ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

ハリケーン『サンディ』の爪痕

2012年10月31日 | 米国○○事情
サンディさん、えらい大暴れして去っていきました。


うちの付近でも、頑丈なフェンスが見事にバタンと倒れてたり、ぶっとい木の枝があちらこちらに落ちてたりしましたが、
なぜか雨がとても少なくて、それが一番の幸運となり、浸水も停電も破損もなく、
家の中だけでいると、まるで何も無かったかのような平穏な状態です。

この幸運を感謝し、町の80%が停電しているという、隣町に暮らしている友人知人に、うちでお役に立てることがあったらと思っています。

ではその、3年前まで暮らしていた隣町の被害の様子を載せておきます。

いつも、仕事で通ってたり、散歩で歩いていた通りでした。
一日も早い復旧を心から祈っています。






















↑以上、写真はすべて、『Baristanet Montclair』からお借りしました。

今回の嵐で、大火事で家を失った人達、海岸の砂で埋まってしまった地域の人達、
洪水の水が引かず、今も孤立してしまっている地域の人達、
停電で、これから最低3日間ぐらいは、暗くて寒い中で過ごさなくてはならない人達、
自宅近くの大木が倒れ、家がすっかり壊れてしまった人達、

どなたも今は、本当に心細い思いをされていると思います。

市や州は、懸命に、避難場所を確保し、温かい食べ物と寝床を提供しているそうです。
どうか、困っている人全ての手に、それらがきちんと届きますように。

今回の嵐は、本当に恐ろしいものでした。
去年といい今年といい、嵐の規模がだんだんと大きくなってきているように思えてなりません。
原発も、数基、止まりました。
それが今、どういう状況なのか、大手のメディアは一切報道しようとしません。
もちろん、現実に、町の通りを沈めた水の中を、サメが泳いでいたり、
がれきと汚泥にまみれた家の中に、まだ人が残っていたり、
マンハッタンの地下鉄は水没してしまっていたり、
工事中の高層ビルのてっぺんにあった大型クレーンが、今にも落ちそうになっていたり、
大変なこと、対処しなければならないことが山積みなのはわかっているけれど、

あの津波の後の日本のように、原発に関連することは一切秘密裏に行われているように思えてなりません。

ああ、どこも同じだ、原発にまつわる世界は。
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Hurricane Sandy 10.29.2012

2012年10月29日 | 米国○○事情
ただいま、ハリケーン『サンディ』の訪問を受けております。
おかげさまで、まだ電気は使えるし、インターネットも大丈夫。
けれどもすでに、停電に見舞われている通りも多く、木の枝はありとあらゆる所に落っこちています。

テレビでは、ニュージャージー州の知事が連絡室に立てこもり、
各地の注意事項を伝え、住民からの質問に答えています。

これは、彼女がやってくる5時間前の、我が家の前の様子です。
突風が吹いて、あわやiPadが手から滑り落ちそうになったので、思いっきり指が写ってしまいました。

 
キッチンで居た時、旦那が窓の向こうを見ながら「わ~わ~」と声を上げたので見たら……「わ~!」
ヒッチコックの世界!黒い鳥がワラワラと……。
すんません……あんまり慌ててたのと、網戸越しなので、ちゃんと見えませんね……。


彼女の到着2時間前です。


そしてこれが、到着後の彼女の声。40秒過ぎからちゃんと聞こえます。


そして今、夜の9時前です。
ありがたいことに、まだ電気がついています。
外ではゴーゴーという轟音と、サイレンの音がずっと続いています。
この夜の間に、地下が浸水しないことを祈るばかり。
とりあえず、水を吸い上げるポンプをセットして、夜中遅くまで起きている息子に寝るまでの点検を頼み、明け方に旦那が起きて点検をする。

どうか、どうか、町や村に、深刻な事故が起こりませんように。
停電に見舞われた通りに、一時間でも早く、電気が戻りますように。
そして、寒くなり過ぎませんように。
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嵐の前の静けさの中で

2012年10月28日 | 日本とわたし
大型ハリケーン『サンディ』が、今夜過ぎからここにやって来るらしい。
本格的にどっかりと腰を据えるのは明日の29日。
ちょっとちょっと、去年の、突然の大雪嵐も29日やったやんか!
その嵐のせいで、わたしの演奏を聞きに行こうと、ひとり30ドルものチケットを買うて、楽しみにしてくれてた約30人のニュージャージーの住人さんが、たったの一人も来ることができんかった。
演奏をする本人のわたしでさえ、余裕を持って乗った昼過ぎの電車が、距離にして丁度マンハッタンとうちの半分の駅で止まってしまい、
どうしたらええのかのアナウンスも無く、車掌に聞いても「そんなことボクに聞かれてもわからん」と言われ、
1メートル向こうも見えんぐらいの横降りの雪にベタベタに濡れながら、途方に暮れてたあの日。
それが、10月の29日。

今回の嵐は、数日前からテレビでうるそう警告が流れ、今日はあっちゃこっちゃの市長が、外出禁止と避難警告を繰り返しアナウンスしてた。
明日と明後日は、公立の学校は休校。
マンハッタンの交通機関は、夜7時から全面封鎖。
ほんでもって、ラジオでは、あと5時間の猶予しか無いで~と、避難をやかましく呼びかけてる。
ニュージャージー州も、交通機関が続々と封鎖が始まった。

嵐の前の静けさ。
明日の朝起きたら、ビュウビュウ吹いてるのかなあ……。


こないだの金曜日に、気功瞑想と道教を学びに行った。
夏の間、ほとんど、わたしだけの日が多くて、ミリアムに申し訳なかったんやけど、
彼女は、わたしひとりでも全然かまへんからと、2時間じっくり、一緒に過ごしてくれた。
夏が終って、またメンバーが戻ってきたのに、こないだはまた、わたしひとりのクラスやった。

わたしだけの時は、立ち瞑想を30分、座り瞑想を1時間する。
その後、道教の本を数冊、同じチャプターの、翻訳者の違う文章を読んで、そこに書かれてることについて話し合う。

「さて、クラスの終わりに、なにか言いたいこととか、聞きたいこととかある?」
「全然関係の無いことでもええかな?」
「もちろん」
「立ち瞑想の時、ボールが足元からジワ~っと上がってきて、それで腕も上がる。ほんでもって、胸の辺りで輪っかを作った腕の中で、そのボールはスピンする。
でもわたし、もう何年もやってて、まだ一度も、そのボールが見えたことがない。見えてへんから、スピンもするわけがない。
で、クラスの他の人らは、ボールが見えてて、その色とかスピンする速さとかまではっきりと話さはる。
ミリアムはいっつも、見えても見えんでもどっちでもいい。その腕の間に意識を集中させることができたらいいって言うけど、
わたし、基本的に、ちっちゃい頃から競争の世界で生きてきたから、どうしてもなんか、自分が劣ってるみたいな気分になってしまう。
つまらんこと考えてるってわかってても」
「つまらないことではないし、そういう劣等感は誰でも持ってるわ。
だからこそ、人は、いろんな教室や本を使って、その、自覚してるつまらないことを、自分の世界から少しでも減らそうとするのよね」

「劣等感で思い出した。こんなことは、本当の本当につまらないし、自分でも恥ずかしいから、ほんまは言いとうないのやけど……」
「本当のつまらない話の中には、得てして本当にためになることが隠れてるものよ」

「わたしは、幼い頃から選ばれて、いわゆる県の代表みたいな形で、特別な英才教育を受けてきた。
そのカリキュラムは、家庭の事情で、最後の2年間は充分に学べたとは言えんけど、それでもわたしの土台を築くには充分やった。
もし、っていう話を考えへんように生きてきたけど、もし、順調に生きられてたら、それなりの大学を出て、それなりの留学もしてたと思う。
それが全く叶わず、華々しい履歴書とは程遠いまま大人になり、それでも昔取った杵柄と学び続けることで、なんとか普通以上の評価を得てこられた。
そのことに対しては、自分で自分を褒めてやりたいと思うし、それなりに誇りに思てるのやけど、
日本で居た時は、そんな誇りなんか、床に転がってる綿埃みたいに、何回ともなく吹っ飛ばされた。
そのたびに、『で、どこの大学を出られたんですか?』と聞く人らに、『まず、わたしを見て欲しい!』と、心の中で叫んだ。
こちらに来て、出張レッスンで教え始めたんやけど、初心者の子が多かったし、わたしをすごく気に入ってくれた親から親の口づてで、生徒が増えていった。
そやからか、わたしの出身大学のことについて、気にとめる人もおらんかった。
何年かして、同じ町に住んでる、日本人の女性達と出会った。
皆それぞれ、アメリカ人の夫を持つ人、あるいは日本人同士のカップルで、こちらに永住をすると決めてた。
何回かランチして、楽しいおしゃべりをしてる間に、わたしが、出張レッスンをしてるピアノ教師やということも伝えた。
こちらで教え始めてから12年が経ち、出張レッスンを徐々に減らして、今はやっと、全員うちに来てレッスンを受けてくれるようになった。
夏の終わりに、日本からこちらに移住してきた、米国人夫と日本人妻カップルの生徒を教えることになった。
彼女は、わたしが以前教えていたアメリカ人の女の子が日本に引っ越して、そこで偶然友だちになり、わたしのことを知った子やった。

