ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

映画『ひろしま』 核廃絶へ 世界は今、この映画を待っている!

2024年08月08日 | 世界とわたし
ひろしま / Hiroshima (1953) [カラー化 映画 フル / Colorized, Full Movie]

この映画は、広島に原子爆弾が投下されてからわずか9年後の、1953年10月に公開されました。(私事ではありますが、わたしはそれから3年半後の1957年4月に生まれました)。
監督は関川秀雄さんです。
当然、それよりも前に撮影は始まっていたのですから、この映画の中には生々しく激しい感情が映し込まれています。
9万人近くもの市民がエキストラとして撮影に参加したのですが、その中には実際に被ばくした人たちもいて、原爆投下直後の混乱を如実に再現しました。
撮影中、「あの日」のことがよみがえってきて、体調を崩したり、泣き叫んだ人もいたそうです。

この映画は、大手の映画会社の協力は得られませんでした。
『原爆』を落とされた広島の地獄をとことん描いた作品の、一部の場面の削除をめぐり、大手配給会社と製作者との意向が折り合わなかったからだと言われています。
映像があまりに悲惨で、反米的な先導を招くような誤解を受けると、松竹や新東宝などの大手配給会社が尻込みをしたそうです。
「アメリカが真珠湾を忘れないと同時に、日本もヒロシマを忘れない」
「原爆犠牲者の頭蓋骨を外人に売りつけようとする」シーンの2箇所のカットを条件に上映を申し入れたのは松竹で、製作者側がこれを拒否した、と報道されています。
ですから国内では大々的な上映はできずじまいで、徐々に忘れ去られ、「幻の映画」と呼ばれていました。
国外では、1955年のベルリン国際映画祭において、長編映画賞を受賞しています。

2010年台から、自主上映会の活動が始まりましたが、フィルムの劣化が激しいことから、デジタル化をする必要が出てきました。
けれどもそれにかかる費用が莫大なため、なかなか進まなかったのですが、アメリカの映画会社から協力のオファーがかかり、北米で配信が始まりました。
今では日本でも、AmazonプライムやYouTubeで観られるようになっています。

今、このようなきな臭い情勢の中、これは世界中の人々に観てもらうべき映画だと心から思います。
核兵器の恐ろしさ、惨たらしさ、悍ましさを、目で見、耳で聞き、心に深く刻み込んでほしいと思います。







もう一つ、これはアメリカの実写が中心のドキュメンタリーです。
男性ナレーターが句読点無しで話すのがちょっと聞きにくいですが、ぜひご覧ください。

広島の知られざる映像|完全日本語ドキュメンタリー。
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「核廃絶は、遠くに掲げる理想ではなく、今必死に取り組まなければならない人類存続に関わる差し迫った現実の問題です」広島県知事・湯崎英彦氏

2024年08月07日 | 世界とわたし

広島県知事・湯崎英彦氏のスピーチの一部、文字起こし
先般、私は、数多の弥生人の遺骨が発掘されている、鳥取県青谷上寺地遺跡を訪問する機会を得ました。
そこでは、頭蓋骨や腰骨に突き刺さった矢じりなど、当時の争いの生々しさを物語る、多くの殺傷痕を目の当たりにし、必ずしも平穏ではなかった当時の暮らしに思いを巡らせました。

翻って現在も、世界中で戦争は続いています。
強いものが勝つ。
弱いものは踏みにじられる。
現代では、矢じりや刀ではなく、男も女も、子どもも老人も、銃弾で打ち抜かれ、あるいはミサイルで粉々にされる。
国連が作ってきた世界の秩序の守護者たるべき大国が、公然と、国際法違反の侵攻や力による現状変更を試みる。
それが、弥生の過去から続いている現実です。
いわゆる現実主義者は、「だからこそ力には力を」と言う。
「核兵器には核兵器を!」。
しかし、そこではもう一つの現実は、意図的に無視されています。
人類が発明して、かつて使われなかった兵器はない。
禁止された科学兵器も引き続き使われている。
核兵器も、それが存在する限り、必ずいつか、再び使われることになるでしょう。
私たちは、真の現実主義者にならなければなりません。
核廃絶は、遠くに掲げる理想では無いのです。
今、必死に取り組まなければならない、人類存続に関わる差し迫った現実の問題です。


広島に原爆が投下されて、50年になる。
当時小学生だった私は、爆心地から1、2キロの地点で被ばくした。
幸い、学校の塀のそばにいたため奇跡的に助かったが、前にいた女性は全身を熱線で焼かれて即死した。
爆風で家並みはつぶされ、街には全身の皮膚を焼かれた人々の幽霊のような行進が続いた。
私の父と姉、弟は、倒れた家の下敷きになり、母が必死で助け出そうとしたが、柱はびくともしなかった。
火災が起きて、弟は、「お母ちゃん、熱い、熱い」と叫びながら死んでいった。
その悲惨さは、とても『地獄』などと言う言葉で表せるようなものではなかった。
以後、私は、『原爆』という言葉から目と耳を塞いで逃げ回った。
あの時の凄惨な光景が目に浮かんでくるからだ。
だが、被ばく後21年間生き抜いた母が死んだ時、放射能の影響か、火葬でボロボロになってしまった遺骨を見て、「原爆は大事な母の骨まで奪っていくのか」と怒りに震えた。
この気持ちをエネルギーに、原爆をテーマにした漫画、『はだしのゲン』を書き続けた。
それは私の自伝で、書いてあることはすべて体験したことだ。
その後、大勢の読者から手紙をいただいた。
「戦争や原爆がこんなに悲惨だとは知りませんでした」
「二度とこんな事は許しません」
という内容がほとんどだったが、これで次の世代にバトンタッチできると思うとうれしかった。
「これから先、誰かが戦争や原爆を肯定するようなことを言っても、絶対に信じるなーー」。
それが、原爆体験者としての私が将来に託すメッセージだ。
(埼玉県所沢市・漫画家中沢啓治 56)
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