ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

生きたい気持ち

2022年03月31日 | 家族とわたし
春から秋にかけては裏庭の菜園の隣で、秋から冬の間はわたしの寝室で育ち続けているキンカンの木。
一時期は弱ってもうだめかと思ったこともあったけど、その後じわじわと蘇り、今年はたくさんの実をつけてくれた。
今回は楊枝の先で所々に穴を開け、砂糖を加えずにブランデーに漬け込んでみた。

漬けてから1ヶ月をめどに実を取り出していただくのだそうだけど、さてさて、どんな味に仕上がるだろうか…。

先週末はカルフォルニアから飛んできた次男くんと一緒に、ペンシルバニアの義父のお見舞いに行った。

先週末は、西海岸沿いの町でカラッと晴れた暖かな気候を満喫している彼には酷な寒さで、おまけに雪まで降ってきた。
いくら花冷えといっても、氷点下5度まで下がると身も心も縮こまる。
西海岸と東海岸の時差は3時間。
これに加えて、数日前まではバルセロナに出張していたので、彼の体感時間はもうめちゃくちゃになってしまった。
なので運転は大変だろうと思い、何度も交代を申し出たけど、結局行き帰りの運転を全部引き受けてくれた。


車の中でいろんな話をした。
次男くんは祖父とじっくり話ができなかったことを悔やんでいた。
人受けの良い長男くんに比べ、どちらかというとユニークな言動が多かった彼は、祖父が自分のことをどう思っているかが気がかりだった。
日本の学校では突飛な行動が目立ち、担任の先生の受けが良くなかった。
集団行動からはみ出ることも多かった。
それでこちらに移ってからは心機一転、良い生徒になろうと決心したのだけど、如何せん英語がよくわからず、違う意味で良い生徒にはなれなかった。
母親の離婚騒動に巻き込まれた孫を慰めようと、わたしの父が与えたゲームボーイで3歳から遊び始め、最初からどのゲームもすぐに攻略し、それからというもの、ゲームに熱中して欲しくない親の我々との攻防が続いた。
お茶目でふざけることが好きで、わざと悪ぶることもあったけど、思いやりに満ちていて、思考はいつも開放的だった。
だから絶対に大丈夫だと信じることができたし、どんな大人になるかがとても楽しみだった。
いわゆる有名大学には入学できなかったし、会社を転々としたけれど、常に真面目に働きながら、ゲームの世界では名声を得てスポンサーがついた。
二足わらじを履きながら、今はYouTube配信も手がけ、長年の夢だった世界最大のゲーム会社に入社してゲームデザイナーになった。
そういうこと全部を、わたしは義父に会うたびに話してきたのだけど、義父はいつもわたし同様に次男くんのことを理解していた。
そのことを次男くんに伝えると、彼は心底ホッとしたようだった。
会ってもきっと長くは話せないだろうから、一番伝えたいことをまず先に話した方がいいよと言うと、残念そうだったけれども踏ん切りをつけたようだった。


次男くんはコロナ禍が始まってからずっと、自宅勤務を続けている。
ガールフレンドのEちゃんと愛犬炭(スミ)くんと一緒に暮らしているのだけど、わたしたち両親から授かったいろいろな事柄を生活の中で活かしたり改良したりしているらしい。
彼もわたしと同じく、他人と一緒に暮らすようになってから掃除魔&片付け魔となったようだ。
自宅に居ることが多くなってから、宇宙のことをたくさん学んでいて、その膨大な量の事実を知るにつけ、人生そのものに対する考えが大きく変わったそうだ。
そのほんの一部を話してくれたけど、どれもこれもが唖然とするような話で、この世にはまだまだ知らないことが多過ぎるとしみじみ思った。

