんが、うちから30分ほど車で行った町の私立高校で、講演したときの様子。
前日の日曜日に、講演やインタビューで6時間、休み無しで話し続け、戻ってきたわたしたちとまた話に花を咲かせていたばばちゃんは、
さすがに疲れが出ていたのか、真っ直ぐに歩けない状態で、おまけに耳鳴りがひどくて、自分の声も変に聞こえると言っていた。
けれども、いざ壇上に立つとこの通り。
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高校生たちも身じろぎもせず、真剣に話を聞いている。
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泣いたり笑ったりの30分。しげ子さんの言葉は、彼らの心に、どんなふうに届いたのだろうか。
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講演の後、昼食までの間、ここで休憩を取ってくださいと案内された広間。
そこに一人、しげ子さんと話をしたいと、青年がやって来た。
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するとさらに二人、話をしてくださったことにお礼を言いたくてと、生徒たちがやって来た。
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さらにさらに、続々と生徒たちがやって来て、しげ子さんに質問を投げかけた。
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入れ替わりに今度は、歴史を学んでいるクラスの生徒たちが、先生と一緒にやって来た。
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しげ子さんは、自分が見えない所に座らないでと、生徒たちにお願いする。
そうして、ゆっくりと、大きな声で話して欲しいとお願いする。
ー手術のためとはいえ、アメリカに来ることに抵抗は無かったか。
ーアメリカに対してどう感じたか。
ー世界の核問題についてどう思うか。
・手術が受けられて、それで自分が良くなると信じていたので、場所はあまり関係が無かった。
・アメリカという国のせいで、アメリカ人のせいで、わたしはこんな酷い傷を負ったと、そんなふうに考えたことは無かった。
これは戦争のせい。
戦争は人を殺し、傷つける。
だから、人間は、戦争など起こしてはいけないの。
・アメリカに降り立ち、暮らし始めるうちに、日本はどうして、こんな豊かで広大な国と、勝てるはずの無い戦争をしてしまったのだろうかと思った。
・核と人類は、共に生きていくことなどできない。
だからわたしは、あなた方のような若い人たちにお願いしたい。
今は、わたしの話を聞いて、頭の中がこんがらがっているかもしれない。
意味があまり分からないかもしれない。
それでもいいから、時間をかけて、よくよく自分で考えて。
自分たちの、そして自分たちの子どもの未来に、平和が存在しているか否かは、わたしたち一人一人の平和への強い意思が必要なのだから。
・オバマ氏が今度、伊勢志摩サミットで訪日する際に、もしかしたら広島を訪問するかもしれないと言われている。
「わたしはその頃、ちょうど広島に居るので、ちっちゃい体を活かし、こっそり近づいてって、
『オバマさん、核兵器の無い世界を実現してください!実現すると言うまでこの手を離しません!』と捕まえる」と言って、周りを大笑いさせていた。
これは、うちに滞在中に報じられた記事。
↓
原爆乙女「謝罪より被爆感じて」
オバマ大統領の広島訪問歓迎
【共同通信】2016.4.26
http://this.kiji.is/97586238448173062?c=39546741839462401
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13歳の時に、広島で被爆し、戦後、米国に渡って治療を受けた「原爆乙女」の一人、笹森恵子さん(83)が26日、
訪問先の米東部ニュージャージー州ハズブルックハイツで取材に応じ、
オバマ米大統領が、5月に広島を訪問する見通しとなったことを歓迎し、
「大統領には、被爆がどんなに大変だったのか、広島で感じてほしい。謝ってほしいとは思わない」と述べた。
大統領の広島訪問が、「謝罪外交」とみなされる可能性を、米側が懸念していることに関して、
「大統領が、原爆慰霊碑の前で、『安らかに眠ってください』と心から祈ってくれればいい。そうすれば(被爆者の)魂が休まると思う」と話した。
この高校の食堂は、うちの息子たちが通った公立のそれとは違い、丁寧に調理されたおかずや、砂糖抜きの飲み物が用意されていた。
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最後に、この企画を立ち上げ、しげ子さんのお世話役を務めてくれた生徒と一緒に。
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そしてこの高校から戻ってすぐに、レッスンがあるわたしだけを降ろし、しげ子さんと歩美ちゃんはお墓参りへ。
しげ子さんの養父ノーマン・カズンズ氏と、親戚が眠るお墓。
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その晩、まだまだこの先に講演や家族との嬉しい再会が、あちこちの出先で待っているしげ子さんの、耳鳴りとふらつきを治そうと、
夫は鍼治療を、わたしはマッサージを、心を込めてさせてもらった。
しげ子さんは、夫が鍼を刺し始めても、
「まうみさんはここ、ここに寝なさい」と、彼女のすぐ横をパンパンと叩いて催促する。
そうして、夫が問診をしようが、刺した鍼の状態を問おうが、まるで聞かずに、わたしがまだまだ聞きたいことがいっぱいあるのを知ってか、いろんな話をしてくれた。
ばばちゃんの足や背中は、まるで赤ん坊のようにきれいな肌で、つやつやしていた。
その健康な皮膚を削り、時にはソーセージのように肉ごと剥ぎ取り、それをまず別の部分に移植して、それからやっと治療部位に移植する。
ばばちゃんが闘ってきた痕のすべてを、見たり触れたりさせてもらったことを、わたしの心と目と手のひらは、これからもずっと忘れないだろう。
ずっと肩が痛んでいると言っていたので、仰向けになってもらい、夫の続きでわたしがマッサージをすると、
「ああ気持ちがいい。なんでわかるの?ここをこういうふうにしてもらいたいっていうのが」と言って、気持ち良さそうに目を閉じた。
しげ子さんの辛かったこと、苦しかったこと、痛かったこと、そんなものの一切合財を溶かして、わたしの手を通じて減らしてあげたい。
そう思った時急に、自分が辛い思いをしていた頃のことが蘇ってきて、わたしはその時、彼女とひとつになった気がした。
翌日のしげ子さんは、たっぷりと睡眠も取ることができ、耳鳴りも痛みも半減して、とてもすっきりしたと言った。
ランチを一緒に食べながら、とてもプライベートな話にまで花が咲き、あっという間に時間が過ぎていった。
昼過ぎから、近くにある『NJ Peace Action』での会合に行き、そこから歩美ちゃんと一緒に、『王様と私』のブロードウェイのショーを観劇。
その間に、わたしときたら、急に襲ってきた吐き気とどうしようもない怠さに、気持ちが動転してしまっていた。
まさか、昼間に作った料理にあたったか?