つい最近、久しぶりに、日本人仲間とランチをした時、うちの近所でピアノを教えてる、大好きな友人Sちゃんが、日本人仲間家族の子達のピアノの先生や、ということがわかった。
Sちゃんは、日本の有名音大の大学院を出た後、こちらに留学して、こちらの大学でも教えてたことがある。
まあ言うたら、わたしが得られんかった履歴を持ってる人。
ピアノは聞いたことがないけど、彼女はそれはそれは親切で、行動力があって、人思いで、きっとピアノ教師としてもすばらしいと思う。
そやから、彼女に習ってるって聞いて、正直、そりゃ良かった、と思た。
同じ教師として、ええ加減な人に習てる生徒のことは、ほんまに心の底から気の毒に思うから。
けど、その日わたしは、思いの外落ち込んでしもた。
嫉妬してることがわかって、さらに落ち込んだ。
履歴だけとちゃう、彼女の人柄、それから経験の豊かさ、教師としての信望、そのすべてにおいて、自分の方が劣ってると思たりした。
もしかしたら、もっと軽うて、たまたまタイミングが合うたとか、子ども同士が友だちになったとか、そういう単純な理由やったかもしれん。
けど、やっぱり落ち込んだ。

こちらで、12年かかって、フラフラと親の希望でやってくる子や、練習を全くしようとせん子がおらんようになり、
親も子も、それなりに、ピアノを習うということを理解してくれてる、宿題もきちんとやってくる、遅刻もドタキャンもせん生徒だけになり、
人数も30人を超え、発表会も順調に重ね、やっと形になったなと、この秋から、気分も新たに頑張ろうと思てた。
いや、今もその気持ちには変わりがない。
せやのにこの、いやらしい気持ちはなんやろうと思う。
アホちゃうかと」

「ついつい競争してしまう。ついつい比べてしまう。ついつい嫉妬してしまう。
わたしもそうだったからよくわかる。
森羅万象の中にいて、そんなことはもう、ミクロの見えないほどの、ちっぽけなものだけど、自分の世界が小さいと気になるのよね、つい」
「……」
「名前がついてるからややこしいのね。宇宙は名前なんか興味ないし、名前などそもそも必要がないのに」
「名前は人間がつけたんやもんね」
「人間は、生きる上で必要なことはなにか、それをすぐに忘れてしまう。
あまりにたくさんの物と、その名前の洪水の中に身を置くと、忙し過ぎて考えられなくなる。
考えられないくらい忙しいくせに、考えなくてもいいことは考える。
困った生き物よね。
宇宙には、名前も感情もない。
何も決めない。
あるがままに変化するだけ。
そんなのが、自分の肌の周りに存在してるってことを、すっかり忘れてしまうのね。
そんな、自分では全くコントロールできないものが、自分の身体にまとわりついているのに、無事に一日を終えられている奇跡を喜ばない。
喜んでいないから、いろんな感情が忍び込んでくる。
今のまうみが話してくれた嫉妬とか、本当なら得られたかもしれない物事に対する未練とか、得られない状況にした親への怒りとか」
「親への怒り?」
「まうみはいつも、親に対しては、怒りを持ってないって言うわよね。
わたしは、その言葉を信じてる。
親には親の事情があったと、しょうがなかったのだと、自分に言い聞かせてる、子どもだったまうみが見える。
わたしもそうだった。
どこからも迫害され、追い込まれ、そしたらまた迫害され、いつも戦争と紛争が続いていたのに、
イスラエル人はずっと、どうか平和な気持ちが、皆に広がりますように、と毎晩祈り続けていた。
世界には世界の、国には国の、家庭には家庭の事情があるのだ、しょうがないのだと言い聞かせながら。
ある時、急に、もう祈りなどまっぴらだ!我々にだって怒る権利はある!
人々が口々に、怒りの言葉を言うようになったの。
わたしはそれまで、怒る、という感情を知らなかった。
けれども、人々が立ち上がり、顔を真っ赤にして怒鳴り、自分達を殺しにくる同朋を殺し始めた時初めて、
わたしは自分の、自分の国の運命を呪い、心の底から、殺しを始めたイスラエル人に、激しい怒りを感じたの。
まうみが今、自分の肝臓がだめになるくらい怒っているのは、日本のこと?日本を大変な状況に陥れた宇宙の営み?」
「違う。
日本人は、地震とともに生きてきた。
地震に怒っても仕方が無い、と悟ってる。
けど、今回のこの混乱は、天災によって引き起こされた人災が原因。
そやから怒ってる。
そして、なんとかせえへんかったら、この人災はまたいつか、もっと酷い形になって現れる」

「まうみ、こないだの水曜日はね、イスラエルの空は大変だったの」
「え?」
「朝から晩まで一日中、イスラエルを爆撃しようとする爆弾と、それを空中で阻止しようとするアメリカの小型ミサイルがぶつかってたの」
「知らんかった……」
「もうね、その音の凄さといったら、まうみには絶対に想像ができないと思う。本当に恐ろしいの。
そしてその空の下には、普通に暮らしている家族の家があるのよ。
前に一度、わたしの弟家族の家のすぐ横に、爆弾が落ちたことがあったの。
その時は、生まれてすぐの赤ん坊だった、甥の部屋の窓が割れて、病院に駆け込んだ弟からの連絡を、2時間ばかり、狂いそうになりながら待った。
でもね、その2時間だけ、それだけにしようと懸命に努力したの。
で、こないだの水曜日は、心配や怒り、恐ろしい場面の想像とかを一切やめて、わたしの精一杯の良い気を送った。
平和や静けさを一所懸命想像して、その気を送ったの。
人がこの、本当に、いつ何が起こるかわからないような世界で生き長らえていることの奇跡。
それを思う時、わたしはいつも自分が、なにかとても大きな流れや動きの中でうごめいている、ちっぽけな粒になったような気がするの。
なにかこう、とてもゆったりとしていて、動いているんだけど心地良くて、何も考えていないんだけどなんとなく嬉しくて、
ああ、自分は宇宙の一部なんだなあって思うの。
そこには名前も何もなくて、目に見えないほどの小さな自分が、他の、目に見えないほどに小さな無数の粒と一緒に、気持ちよく揺れてるの」

わたしはミリアムの話を聞きながら、自分がミクロの粒になったような気がした。
そしたらどんどんリラックスしてきて、そんなちっちゃな自分が考えてるいろんなことが、もっとちっちゃいもんに思えて楽しくなった。
そして、なぜか、すごく感謝しとうなった。
ありがとう、ほんまにありがとうと、誰にともなく言い続けてた。


 
放射能の汚染が酷い地域に暮らす子ども達も家族も、避難できた人、できない人、したけれども戻った人、みんなそれぞれ、とても辛い思いを抱えてる。
その人達の周りから、名前が消えて無くなったらええのに。
名前にくっついてるしがらみや、名前が連れてくる嫉妬や怒り、そんなもんも一緒に消えて無くなるはずやから。
みんな、宇宙の営みの中に生かされてるちっちゃいちっちゃい粒のひとつひとつでしかあらへんのに、
なんでこうも、ややっこしい感情に振り回されてしまうのか。

もっともっと、自分にありがとうって言おう。
もっともっと、自分を大事にしてあげよう。
もっともっと、自分の声を聞いてあげよう。
もっともっと、自分の気持ちに沿うてあげよう。

わたしはこれから毎日、『平和』と『希望』を一所懸命想像して、その気を日本に向けて送るから。
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脱原発を支える、南ドイツの住民パワー!ど~ん!

2012年10月27日 | 日本とわたし
わたしの夢。
それは、日本中、それぞれの町や村の、小川や川の片隅で、その地域に暮らす人達のための電気を作ってる。
その発電装置は、全然難しくも大げさでもなく、単純そのもので、水の流れを妨げることも、川の生態系を崩すこともなく、
今までもずっとそうしててん、とでも言うような涼しい顔して、その地域に充分な電気を作ってる。

この夢は、ドイツの片田舎、過疎の村で始まった、電力会社との闘い『きらわれものキャンペーン』の記事を書いた時からずっと抱きしめてる。

同じくドイツで、またまた素晴らしい住民パワーの話が誕生してた。
それを取材してくれはったんは、経済ジャーナリストの町田徹さん。

ラジオで聞き、文字起こしをしながら、現代ビジネスも一部まとめてくれてはったので、その文面も混ぜて、ここにまとめてみた。

町田さんのしゃべってはる口調を、書き言葉に変えたので、完全な文字起こしではないのやけど、こちらの方が内容を理解してもらいやすいと思う。




"脱原発"を支えるのは、政府や大企業に頼らない市民の実行力!  
南ドイツの「地域暖房」や「エコハウス」を視察して感じたこと/町田 徹

 
今週のテーマは、脱原発を支える南ドイツの住民パワー。
地域暖房や、住宅断熱の挑戦を見逃すな、というテーマだ。

先週、10月16日火曜日から、6日間の日程で視察した南ドイツで、
センスの悪い政治家や、既得権にこだわるユーティリティ企業に依存することなく、
市民達が自らの手で、再生可能エネルギーへの切替えや、節電に取り組む姿
を、目の当たりにする事ができた。
今日は、その話をしたいと思う。
紹介したい話は、ふたつある。

「黒い森」南部の保養地セント・ペーター村で、地元の林業エンジニアが中心になって、事業化に漕ぎ着けた、
廃材利用の「バイオマス地域暖房」システムの話がひとつ。
もうひとつが、補助金はもちろん、銀行融資さえろくに受けられなかった時代に、市民が建てた、フライブルク市ボウバン地区の、エコマンションの話。

ドイツというと、環境を重視する『緑の党』が有名。
エネルギー・環境・脱原発などで、政治主導の動きと錯覚しがちだが、実態は大きく違った。
むしろ、市民たちのコミュニティーベースの取り組みが端緒になって、国策が見直されていくというケースが少なくない
のが、ドイツの合意形成の実情なのかもしれない。

福島原発事故を機に、原発への反対を強める多くの国民と、
そうした要求を、経済性・実現性を無視した空理空論と決め付ける、経済界の間の大きなギャップを埋められないでいる日本にとって、
このドイツ的なアプローチ(下から積み上げていく)が、とても大きな福音(ヒント)になり得るのではないだろうか。