義父が役員になるまで長年勤め上げたハーシーズの新しい工場が、彼の家の近所に建っていた。

義父の容態は一進一退で、緊急の連絡が入った時のためにスーツケースには数泊用の着替えを詰めてある。
夫はまた明日からペンシルバニアに向かい、眠りや排便を助けるための漢方を処方する。
義父はまだ死にたくないと言う。
気が済むまで生きて欲しいと思う。
わたしの父も、モルヒネを増量されて意識が混濁する直前まで、家に帰りたい、生きたい、天ぷらが食べたいと言い続けていた。
義父は自分でトイレに行きたいあまりに無理をして、ベッドから転落した。
咳がひどく、体力も落ち、食べることも飲むこともほとんどできず、酸素吸入をしても息苦しい。
けれども生きたいという気持ちを持ち続けている。
もし許されるなら、義父のためにピアノを演奏してあげたい。
彼はわたしがピアノを弾くのをいつもとても喜んでくれていた。
そういう時間が許されますように。
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世界から戦争と武器が消える日

2022年03月27日 | 世界とわたし
上記(↑)の写真はwww.helabimarice.com よりお借りしました。
www.helabimarice.com(ヘレビマ)については、下記で説明しています。

******* ******* ******* *******

よく一緒に演奏しているソプラノ歌手のヴェロニカからメッセージが届いた。
彼女はウクライナ人で、家族は全員ウクライナに暮らしていることを知っていたので、ロシアの蛮行が始まってからずっと心配していた。

まうみへ
できればこの団体に寄付してほしいの。 
戦争が始まった最初の週に、人道的トラックで自らウクライナに来たドイツ人医師とその奥さんに会いました。
私は先週、ドイツで、家族の手伝いをしていました。
ビデオの中で旗を掲げているのは私の弟です。
ありがとう。

Volunteeres "Blago Ukraine" Help for Ukraine допомога Українцям


彼女から教えてもらった募金サイト。
わたしはペイパルで募金をした。
ここでも紹介してみなさんにお願いしようと思ったのだけど、なぜかリンクが開けられない。
彼女に問い合わせて、また再度試そうと思う。

代わりにと言ってはなんだけど、その募金画面に記されている言葉をここに載せておこうと思う。
Persönliche und direkte Organisation medizinischer und humanitärer Hilfe in individuellem Kontakt vor Ort - organisiert vom Münchener Arzt Erwin Lüddecke und seiner Verlobten Kateryna Oksenenko aus Charkiw Wir stehen mit BLAGO einer humanitären Organisation in CERNOWITZ in Kontakt, welcher ihr Bruder initiiert hat. Daher können wir genau und zielgerichtet die Hilfe leisten und wissen genau wer es bekommt. Mit viel Herz, familiär und direkt. Helfen sie uns das Leid zu mindern. Danke Erwin Lüddecke und Kateryna Oksenenko  

現地で個別に連絡を取り合いながら、医療・人道支援を直接組織する - ミュンヘンの医師Erwin Lüddeckeとハリコフ出身の婚約者Kateryna Oksenenkoが主催。
彼女の兄が始めたCERNOWITZの人道団体BLAGOと連絡を取り合っています。
そのため、的確で的を射た支援を提供することができ、誰がその支援を受けるかを正確に把握することができます。
心を込めて、親しみを込めて、直接的に。
苦しみを減らすために助けてください。
Erwin Lüddeckeさん、Kateryna Oksenenkoさん、ありがとうございました。

Helebima(ヘレビマ) 2012年12月22日、医師エルヴィン・リュデッケの主導により、バイエルン州アンプフィングに非営利団体Helebima e.V.が設立されました。
設立メンバーは、スリランカ・コロンボ出身の国際的に著名なアーユルヴェーダ医師、ジャヤナス・アベイウィクラマ博士の長年の教え子であり支援者である22名です。
協会の目的は、伝統的なアーユルヴェーダ、文化、医療、精神的な交流を促進することです。
協会はワークショップやセミナーを開催し、同時に設立された非営利会社RiceForLifeは、スリランカのエコロジーとスピリチュアルに栽培された米の輸入と貿易をコーディネートしています。
現在の役員は、第1代会長Roland Niedermeier氏、第2代会長Anneliese Jilg氏、会計担当Martina Niedermeier氏で構成されています。
さらに詳しい情報は、www.helebima.info 
アメリカでは、カリフォルニア州リノ出身の著名な実業家であるシャリ・チェイスが、同じ目標を掲げて、2013年にヘラビマ協会を設立。 
www.helabimarice.com 
ヘラビマワールドのミッションは、人類を養い、貧困と飢餓を減らし、ホリスティックな生活の価値を人々に伝え、健康と幸福を増進する道しるべとなることです。
2022年3月、同協会は医師エルヴィン・リュデッケと婚約者カテリーナ・オクセンネンコのウクライナ向け、および開戦直後の人道的使命を支援しました。
ルーマニア、ポーランド、モルドバの国境で難民を自ら迎え入れ、宿泊施設を手配し、初期医療を提供しました。
その後、ドイツでの輸送と宿泊は家族ぐるみで手配されました。
ドイツやウクライナの親戚や友人と連絡を取り合いながら、ドイツから直接、CERNOWITZに援助物資の輸送が行われました。
インスリンなど緊急に必要な医薬品は、1日以内に手渡すことができました。
現在、被災地へ直接お届けできるよう、現地の方々のご協力をいただきながら調整中です。
現地のパートナーはノンプロフィット(非営利団体)です。


