米軍が最も恐れた男
〜あなたはカメジローを知っていますか?〜
語り 山根基世
このビデオを昨日、フェイスブックで知ることができました。
ここにこの動画を載せることができないので、文字起こしをしながら、お伝えしようと思います。
沖縄の、島ぐるみ闘争の不屈の精神。
その原点となった瀬長亀次郎さんの生き様と共に、沖縄が負わされてきた苦難や、理不尽な迫害の実態が、60年経った今と同じようなものだということを、改めて思い知らされました。
******* ****** ******* *******
↓以下、文字起こしはじめ
普天間基地の移設をめぐり、国に訴えられた裁判の開廷前。
沖縄県の翁長知事は、必ずこの場所に現れた。
「知事がみえました」
リーダーに、自らの思いを託す人々が作る、一体感や高揚感が包む光景。
実はこれを、かつての沖縄にあった、風景と人物に重ねる人も多い。
観光客が行き交う、那覇市の国際通り。
ここで、その人物は、歌になっていた。
♪それは昔むかしその昔 偉い偉い人がいて 島のため人のため 尽くした♪
民衆の先頭に立ち、演説会を開けば、毎回何万もの人を集めた男。
「一番偉い人と思います、はい、大好きですから」
「言葉が好きでしたね、正直で。もうああいう方、いないんですね」
「カメさんとか、カメジローさんとか」
♪おしえてよ 亀次郎♪
その人物とは、瀬長亀次郎。
「「抵抗の戦士」みたいなね、イメージでしたね」
「命を捨てていますからね、何も恐くは無いわけですよ」
「追っかけするのが楽しかったよ。神様みたいだね」
そして、
半世紀以上も前の空気が、今、沖縄でよみがえっていると感じている。
「今の戦いとおんなしみたいだ。亀次郎と言う人がいなかったら、こういう盛り上がりはなかったと思うよ」
「沖縄の人を統一させるっていう、団結させるっていうことに、信念を注いでいた人で…」
団結して立ち向かったのは、戦後、沖縄を占領した、アメリカ軍の圧政。
祖国復帰に向けて、民衆をリードしたその人物は、アメリカ軍が、最も恐れた男だった。
米軍が最も恐れた男
〜あなたはカメジローを知っていますか?〜
https://www.facebook.com/groups/763784207089945/
戦後71年の、慰霊の日。
おびただしい数の犠牲を生んだ、悲劇の後も、沖縄の苦難の時は、止まることがない。
そのすべての始まりは、この沖縄戦である。
県民の、4人に1人が命を落とした地上戦は、本土決戦を遅らせるために、日本が、沖縄を捨て石とした戦いだった。
去年発見された、未完成の原稿に、これまで知られていなかった、瀬長亀治郎の、沖縄戦体験が記されていた。
一家は、激しい艦砲射撃が島を襲う中を、逃げ惑っていた。
その道中で、亀治郎が目にした光景だ。
『朝日が上がり、道端に転がっている死人を照らし出した。
死臭で息が詰まるようだ。
鉄帽を射抜かれて、倒れている兵隊。
両足を吹っ飛ばされて、頭と胴体だけで、仰向けに天をにらんでいるおじさん。
頭のない赤ん坊を背負って、あざみの葉を握りしめて、うつ伏せている婦人の死体。
母は気を失って倒れてしまった。
そんな過酷な沖縄戦を、生き延びた人々が、次に直面したのは、捨て石の先に待っていた、占領の時代を生き抜く事だった。
沖縄戦の残骸が、今も自宅周辺で見つかる、島袋善祐さんの記憶に残るのは、夜な夜な家にやってきた、アメリカ兵の姿だ。
島袋さん:
「コレカーラハ、ミンシュシュギデース。モウセンソウハアリマーセン、ってさ、こういうのはまあ、偉い人は言うでしょ。
しかし、夜になると、どんどん女を襲いに来るさね。
ヘイ、オクサーン、ネイサーンって来るさ。
だから、私は、母さんと姉さんは床下に、女はいませーんって。
だから玄関には、男の大きな靴を置いて、女はいないっていう」
(田井等)収容所では、極度の栄養失調で、倒れる人が相次いだ。
配給する食料を、増やすよう訴えた亀次郎たちに、アメリカ兵は言い放った。
「いったい戦争に負けたのは誰なのだ。生きておればそれで良いではないか」
