ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

Staycation Day 2

2014年08月30日 | 家族とわたし
”Staycation Day 2”は、マンハッタンのアパートメントに来ている旦那の両親に、クリスマスのプレゼントとして約束してあった(いつの話やねん!)ディナーを奢る日にしよう!と思いつき(どんだけええ加減やねん!)、連絡をしてみたところ、
「あ、それだったら、今夜はブロードウェイの『マチルダ』を観に行くつもりなんだけど、一緒に行く?」と、反対に尋ねられ、
パブロフのワンコのように、はいはいはいはいと勢い良く返事してしまいました。
じゃあ、そのショーの前に、『KYO YA』という、イーストヴィレッジにある懐石料理屋さんに行こうということにして、5時半に予約を取ったところまではよかったのですが…。

金曜日の夜ということもあり、余裕をみて、普通なら30分強で行けるところを、1時間40分前に家を出たのに…ああそれなのにそれなのに…、
混んで混んで混みまくって、リンカーントンネルの中で、実に45分以上過ごすという酷い渋滞に遭い、結局2時間15分もかかってしまいました。
新記録です。
両親は時間通りに着いていて、さて、注文するにもワケが分からず、懐石の意味も分からず、なのでウェイトレスさんとトンネルの中でいるわたしが話をつけることになり、
日本語で、メニューのひとつひとつを説明してもらったのですが、それがまたヒジョ~に分かりにくい!
懐石はバタバタと食べるものではなく、時間をかけてゆっくり味わってこそのお料理なので、もうとにかくこうなったら一品料理を頼むしかない!ということで、
「すんません、あの、あなたがこれはいいかもって思うものを適当に見繕って頼んでください!」…なんちゅうええ加減な…。



やっと着いて、とりあえず美味しくいただいて、けれどもなんかバタバタしてて、これはやっぱり仕切り直しした方がいいということで、
気がついたら父が勘定を払ってくれていて…、タクシーで劇場に向かいました。

開演30分前の劇場の外は、すでに大にぎわい。




ボックスオフィスに行ってチケットを受け取り、


チケットの金額を見て、開いた口が塞がりませんでした。
ここ数年、どんどんどんどんチケット代が上がり続けていて、我々のような零細実業家の夫婦などにとっては、自分たちで払える額ではありません。
でも満席なんだ…しかもちっこい子たちがいっぱい…どないなってんねん…。

席はど真ん中の花道の突き当たりで、役者さんたちが客席から舞台に、あるいは舞台から客席にガンガン降りてくるので、
「その時は気をつけてください」と、会場係の人から注意されてドキドキ。

自分の席から舞台を見ると、


天井を見ると、




アンティークなシャンデリアが美しい…。


10才の女の子が主人公、という話にピッタリの舞台装置。


この『マチルダ』、ブロードウェイはちょっと苦手、という旦那さえもが心から楽しんだという、超~お勧めのショーでした。

マチルダ役の女の子は、きっとまだ10才かそこらの、広げた手もモミジのようにちっちゃいチビッ子なのに、
(この日わたしたちを楽しませてくれたのは、左から2番目の女の子で、この写真から見ると一番おっきく見えますが、実際はとても小柄でした)、


いったいどうしたらあの膨大な量の台詞を、それもう~んと早口のイギリス英語を、ショーのはじめから終わりまで、たくさんの動きやダンスと一緒に言えるのか、
それがもう信じられなくて、というか驚くしかなくて、金縛りにあったみたいに呆然と、けれども楽し過ぎてゲタゲタ笑いながら、観ていました。
さらに、彼女以外の子どもたちもそりゃもうとんでもなくて(特にダンスが)、ここまで人間はできるのだな…などと思った次第で…。


悪役として登場する大人たち(マチルダの担任のミス・ハニーを除く)も、みんなそれぞれにすごい個性を発散していて、
中でもトランチブル校長先生に扮している、めちゃ大柄な俳優さんが、会場を沸かせていました。


アメリカンの旦那や旦那の両親でさえも、たま~に聞き取れなかったというぐらいの、早口のイギリス英会話。
わたしなど多分、半分ぐらいしか聞き取れませんでしたが、そんなことは全く気にならない、そりゃもう楽しくて感嘆しまくりのこの『マチルダ』、ほんとにお勧めです! 



と、酷い渋滞から始まった金曜日のお楽しみは、劇場前で両親と別れた後も続きます。
フランスから8日間のニューヨーク観光に来るナオコちゃんを、ニューヨーク・ペンシルバニア駅まで迎えに行くことになっていたのです。
ナオコちゃんはその昔、わたしがヤマハの講師をしていた頃の、ジュニア専門コースの生徒さんでした。
わたしは直接教えたことはないけれども、優秀な生徒さんとして名前を知っていました。
我々家族が渡米することになった頃、彼女はわたしのピアノ師匠のお弟子さんになっていて、大学受験を控えていました。
そんなこんなのご縁から、わたしのピアノが彼女の家に引っ越しすることになりました。
彼女は、日本の音大を経てフランスに渡り、コンセルヴァトワールでさらに学んで、今は立派なプロの伴奏者になりました。
ピアノがわたしとナオコちゃんを結んでくれたわけです。

夜の11時が就寝時間の旦那は、日にちが変わり、かなり意識が朦朧?としていましたが、とりあえず無事にお迎えすることができてホッと一安心。
さあ、家に帰りましょう。
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Staycation Day 1

2014年08月28日 | ひとりごと
家に居るまま、あるいは、出かけたとしても近所限定!それがStaycation!

ということで、お隣のニューアークにある、NJPAC (New Jersey Art Center)で開催される、無料の(←ここが大事!)ジャズフェスティバルに行ってきました。
余談ですが、ニューアークという地名はニューヨークとよく聞き間違えられるので、地元の人たちはヌアークという感じの発音をします。
ニューアークは、うちからほんの5分も走った所から始まるお隣の市で、一見ニューヨークっぽかったりするのですが、妙に寂れた空気が漂う不思議な街です。
何十年か前は、イタリアンからの移民がたくさん暮らしていて、そりゃもう栄えていたそうですが、そこにギャングたちが入りこんできて、かなり荒れてしまいました。
でも、世界でも3本の指に入るというコンテナ港があり、国際空港があり、だからなんとかして復興しようとしていて、
周りに住む我々の固定資産税がバカ高い(年100万を軽く超える)のは、その援助の一旦を担っているからだそうです。うむむ。

いつか来たいと思っているニューアーク美術館。




おっきな木の公園が、あちこちに点在します。


雲がどんどん吹き流されていきます。


今日のお食事処。バー&レストラン。旦那が前々からここに来たかったそうな。


昔っからのビルと、工事中のビルと、廃墟になったビルと。


古~い教会もめちゃ多い!


なぜかこの街には、屋上に星条旗を掲げているビルが多いです。


先日行った、隣町のジャズフェスの主催者、ベーシストのクリスチャンさんがここにも!


このコンサートホールはまだ新しくて、客席は4階まであり、メトロポリタンオペラハウスに引けをとりません。
けれどもやはり、ニューヨークではなくニューアークなので、チケットの料金がかなり安くなります♪
さらに、ここは車で15分ぐらい走って、無料の路上駐車を見つけたら良いだけの所なので、本当に助かります。
なのに、毎年演奏しているヨー・ヨー・マのチェロを、今年こそは行くぞ!と毎年言いながら、まだ一度も叶えていません…。


まだお客さんはあまり集まっていないようです。


前回同様、皆それぞれに好きな椅子やシートを持ってきて、好きな所に座ります。


我々は何も持って来なかったので、花壇の端っこに腰掛けました。


なんかファンキーな指揮者と、元気いっぱいのパフォーマーたち。


ジャズポップ全開♪






どんどん盛り上がってくる会場。


突如現れた、踊るおじさん(左側)と、それになにやら文句をつけにきたおじさん(右側)。


何を言われようと、おかまいなしに、彼なりの音楽を体で表現するおじさん。


持ってる棒がまた渋い!膨らんでいる部分は、ガムテープでグルグル巻きにしてあるような…。


だんだん仲間が増えてきました。


女の子に、一所懸命教えるおじさん。


このおばさんのダンスは、すご~くかっこ良かった!


ふと屋根の方を見ると、セキュリティのおじさんが厳しい目を光らせていて…。


この日、会場にやってきた人たちの服装が、そりゃもう個性的で、独創的で、カラフルで、とても自由で楽しくて、本当はそれを一枚一枚撮りたかったのですが…、
そんな彼らとは対照的に、最も地味な、けれども目がついつい行ってしまうので、内緒でパチリ。


バンドのドラマーは女性でした。どんな種類のリズムも、パワフルでファンキーでうまかった!



ホールの掲示板で、Yuja Wangのピアノコンサートがあると知り、これは絶対に逃してなるまい!と、ボックスオフィスに駆け込みました。




前回は、カーネギーホールの、2階のボックス席の一番舞台寄りという席だったので、彼女を真後ろから見下ろす、という感じで聴いたのですが、
腕が彼女の胴体から離れた位置で弾いている時は全部、指の動きをこの目で見、耳でその音を聴いているにも関わらず、どうしてもやっていることが信じられなかったという、
人間離れも甚だしい、超絶技巧のそのまた上をいく、加えてすばらしい表現力も備わっている、とんでもないピアニストで、
さらに彼女は、自分の好きなスタイルを貫き通していて、高いピンヒールと超ミニスカートで、スタスタと歩いてきたと思ったら、反り返った所から勢い良くペコンとお辞儀して弾く!という…、


衝撃度がかなり高いピアニストさんです。


YMWCA!ここに移住した頃は、YMCAはその昔、男性のみが使用できるものだったとは知らなくて、YWCAという存在があったことももちろん知りませんでした。


信号待ちをしている時に、ふと目に入った"FOR SALE"。え?教会ちゃうん?