自国民に命を捧げよと声高に訴える政治家は政治家ではない。
自国民が殺されることを前提に正義を語る政治家は政治家ではない。
戦争を仕掛けた政治家は失脚する、あるいは終身刑を課せられる。そんな制度や法律が作られないものか。
戦争を行った軍は解散する。そんな憲法が作られないものか。
戦争は暴力だ。
戦争は人を殺し、街を破壊し、ズタズタにする。
そんなものに正義などあるわけがない。
人を殺してはならない、街を破壊してはならないと、誰もがわかっているのに、戦争になると真っ先にそれが行われる。
人間世界は一向に良くならない。
戦争ビジネスをやめない人たちは悪魔の他の何者でもない。
ならば地球が、世界が、絶対に戦争をしてはならないと決めるしかない。
軍は災害時の救助や復興に特化した組織に生まれ変わり、武器の代わりに救助用具や開拓道具を手に持って活躍する。
日本は平和憲法を掲げ、世界をリードしていく国になるべきだ。
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春、いのちを想う

2022年03月25日 | ひとりごと
この頃の両親は紳士服の仕立て屋をやっていて、その仕事っぷりが優良だったことから、大阪の有名百貨店への仕入れを許されていた。
わたしと3歳下の弟のよそ行きの服は、たいていが母の手作りで、母も含めて3人がお揃いの洋服を着て、訪れた町の通りをウキウキ気分で歩いたものだ。

金回りも良く、贅沢に暮らしていた10年あまりだったが、家の中には小さなウソや秘密がそこかしこに隠れていて、見て見ぬふりをするのが面倒だったし、いつもモヤモヤとした不安が心の中で漂っていた。

わたしたちがまだ小さい頃、父は8ミリカメラなどで盛んに撮っていたから、家族写真は何冊ものアルバムに保管されていたのだけれど、借金の取り立てや差し押さえの際に、家具と一緒にほとんどが持ち去られてしまった。
火事にでも遭ったと思えばいいやとその頃は思っていたけど、今頃になってあの頃の投げやりになっていた自分を残念に思う。

夫は今日もまた、週末の看護にペンシルバニアに向かう。
その日その時間の義父の体調や症状に合わせて調合できるよう、ありとあらゆる種類の漢方薬の粉末を持参する。

82歳の義父は数週間前まで、なんとかして生き続けたいと思っていた。
どんな治療でも可能な限り受けて、肺炎に罹る前の状態に戻りたいと言っていた。
20年来にわたって苦しんできた不眠症に前立腺癌の辛い治療が加わり、そこに今回の肺炎だ。
抗生物質の効果もあまり芳しくなく、介護を一手に引き受けている義母も同い年の82歳。
これでは共倒れになってしまう。
夫が毎週通うようになってから、少しはその大変さが軽減されたとはいえ、それぞれに違う思いが交差してして、どうするのか、どうしたいのかの決定がなかなか定まらなかった。
試行錯誤してやっと、病院には入りたくない父の在宅ホスピスが決まった。
わたしはこれまでホスピスというと、終末医療を施してくれる病院だと思っていたが、夫が言うにはそうではなくて、自宅であれどこであれ、その人が希望する場所でその人らしく生き、死を迎えられるよう支え見守っていくことを言うのだそうだ。
義父の場合はその場所が自宅だった。
義母は複数のエージェントに連絡を取り、1週間全ての夜から翌日の朝にかけて介護してくれる人を手配した。
この暮らしがいつまで続くかはわからないけれど、義父が1日も長く穏やかに、彼を案じて訪れてくる人たちとの再会を楽しみ、質の良い眠りを得られることを祈る。