うるま市の一部となった旧石川市は、戦後沖縄の、政治経済の中心地として発展した。
市内のこの民家にできたのが、戦後初の行政組織、沖縄諮詢会。
その会議録に、アメリカ軍幹部(ワトキンス少佐)の発言が残っている。
『軍政府は猫で、沖縄はネズミである。猫の許す範囲しか、ネズミは遊べない』
戦争直後こそ、沖縄戦で住民を虐殺するなどした、日本軍からの解放者と言われたアメリカ軍だったが、次第に、占領者の顔を見せていった。
植民地支配そのものの実態に、亀次郎はこう言った。
「戦争は終わったが、地獄は続いていた。この連中は、県民の味方では無い」
戦後初めて発刊された、うるま新報。
その社長に、亀次郎が就任した。
それをきっかけに、亀次郎は、沖縄中を駆け周り、軍事占領に疑問を持つ人々との関係を強めていった。
そして、ついに立ち上がる。
1947年7月、沖縄人民党を設立。
日本が、無条件降伏の際に受け入れた、ポツダム宣言の主旨に則った綱領を掲げた。
民主主義を確立。
基本的人権を尊重し、自主沖縄の再建を起す、
というものだ。
亀次郎は、ポツダム宣言に出会った感動を、記していた。
『その時の感激は、一生忘れないだろう。
それは、沖縄人民党結成の動機の一つとなり、アメリカ占領軍からの、県民解放の理論的武器になった』
その一方で亀次郎には、市民が、敗戦の負い目から、理不尽な占領軍への抵抗心を、奪われているように見えていた。
そんな心の奥底にあるものを呼び覚まし、一筋の光となったのが、亀治郎の演説だった。
島袋善祐さん:
手を握って、一握りの砂も、一滴の水も、とさや、ぜーんぶ私たちのものだよと。
地球の裏側から来たアメリカは泥棒だよと。
みんなで団結して、負けないようにしようという、こういう話。
それにもう、したいひゃー(あっぱれ)亀治郎!とさや。
さらに、有名なフレーズとなって、今に語り継がれている演説がある。
(演説が行われた那覇私立首里中学校・1950年7月)
この瀬長一人が叫んだならば、50メートル先まで聞こえます。
ここに集まった人々が、声をそろえて叫んだならば、全那覇市民にまで聞こえます。
沖縄70万人民が、声をそろえて叫んだならば、太平洋の荒波を超えて、ワシントン政府を動かすことができます。
その演説会の司会をしていたのが、その後、亀治郎を支えた、仲松庸全さんだ。
仲松さん:
指笛を鳴らして、拍手喝采が鳴り止まないといったようなですね、司会者の私も、その長い拍手をどう止めるかに、苦労した記憶があるんですよ。
その時、誰も口にし得なかった「基地撤去」とかね、「米軍は土地代を支払う」とかね、そういう要求を高く掲げて、演説でやったんですよ。
すごい迫力でしたね。
当時高校生だった、元知事の稲嶺恵一さんも、亀治郎の演説を追いかけていた一人だった。
稲嶺恵一さん:
もう早くから、むしろを持ってね、その一番前に、仲間とみんなでね、聴きに行ったことがありますよ。
強烈にアメリカを叩くわけですよ。やっつけてくれるっていう。
我々はその、若い青年ですから、子どもにとってはね、まあまあ、憧れの人のひとりでしたね。
民衆や大衆の心をつかんでいたという、みんな帰りはすっきりして、ニコニコして、帰ってきましたからね、話を聞いた後。
同じ頃、世界情勢は、急を告げていた。
朝鮮戦争が勃発し(1950年6月)、ソ連との冷戦抗構造が、より深刻化したことで、アメリカは、
反共の防波堤として、沖縄を恒久的な基地にする、と宣言した。
翌1951年(9月)、サンフランシスコ講和条約で決まったのは、日本の独立と、沖縄の占領支配。
本土が、経済復興に向かおうとする中で、沖縄は取り残されたのだ。
沖縄を切り離すための環境は、徐々に整えられていた。
GHQ(連合国軍総司令部)マッカーサー最高司令官は、
「琉球は、われわれの自然の国境である。
沖縄人は日本人ではない以上、アメリカの沖縄占領に対して、反対しているようなことは無いようだ」、と明言。
(沖縄新民報紙面にて・1947年7月15日付)
この2ヶ月後、昭和天皇の側近が、GHQに届けたのが、いわゆる天皇メッセージだ。