まずは、セイント・ピーター村という、小さな小さな村の話から。
北九州市など、国内の環境都市のモデルとして名高い、ドイツ南部、フランス国境に近いフライブルク市から、車で約一時間。
海抜720m前後の、カンデル山中腹に広がる、セント・ペーター村。
決して広大な面積を持つわけではないが、1093年に、大きな修道院が築かれたのがきっかけで開かれた歴史ある、非常にヨーロッパらしい古い山村だ。

1890年代に、その修道院が閉鎖された時と、1970年代から80年代にかけて、「酸性雨」に見舞われた時の2度にわたって、
セント・ペーター村は、存亡の危機に見舞われたものの、なんとか切り抜けて現在に至っている、という歴史を持つ。

現在の村の人口は、2550人
ギリシア、スペインの財政破綻に端を発した、欧州経済危機の真っただ中にあって、意外に聞こえるかもしれないが、村の経済は好調で、
「人口は増加傾向にある」と、ルドルフ・シューラー村長は、胸を張って話していた。
環境・エコを売り物に、高成長を維持して、ヨーロッパでは珍しく、失業率を3%前後と非常に低く抑え込んでいる、フライブルク市の北東に隣接する幸運もあってのこと。

そのセント・ペーター村に、今年1月、村民の自慢のタネが、またひとつ増えた。
地域ぐるみの暖房施設が、稼働したのだ。
ただの暖房施設ではない。
1970~1980年代にかけて、酸性雨に見舞われながら、地域がなんとか守り切り復活させた、黒い森の林業の副産物である廃材。
この廃材をチップ化したバイオマスを、きたる燃料に使う、地域ぐるみの暖房施設だ。

この暖房施設は、バイオマス燃料でお湯を沸かし、地下に埋設した、全長9.2kmの配管を通じて、200戸に熱湯を循環させ、地域ぐるみで暖房をする仕組みだ。

この設備でのバイオマスの使用率は、全体の95%あまりに達する。
石油は、バックアップ用に限定しており、その使用量は、5%程度に過ぎないのだ。
この結果、これまでと比べると、年間約80万キロリットル分の石油を節約できたばかりか、
同じく、2100トン分の、CO2の排出削減(効果)も実現した、という。
何よりもすごいのは、主燃料の木材チップが、従来は、使い道が無くてただ棄てていた物、廃棄していた物、
そういうもみの木などの廃材を、原料としている
ということだ。

この結果、事業主体は、住民組合の形式であり、営利事業ではないにも関わらず、収益率が30%を超えており、
「ビジネスとして、非常に高い採算性を誇っている」と、事業組合のマルクス・コナード理事は語った。
その省エネ効果の高さや、地元産のバイオマス燃料の使用比率の高さが評価され、
EU、ドイツ連邦政府(復興金融公庫)、バーデンバーデンブルグ州の3主体から、総投資額の520万ユーロ、単純計算で1ユーロ100円前後と考えると、約5億2000万円強になるのだが、
この総投資の4分の1にあたる、約125万ユーロの補助金を、受け取ることができた。

これにより、住民組合は、給湯ネットワーク1mに付き、その建設費用のうち80ユーロ、
住民の住宅配管の引き込み工事1戸に付き、1800ユーロの補助を受けている。

暖房の使用料金は、「民間のユーティリティ会社のそれより、平均で3割程度安い」うえ、料金構成も、住民にとってありがたいものだ。
一般のユーティリティ企業の場合、使おうが使うまいが、必要な基本料が70%、使用量に応じた従量部分が30%の構成になっているが、
セント・ペーターの住民組合では、これが逆になっているという。
従って、住民の方で節約をすれば、さらに安いエネルギー代で済む、という仕組み
になっているわけだ。
 
これ以外に、住民組合は、風力や太陽光の発電設備を保有、発電も行っているが、
潤沢なキャッシュフローを活用して、来年1月をめどに、木材バイオマスのガス化発電を導入する計画だ。

良い事尽くめのような成功話。
セント・ペーター村の、積極的な取り組みの推進役として、見逃すことのできない働きをしているのが、前述のマルクス・コナード理事のような人物である。

コナード氏は、地元の林業のエンジニア出身で、黒い森の2200ヘクタールに及ぶ、地域の維持・管理を担当してきた。
エネルギーの専門家でもなんでもなかった人物であるが、旧ソ連のチエルノブイリ原発事故や、地球温暖化問題に触発されながら、
大量に廃棄されていた、木材の破片の再利用に着目。
エネルギー分野の知識を取得して、当初11人の仲間を集めて、運動の核を作り、最終的に200人のコミュニティをまとめあげ、組合活動を進めてきた。

林業主体の小さな村に、こういう人物がいて、政治家や大企業をあてにせず、自分達でコミュニティ全体をまとめ、こうした仕組みを実現してみせる。
できるんだから邪魔しないでくれと、いう形で、政府や企業を説得し、譲歩させている
のがすばらしい。


今回の視察でもう一つ、筆者が大きな刺激を受けたのが、画期的な節電を可能にするという「パッシブハウス」の、フライブルク市のボウバン地区での誕生の物語だ。

パッシブハウスそのものは、専門家の間では、すでに日本でも随分紹介されているが、
それまで、ドイツの標準的な家屋で、1㎡当たり年220キロワット/毎時程度だった、暖房用のエネルギー消費を、
その15分の1近い、年15キロワット/毎時程度に削減できる、という画期的なエコ住宅
だ。
その誕生物語は、1995年から翌96年頃に遡る。
当時は、公的機関の補助金は、研究開発サイドに限定されており、
一部の商業金融機関からは、こうした住宅の建設は、おかしいとしか思えない、とてもまともな考えとは思われないと言われ、
建設資金の融資さえ受けられなかった時代だったにもかかわらず、
理系の教育を受けた、建築などの知識のある有志が集まり、自腹で、素材の調達費や建設費を出し合い、
同志で、最初のパッシブハウスの、集合住宅を建設した。
最初に建設されたのは、4階建ての、20戸を対象にした集合住宅
だった。

その後、フライブルク市では、こうしたエコな住宅こそが、時代の先端をゆくものであり、そのような住宅に住むことに価値を見い出す市民が多かったことから、この種の住宅の建設ブームが起きたという。
現在、このパッシブハウスは、フライブルク市だけ、あるいはドイツだけではなくて、フランスなど、EU全体に広がる動きがあるという。

現在、周辺では、パッシブハウスだけでなく、更にもう一段進んだ、使用するエネルギーより生産するエネルギーの方が大きい、「プラス・エナジー住宅」も加わり、様々なエコハウスが、所狭しと建設されている。

この建設ブームが、欧州危機の中でも、当地の経済が、好調を維持している原因のひとつである。

ここでもうひとつ、技術的なことを補足しておく。
パッシブ住宅と他の住宅との違いで、一番にあげられるのが、断熱効果。
パッシブ住宅には、約40センチの断熱材が使われている。
例えば、東京あたりでは、素材なども多少違うとはいえ、エコと言われている住宅でも、10センチぐらい。
厚みだけでみると、東京あたりで10センチぐらい、北海道あたりで30センチぐらい。
それを、フライブルクのパッシブ住宅では、40センチの厚みの断熱材を使い、建物の断熱効果を高めて、一旦温めたらもう逃がさない。

冬季の、外部が非常に寒い時でも、室内は、22℃ぐらいに保たれている。
緯度で言えば、北海道の樺太あたりの高い位置にあるわけなのだが、
冬季であっても一度温めれば、ほとんど熱が逃げることがなく、暖房を使うのは、2週間ぐらいしかない
、という家が多い。
 
ベルリンの出身で、フライブルクに引っ越して、ご本人もプラス・エナジー住宅に居住するという、
フライブルク・フューチャーラボのディレクター、アストリド・マイヤーさんは、
「物件が市場に出回るようなことはなく、コネでもないと、入居できない状態が続いている」と、人気の高さを裏付ける話をしていた。

結局のところ、こうした人気を、無視し続けることができずに、
ドイツでは現在、連邦政府(復興金融公庫)の補助金や、低利融資を行う制度ができている
が、
これらの公的補助制度は、市民が火を付けたブームに、政治が追随したに過ぎない、というのである。
市民発である、という点が、先のセント・ペーター村の、地域暖房施設の話と全く同じ。

政府が手を出すと、細部に手が届かないだけではなく、いらないことをする。
そういうところは、ドイツも、痒い所に手が届かない日本の行政と同じ
である。


さらに、今回の視察では、ようやく整備された政策支援を、批判する声があることも判明した。

この分野の、建築・設計を専門とする、カールスベール工科大学のクリストファー・クム教授は講演で、
「政府は、政策補助の発動基準を設けるにあたって、達成すべき目標を掲げることに徹するべきで、
使用する技術に、細かく口を出すのは不適当だ。
創意工夫の芽を摘んで、技術革新を阻害することになりかねない」
と強調していた。

余談だが、同教授は、今日のように、エネルギーが潤沢でなかった時代にこそ、その土地の風土を活かした建築が為されていたという、
伝統的な建築のノウハウの活用を、重視する人物だ。
2度にわたって訪日したにもかかわらず、見学を許されなかったが、写真などからみて、京都の桂離宮が、湿度の高い日本の風土に適している、という説も披露していた。
この話は、町田氏らが視察に訪れたから言うのではなく、普段彼が、毎年の授業の中で、学生達に学んで欲しいこととして、
『その風土に適した住宅がある』という話を紹介する中での、ひとつの重要なエピソードになっている。


福島原発事故以降、政府のエネルギー・環境政策の見直し議論を、一環して取材してきた筆者が、これまで何度も直面したのは、
実現性や経済性の議論は二の次にして、原発の再生可能エネルギーへの、早急な置き換えを求める市民団体の声と、
そうした対応は、エネルギーコストの急騰を招いて、企業の国際競争力を削ぐと反発する、経済界の深刻な意見のすれ違い
だ。