政府から各家庭に送られてきた4回分の簡易テストセット。
マスク着用義務が解除されてから、感染者数がまた増えてきたので、まだまだ油断はできない。

わたしはいつも単独で日帰り見舞いをするのだけど、先週は長男くんと奥さんのTちゃん、今週はカリフォルニアから駆けつけてきた次男くんと一緒に行く。
この年になると片道3時間弱の日帰り運転を一人でするのはかなりしんどいので、分担できる人がいるととても助かる。
今回もおにぎりとおやつを食べながら行こうと思う。

最近ハマっている相撲みかん。売り場では本当に「Sumo Citrus」と書かれている。

久しぶりに、近所の友人Sちゃんと一緒にガールズランチに出かけた。
ミドルイースタンのレストランでは、グルテンフリーの人間はなかなか楽しめないのだけど、このお店はほとんどがグルテンフリー😵


猫柳を背負って立つ山ちゃん。

5月からレジ袋(プラスチックも紙も)が無くなるので、各自で買い物袋を持参しなければならない。

前庭の春






先代の家猫ショーティの墓守り夫婦

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「戦争をやめろ!戦争反対!プロパガンダを信じるな!この人たちはあなたにウソをついている!」

2022年03月15日 | 世界とわたし



ロシアのウクライナ侵攻が始まってから、日を追うごとに酷いニュースが耳に入ってきます。
その中には誤報やプロパガンダも混入していて、一体何が本当なのかよくわからなくなってしまいます。
いろいろな方々の話を聞いて、いろいろな方面からの現状を見て、自分なりに理解しようと思うのですが難しいです。
これまで聞いてきた中で、この方の話がとても興味深かったので、1時間10分と時間は長いのですが、ぜひ聞いていただけたらと思います。

ロシアのウクライナ侵攻①

ウクライナは左上部に位置します。

冒頭の7分弱の部分だけでも、「なるほどなるほど」と何度思ったかしれません。
プーチンの大統領になり方が非常に汚かった。
首相時代、モスクワの3都市で起こったテロ事件をチェチェン人の仕業に違いないと断定する。
少数民族、イスラム教徒というのを利用して、イスラムに対する偏見を利用してイスラム教徒のテロだという話に持っていく。
チェチェン共和国の首都グロズヌイを空爆し、チェチェン人を悪者扱いし、第二次チェチェン紛争を引き起こすことで人気を得て大統領になった。
ではなぜプーチンは、このチェチェンにこだわったのか。
ロシアは、チェチェンの右側、カスピ海沿岸一帯の、バクー油田(19世紀での石油の半分を賄っていたほどの採掘量を誇る)などで有名な非常に豊かな石油と天然ガスを、世界に売り捌いてボロ儲けをしたかった。
チェチェンが独立してしまうと、ロシアの富の源になるパイプラインを管理するのが難しくなるというので、空爆などで独立を阻止している。
ジョージアはチェチェン同様、パイプラインが通っている。
今現在、侵攻しているウクライナにもパイプラインが通っている。

プーチンが仕掛ける侵攻・戦争の本質、天然ガスと石油のパイプラインの利権である。
何度だって言いますが、戦争は人殺しです。
土地や資源を奪うために、自分たちが潤うために、ありとあらゆる手を使って理由や話を作り上げ、権力と金を使って世論を煽り、人と街を破壊する戦争は、この世で最も愚かなことです。
世界中の国が放棄すべきことです。
こんなことを一井の市民であるわたしが言ったところで、世の中は何も変わらないじゃないか。
そんな思いが込み上げてくるたびに、わたしはわたしに言い聞かせます。
変わらなくても言い続けていこう。
それが人として生まれたわたしの使命ですから。
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青空の下で