はい、教会でした。ひじょ~に珍しい。




Staycation Day 1、無事に終了!
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性懲りもなく公金を我が物顔で使い、『第二次沖縄ニンジン作戦』を展開する恥知らずな人たち

2014年08月27日 | 日本とわたし
友人の幸雄さんが、怒りのコメントといっしょに、この記事を教えてくれました。

↓以下、転載はじめ

出て来ました、「第2次沖縄ニンジン作戦」
仲井真氏が落選なら、白紙見直しは必至。
名指しで、「仲井真親分が当選した暁には…」って、時代劇の悪徳商人そっくりです。
前回の名護市長選でも、500億円のニンジンをぶら下げ、自公補が敗戦すると、恥ずる事なく消し去りました。
 
自民の政治解決能力とは、「どれだけ札びらで誘惑出来るか?」しかないんでしょうか?
あたかも自分のカネを、恩着せがましく与えるような口調ですが、原資はれっきとした公金です。
 
つまり、
① 民から絞り取ったカネを好いように使い、
② 多くの民が嫌がる事の為に、
③ 当該の渋る民を、札びらで翻意させて分断する。

オマケ⇒好いように使った挙句に、足りなくなったら、民が受けるべき還元を縮小し、更にまた上乗せして絞り取ろうとする。


石原伸晃の「金目発言」は失言ではなく、頭から爪先までドップリ沁み込んだ拝金主義から、自然に出たものでしょう。
 
あぁ、それなのに、それなのに…、
お偉い政治化センセイの見え見えパフォーマンスに、ニコニコ手を差し出すオジ・オバ。
それはもう、人が好いとは言わない。
ただのアホです。
 
お笑いコンビ【いつもここから】の、“ツッコミ暴走族”と言うネタがあります。
 
「焼肉屋のカンバンの牛!ニヤニヤ笑ってんじゃねぇぞ!自分の立場判ってんのか?」
「焼肉屋のカンバンの牛!ニヤニヤ笑ってんじゃねぇぞ!骨までスープに出汁取られてんじゃねェか!

 
強烈な皮肉に聞こえます。


沖縄振興費3794億円 知事要望に応える
【東京新聞】2014年8月27日

内閣府は26日、2015年度予算の概算要求で、沖縄振興費を、14年度比293億円増の3794億円とする方針を固めた。
14年度に続いて、3千億円台の確保を求めていた、仲井真弘多(なかいまひろかず)沖縄県知事の要望に、増額で応える形
11月の知事選で、三選を目指す仲井真氏を、後押しする狙いもありそうだ。
 
安倍晋三首相は昨年12月、沖縄振興費について、21年度まで、毎年度3千億円台を確保する方針を表明している。
 
県が使途を自由に決められる「沖縄振興一括交付金」は、14年度比110億円増の、1869億円を計上。
仲井真氏が実現を求める、沖縄本島への鉄道導入については、詳細調査費とし、2億1千万円を要求する。
 
沖縄での国際会議開催に向けた費用は、5億円を初めて盛り込んだ。
当初、1億円規模で調整していたが、15年度中の開催が見込まれる会議があるため、積み増した。
政府は、英国際戦略研究所(IISS)主催の国際会議などを、沖縄で開くことを目指している。
 
那覇空港第二滑走路の増設事業費は、14年度と同額の330億円。
沖縄科学技術大学院大学(沖縄県恩納村)の、新たな教員採用や研究推進の支援費として、21億円増の219億円を求める。
 
返還された米軍基地の跡地利用推進費には、3億円増の3億8千万円を充てた。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014082702000128.html



辺野古ブイ設置、首相「急いでやれ」 防衛省幹部を叱責
【琉球新報】2014年7月19日

安倍晋三首相が7月上旬、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設に伴う海底ボーリング調査と、移設工事の施工区域などを、明示するための浮標灯(ブイ)の設置をめぐり、
「急いでやれ」と、防衛省幹部らに、早期実施を強く指示していたことが分かった

 
一方、海底調査に先立つブイ設置について、防衛省は、22日にも作業に着手することを検討しているが、
台風の接近なども踏まえ、27日からの週とする方向で、あらためて調整するとみられる。
 
関係者によると、安倍首相は今月上旬、官邸の執務室に防衛省幹部を呼び、移設作業の進捗(しんちょく)について報告を受けた際、
「なぜ作業が遅れている。さっさとやれ」などと、ブイ設置や海底調査開始の遅れについて、声を荒らげて叱責(しっせき)
机をたたくなどして、まくし立てた
という。
 
首相は、移設問題について、これまで「地元に丁寧に説明し、理解を求めながら進める」と繰り返しているが、
地元名護市が、移設に反対する中での作業の強行に、自身も深く関与していたことが、明らかになった形だ。
 
防衛省は、首相の指示を受け、ブイの設置作業を7月上旬に開始する方向で検討したが、
その直後に、沖縄地方などを襲った台風8号の影響などもあり、遅れたという。
 
ブイ設置は当初、6月中に実施する予定だったが、資材調達の遅れなどから着手がずれ込んでいる。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-228747-storytopic-3.html



辺野古 仲井真知事「早く埋め立てて」
【琉球新報】2014年8月26日

仲井真弘多知事は25日午後、世論調査で、昨年12月の、仲井真知事の辺野古埋め立て承認判断の取り消しを求める意見が、約54%に上ったことなどについて、
防衛省は、法令にのっとった許可が取れている。それに沿って仕事の段取りを進めることは、ある意味で当然だ」と述べ、
政府が移設作業を進めていることに、理解を示した
記者団の質問に答えた。
 
仲井真知事は、
早く(辺野古を)埋め立てて、世界一危険といわれている普天間飛行場を移すことだ。
ある意味では、早く終わるべきことでもある。
反対の人がおられることはよく分かっている
」と述べ、
普天間の危険性除去のため、辺野古移設を推進することはやむを得ない、との考えを強調した。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-230669-storytopic-3.html
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"Vacation" versus "Staycation"

2014年08月27日 | ひとりごと
"Staycation"…これは近頃、巷で流行っている造語です。
"Stay"と"Vacation"のふたつの単語をくっつけたもので、家でゆったりして、あるいはご近所などの近場で休日を過ごす、という意味だそうです。

今年の夏も、そろそろ終わりに近づいてきました。
冷夏ともいえる、それはそれは過ごしやすい、エアコンはもちろんのこと、扇風機さえもいらない毎日で、
朝晩はスウッと冷え込んで、窓を閉め、薄い掛け布団をかけて寝ているくらいだったのですが、昨日今日と、やっと夏らしい暑さになりました。

毎年のように、カナダの山奥の湖畔に行くかどうか、迷いに迷っていたのですが、
そもそもここが、カナダと同じくらいに涼しく心地良かったので、今年は行かないでおこうと決めました。


9月の第一月曜日は、アメリカの勤労感謝の日で、この日ばかりは会社も学校も休みになるので、
この祝日の前後を、夏の最後の休暇として過ごす家族がわんさかいます。
というか、それが当たり前の慣習のごとく、アメリカンの心のDNAには書き込まれているようで、
なので旦那としては、どないしてでも休みをとってどっかに行くか、何か楽しいことをしたいと、それはそれは強く所望していて、
もちろんわたしにも、そのことに異論は無いわけで、そうやって夏をしっかり休んでおくことが、自分にとっても習慣になりつつあるので、
とりあえずわたしなりに頑張って、東海岸の北の方の観光などを調べてみました。

そしたら…当然遅過ぎて、どこも予約でいっぱい。
しかも、めちゃ高っ!
カナダの湖畔の家は、宿泊代はゼロ、食費は自炊ってんで、それにかかる費用はというと、ガソリン代と高速道路の料金のみ。
高速道路の料金ったって、ほんの数ドルを何回か払うだけなので、ほとんど無しといってもよいぐらいなので、
そんな休暇に慣れてしまった我々にとっては、とんでもなく割高に思えてしまいます。

というわけで、"Vacation"は断念して、"Staycation"に切り替えることにしたのですが…。

どうせ家に居るのだから、どちらの予定も合わなくて、夏の間ほとんどレッスンできなかった土曜日の生徒さんを、じゃあ教えようかと思ったところ、
それでは"Staycation"にならないじゃないかと、旦那から異論が出てきました。

その気持ちも分からないではないけれども、別にひとり教えたからって…と思うわたしはやはり、どこかズレてるのでしょうか。


この暑い二日間で、野菜くんたちが、ぐんぐん大きくなりました。

グラウンドホッグの激しいムシャムシャ攻撃を受けたにもかかわらず、大きく成長してくれたキュウリさん。
黄色い花がいっぱい咲いて、ミツバチやクマバチさんがたくさん寄ってきています。




キュウリの赤ちゃんとお兄ちゃん。




離しまへんでぇ~!


あんさん、それ、支柱とちゃいまっせ。


歩美ちゃんが蒔いた食べカスの中に、アボガドが混入していた模様。
雑草だと思って引っこ抜いたら、アボガドの種がくっついてた!と、彼女はびっくりするやら嬉しいやら。


そのすぐ横で、虫や毛虫に食べられまくり、穴ぼこだらけになっている雑草。身代わりに感謝!


そしてこれは、わたしが引っこ抜いてしまったヤマゴボウ。


植え直さずに、ごめんね、と言いながら放っといたら、なんと土の上で寝そべったまま、大きくなってきた?!


小松菜とルッコラも、食べても食べてもどんどん生えてきてくれるので、ありがたいったらありません。


イチジクさんも、また大きくなってきました。


プゥ~ッと、枝から吹き込まれて出てきたみたいな感じ。


なんと、ミニカボチャみたいにでっかくなったまま、ずっと緑だったトマトさんが、赤くなってくれていた!


ワテらも赤なりまっせ~!


ムクゲの花は、毎年7月の中頃には咲き終わるのですが、今年は涼しかったので、今もまだ満開が続いています。


このツボミの艶やかさを、伝えられたらいいのですが…。


微妙に色や質感が違います。




今年は白がたくさん咲きました。


このムクゲの花に、それはそれはたくさんの蜂が寄ってきます。
毎日にぎやかな様子を見て、ふと、ハチミツ作れるかなあ…とつぶやくと、
目の前で旦那が、「こんくらい摂るのにどれぐらい大変かわかる?」と言って、呆れておりました。

22年の歳月に磨かれた、熟年夫婦の会話としては、ちょっとトホホなんですけれども…。
これからもよろしゅうに。
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ベイビューホテルに監禁され、強姦された女性たちの存在を、隠し続けている日本の権力者たち

2014年08月26日 | 日本とわたし
先日、友人の幸雄さんが、『戦後はまだ…』というタイトルの山本宗補氏の写真集の一部を、教えてくださいました。
それは、刻まれた加害と被害の記憶という副題がついている、非常に重く、苦しい記録です。


その写真集の中の、ほんの数ページを見ただけで、読んだだけで、わたしは言葉を失ってしまいました。
これが戦争というものの正体だと、吐き気がするほど、強い嫌悪感を覚えました。
ぜひ、ひとりでも多くの方々が、ご自身の手にとって、見ていただきたい、読んでいただきたいものだと思います。

そのこととほぼ同時に、このブログのコメント欄に、群青さんという方から、マニラ戦の悲惨な史実について教えていただきました。
この偶然に背中を押されたような気がします。

↓以下、転載はじめ

【社説】慰安婦報道撤回 本質は強制連行にない
http://www.kanaloco.jp/article/76014/cms_id/95741
【神奈川新聞】2014.08.10