しかし、今回のドイツ視察で、日本でも、重要性が指摘されながら、
政府の「画期的エネルギー環境戦略」(9月18日決定)などでは、ほとんど顧みられることのなかった、住宅分野の節電の重要性や、
コミュニティレベルで採算が取れる、地産地消型のエネルギーシステムの構築に関して、
日本は、そうしたことが、積極的に行われているという話もあまり聞かない。
たとえ、いくつかはあっても、むしろ政府が放置して、育てなかったという議論もある。
そうしたことへの政策支援の存在も、耳にしない
しかし、ドイツでは、そもそも、そういうものが無い所で、政府やユーティリティの大企業に決して頼ることなく、
市民発で、市民が独力で答えを作り出していく、逞しい姿を目の当たりにした。

そうした実行力が、冷ややかだった政治家や、企業の抵抗姿勢を改めさせ、新しい物事を普及させていく、起爆剤になっていたのである。
こうした土壌があるからこそ、脱原発も、空理空論ではなく、やれるのではないか、という話につながった。
もちろん、なんでもかんでも、外国のものを真似しようというのではない。


今回の視察では、太陽熱の利用のように、日本企業が、採算が採れないと、5年から7年前に事業化を断念した技術を、
ドイツでは引き続き、何とかして、これを商業ペースに乗せることができないかという、試行錯誤が続いている。
約2日間に渡り、7カ所ぐらいの事業所を見学したが、残念ながら、採算に乗っているものは、今だにひとつも存在していない。
中には、巨額の政府の補助金を入れてもまだ、15年ぐらいかからないと、投資の回収すらできないといったようなモデルも存在した。
このように、開発に拘るドイツ企業を始め、容易にはお手本にできない、と映るものも存在した。
そういった形の技術について、日本でも、補助金漬けにして進行するような政策は、いいとは思わない。
しかし、ここに紹介した市民の取り組みや、新技術の実用化の障害になりがちとされる、ドイツ独特の徒弟制度(マイスター制度)の弱点を補うための、地元中小企業と専門学校の人材育成の試みなど、無視できないものも豊富にあった。


日本では、国会の周りを、主催者側の発表で、10万人の人々が、早期の脱原発を求めてデモをしているというのに、
政府や財界は、実現のしようのない、コスト採算の合わない、再生可能エネルギーの導入を強制して、国の経済基盤を破壊するつもりかと、冷ややかに見ている。
そういったギャップが大きいのが実情ではないか。
経済ジャーナリストの立場で見ても、1キロワット/毎時あたり42円で、20年間も全量買い取りをやる、太陽光発電であるとか、
過去に、補助金をもらって事業を始めながら、放漫経営で事実上経営破綻している、風力発電会社への政策支援の継続であるとか、
そういった行為は、明らかに、税金の無駄使いであり、
ドイツあたりが、すでに失敗と認めて縮小し始めているものを、冷静な分析も無く、追従する動きとしかとれないものである。
こういうものは、利権を追い求める、新興の企業の政治力が、原動力になっているもので、
経団連企業の中には、忌み嫌うところがあるのも、ある程度うなづけると言わざるを得ない。
そういう意味では、一体、海外から何を選んで、何を学んで、何を取り入れるのか、あるいは、何を反面教師と見なして導入しないのか、
今一度、ドイツに限らず、こうした海外の経験を総点検して学ぶ姿勢が、
閉塞感の強い、日本のエネルギー環境問題の見直しには、欠かせない
のかもしれない。

↓以上、文字起こしおわり


その土地、その地域特有の地形、環境、風土を活かした発電方法。
そういうのん見つけるのって、日本人は絶対に得意やと思うねん。
ただ、ほならいったい誰が、どうやって、そのきっかけを作るねん?いうことやんな。
いっちゃんはじめはそらひとりやけど、ひとりがふたり、ふたりが三人になって、きっと仲間が増えていくよ。
ほんで、いろんなとこに住んでるいろんな人が、きっと支えてくれる。

がんばってみやへんか。
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まずは自分を本気で大切にする!

2012年10月25日 | ひとりごと
本気で自分の身体のことを考えねばと思う。

この、なんとなく大丈夫そうになるのに、いつも以上のことをほんのちょっとでもするとすぐに、
ジンマシンやら下痢やらが、当たり前のような顔してやってくるのがおかしい。
というか、ジンマシンがこんなに長く、ちょこちょこタラタラと居座るのは初めてなので気持ちが悪い。

昨日は、近所の、日本人友の家にランチをおよばれに行った。
な~んも用意せえへんから、と言うてたのに、ここはレストランかっ!とツッコミ入れまくらなあかん料理が並んだ。
昼間っから天ぷら揚げてくれたり、あれやこれやの心づくし。
抹茶とあんこと牛乳を寒天で固めたデザートまで?!
うちやったら多分、お好み焼きとか焼いて終わり……やろな……。

彼女は、仙台出身で、3人の小学生の女の子達のおかあさん。
ついこないだも、家族みんなで帰省して、ボランティアをぎょうさんしてきはった人。
生徒の発表会が終ったら、ゆっくり時間とって、じっくり話を聞かせてもらおと思てる。

この夏は、大阪で土方をしてる弟が、重度の熱中症にかかり、体全体が痙攣するという、危ないとこまでいった。
彼は、20才になる以前に、父親に名前を使われて、それも一度や二度ではなく、手口もこんでたので、
成人した時にはもう、まともな就職など到底できん状態になってた。
けども、それでもぐれんと、得た職場では真面目に働いてきた。
でももう50を過ぎて、やっぱり土方はキツいんやろなあ……年々、身体の参りかたが違てきた。

上の息子は、夏に日本に行って、山中湖で泳いだ時、ウェットスーツを借りて着用したら、
こちらに戻ってきて急に、膝の裏側が痒なって、そこがどんどん酷なって検査してもろた。
そしたらなんと、ゴムアレルギーやとわかったのやけど、症状は良くならず、とびひみたいに、身体中に真っ赤な痛々しい傷が広がった。

でもな、思うんやけど、
下痢やのじんましんやの、熱中症やのゴムアレルギーやの、まあ、重度の熱中症は別にして、命に関わるようなことと違ても、
身体のどこかが不調になると、なんとも鬱陶しいし、元気が無くなる。


放射能でめちゃくちゃ汚染されてるとこに今だに暮らしてる子らの喉には、曩胞やらグリグリがいっぱいできてる。
恐いやろなあ。気色悪いやろなあ。ついつい触ってしもてるやろなあ。
ほんで、これなんやろ、痛うないけど、変な感じする。大丈夫やろかと、ほんまはお父さんやお母さんに相談したいけど、黙ってるんやろなあ。

旦那の姉は、40才過ぎてから、甲状腺癌が見つかり、二回手術した。
それまでもずっと、人一倍疲れやすく、首の後ろ辺りに、針で刺されるみたいな鋭い痛みが始終あった。
体内のカルシウムのバランスがいっつも悪うて、すぐにイライラして怒りっぽいし、パニックになりやすい。
そやから、初めて会うた時からその、6才年下の女性が苦手やった。
けども、今、いろんなことを知ってから彼女の人となりを考えてみると、彼女自身かてどうにもならんことに悩みながら生きてたんやと思える。
人にはわかってもらえん、痛みや怠さ、それから心のバランスが崩れる辛さと闘うてきたんやと思える。
ほんで、彼女は、TMIの事故の時、小学生で、近くに住んでたんやけど、あの事故の規模でさえこれなんやから、
ほんま、福島第一の近くでいた子ども達や、妊婦のお腹に居た胎児やらが受けたモノの深刻さを想像しただけで、胸が痛うなる。

福島だけやのうて、近辺の県の子達、それから、離れててもホットスポットの近くで暮らしてる子達、
いや、多分、子達だけと違て、大人も動物も、きちっと毎月検査を受けて、事の成り行きを見極めていかな、ほんまにえらいことになる。

今や、検査した子どもの半数近くが、甲状腺に異常を持ってる。
それでもまだ放置できる国ってほんま、どこまで異常なん?

なんとかせな、と思う。
けど、元気がイマイチ出えへんから、まずは健康つくり!
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国の未来を救いたい原告に、敗訴を連発しまくる最高裁判事たち。今こそ国民審査の切っ先を突きつけよ!

2012年10月23日 | 日本とわたし
今日はずっと、日本で投票に行った時のことを思い出してました。
最高裁裁判官の国民審査。
毎回、行って、これなに?と思てました。
審査せえって言われても……ちゃんと知らんし、調べてもせんし、別に誰も話題にせんし……。
などと、モゴモゴと心の中で思いながら、全然知らん人の名前に、無責任に◯×をつけるのも気がひけて、
結局はなんも書かんと、そのまんまにしてたこと。
どうも、それも、あいつらの企みの中のひとつやったらしいです……。

この記事を見つけて読んで、うーんと唸りました。
あかんやんか、これもやっぱり、と思いました。
もう、だいぶ古い記事なんで、お叱りを受けるのを承知で、ここに丸々載せさせてもらいます。
その当時の、ここアメリカの新聞もいっぱい載ってて、非常に懐かしい。
個人で、これだけの新聞を集めるのは到底無理なんで、この資料は助かりました。

さあ、選挙、近づいてきてますよ。
投票するまでに、勉強せなあかんこと、調べなあかんこと、てんこ盛りですよ。
地域やマンション、アパートごとに集まるとか、会社で投票準備クラブとか作るとか、婦人会やら消防団、自治会で勉強会開くとか、
ほんで、もっちろん、候補者と膝突き合わせて、とことん向こうがやろうと約束できる政策を聞き質すとか、
今回の選挙は、日本の立て直しの第一歩。

