春から秋にかけては裏庭の菜園の隣で、秋から冬の間はわたしの寝室で育ち続けているキンカンの木。
一時期は弱ってもうだめかと思ったこともあったけど、その後じわじわと蘇り、今年はたくさんの実をつけてくれた。
今回は楊枝の先で所々に穴を開け、砂糖を加えずにブランデーに漬け込んでみた。
漬けてから1ヶ月をめどに実を取り出していただくのだそうだけど、さてさて、どんな味に仕上がるだろうか…。
先週末はカルフォルニアから飛んできた次男くんと一緒に、ペンシルバニアの義父のお見舞いに行った。
先週末は、西海岸沿いの町でカラッと晴れた暖かな気候を満喫している彼には酷な寒さで、おまけに雪まで降ってきた。
いくら花冷えといっても、氷点下5度まで下がると身も心も縮こまる。
西海岸と東海岸の時差は3時間。
これに加えて、数日前まではバルセロナに出張していたので、彼の体感時間はもうめちゃくちゃになってしまった。
なので運転は大変だろうと思い、何度も交代を申し出たけど、結局行き帰りの運転を全部引き受けてくれた。
車の中でいろんな話をした。
次男くんは祖父とじっくり話ができなかったことを悔やんでいた。
人受けの良い長男くんに比べ、どちらかというとユニークな言動が多かった彼は、祖父が自分のことをどう思っているかが気がかりだった。
日本の学校では突飛な行動が目立ち、担任の先生の受けが良くなかった。
集団行動からはみ出ることも多かった。
それでこちらに移ってからは心機一転、良い生徒になろうと決心したのだけど、如何せん英語がよくわからず、違う意味で良い生徒にはなれなかった。
母親の離婚騒動に巻き込まれた孫を慰めようと、わたしの父が与えたゲームボーイで3歳から遊び始め、最初からどのゲームもすぐに攻略し、それからというもの、ゲームに熱中して欲しくない親の我々との攻防が続いた。
お茶目でふざけることが好きで、わざと悪ぶることもあったけど、思いやりに満ちていて、思考はいつも開放的だった。
だから絶対に大丈夫だと信じることができたし、どんな大人になるかがとても楽しみだった。
いわゆる有名大学には入学できなかったし、会社を転々としたけれど、常に真面目に働きながら、ゲームの世界では名声を得てスポンサーがついた。
二足わらじを履きながら、今はYouTube配信も手がけ、長年の夢だった世界最大のゲーム会社に入社してゲームデザイナーになった。
そういうこと全部を、わたしは義父に会うたびに話してきたのだけど、義父はいつもわたし同様に次男くんのことを理解していた。
そのことを次男くんに伝えると、彼は心底ホッとしたようだった。
会ってもきっと長くは話せないだろうから、一番伝えたいことをまず先に話した方がいいよと言うと、残念そうだったけれども踏ん切りをつけたようだった。
次男くんはコロナ禍が始まってからずっと、自宅勤務を続けている。
ガールフレンドのEちゃんと愛犬炭(スミ)くんと一緒に暮らしているのだけど、わたしたち両親から授かったいろいろな事柄を生活の中で活かしたり改良したりしているらしい。
彼もわたしと同じく、他人と一緒に暮らすようになってから掃除魔&片付け魔となったようだ。
自宅に居ることが多くなってから、宇宙のことをたくさん学んでいて、その膨大な量の事実を知るにつけ、人生そのものに対する考えが大きく変わったそうだ。
そのほんの一部を話してくれたけど、どれもこれもが唖然とするような話で、この世にはまだまだ知らないことが多過ぎるとしみじみ思った。
義父が役員になるまで長年勤め上げたハーシーズの新しい工場が、彼の家の近所に建っていた。
義父の容態は一進一退で、緊急の連絡が入った時のためにスーツケースには数泊用の着替えを詰めてある。
夫はまた明日からペンシルバニアに向かい、眠りや排便を助けるための漢方を処方する。
夫はまた明日からペンシルバニアに向かい、眠りや排便を助けるための漢方を処方する。
義父はまだ死にたくないと言う。
気が済むまで生きて欲しいと思う。
わたしの父も、モルヒネを増量されて意識が混濁する直前まで、家に帰りたい、生きたい、天ぷらが食べたいと言い続けていた。
義父は自分でトイレに行きたいあまりに無理をして、ベッドから転落した。
咳がひどく、体力も落ち、食べることも飲むこともほとんどできず、酸素吸入をしても息苦しい。
けれども生きたいという気持ちを持ち続けている。
もし許されるなら、義父のためにピアノを演奏してあげたい。
彼はわたしがピアノを弾くのをいつもとても喜んでくれていた。
そういう時間が許されますように。