朝日新聞が、従軍慰安婦の報道の一部が虚報だったと認め、記事を取り消した。
それをもって、慰安婦が強制連行されたとの主張の、根幹が崩れたと唱える論が横行している

「木を見て森を見ず」のような、稚拙な言説である。

朝日が誤りだったとしたのは、「強制連行をした」という吉田清治氏の証言だ。
韓国・済州島で、朝鮮人女性を無理やりトラックに押し込め、慰安所へ連れて行ったとしていた。

30年余り前の吉田証言は、研究者の間でも、信ぴょう性に疑問符が付けられていた。
旧日本軍による強制連行を示す証拠は、他にある。
日本の占領下のインドネシアで起きた、スマラン事件の公判記録などがそれだ。
だまされて連れて行かれたという、元慰安婦の証言も数多い。

研究者による公文書の発掘は続いており、新たな史料に虚心に向き合わなければ、歴史を論じる資格を手にすることはできないだろう。

強制連行を否定する主張はさらに、誤った記事により、日本がいわれなき非難を受け、不当におとしめられてきたと続く。

しかし、国際社会から非難されているのは、強制連行があったからではない
厳しい視線が向けられているのは、
人集めの際の、強制性のいかんに焦点を置くことで、問題の本質から目を背け、歴史の責任を矮小(わいしょう)化しようとする態度にである。

問題の本質は、女性たちが、戦地で、日本軍将兵に性的行為を強要されたことにある
慰安をしたのではなく、性暴力を受けた
兵士の性病まん延防止と、性欲処理の道具にされた
その制度づくりから管理運営に、軍が関与していた
それは、日本の植民地支配、侵略戦争という、大きな枠組みの中で行われたものであった。

歴史認識の問題が突き付けるのは、この国が過去と向き合ってこなかった、69年という歳月の重みだ。
国家として、真(しん)摯(し)な謝罪と反省の機会をついぞ持たず、歴史修正主義を唱える政治家が、主流になるに至った

朝日が撤回した記事について、自民党の石破茂幹事長は、「国民も非常に苦しみ、国際問題にもなった」と、その責任に言及し、国会での検証さえ示唆した。
過去の国家犯罪の実態を明らかにし、被害国と向き合う政治の責任を、放棄し続ける自らを省みることなく、である。
国際社会の非難と軽蔑を招く倒錯は、二重になされようとしている

↑以上、転載おわり


↓以下、転載はじめ

群青さんという方から教えていただいた、マニラ戦の史実の一部を、ここに転載させていただきます。

ベィビューホテル大量強姦事件 フィリピン1945年2月
http://ameblo.jp/gunjyo01/entry-11911768142.html

従軍慰安婦に関する泥憲和さんのフェイスブック論証は、FBシェアだけでなく、各種の個人ブログでもシェアされ、取り上げられている様子である。

さて、このブログでは、昨年から、フィリピンにおける当時の皇軍「軍慰安所従業婦」の件を追いかけようとしているが、
従業婦ではなく、強姦が凄かった模様である。

「FIGHT FOR JUSTICE 日本軍「慰安婦」--忘却への抵抗・未来への責任」 を発見したので、ご紹介する。
戦後生まれの私達は、余りにも過去の歴史を知らない。
日本軍は勇敢だったとか、清く潔い軍であったと、良い点ばかりは教えられたが・・。


●マニラ戦の無差別虐殺
これは、自分は初めて見る経緯である。
マニラ戦は、1945年2月3日より3月3日までの1か月間続いた、日米両軍による市街戦である。
次のように、日米の「マニラ戦」市街地戦に関して、描かれている。


この戦闘によって、マニラ市街は徹底的に破壊され、マニラ市民約10万人が犠牲になった。
日米両軍の戦闘行為、特に、米軍の砲爆撃による被害が大きかったことも指摘されているが、
フィリピンにおいて、このマニラ戦をとりわけ有名にしているのが、その中でおこなわれた日本軍の、数多くの残虐行為である。
キリスト教の聖職者を含め、アメリカ、イギリス、フランス、スペイン、スイス、ロシア、ドイツ、イタリアなどの市民、
そしてフィリピン市民が、組織的、意図的に虐殺される事件が、マニラ市内の各所で頻発した。
男たちだけでなく、女性や子ども、老人も対象にされる無差別の殺害であり、
日本軍による占領時期に関して、フィリピンで刊行されている文献、回想録では、必ずと言ってよいほど言及されている。
こうした歴史的事実と、その経験の継承は、フィリピン社会の対日観に、大きな影響を及ぼしている。

注記1) 
2月7日、または8日に、フィリピン人を集めて殺害するようにとの命令が、中部隊の海軍第2大隊から出されていた(林博史氏文献より)

注記2)
「対日観に大きな影響を及ぼしている」: 次話題「戦後のフィリピン日系人」に関連記事をアップ


旧帝国の皇軍派遣部隊は、負けかかると、どうやら気が狂った作戦に出るようである。
いや、これ作戦じゃないですね。
軟弱な自暴自棄の山賊でしょうね。
「東洋平和」、「大東亜共栄圏」と、国の中枢部が、平和を掲げて南方へ押し出したのは、
実は、振り返れば、殺戮のためだったとしか言いようが無い。
相当に、フィリピンや、当時在住の諸外国人に、ご迷惑をおかけしたのだ・・と。







●ベィビューホテル事件

上記、状況を知るための前置きが長くなってしまった。
フィリピンのマニラに、確か、現在でも、ベィビューホテルは営業中では無かったか・・・・。
最近、お泊まりになった方もいらっしゃるのだろう。
ところが、上記の、1945年当時の、米軍進攻による市街戦のさ中、富裕層居住地域だったエルミタ地区では、
400人ものさまざまな国籍の女性たちが連行監禁され、皇軍兵士により次々と強姦された「ベイビューホテル・集団強姦事件」が起きていた。
ベィビューホテルの、皇軍兵士によるフィリピン人他の女性に対する、大量強姦の直接的な把握を試みているものは、下<参考>の林さんによる史料である。
林さんはこの中で、得られるエビデンスに限りがある、と述べている。
私が探した状況でも、ベィビューホテル事件なるものの記事は、他に無かった。

↑以上、転載おわり


群青さんが書かれていた、林氏による史料(Fight for Justice)から、引用の分量を少し多めにしたものを以下に載せさせていただきます。

↓以下、引用はじめ

マニラ戦とベイビューホテル事件
http://fightforjustice.info/?page_id=2620
林 博史

日本軍による集団強かん事件について、調べたものです。
地図は省略しました。 
2012.4.15記

はじめに

マニラ戦は、1945年2月3日より3月3日までの1か月間続いた、日米両軍による市街戦である。
この戦闘によって、マニラ市街は徹底的に破壊され、マニラ市民約10万人が犠牲になった。
日米両軍の戦闘行為、特に、米軍の砲爆撃による被害が大きかったことも指摘されているが、
フィリピンにおいて、このマニラ戦をとりわけ有名にしているのが、その中でおこなわれた、日本軍の、数多くの残虐行為である。
キリスト教の聖職者を含め、アメリカ、イギリス、フランス、スペイン、スイス、ロシア、ドイツ、イタリアなどの市民、
そしてフィリピン市民が、組織的意図的に虐殺される事件が、マニラ市内の各所で頻発した。
男たちだけでなく、女性や子ども、老人も対象にされる無差別の殺害であり、
日本軍による占領時期に関して、フィリピンで刊行されている文献、回想録では、必ずと言ってよいほど言及されている。
こうした歴史的事実と、その経験の継承は、フィリピン社会の対日観に、大きな影響を及ぼしている[1]。

一連の日本軍による残虐行為の中で、とりわけ悪名高いものが、本稿で取り上げる、ベイビューホテルの事件である。
この事件は、マニラ戦の最中の、2月9日から12日(一部は13日)にかけて、
日本軍が、マニラの中心にあるエルミタ地区の女性たち数百人を、ベイビューホテルと、その近くのアパートメントに監禁し、
日本兵たちが次々と、強かんを繰り返した事件である。
被害者には、フィリピン女性だけでなく、アメリカ、イギリス、スペイン、ロシア、イタリアなど、欧米諸国の女性たちも含まれている。

日本語の文献では、この事件について、避けて通るものがほとんどである。
他方、英語文献では、日本軍の残忍さを象徴的に示す事件として言及されることが多く、無慈悲な強かんの様子が紹介されているが、
日本軍がなぜ、どのような指揮命令系統に従って、この事件を起したのか、
その周辺地区での、一連の住民虐殺などの残虐行為と、どのように関連しているのか、
などについてのきちんとした分析は、まったくなされていない。

幸い、ベイビューホテルに監禁された女性たちは、殺されることなく釈放されたので、
生存者たちによる証言が、多数残され、惨い実態が明らかにされている。
マニラを、日本軍から解放した米軍は、戦争犯罪捜査にあたって、関連する女性たちに尋問をおこない、詳細な尋問調書を残している。
その一部は、山下奉文陸軍大将の戦犯裁判や、東京裁判にも、証拠書類として提出されており、
また、いくつかの英語文献では、その尋問の一部が引用されている。
しかし、112人にのぼる尋問調書を、総合的に分析した研究はまだない。


第二次世界大戦中の、日本軍による強かん事件は数多く、日本軍「慰安婦」制度とともに、日本軍の性暴力の際立ったひどさが、
日本軍の特徴、あるいは残虐性を示すものとして、指摘されることが多いが、
このベイビューホテル事件は、強かん事件のなかでも、とりわけ規模が大きく、かつ組織的であると思われる。
したがって、この事件の解明は、日本の戦争犯罪・戦争責任研究において、避けて通ることのできない課題である、と言わなければならない。
本稿では、ベイビューホテル事件についての、米軍の捜査報告書を基に、検討していきたい[2]。


Ⅰ ベイビューホテル事件の経緯

まず、ベイビューホテル事件の前後の状況と、事件そのものの経過を見ておきたい。

米軍は、1945年1月9日に、ルソン島北部のリンガエン湾に上陸し、
そのうち、第6軍の第1騎兵師団と第37歩兵師団が、マニラに向けて南下、
米軍の最初の部隊が、マニラ北部のサント・トーマス大学(民間抑留所として多数のアメリカ人などが抑留されていた)とマラカニアン宮殿にやってきたのは、2月3日夕方だった。
日米両軍の交渉により、5日に、サント・トーマス大学の抑留者たちは、解放された。
パシグ河の北岸にあるマラカニアン宮殿も、米軍が占領し、マニラ市中心部を目指して、パシグ河の渡河作戦が、7日に実行されることになる。