「琉球諸島の将来に関する天皇の見解」
昭和天皇は、アメリカによる、沖縄の軍事占領が続くことを希望していて、それがアメリカに役立ち、日本に保護を与える、としている。
その形式は、日本に主権を残し、25年ないし50年、あるいは、それ以上の長期租借、と記されている。
そして、
日本の独立と共に結ばれたのが、沖縄を基地にした元での、日米安保条約。
沖縄の軍事占領と、日本の非武装化、表裏一体のものだった。
そんな中で、事件は起きた。
世界遺産、首里城。
その正殿の場所には、戦後、アメリカ軍が建設した、琉球大学の校舎があった。
ここで行われたのが、琉球政府創立式典(1952年4月1日)だ。
現在の県議会議員にあたる、立法院議員が、アメリカ軍への忠誠を誓う宣誓が行われた。
全員が脱帽し、直立不動の中、ただ一人、立ち上がらなかった人物がいた。
瀬長亀次郎だった。
仲松さん:
瀬長さんが、鳥打帽子をかぶったまま座っているわけですよ。
おおーっというですね、地鳴りのような声が、会場全体から上がりよったですよ。
驚きの声だったと思う。
それから感動。
アメリカに対する抵抗をね、具体的な形で表したわけですからね。
この行動は、“占領された市民は、占領軍に忠誠を誓うことを強制されない”という、ハーグ陸戦条約を根拠にしたものだった。
この出来事から32年後(1984年)に、当時を振り返る、亀治郎の肉声が残されている。
「我々はね、占拠されたんだから、アメリカじゃなしに、沖縄県民にね、それはそのー誓いますと、いうことは当然ですから。
米国民政府に忠誠を誓うために、選挙されたんじゃないんだと。
アメリカの星条旗の下で宣誓するとは何事だと。
この事件がね、アメリカにとってはね、いわゆる、瀬長の奴は好ましからざる人物、というふうに、極めて印象付けたんじゃないかと」
そして、民衆と一体化していく亀治郎と、アメリカ軍の戦いが始まった。
アメリカは、地主との賃貸契約が不調に終わっても、土地を強制的に取り上げることを可能にし、その土地代の、一括払いの方針を決めた。(『土地収用例』・1953年4月発布)
つまり、
基地として、永久に使用することを目論んでいた。
“侵略者の本性むき出しの進軍”
そう強く非難した亀治郎が先頭に立ち、立法院は、土地を守る4原則を打ち出した。
『土地を守る4原則』
⚫️土地代の一括払い反対
⚫️適正、完全な補償
⚫️米軍による損害の賠償
⚫️新規土地接収反対
1954年4月のことだった。
それから半年が経った10月6日、亀治郎が突然、逮捕された。
容疑は、アメリカ軍の退去命令に従わなかった男をかくまった、とするものだった。
弁護士をつけることも妨害された亀治郎は、裁判でこう述べた。
「被告人瀬長の口を、封ずることはできるかもしれないが、虐げられた幾万大衆の口を、封ずることはできない」
「祖国復帰と土地防衛を通じて、日本の独立と平和を勝ち取るために捧げた、瀬長の生命は、大衆の中に生きている」
判決は、懲役2年。
当時のニュースには、
アメリカの意向を汲んだ、メディアの姿勢も見える。
琉球ニュース
共産党政治家が、いかに卑劣で欺瞞に満ちているかが、明らかにされたのであります。
そこには、
共産主義をレッテルを貼り、亀治郎を徹底的に排除しようとする、占領軍の狙いが、色濃く見えた。
仲松さん:
土地強奪をするのに、一番邪魔になる党を潰しておかんといかんと。
瀬長さんというのは、この県民闘争のですね、県民の要求の、県民の戦いのシンボルですからね。
沖縄刑務所に収監された亀治郎は、克明な日記を綴っていた。
11月2日獄中日記を書き始める。
囚われの身になっても、祖国復帰への想いが、衰える事はなかった。
祖国復帰と土地防衛の戦いが、より熾烈化する年である。
しかし、亀治郎のいない間に、基地は、さらに広がっていった。
普天間基地を抱える、宜野湾市伊佐浜に広がっていた、美しい田園風景。
田畑や家屋を、アメリカ軍の銃剣とブルドーザーは、一気に押しつぶして行った。
質問:
力ずくで追い出すんですか?