2022年03月12日 | 家族とわたし
母は、自分が家を出た時は着の身着のままで追い出され、だからもちろん所持金も無く、近くの公民館の噴水の脇で長い間座っていたと言う。
わたしとはまるで違う話だ。
身動き一つできずに突っ立っていたわたしの脇を、スーツケースを持った彼女が通り過ぎた時に揺らいだ廊下の空気や、後ろを振り向きもせずに玄関に突進して行く彼女の背中の硬さを、わたしははっきりと覚えているというのに。
母は、靴に足を入れるのももどかしいほどに苛立ちながら玄関のドアを開け、そうしてそのまま出て行った。
「ママー!ママー!」と泣き叫びながら母を追おうとする弟を止め、そのまま廊下の隅にうずくまり、膝小僧におでこを乗せて息を整えていると、突然胸のあたりにぽっかりと、黒々とした穴が空き始めた。
それを見ながら、「ああ、胸に穴が空くというのは本当にあるんだな」と感心したことまで覚えている。
そしてその日は母の日だった。
でもそれは、もしかしたら、わたしの頭の中だけのことなのかもしれない。
母の日の翌日はもちろん月曜日で、だからわたしも弟も学校に行かなければならなかった。
弟は愚図ったが、こういう時こそお姉ちゃんなんだから弟を連れていつも通りに学校に行かなければならないと言う父の命を受けて、泣き腫らした目を瞬かせながら外に出た。
空は5月晴れで腹立たしいほどに輝いていた。
町も人も、どれもこれもがいつもと変わらず、どちらかというと活き活きと楽しげだった。
うなだれて歩く弟の手をひきながら、13歳のわたしは痛感した。
わたしたち姉弟の身の上に突然降りかかってきた不幸や悲しみや辛さは、誰にもわからないしわかってもらえない他人事なのだと。
カラカラに晴れた空の下で、そのことがくっきりと、まだ穴が空いたままのわたしの心に刻み込まれた。

その事件以降、追い討ちをかけるような事件が次々に起こって、わたしは何度も折れそうになったけど、それでも結局は生き延びて今に至っている。
そして生き延びられたのは、いつも誰かが手を差し伸べたり、陰で支えてくれたりしたからで、決して自分だけの力ではないことも知っている。

世の中で、大小関わらず事故や災害や戦争や家庭内の争いに巻き込まれた人たちのことを知るたびに、あの日の青空を思い出す。
そして見知らぬ人たちの心に思いを馳せる。
何も無かったかのように素知らぬ顔をしてやってくる日常に、憤ったり恨めしく思ったりした13歳のわたしを思い出しながら。

またあの日がやってきた。
時差があるから正確にはもう過ぎたのだけど、わたしの中の3.11への思いと祈りを今日一日持ち続けようと思う。
そして愚かな権力者たちの暴力で命を奪われる恐怖に苛まれている人たちが、1日も早く平安な毎日を取り戻せるよう祈り続けようと思う。
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え?こんなに?

2022年03月11日 | ひとりごと
みなさんは何個正解でしたか?
わたしはたったの15個でした😭
いやあ、どの時点でこんなにたくさんの思い違いをするようになったのでしょう?
不思議でなりません。
まあ、歌詞の思い違いはここにも何回か書いたので覚えてくださってる方もいらっしゃると思いますが…。
うさぎ追いしかの山〜を、うさぎをおぶって歩くおじいさんを想像したり、
思い込んだら試練の道を〜を、重いコンダーラ(整地用のローラー)を引きずってると思ってたり、
月極の看板を見て、北極と南極の仲間かと思ったり、
まあ、思い違いというのは恥ずかしくもあり、可笑しくもあり、小確楽(小さいけれど確実に楽しいこと)でもあり…。
辛いニュースが次々と報じられる今だから、余計にお話ししてみたくなりました。
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三寒四温のひとりごと

2022年03月11日 | ひとりごと
3日前は20℃を超えてたのに、昨日は雪とみぞれが降った。
草も花も木も、そして野生の動物たちも、この寒暖の差に混乱しているだろう。