マニラにいたのは、海軍が主力の、マニラ海軍防衛隊(司令官岩淵三次海軍少将)であった。
マニラ海軍防衛隊の司令部、ならびに司令部大隊や、海軍第1大隊・第2大隊など、海軍部隊の主力で構成されていた中部隊(海軍防衛隊の主力)は、マニラ市の中心部に位置していた。
パシグ河の南側で、城壁に囲まれたイントラムロスは、北部隊の担当であったが、
その南から東にかけての一帯は、ルネタ公園や市庁舎、農務省ビル(マニラ海軍防衛隊司令部)、財務省ビル、国会議事堂など、政府関係の立派なビルが並んでいる官庁街だった。
マッカーサーが滞在していたマニラホテルは、この地域の海側にある。
この一帯に、司令部と司令部大隊(大隊長伊地知季久大尉)、その他の付属隊が配備されていた。
このあたりのビルが、マニラ戦最後の攻防がおこなわれた地域にあたる。

この官庁街の南側がエルミタ地区、エルミタの東側がパコ地区、その南側がマラテ地区になる。
エルミタは、アメリカ植民地下で発達した地区で、社会的知的エリートがたくさん住んでおり、ドイツクラブやスペインカジノ、イギリスクラブなど、欧米系のクラブがいくつもあった[3]。
また、フィリピン大学やフィリピン総合病院、赤十字ビルが大きな面積を占め、海側には、高等弁務官官邸(現在は米大使館)や陸海軍クラブもあった。
ベイビューホテルは、このエルミタ地区の西側、高等弁務官官邸の向かい側にあるホテルだった。

日本軍の配備については、後でくわしく検討するが、このエルミタ地区には、中部隊のうちの海軍第2大隊(大隊長稲政博海軍大尉、第4から第6中隊)が配備され、後に第5大隊(大隊長木下進大尉)も、ここに加わった。
エルミタの東側のパコ地区には、海軍第1大隊(大隊長清水常吉大尉、第1から第3中隊)が配備された。

マニラとその周辺、ならびにルソン島における日本軍の状況については省略するが、
マニラの防衛を担当していた、マニラ海軍防衛隊(海軍の第31特別根拠地隊を主力)の総人員は、その指揮下の陸軍部隊を合わせて、2万2600名程度と推定される[4]。
ただ、ベイビューホテル事件との関連で見ると、司令部と司令部大隊などが2000名余り、第1大隊1000名弱、第2大隊1200名余り、第5大隊約420名、その他350名程度、合計約5000名が、このあたりに配備されていた。
なおその後、米軍に包囲されて、後退してきた兵員も少なくないと思われるが、その人数はよくわからない。

こうした中部隊のほか、イントラムロスを含む北側の地区には北部隊、南側には南部隊などがいた。
これらの地域でも、特にイントラムロスでは、凄惨な住民虐殺が繰り広げられたが、ベイビューホテル事件とは直接関わりはないので省略する。


2月7日に米軍は、市街地の北側を流れるパシグ河を、東側から渡河、パコ駅周辺など、市街地の東側の地区で、激しい戦闘がおこなわれた。
10日に米軍は、パコ駅を占領、11日には、パシグ河にうかぶプロビソール島(発電施設がある)を占領した。
米軍は、マニラ市の東側を回りながら南下し、12日には南側のニコラス・フィールドを占領、その日のうちに、北東南の三方から、マニラ市街地を包囲した。
ここに、マニラ海軍防衛隊は、東方山中の日本軍主力との連絡路を断たれ、逃げ場を失ったのである。

米軍がパシグ河を渡河し、いよいよマニラ市内への侵入が迫ってきた8日、
日本軍は、イントラムロスで、住民のなかから男たちを集めて、イントラムロス内の北端にあるサンチャゴ要塞に、連行していった。
この男たちは、翌日以降、日本軍によって虐殺されることになる。
また、イントラムロスでは、女性や子どもたちも教会などに閉じ込められ、後に、多くが虐殺されることになる。

7日、または8日の正午に、マニラ海軍防衛隊の岩淵司令官が直率する、中部隊の海軍第2大隊からと思われる命令が出されている。
そのなかに、
「六 比島人を殺すのは、極力一ヶ所に纏め、弾薬と労力を省く如く処分せよ 
死体処理うるさきを以て、焼却予定家屋、爆破家屋に集め、或は川に突き落とすべし」という内容が含まれており、
フィリピンの民間人殺害が、計画されていたことがわかる[5]。

9日の午後、エルミタ地区において、米軍の砲撃を受けて、火災があちこちで発生した。
日本軍が火をつけた、という証言もある。
いずれにせよ、火災が迫ってきたので、家から逃げ出した人もいれば、日本兵が家に入ってきて、外に出ろと命令したために、外に出た人もいた。
欧米系の住民などは、エルミタ地区の東側にあった、ドイツクラブに逃げ込んだ人たちもいたが、
多くは、西側の大通り、デウィ・ブルーバードのそばにある、ファーガソン広場に集められた。
すでに夕方になっており、そこには1000人、あるいはそれ以上の住民が集められていたようだが、くわしい人数はわからない。

ファーガソン広場に集められる前に、日本兵から、「アメリカ軍はどこにいる」、「ゲリラのメンバーか」などの尋問を受けた、という証言もある(2-20)[6]。
日本軍は、米軍、あるいはゲリラが潜入していることを疑っていた、と思われる。


ファーガソン広場に集められた住民は、午後7時か8時ごろ、日本軍によって、男たちだけのグループと、女性・子どもたちのグループに分けられた。
男たちは、広場の周辺の家々に収容されたようであるが、女性と子どもたちは、広場のすぐ北側にあるベイビューホテルに連れて行かれ、各部屋に、20-30人ずつくらいに分けて入れられた。
監禁された女性と子どもの全体の人数は、数百人と見られるが、よくわからない。
ベイビューホテルの元経営者の証言によると、ここは約150室あるホテルで、10階ほどのビルだった(2-46)。

女性と子どものグループのなかから、若い女性たちだけ20数名が別に選別され、ベイビューホテルの南隣、ファーガソン広場に面している、コーヒーポットCoffee Potというレストランに連れて行かれた。
そこには、数人の、日本軍将校と思われる軍人が、酒を飲んでおり、彼女たちにもウィスキーを飲ませようとした。
そこで1時間ほどいた後、彼女たちも、ベイビューホテルの3階あたりの一室に、監禁された。
夜の9時ごろだったと見られる(この20数人の女性たちを、コーヒーポット・グループと呼んでおきたい)。
その部屋には家具はなく、床にマットレスだけがあったという。

各部屋ともに明かりはなく、ホテルなのでバスルームはあったが、水は出ない状態であり、いずれも真っ暗な部屋に、何十人かが押し込められた状態だった。
コーヒーポット・グループの部屋には、しばらくして、数人の日本兵が入ってきて、懐中電灯などで、女性たちの顔を照らして出て行った。
それから数分後、何人かの日本兵が入ってきて、懐中電灯やろうそくで、女性の顔を確認し(身体を丸めて顔を隠そうとしている女性がいれば、髪の毛をつかんだりして、顔を上に向けさせて)、目ぼしいと思われる女性を引きずり出していった。
そして、ホテル内の別の部屋に連れて行き、一人、あるいは複数の将校や兵士たちが、強かんをおこなった。
その後女性は、兵士によって、元の部屋に戻されるか、あるいは放置されたため、自分で戻った。
このグループは、最初から、日本軍が若い女性だけを選び出していたので、ほとんどの女性が被害にあった。

そうした事態は、コーヒーポット・グループだけに起きたのではなかった。
ほかのグループは、年配の女性から子どもまでの女性たちと、男の子どもらで構成されていたが、
かれらのいる部屋にも日本兵がやってきて、懐中電灯やろうそくの明かりで、若い女性を探し、引きずり出していった。
これらのグループでは、一部屋に20-30人がいたが、そのうち数人の若い女性が、被害にあった。

このようにして、9日の夜は、女性たちを恐怖のどん底に陥れたまま、過ぎていった。


10日の早朝、ようやく日本兵による襲撃が収まると、女性たちは助けを求めて、ホテル内を動き始めた。
9日の晩も含めて、その後の数日も、日本兵たちは、日中は、米軍との戦闘のためにホテルには居らず、夜になると集まってきたようで、
日中は、住民が逃げ出さないように、玄関などに若干の警備兵がいただけで、
ホテル内の各フロアーでは、住民は、比較的自由に、動き回ることができたようである。

各部屋に分けて入れられていた住民たちは、このままではいけないと、相互に連絡を取り合い、多くの住民たちは、2階のダイニングルームに集まってきた。
ここに、200-300人ほどが集まってきたと見られる。
大勢で集まっていた方が安全だ、と考えたからである。
娘が被害を被った何人かの母親たちは、相談し、日本軍の隊長を探して、あのようなことを止めさせるように頼むことにした。
日本軍将校とのやりとりは、後で紹介するが、この努力は無駄に終わった。
コーヒーポット・グループの女性たちは、早朝になり、日本兵がやってこなくなると、助けを求めて、ホテル内で、母親や家族を探して部屋を出た。
家族を見つけて、その部屋で匿ってもらったり、あるいはダイニングルームで、家族に合流した。
この早朝の時点で、コーヒーポット・グループの女性たちは、ばらばらになったようである。

この日になってようやく、わずかな水と、ビスケットなどの食糧が配られたようである。


10日の午後、日本軍は、フィリピン人だけを選び出して、ベイビューホテルの北側のブロックにある、アルハンブラ・アパートメントに連れて行った。
その人数は、100人から200人くらいと見られる。
また、一部のフィリピン人は、ベイビューホテルとアルハンブラの間にある、ミラマー・アパートメントに移された。
ミラマーに移動したのは11日、という人たちもいた。
したがって、ベイビューホテルには、フィリピン人以外の欧米系女性と子どもたちが、残されることになった。
ただし、日本軍は、外見によってフィリピン人であるかどうかを判断していたようであり、必ずしも厳密に分けられたわけではなかった。
ベイビューホテルに残ったフィリピン人もいたし、フィリピン人の列に入れば釈放されると考えて、アルハンブラ、あるいはミラマーに移された欧米系女性もいた。

この10日の夜には、昨晩と同じように、日本兵が、それぞれの部屋やダイニングルームにやってきて、
暗闇の中を、懐中電灯やろうそくで、若い女性を連行し、強かんする行為が続けられた。
アルハンブラとミラマーのアパートでも、同じように、日本兵の襲撃を受けた。
人々は、若い女性たちを、できるだけ部屋の奥にうずくまらせて、毛布などで覆い、年配者らがその上から覆いかぶさるようにして、若い女性たちを守った。
女性を連行しようとする日本兵に対して、時には激しく抵抗して阻んだこともあったが、
日本兵に殴られたり、銃剣を突きつけられ、阻めなかったことも少なくなかった。
不幸中の幸いとも言えるかもしれないが、連行に抵抗する人々を、殺害するようなことはなかったようである。