それとも、食べた量が多過ぎたか?
もしそれなら、しげ子さんも同じ物を、それも同じ量を、残してもいいと言うのに、昔人間だからと、お茶まで一滴も残さず飲んでいたくらいだったのだ。
おかしなことになってなかったらいいのだけども…と、くよくよと心配しながら、その日は結局断食をして、彼女たちの帰りを待った。
ショーが終わり、こちらに戻る車中から、「あと30分ほどで着きます」と、歩美ちゃんから連絡があった。
歩美ちゃんの声の向こうから、いつものように後部座席に座っているであろうしげ子さんの、元気そうな話し声が聞こえて、わたしはホーッと一息ついた。
よかった…しげ子さんは元気だ。
翌日の朝、しげ子さんを空港まで見送ってからも、わたしの体の変調は良くならなかった。
わたしはしげ子さんの中に、わたし自身を見ていたのだと思う。
奇しくも、しげ子さんと同じ13歳から22歳ぐらいまでのわたしに起こった、大小さまざまな辛い出来事を、
それらはしげ子さんのに比べたら、てんで比較にならないほどの些細なことかもしれないけれど、わたしにとっては充分に、自死を願い続けるほどに辛かったことを、
これまたしげ子さんと同じく、その折々に手を差し伸べてくれる人に恵まれながら、そしてその人たちが口にする希望の言葉を信じながら、
ひとつ、またひとつと乗り越えていた若かったわたしが、わたしの中にまた戻ってきているのだ。
何度も何度も、死にかけたり殺されかけたりした。
そんな恐ろしいことだらけだった十代の、自分の身の上に起こったことをおもしろ可笑しく人に話していると、何となく本当のことでは無かったような気がして楽になる。
そのことに気がついたのは、ずいぶん大人になってからだ。
しげ子さんがアメリカに、整形手術のために渡った頃の写真。
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25人のうちの一人の方が、麻酔事故で亡くなった時のことを話してくれた。
必死の思いで蘇生に努めた医師や関係者だったが、その甲斐もなく息を引き取ったその日、しげ子さんは病院で、ノーマン氏の迎えを待っていた。
いつもは笑顔のノーマン氏が、ひどく憔悴した姿でやって来て、今日は帰れないと言った。
それから3日後に、やっと迎えに来てくれたノーマン氏と一緒に、病院から帰る車中の窓から、セントラルパークの風景が見えた。
しげ子さんは、独り言のように、
「冬が終わると春が来る、ね」とポツリとつぶやいた。
その途端、ノーマン氏の顔にパッと笑顔が浮かび、いつもなら避けているファーストフードのお店に入った。
家に着いたら、夕食の準備が整っていて、お養母さんに叱られるかとびくびくしながら、「もう食べてきた」と告げると、
お養母さんはそれはそれは嬉しそうに微笑んで、「よかった!」と言ったのだそうだ。
彼はその時まで、食事が全くのどを通らなかったのだそうだ。
わたしはこのエピソードを聞いた時、ノーマン氏がなぜ、しげ子さんを養女にしたいと思ったのか、理解できたような気がした。
彼女の中にある、希望を捨てない心、信じる心、前に進もうとする強さ、生きとし生けるものを思いやる優しさを、見抜いていたのではないかと思う。
ばばちゃんにもわたしにも、お互いが自分の中にすうっと入ってきて、家族のようだねと言い合ったのだけど、
今わたしは、家族というよりも、わたし自身のような気がする。
もしわたしがばばちゃんだったら、きっとばばちゃんのように生きたし、もしばばちゃんがわたしだったら、きっとわたしのように生きた。
そんな感じ。
ばばちゃんは自分のことを「おてんてんだから」と何度も言った。
それを聞くたび、父がわたしに、「おまえはほんまにおつむてんてんやな」と言っていた声が蘇った。
ばばちゃん、わたしら、「おてんてん」やから生き延びられたのかもね。
人の言うことをすぅっと信じて、深刻に考えず、良くなることだけ思いながら前ばっかり見ていた。
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逢わせてくれた歩美ちゃんに、心から感謝!
また逢おうね、そうして、またいっぱいおしゃべりしようね、ばばちゃん。