前原穂積さん:
もうそうですよ、家を壊していくんだから。
貧弱な木材建ての家ですからね、どんどん壊していく、簡単に。
前原穂積さんは、土地闘争の最前線に立っていた。
前原さん:
住民はやっぱり、座り込みをするとか、そういうことで戦うわけですよね。
それに対して、(米軍は)排除するために銃器を突きつけると。
威嚇するわけよね。
戦いはあっという間に終わりをつげていた。
住民たちが一旦引き上げた、翌朝のこと。
前原さん:
朝起きたら、全部、(金網が)張り巡らされていたね。
こっちが寝ている間にやられた。
一夜にして、伊佐浜の風景は、一変した。
ブルドーザーを運転していたのは、アメリカ軍に雇われた、沖縄の人々だった。
何をやるかはギリギリまで知らされず、逆らうことはできなかった。
前原さん:
たーぶか(田んぼがよく実る所)っつってね、伊佐のたーぶかっつったら、有名だったんですよ。
米がよくできると。
生命の糧ですよ。
土地を離れては生活できないと。
生命の糧は、その面影すらなくなり、基地へと姿を変えた。
この場所にあった、沖縄戦から立ち直ろうとする住民たちの暮らしは、また、軍隊によって奪われていった。
亀治郎の獄中日記より:
伊佐浜の土地の収奪は、身を切られる思いがする。
伊佐浜民の地獄の苦しみを思い、ほとんど一睡もしなかった。
残虐な事件も、後を絶たなかった。
同じ年の9月、わずか6歳の女の子が、アメリカ兵に誘拐、乱暴され、惨殺された。
事件は、仲松さんの脳裏を離れない。
仲松さん:
6つになる女の子がね、ああいう形で、ハート軍曹に、強姦されて殺されて、唇を噛んで、草を握り締めて死んでいる、幼い女の子をね思うと、
今でも、あのー、怒りの涙が、こぼれそうな感じがするんですよ。
この(犯人の)ハート軍曹は、死刑判決が出て、米国に帰されたけれども、米国でどうなったかはね、全然情報が無い。
今まで誰も知らない。
それが、アメリカ兵犯罪の実態だった。
獄中日記(1955年9月21日)
腹の底からの怒りである。
鬼畜に劣る米兵の行動…
団結を固めよう。
三度叫ぶ。
一切の利己心を捨てよ。
その呼びかけは、現代でいう、オール沖縄の結集だった。
この獄中日記には、家族からの手紙が閉じられていた。
「お父さんは体が悪いそうですね」
次女ちひろさんが、父の体調を気遣う手紙だった。
「わたしもやがて5年生です」
千尋さんにとっての、一番の思い出の場所、それは、かつての自宅があった場所だ。
瀬長亀治郎の次女・内村千尋さん:
パークサイドビルって書いてありますけど、あれのちょっと前で、当時はもっと、1メートルぐらいしか離れてませんでした。
すぐ隣にあるのが刑務所の壁で、監視塔が目の前にあった。
千尋さん:
囚人を監視するためだったら、中に作るはずだけど、なんで外に作ったのかなって不思議だったんですけど、
今考えたら、この亀治郎の自宅や、隣にあった、人民党本部を監視するために作ったのかなーって、いう気さえしますね。
だから、この独房から、大きな屋根が見えるって。
それで、屋根が見えてとても心強いって、この独房は大好きだって書いてあるんですよ(笑)。
しかし、そばにいながら、触れることさえできない。
千尋さんにとって、父亀治郎は、近くて遠い存在だった。
小さな心を痛めていた様子が、亀治郎の日記からも伺える。
亀治郎の獄中日記(1955年11月18日)
11月18日、3時ごろ、文とチビがやって来た。
チビは、相変わらずだまっている。
オヤジの変わり果てた姿を見て、小さい瞳に、つゆの玉がやどっていた。
千尋さん:
やっぱりあのー、なんか、刑務所に入っているっていうことは、とても、あのー、わたしにとってはショックだったと思うんですよ。
でも、周りは、あなたのお父さんは、みんなのことを救うっていってね、逮捕されてるんだから、とっても偉い人なんだよーって、言う人たちがたくさんいたんですよ。
その声の現れか、逮捕から1年半後にやってきた、出獄の時(1956年4月9日)。
亀治郎の前には、その帰りを待つ人々が、通りを埋め尽くしていた。
千尋さん:
後から写真とかを全部見るとね、看守の人、刑務官の人とか、所長さんらしき人とかね、みんな笑顔で送り出してるんですよ。
現在の裁判所の土地にあったのが、かつての沖縄刑務所。
亀治郎が人々の大歓迎を受けたのは、国と県が、法廷闘争を行っている場所だった。
千尋さん:
ここを、自宅に向かって、歩いているわけです。
当時ですね、みんなが、えーっと、20名以上だったかな、まず行進するのには、届け出が必要な布令があったんですよ。
だからみんなが、亀治郎の後を付いて歩いたら行進になるから、動かないでください、僕が動きます。
っていうことを言ったって、なんかのメモに書いてあるんですよ。
今も残されている、出獄の際に着ていた白いスーツ。
その時の決意を、こう語った。
亀治郎:
これ以上、祖国復帰を叫ぶならば、再び監獄に入れられるかもしれないが、投獄もいとわない気持ちである。
その夜、歓迎大会に集まった、1万を超える人々。
そこにあったのは、亀治郎を前に、祖国復帰への想いをさらに大きくした、民衆の姿だった。
沖縄タイムス(1956年4月10日付)
しかし、アメリカ軍との、新たな攻防が始まろうとしていた。
ーその2につづく