なお、同じエルミタ地区では、9日に、ドイツクラブや赤十字ビルにも、住民たちが集められていたが、この10日に、日本軍によって、集団で虐殺されている。
これらのビルには、欧米系住民が多数逃げてきており、数百人が虐殺された[7]。
日本の同盟国である、ドイツのクラブに逃げれば大丈夫だと判断したようだが、
日本軍は、連合国、同盟国、中立国を問わず、白人をすべて敵とみなして、殺害したようである。


11日も同じように、日中は、日本兵は戦闘に出て行き、夜になると、同様の行為を繰り返した。
ただ、9日と10日の夜に比べると、日本兵の数も減ってきたようである。


12日の夕方近くになり、ベイビューホテルで火事が発生した。
米軍の砲撃によるものと見られる。
人々は逃げようと、1階に殺到するが、警備兵に止められてしまった。
しかし、ホテルを管理していた日本軍将校は、住民たちの嘆願を聞き入れて、逃げることを認めたため、人々は逃げることができた。
同じころ、ミラマーでも火災が起きたが、ベイビューホテルと同様に、逃げることが許された。


13日の午後には、アルハンブラでも火事になり、人々は逃げることが許された。


こうして、12日と13日に、監禁されていた数百人の女性と子どもたちは逃げ出し、
エミルタ地区の残されていた家々や、北隣のルネタ公園とその周辺の建物に、隠れて生き延びようとした。
その中で、米軍の砲撃や、日米両軍の戦闘に巻き込まれたり、あるいは、日本軍によって殺されたケースも少なくなかったが、
18日から20日ごろにかけて、一部は22日ごろに、逃げていた住民は、米軍に保護されて助かった。


米軍は、17日に、エルミタ地区の東南にある、総合病院を解放し、エルミタ地区に進入しはじめ、
22日の時点では、フィリピン大学のリサール・ホールに立てこもった一部の日本軍を残して、
エルミタ地区のほとんどは、米軍支配下に入っているので、その間に逃げていた住民たちは、保護された。


その後、米軍は、23日にイントラムロスに突入して、25日までに同地区を占領、日本軍は、官庁街にある、政府関係のいくつかのビルに閉じ込められ、3月3日までにその抵抗も終了した。



Ⅱ 被害の実相

ここで、体験者の証言から、ベイビューホテルなどに監禁された女性たちに、何がおこったのかを見ていこう。

ファーガソン広場で選別され、コーヒーポットに連れて行かれた後、ベイビューホテルの一室に入れられた20数人のグループの体験から、紹介しよう。

コーヒーポット・グループに入れられた、14歳のイギリス人少女によると(1-9)、
まず、日本兵が、「スペイン人、スペイン人」といいながら、女性を連行していったという。
そして、
「日本兵たちは、少女の腕をつかまえ、部屋から引きずり出していきました。
○○は抵抗し、床に転がりましたが、同じようにして、銃剣をつきつけて、連れ出されました。
少女たちは泣き叫びながら、連れて行かないように嘆願しましたが、無視されました」
「私たちはとても怯え、できるだけ目を付けられないように努力しました。
髪の毛を顔にたらして隠し、できるだけ部屋の隅にうずくまっていました」

しかし彼女も、日本兵によって引きずりだされ、別の部屋に連れて行かれた。
日本兵は、抵抗し叫ぶ彼女に平手打ちを加え、左手で喉元を押さえ、右手で剣を持ち、喉に突きつけ、抵抗をあきらめさせたうえで強かんした。
その後、部屋に放置された彼女は、元の部屋に戻ろうとするが、わからず別の部屋に入った。
しかし、その部屋にいた夜中にも、日本兵は、抵抗する彼女の髪をつかんで床にたたきつけた。
そして、最初に強かんされた時と同じ部屋に連行され、また強かんされた。
翌朝、母が呼ぶ声が聞こえたので、母のいるダイニングルームへ逃げたという。

コーヒーポット・グループには、彼女によると、半分以上はフィリピン人だったが、ほかにイギリス、トルコ、スペイン、イタリアなどの女性たちも含まれていたという。
また、彼女の知っている限りでは、それらの女性たちの年齢は、11、12、12、14、14、14、15、15、15、16、16、16、17、18、22、23-4、24、24、25、25、26歳だったという。
この21人以外は、知らない女性だったという。
記憶に基づく証言なので、年齢には若干の誤差があるかもしれないが、14歳の彼女とそれほど変わらない年齢の少女たちが、多数含まれていたことは間違いない。

その姉で、17歳のイギリス人少女も、同じコーヒーポット・グループに入れられた(1-10)。
その証言によると、自分は、部屋の隅にひそんでいて、幸運にも助かったが、部屋には13-4歳の少女がたくさんおり、
「少女たちはみな泣き叫び、すすり泣き、悲鳴を上げ、多くは祈っていた」と語っている。

24歳のフィリピン人女性の証言によると(1-14)、
まず3人の日本兵によって、彼女の2人の姉妹が連行された。
次に、別の少女たちが連行され、その次に、ほかの少女と本人が連行された。
彼女が連行された部屋には、3人の日本兵がおり、1人が強かんしている間、ほかの2人は、見ながら笑っていたという。
彼女は抵抗するが、顔を殴られ、3人に強かんされた。
その後、3人の日本兵は、部屋から出て行ったので、1人で這って部屋にもどったが、しばらくして、別の日本兵に連行されて、同じ目に遭った。
その夜、10数回、強かんされたという。

その妹の、15歳のフィリピン人少女も(1-17)、
部屋から日本兵に連れ出されそうになったとき、抵抗すると、何度も蹴り殴られ、2階上の、アルハンブラ通りに面した部屋に、連れて行かれた。
その日本兵は、彼女を窓のそばにつれていき、
「川の向こう側には、たくさんのアメリカ兵がいる。我々はまもなく死ぬので、二人とも彼らを見ることはないだろう」と言って、
それからピストルで脅して、彼女を強かんした。
その日本兵からは、
「おまえは、アメリカ人の赤ん坊ではなく、日本人の赤ん坊を生むだろう」とも言われたという。
部屋に戻されてからも、さらに3回連行されて、同じような目に遭った。
その中の一人の日本兵は、日の丸を描いたタオルを、頭にまいていたという。

その二人の妹で、14歳の少女も、コーヒーポット・グループに入れられた(1-19)。
彼女も一度、日本兵に連行されたが、生理中とわかり、その日本兵は、彼女の尻を蹴り、拳銃を抜いて、「殺すぞ、殺すぞ」と怒ったが、部屋に戻されたという。
彼女の話によると、翌朝、母親のいるダイニングルームに行き、そこで、母親や兄弟たちが、彼女の上になって彼女たちを守ったが、
先に紹介した24歳の姉は、水を求めてダイニングルームから出たときに、しばらく戻って来ず、強かんされたと、母親に話していたという。


28歳のイタリア人の女性によると(1-25)、
「なにもかもが混乱していて、少女たちはみんな泣き、すすり泣き、祈っている人もいました。
廊下から足音が聞こえるたびに、私たちは祈り始めました。
夜のはじめの頃は、やってきたのは将校たちでしたが、後に兵士たちも来ました。
(中略)
非常に酔っ払って、銃剣を持った日本兵を、思い出します。
彼は、銃剣で、ドアに深い傷をつけて、この銃剣がいかに鋭いのかを、少女たちに示しました。
その銃剣で、ある少女のスカートを、裾からお尻まで切り裂きました」と語っている。


36歳のフィリピン女性は(2-14)、
コーヒーポット・グループの中では、最年長ではないかと思われるが、
マットレスの下に隠れていたので、日本兵に見つからずに助かったと証言しているが、連行された少女たちがもどってきたときの様子について、
「彼女たちはみんな泣いており、おびえた様子でした。しかし、何も言いませんでした。
私が覚えているかぎりでは、ほとんどの少女たちは、床に崩れ落ち、身体を折りたたんで目立たないようにし、悲しみ、祈っていました」
「一晩中、拷問と、大きな恐怖と、苦しみの夜でした」
「日本兵は、とても人間ではありませんでした。けだもののように振舞っていました」と語っている。


コーヒーポット・グループの女性・少女たちは、10日早朝には部屋を出て、
ダイニングルームなどにいる家族と一緒になるなど、逃げようとしたが、その後も被害に遭った女性もいたようである。
いずれにせよ、恐怖と拷問の一夜を経験したのである。
その中には、14-15歳の少女たちが、何人も含まれていた。


日本兵の襲撃を受けたのは、コーヒーポット・グループの女性たちだけではなかった。


娘二人(1-9、1-10)を、コーヒーポット・グループに入れられた39歳の母親は(1-11)、
息子と手伝いの女性と一緒に、約30人で、ベイビューホテルのある部屋へ監禁された。
その部屋にも日本兵がやってきて、母親と一緒にいた13-4歳くらいのフィリピン少女が、連行された。
「その少女は泣きながら、日本兵から逃れようとしました。少女の母親はひざまずいて、連れて行かないように頼みました」
しかし、
「日本兵は、少女に平手打ちをし、彼女をつかんで、部屋から引きずっていきました」という。
その少女は、1時間半後に戻ってきたが、泣きながら母親に、3回強かんされたと言っていたという。
9日の夜だけで、その部屋から、5人のフィリピン少女が連行されたという。

翌朝5時ごろ、部屋を出て下の階に行くと、ダイニングルームにたくさんの人がいたので、そこに移った。
そこに14歳の娘が来て、昨夜のことを知った。
その後も日本兵が来て、娘を連行しようとしたが、娘を守るために抗議して、やめさせたという。


32歳のフィリピン女性は、ベイビューホテルでの自分の部屋の様子を、次のように語っている(2-5)。
「(連行されてもどってきた)少女たちは非常におびえ、何人かはすすり泣いていました。
誰も、何も話したくありませんでした。
誰もが床に場所を見つけ、涙を流しながら横になっていました。
髪の毛はめちゃくちゃになり、服は汚れて乱れていました。
何人かは血を流し、スカートにも血がついていました。
誰もが祈り、子どものいる者たちは泣き叫び、年取った女性たちは嘆き、一晩中、混乱状態でした。
日本軍が私たちを片付けようとする時には、私たちは生きていられるとは思いませんでした」