そして、司法の頂点にいはる最高裁裁判官の人達を、とことん調べる。
原発やその他、国の存続に関わる重大な事項について、どんな考えを持ち、どんな判断を下したのか、
それを徹底的に調べて、調べた結果わかったことを、いろんな機関や団体、それから個人個人のネットを通じて広報する。
こんなこと、権力チェックをきちっとする報道機関が存在してたら、全くせんでもええことなんやけど、
もうずっと前から、そんなもんは存在してなかった、ということが明白なのでしゃあない。
ここはひとつ、いろいろ生きていくのに大変ですけど、皆と手分けして、頑張ってみてください。

ということで、有権者で、まだボケてはる人が周りにいる人は、目の前で手をパン!と叩いて、目を覚まさしてあげてくださいね。

↓以下、転載はじめ

あなたは最高裁裁判官の名前を知っていますか?
最高裁判事の人事報道、日米で雲泥の差
「匿名」なのは検察官だけではない


衆議院総選挙の投票日に、投票所で、国民審査の用紙を渡されて、戸惑うことはないだろうか。
不信任にしたい最高裁判事に、バツ印を付ければならないのだが、手元に判断材料がないから、何も書かないままにしてしまう。
何も書かなければ、信任票を投じたことになると分かっていても、である。

個人的にも、次のような経験がある。

総選挙の日程が決まり、「今度こそ、国民審査できちんと投票しよう」と自分に言い聞かせる。
「大幅な1票の格差はおかしい」と、かねて感じていたので、「1票の格差に、合憲判断を出したことがある裁判官を、不信任にしよう」と思う。

ところが、忙しさにかまけて、下調べしないままで、投票日を迎えてしまう。
慌てて、当日の朝刊を調べるが、案の定、1票の格差を合憲と認めたことがある裁判官が誰なのか、紙面のどこにも何も書いていない。

何日か前に、朝日新聞など主要紙が、審査対象の裁判官について、アンケート調査していたはず---こう思ったが後の祭り。
古い新聞紙は、すでにゴミ箱行きになっている。
調査結果は、ちらっとしか見ておらず、1票の格差について、何が書いてあったのか、思い出せない。

投票所では、私のような有権者向けに、参考資料がどこかに置いてないかどうか、念のためにチェックしてみる。
何も見当たらない。
投票用紙を見ても、そこには、名前が書いてあるだけ。
結局、全員に、バツ印を付けて投票するか、無記入のまま投票するか、どちらかにせざるを得なくなる。


無責任な大新聞の社説

ここで、素朴な疑問がわく。

アンケート調査の新聞記事を読んでいなければ、1票の格差について、個々の最高裁判事がどんな考えを持っているのか分からないというのは、有権者の責任なのだろうか。 

投票所で、最高裁裁判官の名前を、初めて目にする有権者も多いだろう。
名前を知らないのであれば、過去に、どんな裁判を手掛けたのかなど、経歴を知る由もない。
それも、有権者の責任なのか。

言うまでもなく、個々の有権者が、自分で意識的に、調べる責任はある。
だが、「権力vs国民」で見た場合、情報で圧倒的に有利なのは、権力側だ。
この、情報格差を埋める役割を担っているのが、報道機関である。

ジャーナリズムの重要な機能は、「権力のチェック」だ。
司法は行政、立法と並んで、3権の一翼を担う巨大権力であり、その頂点に位置するのが、最高裁裁判官。
報道機関が、大臣や国会議員を監視するのと同じように、最高裁裁判官を監視するのも、当然のことではないのか。

大新聞は、そうは思っていないようだ。
昨年8月末の総選挙前、主要各紙は、国民審査について、社説で取り上げている。

まずは、同月28日付の、読売新聞。

<裁判官の氏名すら知らず、判断のしようがない、という人も多いだろう。
『形骸化した制度』と、指摘されるゆえんである。(中略)
過去の主な判例は、最高裁のホームページで検索できる。
審査の前に、閲覧してみてはどうだろう>


最高裁裁判官についての、自らの報道が十分であったかどうかには触れずに、有権者である読者に、自助努力を求めている、ということだ。

 
次は、同月27日付の、日本経済新聞。

<審査対象の、裁判官にまつわる情報の開示・提供が少なすぎる。(中略)
せっかく、元のデータは整っているのだから、膨大な情報でも簡単に提供できる、インターネットの特性を利用する、広報の手法を考えてはどうだろう>



なぜ最高裁を取材しないのか

最高裁裁判官について、有権者が無知なのは、新聞報道が足りないというよりも、政府広報が足りないから、というわけだ。

最後は、同月26日付の、朝日新聞。

<国民審査の形骸化より、基本的な問題は、彼らが、国民からまったく見えない、密室の中で選ばれてきていることではあるまいか。(中略)
どんな仕事をしてきた人が、どんな理由で選ばれたのか、国民は知らされない。
国民審査が、形骸化している原因は、こうしたことにある>



どんな最高裁裁判官が、どのように選ばれているのかが、一般に知られていない原因は、政府の秘密主義である、と指摘しているのだ。

放っておけば、権力は、秘密主義に走る---これは、古今東西変わらない。
情報の独占は、権力側の、力の源泉だ。
国民が、無知であればあるほど、好都合。
国民の前に、すべてを洗いざらいさらけ出してしまったら、好き勝手に行動できなくなる。


だからこそ、「第4の権力」、つまり、報道機関に期待が集まる。
行政、立法、司法の3権が、何をやっているのか徹底的に調べ、広く世の中に向けて伝えることで、
権力と国民の間の、情報格差を埋めていく機能を果たすわけだ。

ところが、国民審査に際して、大新聞は、
「広報活動を拡充すべき」「透明性を向上すべき」といった内容の社説を書き、権力側の対応に、期待を寄せるだけだ。
「国民の無知」を、力の源泉にする権力側が、自主的に、権限を手放すと思っているのか。
それとも、権力側と一体化してしまい、権力のチェック役として、立場を忘れてしまったのか。

新聞記者は、夜討ち・朝駆けで、血のにじむような思いをしながら、守秘義務を負う検察官から、捜査情報を聞き出し、「特ダネ」を仕入れている。
その気になれば、最高裁の取材でも、「密室」をこじ開け、どのような理由で、どんな長官や判事が選ばれるのか、明らかにできるはずだ。
情報公開制度を活用するなど、調査報道の手法も取り入れれば、より効果的だ。

少なくとも、アメリカの新聞はそうしている。


2009年5月27日付ロサンゼルス・タイムズ1面。最高裁判事にソトマイヨール指名の関連記事で、ほぼ全面を埋め尽くしている


中面で見開き2ページを使い、ソトマイヨールの大特集を展開。右ページには、両親と一緒の幼児期の写真も

 
例えば、昨年5月27日付のロサンゼルス・タイムズの、1面トップ記事。
大統領のバラク・オバマが、ヒスパニック系のソニア・ソトマイヨールを、最高裁判事に指名したのを受け、
全6段ぶち抜きで、「最高裁判事に、初のヒスパニック」と伝えている。

中面でも、見開き2ページを使い、ソトマイヨール関連記事で埋め尽くしている。
そのうちの1つは、「貧しいニューヨーク・ブロンクス地区からアイビーリーグへ」との見出しを掲げ、彼女の生い立ちに焦点を当てる、長文記事だった。


1面トップ4段抜きで報道

ソトマイヨール指名を、特大の扱いで伝えたのは、一般紙に限らなかった。
経済専門紙ウォールストリート・ジャーナルも、同日付けの1面トップ記事として、ソトマイヨール指名を報じている。
同紙としては、最大の、4段抜きの扱いだった。


2009年5月27日付のウォールストリート・ジャーナルも、「最高裁判事にソトマイヨール」を、1面トップ記事に

ロサンゼルス・タイムズ同様に、ウォールストリート・ジャーナルも、中面でも詳細に報道。
彼女が、地裁と高裁判事を務めていた時代に、どんな判決を下したのかを、詳細に調べたうえで、
「過去の判決を見ると、リベラル中道派」「民主党寄りであるのに、企業に有利な判決を書く傾向がある」などと指摘している。

ソトマイヨールは、ヒスパニック系ということで話題を集めたが、そうでなくても主要紙は、最高裁判事の人事を、特大の扱いで伝えている。

今年4月9日に、最高裁判事のジョン・ポール・スティーブンスが、退任を表明した時だ。
ニューヨーク・タイムズは、翌日10日付の1面トップで、4段抜きの記事を掲載し、
「スティーブンス判事退任、オバマに、2度目の指名のチャンス」と伝えている。


2010年4月10日付ニューヨーク・タイムズ1面。最高裁のスティーブンス判事の退任ニュースが、1面トップに


中面でも、見開き2ページで、スティーブンス判事の退任関連記事で全面展開


中面の左ページには「34年間の最高裁判事時代に、スティーブンスが関与した、主な裁判一覧』を掲載。国旗の掲揚や、囚人の権利など、主要7裁判に就いて、最高裁判事9人が、それぞれどんな判決を下したのか一目で分かる

中面でも、スティーブンス退任関連で、見開き2ページを埋めている。
そこで用意した「34年間の最高裁判事時代に、スティーブンスが関与した、主な裁判一覧」が圧巻だ。
国旗の焼却や囚人の権利、言論の自由など、主要7裁判について、長官も含め、最高裁判事9人が、それぞれどんな判決を下してきたのか、一目で分かるのである。

ちなみに、オバマが5月10日に、スティーブンスの後任判事として、元ハーバード大学ロースクール学長のエレナ・ケイガンを指名した時にも、
主要紙は、特大ニュースとして、1面トップで報道している。


2010年5月11日付、ニューヨーク・タイムズ1面。ページの半分以上が、「最高裁新判事にケイガン』の関連記事


中面では、見開き2ページを、ケイガン指名関連記事を展開


中面の左ページには、ケイガンの学生時代の写真などを掲載。日経新聞文化面の「私の履歴書」を彷彿とさせる

翌日付のニューヨーク・タイムズは、スティーブンス退任時と同様に、中面でも、見開き2ページで、ケイガン指名関連報道を全面展開。
目玉は、彼女の人生をカラフルに描いた、フィーチャー記事「現実主義のニューヨーカー」。
高校時代の写真のほか、影響を受けた人の写真なども満載で、日経文化面の「私の履歴書」を彷彿とさせる内容だった。