暖かな日には散歩に行く。

玄関ポーチではワンちゃんがくつろいでいた。


つい最近、人文科学研究とやらのクラスで学んでいる高校生からインタビューを受けた。
そのクラスの最新のプロジェクトが、興味深い人生を歩んだ人にインタビューをするというもので、わたしのことをよく知っている彼女の父親の勧めでこの企画が決まった。
英語で答えるので年齢相応の言葉が使えなかったけれど、まあとりあえず大事な部分は伝わっただろうと思う。
彼女はインタビューの中で何度も、人があまり経験しないことをたくさん経験したことで、日本という国や政府に対して何か思ったことや言いたかったことがありますか?と聞いてきた。
それであらためて当時のことを思い出しながら考えてみたのだけど、何も言葉が浮かんでこなかった。
その日その日をただただ生きて、次の日に目覚めても何も変わらない1日が始まることにため息をつきながら、それでも生きることをやめなかった高校生のわたしが、画面の向こうにいる若々しい高校生に何が言えるのだろう。
しばらく黙って、ちょっぴり苦笑いして、自分のことだけで精一杯だったと答えた。
だからその当時の日本や政府がどうだったのかは、まるで記憶喪失にかかったみたいにまるで覚えていない。
自分が何をしていたかすらほとんど覚えてなくて、周りに居た友だちや知人の記憶に頼らなければならない。
脳っていうのは本当にすごい。

影と飛行機雲

女性のための活動をするクラブ

春を呼ぶ鳥ロビンがあちこちに。胸のオレンジがいい感じ。

わたしが乗ったら一発で枝が折れるだろうけど、乗ってみた〜い!

ここでよく生徒のピアノ発表会をしたなあ…。

石フェチなのでつい…。

樹氷が溶ける時って雨降りの音がする。でも空は曇ってなくて大抵晴れるから、そのしずくは光のつぶみたいにキラキラ輝いている。


夫の父が肺炎に罹り、病院で治療を受けたかったのだけど病室が空いておらず、救急病棟で6時間もの間待たされた。
ペンシルバニアの病院はまだ平常の状態に戻っていない。
抗生物質を投与してもらっても肺の状態が良くならず、尿も出にくくなってきた頃、夫が突如、朝起きてくるなり泣いた。
車で3時間弱にある両親の家は、頻繁に通うには少し遠い。
母親からは毎日のように相談や経過報告の電話がかかってきて、そのたびにお灸や置き針のツボを伝えたり、症状に合う漢方を処方したりしていたが、さすがに今回は仕事を全てキャンセルして実家に駆けつけた。
病院での治療が始まって、尿も少しずつ出るようになり、そうなるとやはり病院は追い出しにかかる。
たった数日の入院で、まだ完治したのかどうかもわからないまま家に戻ってきた父は、夫からかかってきた電話の向こうで激しく咳き込んでいた。
わたしが行ってもさほど役に立てないし、空と海の世話もしなければならなかったので家に残っていたのだけど、やっぱり決心して日帰りでお見舞いに行った。
義父はベッドで眠りたいのを我慢して、わたしが到着するまで椅子に座って待っていてくれた。
身体はひとまわり小さくなり、目もとろんとしていたが、手のひらは温かく柔らかかった。
そこでふと気がついた。
義父のパジャマ姿を見たのは初めてだってことに。
彼の義娘になって30年が経つのだけれど、彼はいつだってネクタイにスーツ、ワイシャツにセーター、いつでもすぐに会議に出られるような格好をしていて、パジャマや部屋着はもちろん、ショートパンツ姿でさえ見たことがない。
というか、多分そういう類の物は持っていない。
そのことを話したら、はじめはちょっとキョトンとして、それから少し寂しそうな顔をした。
あ、またやっちゃったか?
笑わせようとして、その場を和まそうとして、べらべらしゃべって失敗するっていうやつ…。
でももう外に出てしまったものは取り戻せない。
まだまだ修行が足りないのだなあと反省しながら、ひたすら義父の手のひらをマッサージした。

4時間ほど居てまた帰路につく。
ペンシルバニアの夕暮れ



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