日本兵の襲撃は、夜が多かったが、夜だけではなかった。
57歳のロシア人女性の話によると(1-39)、
ベイビューホテルで12日午前中、ホテルの最上階で、パイプから水がもれているというので、水を求めて、ある母親とその娘が行こうとすると、日本兵が、12歳の娘を連行していった。
母親が、「やつらが私の娘を連れ去った、やつらが乱暴したのはこれで3人目だ」と泣きながら嘆いた。
3時間かそれぐらいしてから、その少女が戻ってきたが、服の下から血が流れており、完全に消耗しきって、恐怖におびえて泣いていた。

10日朝、昨夜に娘たちにおこったことを知った母親たちは、日本兵の暴行をやめさせる相談をおこない(2-34など)、
日本軍の隊長と思われる将校たちに働きかけたが、その甲斐もなく、10日と11日の夜も、日本兵による襲撃は続いた。


ベイビューホテルに監禁された女性のなかには、何人かの売春婦がいて、若い少女や、結婚している女性を守るために、自分たちが行くと語った女性たちがいたという。
彼女たちと一緒にいた、ある21歳のフィリピン女性の証言によると(2-24)、
彼女がいたベイビューホテルの部屋には、3人の売春婦がいて、身代わりになり、その内の2人は、ミラマー・アパートメントでも一緒だったという。


すでに述べたように、10日と11日の日中に、フィリピン人と見なされた人々は、アルハンブラとミラマーのアパートメントに移されたが、
そこでも、夜になると、日本兵の襲撃を受け、若い女性が部屋から引きずり出されて、強かんされる事態が続いた。

30歳のフィリピン女性によると(1-12)、
10日、アルハンブラに移ってからも、部屋から少女たちが連行され、彼女がいた部屋から、3日間で、約20人が連れだされたという。

18歳のフィリピン女性は(1-13)、
10日にアルハンブラへ移されるが、夜、日本兵が、一人の女性を連行した。
その女性は、3人に強かんされたと話していた。
次いで彼女が、将校らしき人物によって連れ出された。
その日本兵は、食事と水をやる、一緒に来ないと、監禁されている夫が殺されるぞと脅され、暴行を受けたという。
12日の夜にも、彼女は、別の少女と一緒に連れ出された。

アルハンブラに移された20歳のフィリピン女性によると(1-27)、
彼女の部屋からは、10日夜に4人の少女、11日夜は2人が連行されたが、12日夜は、誰も連行されなかったという。

25歳のフィリピン女性の部屋では(1-30)、
10人ほどの少女が連行された。
戻ってきた少女は、「神様、神様、汚らわしいやつらめ、あいつらは私をレイプした」と泣き叫んだという。
また、のどに銃剣を突きつけられて連行された少女は、戻ってくると泣きながら、「3人の日本兵が私を辱めた。死にたい」と言っていた。
ほかに、13歳と15歳の少女は、毎晩くりかえし連行された。
ある日本兵が、ほかの日本兵が連行しようとするのを、やめさせたことがあったともいう。
「わたしたちは、身体を丸めて、床に横たわっていました。
子どもたちを部屋の真ん中に集め、年配の女性たちは壁際にいました。
私たちは、髪の毛を顔の前にたらし、顔に土をこすりつけ、できるかぎり醜く見せるようにしました。
少女たちは泣き、嘆願し、祈っていました。
本当に怖ろしかった。
私たちは誰も、生きて逃げられるとは思えませんでした。
ただ、日本兵が最後には、私たち全員を殺すだろうと思っていただけでした」と語っている。
アルハンブラで、彼女たちが与えられた食糧は、汚い水とビスケット、魚の缶詰、ビタミン剤だけだったという。

*関東学院大学経済学部総合学術論叢『自然・人間・社会』第52号、2012年1月

(注)
[1] マニラ戦に関する主な研究については、林博史「資料紹介 日本軍の命令・電報に見るマニラ戦」『関東学院大学経済学部総合学術論争 自然・人間・社会』第48号、2010年1月、参照。

[2] この捜査報告書は、連合国軍最高司令部GHQ/SCAPの法務部 Legal Sectionの 管理課Administrative Divisionの文書群のなかの「戦争犯罪ファイル 1946年-1950年 War Crimes File, 1946-50」Report No.61、「1945年2月9日から13日の間、フィリピン諸島マニラのエルミタにおける、さまざまな国籍の、40人の民間女性への強かんならびに36人の民間女性への強かん未遂についての捜査報告」 “Investigation of the Rape of Forty Civilian Women and the attempted Rape of Thirty-six Civilian Women, of Various Nationalities, in Ermita, Manila, Philippine Islands, During the Period 9-13 February 1945”である(米国立公文書館所蔵、RG331/GHQSCAP/Box1113)。なお強かん被害者が特定できる情報は記載せず、ここでは分析の必要上、年齢と国別のデータのみを使用する。なお国別というのは、尋問においてナショナリティは何かという質問に対する本人の回答として示されたものである。

[3] Jose Ma. Bonifacio M. Escoda, Warsaw of Asia: The Rape of Manila(Revised Edition), Quezon City : Giraffe Books, 2001, p.8.

[4] 注1の拙稿、71頁、参照。

[5] この命令の詳細については、前掲拙稿83-85頁。
なお、そこでの叙述には、いくつかの間違いがあったので、訂正させていただきたい。
拙稿では、「海軍第2大隊の指揮下には、木下進海軍大尉を中隊長とする防空中隊があった」とし、「木下中隊長は、2月15日に戦死している」としている。
この記述は、第2復員局『マニラ防衛部隊戦闘状況』1947年5月5日、に基づいている。
しかし、戦後直後にまとめられたこの文書には、間違いが散見され、また第5大隊の表記が欠落していたため、木下大尉の防空中隊が、第5大隊指揮下であることを見落としていた。
正確には、第5大隊(大隊長木下進海軍大尉)の下に、木下大尉が中隊長を兼任する防空中隊があった。
また木下大尉は、15日に戦死しておらず、第2大隊長のそばに控え、少なくとも21日までは生存していた。
第5大隊は、戦力的には、第2大隊の3分の1程度の兵力しかなく、第2大隊の応援的な役割を果たしていた。
第2大隊長の稲政博大尉についても、拙稿で、「2月11日にパコで戦死したとされている」と書いたが、これも同『戦闘状況』の記載間違いであり、
稲政大尉は、12日に重傷を負うが、死亡したのは21日のことである(児島襄『マニラ海軍陸戦隊』新潮社、1969年、148-150頁)。
以上が訂正点であるが、84-85頁の結論部分については、訂正する必要はない。

[6] 捜査報告書に収録された宣誓供述書については、証言者の番号で出典を示す。
報告書は2分冊にわかれており、供述書など、文書にはそれぞれ番号が付けられている。
2-20とは、第2分冊の文書番号20を指す。
必要に応じて、証言者の年齢、性別、国別を示すが、証言者の名前は記さずに、この番号で示す。

[7] Richard Connaughton, John Pimlott, & Duncan Anderson, The Battle for Manila, Novato : Presidio Press, 1995, pp.120-123.


■YouTube 東洋の真珠と謳われたマニラでの市街戦 https://www.youtube.com/watch?v=DA6fKiniD3w
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分け隔てなく愛しているのに

2014年08月25日 | 家族とわたし
8月24日は、次男の誕生日で、そしてそれは26回目のお祝いでした。

長男の20才の誕生日に、成人した記念にと、それまでの彼の写真をスキャンしてアルバムを作り、それをCDにまとめたりしたのに、
次男の20才の誕生日には、それをうっかり忘れてしまい、さらに翌年も後になって思い出し、さらにさらにその翌年は、すっかり忘れていたのです。
その後の3年間は、パソコンの型が古過ぎて、もうそういったアルバム作りのオーダーができなくなり、
次男がそのことに気づかないでいる(あるいは気づいていないふりをしている)のをいいことに、わたしも知らんぶりをしていました。

今年、やっと新しいのに買い替えたので、今年こそはと張り切っていたのに、グズグズしているうちに気がついたらもう手遅れ。
結局、誕生日当日には間に合いませんでした…。

同じ、宝物のように大切で、すご~く愛しているのに、どうしてこんなふうに、まるで違うことをしてしまうのか…。
この、ふたりめの子に対する油断と、余裕という言葉で包んだ怠慢さに、これまでも彼はきっと、傷つけられてきたことがあったに違いありません。
かんにんやで。

次男は、パックリと切った子宮の中から、医者が二人がかりで、手術台に足をかけて、引っ張り出した赤ん坊でした。
子宮壁は、陣痛極期の緊張で、メスを入れる前からすでに裂け始めていて、早急に出さなければいけなかったのに、
臍帯が3重に彼の首に巻き付いていて、だから彼は、窒息寸前でおまけに冷えきっていたからか、薄紫色のロウのような皮を全身にまとって出てきました。
長男の際の難産は、医者の怠慢と無策が呼んだ、地獄としか言い様のない3日間だったのですが、
次男の際の難産はそれとはまた違う、良いケアを受けたけれど、やはり自然では無理だったというもので、
とりあえず、生まれたばかりの彼を自分の腕の中で抱く、ということはできました。
生まれた直後はうんともすんとも泣かず、医者たちもわたしもドキッとしたのですが、
彼の夜泣きがとても激しく、病院での1週間は、ほとんど一睡もできずに、点滴のチューブに血を逆流させながら、抱っこしていました。

小さな頃は、こけしのような可愛い顔で、どの年代の女の人もメロメロ。


旦那の日本語の先生でもありました。


ある日突然「『エリーゼのために』が弾きたい」と言い出して、
「音符読めへんのにどないすんの?」と聞くと、「おかあさんが弾いてくれたんを覚える」と言うので、
まあちょっとぐらい、と始めてしまったのが運のつき。
それから、とんでもなく面倒くさい毎日が始まりました。
いったい何回、同じ小節を弾かされたことか…。
けれども、結局、全曲真似っこ奏法で、音も指遣いも表現も、すべて覚えてしまいました。


何曲か同じような方法で弾けるようになったのですが、彼自身、真似っこすることに疲れてきた様子で、
もともと、楽譜を読むことの大切さ、大変さ、そして楽しさを、コツコツ教えているのを見聞きしていたこともあり、
もうそろそろ自分で読みたくなってきたんちゃうの?と誘いをかけ、わたしももう疲れた、やめようと言うと、
とうとう観念したのか、独学で音符を読めるようになったようです。
その方法については、全く知らないのですけれども…。
そうやって自分で弾けるようになった『メイプル・リーフ・ラグ』は、彼の十八番になり、
中学の音楽会などでそれを弾き、やんややんやの大喝采を受け、もしかしてこの子は…と、儚い期待を抱いたりしたこともありました。


ドラムを叩けばそれもうまくなり、


運動をすればそれもそこそこ人よりうまくでき、


あれこれと妄想しがちな親たちを尻目に、ゲーマー道をまっしぐら!
会社勤めがとても忙しく、練習がほとんどできなくなった今は、試合を勝ち進むことが難しくなったのですが、
なぜか人気投票の世界ランキングでは、10位以内を保っているそうで…、
まあ、この話はブログに書かない約束をしたので、これ以上は書けませ~ん!わ~ん!