同紙は、ホワイトハウスが、積極的に情報開示してくれたから、紙面上で大きな扱いにしたのではない。
独自の取材で情報を集めて、1面トップ記事にしたのである。
日本の最高裁判事人事は、ベタ記事扱い

ソトマイヨール、スティーブンス、ケイガンの3人は、最高裁判事であり、最高裁長官ではない。
比較のため、日本の最高裁判事(長官ではない)の人事が、どう報じられているのか、点検してみた。
今年は、新たに4人が、最高裁判事に任命されており、直近では、5月14日に、新任判事に内定した大谷剛彦だ。

読売、朝日、毎日、日経の4紙を見ると、同日付の夕刊で一斉に、新判事内定のニュースを伝えている。
そろって「ベタ記事」である。
1段見出しの記事で、最小の扱いということだ。
しかも、1面ではなく、中面の記事にしている。

それから1カ月にわたって、新判事・大谷についての、続報はなかった。
取材時間が十分にあったにもかかわらず、4紙は、彼がどんな教育を受け、地裁や高裁時代に、どんな判決に関与したのか、何も報じなかったわけだ。

大谷が、6月17日に、正式に最高裁判事に就任すると、4紙は、続報を打った。
彼が、最高裁内で、就任記者会見を開いたからだ。
翌日18日付朝刊で、読売と日経、同日付夕刊で、朝日が、会見内容を伝えている。
そろってベタ記事で、やはり、中面に掲載していた。
毎日は、他紙より5日遅れの、23日付朝刊の中面で、追いかけた。

さすがに最高裁長官になると、紙面上の扱いは、やや大きくなる。
現在の長官である竹崎博允が、新長官に内定した時も、主要紙は、1面ニュースとして伝えている。
だが、アメリカの新聞が、最高裁判事の人事でも、大騒ぎするのと比べると、見劣りする。
就任記者会見の様子など、司法記者クラブ内での発表を処理するだけで、完成するような記事が多いのだ。
リーク依存型取材では、裁判官報道は価値がない

 
裁判官報道をめぐり、日米で雲泥の差が出るのは、最高裁裁判官の人事にとどまらない。
前回の記事(「村上ファンド、ライブドア事件報道を検証」でも書いたように、刑事裁判などの報道でも、大きな違いが出る。
なぜなのか。

裁判所を取材しても、「最高裁は、~裁判で、合憲判決を出す方針で一致し、週明けにも発表する」
「東京地裁は、~事件で検察側の主張を認め、あすにも、被告に有罪を言い渡す」といったニュースを書けない。
裁判官が、判決情報を、事前にリークすることはないから、いずれ発表になるニュースを先取りする、「発表先取り型」が機能しない。

リーク依存型の特ダネ競争を、展開する記者にしてみれば、取材対象として、裁判官の利用価値は低いわけだ。
逆に言えば、遠慮なく、裁判官について書いてもかまわないはずだ。
裁判所に出入り禁止にされても、「発表先取り型」で、他紙に抜かれる心配はないのだから。

にもかかわらず、裁判官報道は乏しい。
最高裁裁判官が、大きな写真入りで、主要紙の1面トップを飾ることなどほとんどないため、
最高裁判事はもとより、最高裁長官の名前すら、知らない人が多い。

司法権の最高責任者であり、行政権の最高責任者である、内閣総理大臣と同じ報酬をもらっているのに、である。

日本の新聞界には、いわゆる、「日付モノ」が重宝されるなど、速報ニュース史上主義がある。
ニュース解説やフィーチャー記事、調査報道は、軽視されがちだ。
裁判官の「人モノ」を書いても、1面トップにはまずならない。
「裁判官は、人間味に欠けて面白くない」「世の中を変えるような判決を書く、裁判官がいない」などと言われているからなおさらだ。

新聞記者時代、私は、司法記者クラブに所属したことがなく、裁判を、直接取材する機会がなかった。
だが、仮に、同記者クラブ員だったとしても、裁判官の人モノを書くことはなかっただろう。
「そんな余裕があるなら、ニュースを取ってこい」と言われたにちがいない。


没になった「最高裁裁判官ランキング」

ただ、1999年から4年間は、新聞ではなく、雑誌の編集委員で、比較的自由に取材できた。
司法記者クラブに所属しなくとも、司法関係の記事を書くことは可能で、
実際、2000年の衆院総選挙直前も含めて、「最高裁裁判官ランキング」の特集企画を、何度も提案した
個々の裁判官について、生い立ちも含めて丸裸にし、国民審査に役立てよう、と思ったのだ。

特に、民主主義の根幹にかかわる、1票の格差問題に迫りたかった。
個々の最高裁裁判官に取材しても、1票の格差についてどう考えているのか、踏み込んで語ることはなかっただろう。
しかし、過去に、同じ職場で働いた同僚のほか、法廷の場で、同じ裁判にかかわった検察官や弁護士らに、広範に取材すれば、
どんな思想を持っているのか、ある程度は分かったはずだ。

だが、「最高裁裁判官ランキング」が、特集に採用されることはなかった。
特集どころか、通常の記事にもならなかった。
不採用の理由として言われたのは、「最高裁裁判官を評点する格好になると、政治的な色が付いてしまい、まずいのではないか」だった。 (敬称略) 

↑以上、転載おわり

追記
ごめんなさい。新聞の写真が、画面に出ていませんが、注釈の文章でその内容を説明しています。
写真は、元のサイトで読んでいただけると、全部見られると思いますので、どうか、そちらで確認してください。
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私たちがそれを忘れれば いつか孫たちが問うだろう「あなたたちの世代は何をしたのですか」

2012年10月23日 | 日本とわたし
このブログにコメントをしてくれてはる、じゅんこさんから、ある記事を教えてもらいました。
『杉並からの情報発信です』というブログに、去年の5月11日に書かれていた記事です。

タイトルは、『原発訴訟で原告敗訴を連発した最高裁判事は福島原発大事故の重大責任がある!』

原発事故後の日本を、一日も欠かさず観察してきて、知らず知らずのうちに(いや、自覚はしてた)疲れがたまっていたんやろう、
ここ何ヵ月、特に、すっきりと元気やと感じられる日がほとんど無くて、おまけにいろんな症状が連ちゃんで続いたもんやから、
さすがに、気分的にも暗うなって、ふと、投げ出したろか、なんて思たりもした。
まあ、わたしなんかが投げ出したところで、誰が困るわけでも、何が変わるわけでもなく、全く世界は知らん顔して生きてるのであって、
これはもう、ただただ続けてるっちゅうことへの自己満足と、もうやめてしまいたいと思う自分への失望の世界の他のなにものでもない。

そんなこんなで、自分の中でうだうだしてた時、この記事を教えてもろて読んだ。
もう今から1年半ほども前に書かれてた記事。
けど、今現在のわたしらが、特に、選挙が近々迎える有権者として、絶対に知っとかなあかんことやと思た。

↓以下、転載はじめ

『原発訴訟で原告敗訴を連発した最高裁判事は福島原発大事故の重大責任がある!』

下記は、日本における、原発訴訟の判決をまとめた表です。

日本では、11件の原発訴訟が起こされていますが、下級審で2回、原告が勝訴しているだけで、全てで敗訴しています。
最高裁では、原告は、すべて敗訴しています。

1985年提訴の「もんじゅ・設置許可無効」訴訟では、原告は一審で敗訴、二審では勝訴しましたが、最高裁で敗訴しています。

1999年提訴の「志賀原発2号機・建設・運転差し止め」訴訟では、原告は一審で勝訴しましたが、二審、最高裁で敗訴しています。

*ツィッター友の、村田信雄さんが、こんなことを教えてくださいました。
『ちなみに、金沢地裁で、志賀原発運転差し止め判決を下した井戸謙一裁判官は、滋賀県彦根市で弁護士をやられてます。
また、官邸前抗議等でスピーチされてます。ご参考に』



■主な原発訴訟の判決  原告の請求内容     提訴年 一審 二審 最高裁
1 伊方原発1号機    設置許可処分取り消し  1973  X  X  X
2 東海第2原発     設置許可処分取り消し  1973  X  X  X
3 福島第二原発1号機  設置許可処分取り消   1975  X  X  X
4 柏崎刈羽原発1号機  設置許可処分取り消し  1979  X  X  X
5 女川原発1・2号機  設置運転差し止め    1981  X  X  X
6 もんじゅ       設置許可無効確認    1985  X  ○  X
7 もんじゅ       建設・運転差し止め   1985  X (確定)
8 志賀原発1号機    建設・運転差し止め   1988  X  X  X
9 福島第二原発3号機  運転差し止め      1991  X  X  X
10 志賀原発2号機    建設・運転差し止め   1999  ○  X  X
11 浜岡原発3・4号機  建設・運転差し止め   2003  X 審理中

○・・・・原告勝利
X・・・・原告敗訴

(引用:東京新聞2011.05.08)

▼日本の裁判官は、違憲訴訟でも原発訴訟でも、司法判断を放棄し逃げてきた

住民や市民グループが、政府や行政機関に対して起こす憲法違反訴訟で、
日本の裁判官は、「高度な政治判断は、司法になじまない」といって、違憲判断を放棄して、門前払いをしてきました。

日本の裁判所が、違憲裁判で、司法判断を放棄したため、日本の政府と行政機関は、国家の最高法規である「憲法」を、意図的に過小評価し、
政府の政令や、行政機関の省令よりも、低い存在に貶めてきた
のです。

だからこそ、毎年5兆円もの、世界第7位の軍事予算を使う自衛隊が、
「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という、憲法9条の規定に明確に違反しているにもかかわらず、
「違憲」の自衛隊は、相変わらず存在しているのです。