どこでも寝る子でもありました。




会社員とゲーマーの、ふたつの顔を持つ26才。
自分を大事にできる、だから自分以外の人も大事に思える、優しき男になりました。

誕生日、おめでとう!
20才記念アルバム、多分明後日には届くからね。
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「加美町も含め、普通の方々が核のゴミを引き受けるというような事は、決してしないで頂きたい」小出氏

2014年08月25日 | 日本とわたし


京都大学原子炉実験所 小出裕章さん

こんにちは、京都大学の小出です。
加美町のみなさんにメッセージをということで、しばらくお話をさせていただきます。

指定廃棄物という、みなさんはもう十分ご存知の放射能のゴミが、加美町にも押し付けられるということで…、
大変不条理な事だと、私は思います。
その、放射能のゴミという物…いったいどこから来たのかといえば、もともと東京電力福島第一原子力発電所の原子炉の中にあった物です。
れっきとした東京電力の所有物であったわけであって、それが、ウソをついた東京電力のおかげ(?)で、みなさんの住んでいる場所等にばらまかれてしまいました。
それを今みなさんは、せっせと集めて、指定廃棄物という形になろうとしているわけですけれども、
もともと東京電力のばらまいた、東京電力の所有物ですから、
みなさんがそのゴミを引き受けるなんていうことは、決してやってはいけない
ことです。
東京電力の物は、東京電力に返す、ということが一番いいことなのであって、
私自身は、元からあった場所、東京電力福島第一原子力発電所に返すというのが、物の道理だと思います。

ただし、残念ながら、福島第一原子力発電所の敷地の中では、今、たくさんの労働者たちが、放射能を相手に戦っている、戦場です。
その戦場に、新たに、放射能のゴミを返すということは、できないだろうと思います。

私の、一番正直な気持ちを言って良ければ、私は東京電力の本社ビルに、それを返したいと思っています。
でも…それを言うとみなさん、何を恍けたことを言っている、というふうに受け取られて、相手にしていただけませんので、
私は次の策、というのを思っています。
それは、東京電力福島第二原子力発電所の広大な敷地がありますので、そこに返すべきだと思います。
東京電力は、福島第二原子力発電所を再稼働させる、というようなことを言っているわけですけれども、
冗談を言わないでほしいと、私は思います。
自分の所有物たるゴミを、たくさんの人々の上にばらまいて、たくさんの苦難を与えながら、自分だけは無傷で生き延びて、
原子力発電所を再稼働させるなんてことは、到底許すべきことではない
と思いますので、
福島第二原子力発電所を、放射能のゴミ捨て場にするということが、私はいいと思いますし、
もちろん再稼働もさせない、ということがいいと思います。

そして、それでも足りない、というのであれば、東京電力柏崎刈羽原子力発電所というのが、新潟県にあります。
世界最大の原子力発電所です。
新潟県の方には、多分怒られると思いますけれども、私は、責任のある会社にきっちりと責任を取らせるためには、
福島第二原子力発電所の敷地で足りないというのであれば、柏崎刈羽原子力発電所の敷地も、核のゴミ捨て場にするという方策がいいだろう
と思います。

加美町も含めて、普通の方々が、このゴミを引き受けるというようなことは、決してしないでいただきたいと思います。

以上です。
よろしくお願いします。

↑以上、文字起こし終わり


文字起こししながら、考えていました。
小出氏が予め予想しておられるように、柏崎刈羽の敷地に核のゴミを、という意見に対しては、異論を持つ方が出てくるかもしれません。
けれども、3年以上も経った今もなお、責任を取るべき者が取らないままに時間が過ぎている、という異常な状態は、
何かこう、とても厳しい、思い切った決断をしなくては、打開できないのではないか、という思いをわたしは持っています。

今、2013年9月半ば以降に実現した「原発ゼロ」の状態が、ほぼ丸1年続いています。
この17カ所、48基の原発をすべて廃炉にし、原発はどこも広大な敷地を持っているので、それぞれの電力会社が、それぞれの所有物である核のゴミを、それぞれの原子力発電所の敷地内に集める。
一言で廃炉といっても、その作業を完了するには、数十年の月日がかかります。
その間、そのゴミ収集所となった敷地内で作業をされる方々の、必要以上の被ばくをどうしたら防げるのか、その知恵をわたしは持ち合わせていません。
けれども今、電力会社に認識させなければならないことの一つとして、
原子力発電所を造るということは、そしてそれを稼働させ利潤を得るということは、こういうこと一切をすべて引き受けなければならない、ということがあると思います。
電力会社だけでなく、原発で利潤を得ている団体、金融機関、自治体、住人すべてが、そのことを押し付けられたとしたら、
いったい誰が、こんな不安定で、やたらと費用がかかる上に、極めて危険で大きな被害を及ぼす可能性がある物に、関わりたいと思うでしょうか。


核のゴミ、核汚染された食べ物、核汚染された土を、みんなで集めて、食べて、燃やして、分け合っていこう…。
わたしの周りには、違う国からやって来た人がたくさんいますが、
このことに関してはそろって皆が、絶対に理解できない、そんなことが実際に起こっているのか?と言います。

「普通の方々が、核のゴミを引き受けるというような事は、決してしないでいただきたい」

普通の方々が、核のゴミを引き受けるというような事を、決して考えてはいけない。やってはいけない。
そんなことをしようとしている者が、ご自分の暮らす町や村の首長であれば、必死に抵抗し、反対し、阻止しなければならない。

そういったことがどれほど困難で、体力気力を消耗させ、日常の暮らしに響きかねないことであるか。
それでもやらなくてはならない、今はそういう時なのだと思っています。
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予算は4年で1兆4000億円?!無駄遣いは当たり前!原発ムラのやりたい放題!ど~ん!

2014年08月24日 | 日本とわたし
福島の工事関係者が告発「手抜き除染を行い復興費が消えた」
【NEWSポストセブン】 2014.08.24(週刊ポスト2014年8月29日号)
 
予算は4年で1兆4000億円──。

今、福島県を中心に、莫大な税金が投入されて、除染作業が進められている
住宅の屋根や壁、道路の舗装の表面を高圧洗浄したり、表面の土を削ったりして、放射線量を下げることが目的だ。
ところが今回、本誌は、作業を請け負う業者が「手抜き除染」を行なっている、という情報を得た。

問題になっている工区は、福島・郡山市の中心部から数キロ南の、住宅地や農地が広がる地域。
郡山市が発注し、中堅ゼネコンが元請けとして受注、昨年末から今夏にかけて、下請け業者が、実際の作業を行なっていた。

工事関係者が告発する。

「市の発注内容は、『放射線量を半分以下にする』というものだった。
線量を測りながら作業し、たとえば毎時0.5マイクロシーベルトの場所であれば、0.25マイクロシーベルト以下に落とせば作業完了。

だが、工事が始まると、元請けゼネコンが、下請けに、『線量が半分以下にならなくても、土の表面を5cm削るだけでいい』と指示した。
線量が高い地域では、5cmでは足りないのだが、それ以上表面を削ると、労力も時間もかかるので、手抜きを指示したのだろう」

 
さらにこのゼネコンは、「線量がそれほど高くない舗装道路は、高圧洗浄などの作業をしなくていい」とも指示したという。

元請けゼネコンは、市から一定金額で受注しているため、下請けの作業を減らせば、工賃の支払いが減り、利益が増す、という目論見だったのだろう。

当該ゼネコンに尋ねると、
「お盆休みのために担当者が不在」と、回答を得られなかった。

発注者である郡山市役所生活環境部の担当者は、
そうした手抜きの実態は把握していない。指定された場所を除染していなかったとすれば契約違反」という。

早急な調査が待たれる。



 
溶けて消える汚染水対策320億円

氷のフタが凍らない!

いよいよ打つ手なしだ。
福島第一原発の地下トレンチ(地下道)にたまった、高濃度汚染水をせき止めるための『氷のフタ』が、3ヵ月経ってもまったく凍らないのだ。
7月末から、トレンチの汚染水と建屋の接続部分に、300トンに上る氷を投入し、今月7月は、ドライアイス1トンも投じたが、いまだに凍結していない。

明日(19日)の原子力規制委員会では、別の工法が議題に上がるという。
その工法とは、
「ステップ2に行こうすることも検討している」と、茂木経産相が言った『資材グラウト』の注入が濃厚だ。

『資材グラウト』は、水中で固まるコンクリートのこと。
つまり、凍結をあきらめ、コンクリ投入によって固めてしまうつもりだ。
手詰まりが鮮明になったということです。
仮にコンクリ投入で、一時的に遮断しても、劣化した隙間やヒビ割れ部分から、すぐに汚染水が漏れ出すでしょう。
そこをコンクリで固めてふさいだとしても、また別の場所から漏れるだけ。
モグラ叩きみたいなもので、根本解決にはなりません

(元大阪市立大学院教授の畑明郎氏=環境政策論)

さあ、こうなると、同じ方式で進めている『凍土壁』造りもどうなるやら。
茂木大臣は、順調に進んでいる、との認識を示したが、凍土壁は、1~4号機の周囲1.5キロに凍結管を埋設し、地下水の流入を遮断する
『氷のフタ』以上に大がかりな工事だ。

寒冷地の川を見ても分かるように、流れている水を凍結させるのは、至難の業です。
ピンポイントで済むトレンチ接続部の『氷のフタ』に、これだけ苦戦しているのに、『凍土壁』を完成させられるとは、とても思えません
東電は、地下水の流量と速さの想定を、見誤ったのでしょう。
もともと懸念されていた工法を、見切り発車した結果がこれですから、目も当てられません

(畑明郎氏)

凍土壁に投じる国の予算は、320億円。
税金でバクチをして、「負けました、残念」では許されない
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2020東京オリンピックを返上して、予算を “フクシマ救済” に廻そう!

2014年08月24日 | 日本とわたし
その通り過ぎて、他に言うことがなんにもありません!!




-カルディコット博士が国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長へ宛てた手紙-
カレイドスコープさんの記事より、手紙の部分を引用させていただきます。
http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-2724.html

↓以下、引用はじめ

2014年1月23日

トーマス・バッハ様

私は、内科医、小児科医として、福島第一原発事故によって放出された、放射能汚染物質や放射線の医学的影響について、精通しております。
(私の経歴はhelencaldicott.comでご覧いただけます)

ここに一筆申し上げましたのは、2020年開催の東京オリンピックに出場する選手たちの健康に、深い懸念を抱いたからです。

東京電力は、一日ごとに採取する汚染水のサンプルから、60種以上の人工放射性物質を確認しています。
その多くは、セシウム-137ストロンチウム-90ヨウ素-129など、核分裂が出現する以前の、自然界には存在しなかった放射性物質です。
つまり、この種の放射性物質の、自然放射線として占める量は、ゼロです。

ところが、一旦放出されると、危険な状態のまま、数百年間自然環境に残留します


私の懸念事項は以下の通りです。

1. 東京都の一部地域は、福島第一原発事故による放射能汚染を受けています。
アパート、建物の屋根に生えている苔、通りの土壌から、無作為に集めたサンプルを検査したところ、高濃度の放射能が検出されています。
調査結果参照のご要望があれば応じます。

2. 従って、選手たちは、アルファ線、ベータ線やガンマ線といった、放射能を出す放射性ちりを吸い込んで、体内に取り込んでしまう恐れがあります。
汚染された道路上や、土中からのガンマ線による(エックス線撮影のような)外部被曝についても、同様に考えられます。

3. 東京の市場に並ぶ食品の多くは、放射能に汚染されています。
政府による奨励策で、福島県産の食材が売られているためです。
(食品中の放射性物質を、味やにおいで感知することは不可能な上、全品検査も実際的ではありません)

4. 日本の東方沖で獲れた魚の多くは、放射能に汚染され、中にはかなり深刻な度合いのものもあります。
この問題は現在も続いており、ほぼ3年間、毎日、損壊した原子炉からは、300~400トンの汚染水が、太平洋へと流れ込んでいます。

5. 汚染された食物や飲料を、選手たちが摂取した場合、何年か後に、癌や白血病を発症する可能性があります。
こうした疾患の潜伏期間は、個々の放射性核種や罹患臓器によって異なりますが、5年から80年です。

6. 日本政府は、放射性廃棄物を焼却し、一部の焼却灰を、東京湾に廃棄しています。
そこは、オリンピック選手たちが競技する会場です。
もう一つ、大きな心配の種は、これから2020年までの間に、福島第一原発から、更に、放射能汚染物質が放出される可能性です。
原発3号機と4号機は、地震とその後の爆発で、激しく損傷。
今後、マグニチュード7以上の地震に襲われたら、倒壊する危険性は増します。

7. その場合、チェルノブイリの10倍、もしくはそれ以上の放射性セシウムが、空中に放出される可能性があります。
東京は、既存の汚染問題に追い打ちをかけられ、選手たちは、大きな危険にさらされます。

8. 福島第一原発には、1,000基を超える鋼製タンクが急きょ設置され、数100万ガロンの高濃度放射能汚染水を貯蔵し、更に1日400トンの汚染水が、汲み上げられています。



未熟な作業員が設置したタンクがある上に、組み立てには、腐食したボルト、ゴム製シーリング材、プラスチックパイプ、 粘着テープが使用されています

次に大きな地震が起きたら、多くのタンクは破裂し、大量の高濃度汚染水が、東京からわずか北の太平洋に、流れ込むことになります。

以上の理由から、私は、会長からIOCに対し、生物医学の専門家による独立調査団の編成を促すよう、強く要請いたします。

即ち、
原子力産業、及び原子力規制・監督機関と、金銭やその他の利害関係にないメンバーによって、放射能の影響を受けた全地域を調査し、健康被害の広がりや程度を明らかにするのです。

そして、これが、日本が意欲を燃やす、2020年の東京オリンピック計画の本格化で、手遅れとなる前に行われることです。

加えて、
福島第一原発の原子炉と建屋の、予断を許さない現状、地下水問題、汚染水で満杯の膨大な数のタンクについて、調査団が理解し、報告することが必要不可欠です。

敬具

医学博士
王立オーストラレーシア内科医師会会員

ヘレン・カルディコット 

(日本語訳 野村初美)

↑引用おわり
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「私たちが行動し続ける限り民主主義は終らない。特別秘密保護法を修正・廃案すべき!」SASPLさん

2014年08月24日 | 日本とわたし
特定秘密保護法についてのパブリックコメントが、本日24日で締め切られました。
みなさん、コメントをガンガン送ってくださり、本当にありがとうございました。
締切後ではありますが、行動が今後もどんどん続けていかねばなりません。
パブリックコメントを書かせときゃ、それで気が済むだろう、などと思わせてはなりません。
思いをつなぎ、知恵を出し合って、行動し続けていきましょう。
そうする限り、民主主義は終らない。
民が主であるということを、自分たちの気持ちの迂闊さ、曖昧さで、終らせてはいけない。
続けるためには、根気が要ります。
エネルギーも要ります。
健康にも気をつけなければなりません。
心も体も、生きるためにしなくてはならないこと、楽しみのためにしたいことで、いっぱいいっぱいというところでしょうけれども、
今後も自分らしく生きられるよう、楽しみを持ちながら暮らせるよう、いつもより少しだけ踏ん張って、
日本の社会から、民主の灯火を吹き消そうとしている輩に、立ち向かってください。
未来に申し訳が立つように。


↓以下、文字起こしはじめ



5分でわかる『特定秘密保護法』

2013年12月6日、特定秘密の保護に関する法律が、成立しました。
この法案の審議に費やされた時間は、約68時間。
例えば、郵政民営化の際の214時間と比べ、圧倒的に短い
ものです。



この法律に先立ち、募集されたパブリックコメントでの77%の反対意見が、反映されているとはいえません



国家が、その存亡に関わる機密を守ろうとするのは、とても自然なことです。
しかし、この特定秘密保護法には、大きな問題がふたつ存在します。

ひとつめは、
秘密の範囲が曖昧であること
そしてふたつめは、
チェック機関が無いことです。



ひとつめの問題点は、特定秘密保護法における秘密の指定範囲が、非常に曖昧なことです。
与党案では当初、防衛に関する情報、外交に関する情報、特定有害活動の防止に関する情報、テロリズム防止に関する情報、
これら4点に関わる情報の秘密指定を行うと、法案に明記されていました。

しかし、法律の条文には、その他という文言が、多く組み込まれています



『その他』の解釈によっては、秘密とされる範囲が、無限に広がる可能性があり、情報を恣意的に操作される可能性があります
例えば、原発事故や官僚の汚職なども、その存在自体が隠蔽される危険性があります。


二点目の大きな問題は、この法律をチェックする機関が無いことです。

この法律によると、まず大臣をはじめとする各行政機関の長が、秘密の指定を行い、
『独立公文書管理監』、『情報保全観察室』、『内閣保全監視委員会』などの機関が、その秘密の内容をチェックすることになっています。



しかし、最終的に、その秘密の内容が適切かどうか判断するのは、『内閣保全監視委員会』から報告を受けた首相です。



内閣以外にも、秘密指定の基準について首相に意見する『情報保全諮問会議』、秘密の指定や解除について報告を受ける、国会の『情報監視審査会』がありますが、
いずれも、秘密に直接介入することはできません



つまり、
秘密の指定から点検、処理までのあらゆるプロセスが、内閣内の機関で行われ
立法府や司法が、秘密の中身に直接介入できない、ということです。



これでは、秘密の範囲が恣意的に拡大されないための、実質的なチェック機関が存在しないことになってしまいます。


特定秘密保護法の問題は、自由と民主主義、そして立憲主義を、崩壊させる可能性も含んでいます。
民主主義国家では、権力の暴走を防ぐために、三権分立という仕組みがあります。



司法機関、行政機関、立法機関という、みっつの権力が、互いに監視、抑制し合うことによって、
憲法に定められている、国民の権利や自由を守る制度が作られています。
こうした考え方を、立憲主義といいます。




権力の暴走を防ぎ、国民の自由と民主主義を、守ろうとする考え方です。

政治的な自由や、民主主義の基本になっている大きな要素は、情報です。



特定秘密保護法は、内閣に情報を集約し、他の機関の、その情報へのアクセスを制限します。
つまり、他の機関に比べ、内閣に権力が集中する、ということです。





内閣に権力が集中すれば、三権分立は崩壊し、その結果、国民の権利や自由は、奪われてしまいます。
特定秘密保護法は、三権分立に基づく、立憲主義そのものを否定しており、憲法の保障する、自由と民主主義を否定しています。
そしてそれは、私たちひとりひとりの権利の否定と同意です。



法が可決された現在、アクションを起こすことに意味があるのか、という疑問もあるかと思います。
しかし私たちは、今後の活動にこそ、意味があると思っています。
なぜなら、私たちのアクションは、法律の恣意的な運用に対するブレーキになり得るからです。


これまでにも、成立・施行された法律が、世論の影響によって修正されたり、規制がかけられた例が存在します。
こうした歴史上の事例は、法の可決・施行後に、行動し続けることの意義を表しています

秘密保護法も同様です。
この法律を監視し続け、反対することは、無意味ではありません。
大切なことは、私たち国民が行動することで、自由や民主主義といった理念を、具体的な形で表していくことです。



世論調査によれば、8割以上の人が、この特定秘密保護法に、修正、または廃案を求めています



つまり、与党に票を入れた人の中にも、この法律はおかしいのではないか、と考える人もいる、ということです。

選挙で過半数を取れば、何をしてもいいわけではありません。
与党は、私たちの声に真摯に応え、この法律を、今からでも修正、廃案すべきです。


最後に、私たち市民が政治に関わる、選挙以外の方法を、ふたつ紹介します。


パブリックコメント

現在内閣は、特定秘密保護法に関する、みっつのパブリックコメントを募集しています。




「特定秘密の指定、及びその解除、並びに適正評価の実施に関し、統一的な運用を図るための基準(仮称)(案)」に対する、意見募集の実施について


「内閣府本府組織令の一部を改正する政令(案)」に対する意見募集の実施について
(特定秘密保護法関連)


「特定秘密の保護に関する法律施行令(案)」に対する意見募集の実施について


動画の内容や、SASPLのページを参考に、政府に意見を伝えていきましょう。


私たちの意見を社会に表す方法として、デモも有効な手段のひとつです。
SASPLは、2014年10月25日に、
『特定秘密保護法に反対する学生デモ』
FINAL @ SHIBUYA


を企画しています。

おかしいことはおかしいと、共に声を上げていきましょう。
私たちには、自分の頭で考える力と権利、意見を表現する自由があります。
私たちが行動し続ける限り、民主主義は終りません。
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