日本の裁判官が、原発訴訟で、「原告全面敗訴」を繰り返ししてきたことと、
違憲訴訟で、「門前払い」を繰り返してきたこととが、同じ構図
なのです。

日本の裁判官は、原告が、原発の危険性をいくら訴えても、
「専門的、技術的評価は、司法判断になじまない」と言い、政府や電力事業者の「安全神話」を、そのまま認めて、原告の訴えを却下してきた
のです。

最高裁が、「原発の安全神話」を認めた以上、東電をはじめとする10の電気事業会社は、当然ながら、最低限の安全対策しか行ってこなかったのです。

その結果が、今回の、未曾有の福島第一原発の大事故なのです。

過去の原発訴訟で、最高裁が、「運転差し止め」の判決を一度でも出していれば、今回の事故は、未然に防げた可能性が大きいのです。

その意味で、11の原発訴訟で、原告敗訴の判決を出した最高裁判事の全員の名前を探し出し、彼らの責任を追及すべきなのです。

東京新聞の、「司法にも原発事故の責任がある」との記事を、以下に転載しますのでお読みください。

●牙むく原発「司法も責任」 福島第二控訴 元原告 2011年5月8日 東京新聞

『原発の危険性をあらためて浮かび上がらせた、東京電力福島第一原発(福島県双葉町、大熊町)の事故を受け、
政府は、中部電力の浜岡原発(静岡県御前崎市)の、停止要請に踏み切った。

「原発は安全か」。

周辺住民たちは40年来、法廷に問い続けたが、
多くの裁判所は、「専門的、技術的評価は、司法判断になじまない」と、踏み込んだ議論を避けてきた。

最悪の事故が、現実化したいま、
「不十分な安全対策を、容認してきた司法にも、責任がある」との声も上がる。

原発はいつの日か 必ず人間に牙をむく/私たちがそれを忘れれば いつか孫たちが問うだろう/「あなたたちの世代は何をしたのですか」

1984年、福島第2原発(福島県楢葉町、富岡町)をめぐる訴訟の一審で敗訴した時、今は亡き親友が詠んだ詩は、現実となった。
楢葉町の自宅から持ち出した、色あせた詩集を手に、
原告の一人で、市民団体代表早川篤雄さん(71)はいま、怒りと悔しさに震える。

「何のための司法か」

自宅、は第2原発から約6キロ、第1原発から約16キロ。
第1原発1号機の運転が始まった、70年代初め、一帯では、第2原発と広野火力発電所の建設が、計画されていた。

「原発はよう分からんが、火力の排煙は危ないんでねか」
公害を懸念して72年、高校教師だった早川さんや農民、漁民ら130人余で、町民組織を立ち上げた。
科学者を招いて勉強を重ね、

「原発の方が危ない」とはっきり分かった。

国は、74年に、第2原発建設を許可した。
翌年、約400人の住民が、許可取り消しを求め、裁判が始まった。

一審は、10年近くに及んだ末、「手続きは適法だった」と、住民の請求を棄却。
二審判決は、「基本設計は安全だが、現実の原発が安全かどうかは別問題」と言及したものの、結論は変えず、最高裁も退けた。

「住民が、最も大切だと訴えた危険性には、耳を貸さなかった」
と、早川さんは言う。

高校の同僚教師で、ともに原発問題に取り組んだ吉田信(まこと)さん(享年54歳)が、がんでこの世を去ったのは、一審判決の3年後。

「俺の骨になってけろ」。

早川さんは、火葬された親友の骨を口に含み、その後も、東電や国、県に、安全対策を訴え続けた。

「津波で、冷却設備が機能しなくなる」
「過酷事故を想定して、防災計画をつくるべきだ」-。


裁判が終わった後も、警告してきたのに、震災後に「想定外」を繰り返す、政府や東電。
心の中で、「この期に及んで」と憤る。


一方で、政府が、浜岡原発停止要請を決断したことは、「事が起きる前に、とにかく止めることが大事だ」と、高く評価した。

避難所や知人宅を転々とした後、先月半ばに落ち着いた、福島県いわき市内のアパートには、
自宅から運び出した、原発関連の資料が、どさりと置いてある。

「命ある限り、原発の安全性を問い続ける。けつまくって逃げるわけにはいかねえ」。

わが骨となった親友とともに、闘い続ける。
後世に「何をしたのか」と、問われないために。(小嶋麻友美)』

↑以上、転載おわり


続きで、これまた古い記事ですが、牧野洋氏が、2010年の11月に、『現代ビジネス』のウェブ上に書かれた、
『あなたは最高裁裁判官の名前を知っていますか? 最高裁判事の人事報道、日米で雲泥の差
「匿名」なのは検察官だけではない』
を載せたかったのですが、
かなり長くなってしまうので、別の記事として転載させていただきます。 
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子どもが今も救われへんのは、無関心で無責任な自分をしゃあないからと甘やかしてる大勢の大人のせい!

2012年10月21日 | 日本とわたし


この新聞記事の写真は、『まっちゃんのぶろぐ』に掲載されていたものです。
その記事のタイトルは、福島県双葉町の工業団地前の苔から57万Bq/kgのプルトニウムが検出 

びっくりした勢いで、この記事を書き出してみました。
↓以下、書き出しはじめ

『双葉町復興まちづくり委員の木村真三独協医大准教授は16日、同委員会で講演し、
除染しなかった場合の私見とした上で、
全ての町民が、町内に帰還するまでに、「少なくとも150年かかる」との意見を述べた。
町内の空気中の放射線量や、放射性物質の飛散の状況から、見解を示した。

木村氏によると、同町の放射線量は、低い所で、毎時0.3マイクロシーベルト程度の地域がある一方、
最も高い地域では、15日現在、毎時20マイクロシーベルトと超えている。
木村氏は、私見とし、「(放射線量が)これだけばらつきがある所に人は住めない」と語った。

帰還に150年間要するのは、除染をしない場合とした。
ただ、木村氏は、「こんなに高い線量の所を除染するのは、意味がない」と指摘。
放射性物質の物理的な減衰と、土中への浸透による遮蔽効果を考えた場合でも、
「150年間は、安心して住める地域にはならないのではないか」との見解を示した。

木村氏は、2日に、町内で採取したコケ類から、最大1キロ当たり、約57万ベクトルのプルトニウムが検出されたと報告。
「本当に安全なのか、検討していかなければならない」などと指摘した。

井戸川克隆町長は、木村氏の意見について、
「講演を聞いていないので、コメントできない」としたが、
「いつ帰還できるか、国が責任を持って示さなければならない」と語った。

委員会は同日、埼玉県加須市の町埼玉支所で開かれた。
講演のほか、
当面の生活拠点の在り方を審議する「生活再建」、
帰還に向けての議論を行う「ふるさと再建」、
文化・コミュニティーの意地を考える「きずな」の3部会の設置
や、
年末にも、町民アンケートを行うことを決めた。

↑以上、書き出しおわり



前に、ここアメリカのニューオリンズで、巨大台風による甚大な被害が起こった時、
この小さな町にも、避難する場所を求めて、家族がやって来た。
どれぐらいの期間、住まわせたのかわからんけれど、
町の教会や、ホームレスの人達に食事を提供してるスープキッチンのような団体が、寝どころを提供していたりもした。

政府が積極的に対策を取らず、困り果ててる人達の様子を、ネットや人づてで知った人達が、次々と救いの手を差し延べた。

日本は、人口密度の高い、ちっさい島国やけど、それでもちょっと真剣に探してみたら、
空いてる場所、部屋、お寺や神社、教会やなんかがいっぱいあるんとちゃうの?
年に何回かしか使わんドームとかもあるんとちゃうの?
おっきな会社が所有してる、保養所とか◯◯堂とかがあるんとちゃうの?

なんでとにかく、ひとまず、なんでもええから、放射能まみれの場所で今も動けんでいる人らを、疎開させたろうとせんの?

14人の子どもらが訴えて始まった、福島疎開裁判。
なんでそれが、国中の声にならんの?
なんでそれが、他人事やのん?



↓以下、めぐさんのブログ『男も女もすなる日記をいふものを、オカマもしてみむとてするなり』より転載、はじめ。



めぐスピーチ@新橋SL広場&文科省前 福島子ども避難 20121017

↓めぐさんのスピーチはここです。
27:24(SL広場)
1:03:52(文科省前)

まぁ、めぐはおんなじこと言ってるんですが。
SL広場には、右翼の街宣車が来ててスピーチしてたので、どうなることかと思いましたが、
その方も脱原発で、私たちのために予定を15分切り上げ、且つ、
「15分間は、私がスピーチしていると思って聴いて下さい」と仰られたので、感動しました。
日本の国土を守れ、日本人を守れというのが右翼なら、当然脱原発だと思っていたので、やっぱりそうなのだ、と確信しました。

めぐのスピーチの直前は、山本太郎ちゃんで、仲良しっす!(笑)

新橋では、これほど無関心なのかと、ある意味感心しました。

新橋、文科省前とも、雨が降ってて、その分、通行人もなかなか立ち止まって聴く、という感じにはならないのかも。
つか、みんな無関心。
弁護士会館前でも、一人デモして、バッジで弁護士と分かる人もそうだし、
経産省前一人デモを、午前中やってた時は、修習生時代の同期の先生が通ったけど、同じ。
めぐ、化粧して、マイクロミニだったんだけど(笑)、名前言ったら、「ああ、随分痩せたね」と言うんで、
「そーゆー問題かよっ!」とツッコミ入れようかとも思ったんだけど、ちとがっかりしてたので、苦笑いするしかなかったのん♪

↑以上、転載おわり



町の通りで、駅前で、声を張り上げて訴えてるのに、その前を、立ち止まりもせんと、スイスイ歩いて行ってしまう人達……。
マスコミのせいなんかとちゃうやん。
政府が怠慢やからとちゃうやん。
そうやって、必死に伝えてる声を無視して、自分の世界中心に生きてる、画面の中の人らと同じ、耳を塞いで生きてる人が多過ぎるからやん。
人のせいにすんな!
政府のせいにすんな!
マスコミのせいにすんな!

子どもが今も救われへんのは、そういう、無関心で無責任な自分を、しゃあないからと甘やかしてる大人のせい!
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人が住んではいけない線量の場所に子どもを住まわせて、知らんふりできる人間がいっぱいな国ジャパン!

2012年10月21日 | 日本とわたし
きーこさんが書き出してくださった『アレクセイ・ネステレンコ所長記者会見』10/20 の内容です。

↓以下、転載はじめ

「人が住んでいるところにもかかわらず、 福島は線量が高い。 想像以上に高い」アレクセイ・ネステレンコ所長記者会見 10/20(内容書き出し)

アレクセイ・ネステレンコ所長記者会見


【自由報道協会ブログより】
ネステレンコ氏はベラルーシの核物理学者であり、
現在はベラルーシの民間研究団体である ベルラド放射能安全研究所の所長を勤めています。
現在、来日中で、18日に福島県の視察を行っており、
本会見では、福島視察の報告、ベラルーシの放射能研究と日本との違い、などを予定しています。

<参考>
ベルラド放射能安全研究所は、 同氏の父ワシリー・ネステレンコ氏が、チェルノブイリ原発事故後、民間の研究機関として設立。
同研究所は、低線量のセシウム137が、人体に与える悪影響や、放射線発病の予防法を研究しています。
非政府組織との協力の下、西欧地域や日本で、子供を国外保養させて、体内の放射性物質を減らし、
健康状態の回復を図る取り組みも行なっています。









司会 おしどりマコ
論者 アレクセイ・ネステレンコ所長
通訳 辰巳雅子



アレクセイ・ネステレンコ所長:
皆さん、わざわざお集まりいただきまして、ありがとうございました。
まず、日本の国に起きたこの悲劇について、心からご同情申し上げます。
日本にきて、数日しかたっておりませんけれども、この短い滞在の間に、いろいろな事を見聞きいたしました。
この日本という、素晴らしい国に起きた悲しみについて、
ベラルーシの悲しみとともに、今までの経験を、日本人の皆様と共有していきたい、と思っております。

まず、津波の被害に遭ったところにも行ったのですけれども、
地震や津波の被害によって、日本の国が変わってしまった事について、感情的な心の中の印象、というものが非常に強いです。
今、大変、心が痛んでいます。

そして、その次に、私の心の中に起こったものというのは、
チェルノブイリ原発事故によって起きたことと、福島の事故によって起こることと、
それを、福島の事故を見て、チェルノブイリ原発で起きた事故を、思い出しました。

福島県にある、村に行ってきたのですけれども、
その村の様子を見て、チェルノブイリ原発で被害に遭った、ベラルーシの村の事を思い出しました。

それから、放射能の被ばくの現状についてなんですけれども、
福島県で、私が得た印象というのは、驚きです。
しかも、悪い方の驚きです。


福島の各地に行った時に、線量計を持って行きまして、地表の線量を測ってみたんですけれども、
予想以上に、高い値が出て、驚きました。

そして、日本の政治的な現状を見ていても、
1986年に、ソ連政府がとっていた行為の事を、鮮明に思いだしました。
ソ連政府がやってきたことを、日本政府という教え子が、繰り返しているような気がします。

そして、一般市民の方とも、お話をする機会に恵まれたんですけれども、
たとえば、自分の家を残して、別のところに移住して行ったりとかしている人たちのお話を聞いていると、
これはもう、本当に、人間として、人生の中の悲劇である
と。
そして、同じようなことが、チェルノブイリ原発事故が起こった後も、繰り返されていたという事を、強く感じました。

そして、事故被害の規模ですとか、
そういった、一般市民の声というものを、どうしても隠していく、という気がします。

このように、日本の現状と、チェルノブイリ原発事故が起こった後の現状と、
共通点が多い
、という事に気が付きまして、大変、私は辛い思いをしています。
そして、26年前に、自分が感じていた事を再び今、日本で感じています。

福島を周りまして、すぐに分かった事なんですけど、
人間が住んでいる、人が住んでいるところにもかかわらず、線量が高い
想像以上に高い、という事。
それが、第一の気がかり
です。

で、汚染地図がありません。
あるんですけれども、あんまり詳しくない
と思います。
もっと細かい汚染地図があったら、そこに住んでいる人達は、どのような対策を取ったらいいかが分かりやすい、と思うんですけれども、
住んでいる人々にとって、分かりやすい、細かい地図が、まだできていませんね。

日本は、人口密度が高いですし、建物同士も、密接して建てられています。
ですから必ず、汚染地図の方も、密度を細かくしたほうがいいと思います。
たとえば、私は、福島市の隣の伊達市に、行って来たんですけれども、
そこの、小栗地区というところに行きまして、そこの小栗小学校の近くで、測定を行ったんですけど、
学校を取り巻くフェンスから、5mと離れていない所に、ホットスポットがありまして、
それが、27マイクロシーベルト/h。
毎時27マイクロシーベルトでした。

これは、大変高い値でありますので、
小さな子どもが通うような小学校のすぐ隣に、そのような場所があっては決してならないことです。
細かい汚染地図を作ることが、日本人にとっては、必須事項だと思います。


そして、日本の食品基準値につきましても、教えていただきましたが、少し不明だな、と思う点がいろいろとあります。
たとえば、この基準値で行きますと、1年に食品を通じて、体内に蓄積していく体内被曝の事を計算しますと、
年間当たり、20ミリシーベルトに達することも予想されます
ので。
何のための法律。
たとえば法律では、1ミリシーベルト以下にしましょう、というような事をいっていますけれども、
やはり、同じ法律である食品基準値が、別の法律に対応していないことが、
「ちょっとおかしいな」と、自分自身で思う事です。

そして、食品の測定なんですけれども、
私の考えるところでは、いくつかの機関が並行してやることが、いいと思います。
つまり、国の検査だけに頼るのではなく、情報源をもっと増やす。
国の機関、民間機関、そういった色々な機関が、食品の検査をする。
そして、データを出すという事が、いい
かと思うんですけれども、
そういった複数の機関が、検査するという体制が、一番いいんですけれども、
なかなかそういった検査体制は、どこの国でも、実施するのが難しいようです。

たとえば、事故が起きてから半年たった時点で、人体の体内蓄積量を測定したとします。
でも、それはやはり、事故が起きてからもう半年も経ったわけで、しかも、測定は一回しかしていませんよね。
たったそれだけの測定の結果をもって、全てその人について、どうしたらいいのかとか、大丈夫であるとか、
安全であるとか、危険であるとかというのを、即断してしまうというのは、どういう事でしょうか?

それだけでよいのでしょうか?

そして、国のほうは、いろいろなところを測定して、収集した結果について、必ず公開していかないといけない、と思います。
そして、公開するだけではなくて、じゃあこれからどうしたらいいのか?という知識、対策方法を、国民に知らせる必要があります。
どうしてかというと、そのような知識があると、被ばく対策になるだけではなく、パニックにならない、という問題を促す、
そういった効果もある、と思います。

それから、除染についてなんですけれども、
私たちが、福島の各地を回っている時に、
「ここのコンクリートをはがした」とか、「ここの土をはがした」というような話を、あちこちで聞きました。除染方法として。
それについては、まぁいい事なんですけれども、
とった後の、汚染されているコンクリートだとか、土を、じゃあこれからどうするのか?
放射性廃棄物として、どうしていくのか?という問題もあります。


そして、みなさんもそうですし、国もそうなんですけれども、
福島県だけが、非常に高い汚染地域にあるという、そういう報道というのがされていますけれども、
日本国全国の食品を、福島産だけでなく、他のところの日本で作られた食品についても、調べていく必要があります。

チェルノブイリ原発事故の詳細については、事故が起きて2~3年経ってから、秘密にされていたものがようやく明らかになったんですけれども、
それによると、事故当時、ベラルーシ全土が汚染されていたという事が、その時明らかになりました。


そして、日本でまず最初にしなければいけないのは、法律の制定を是非して下さい。
ベラルーシでもウクライナでもロシアでも被害者救済のための法律というものが制定されました。
日本でもそういう法律を早く作る必要があります。

しかし、今回の訪問中に聞いた事なんですけれども、
「ここまでなら大丈夫、ここまで以上なら危ない」といった、そういう事の目安ですね。
その目安が、場所によって違う。市によって違う。
そういった、バラバラの認識があるという事に、一番ショックを感じました。


このような訳で、日本の状況を鑑みますと、

国だけに頼らず、NGO団体、皆さんのように取材されている、ジャーナリストの方々にお願いして、
そういった人たちが、これからも活発に活動していくことが、重要
だと思います。

そして、みなさん日本の状況を見ていますと、これから起こってくるのは、補償の問題だと思います。
それは、だれが責任を持って、誰が払っていくのか、それは、額はどうするのか、
そういった事がどうなるのかが、大変大きな問題になるのではないでしょうか。

残念なことに、ソ連政府が犯した間違いが、繰り返されているように思います。

たとえば、ヨウ素剤の配布なんですけれども、
ヨウ素剤の配布さえしておけば、このように、子ども達が病気になるような事はなかった。
で、そういった教訓が、日本で全く生かされていない。

やはり、官僚主義というものが、邪魔をしている
んでしょうか。

もうひとつ気がついたことは、
このような事故が起きた後に対する、原子力発電、原子力エネルギーに対する国の態度というものが、まるで変化がありません。
このような大事故が起こったにもかかわらず、原発は存在し続け、稼働し続けるという事が、日本で続いています。


とにかく、もう二度と、このような原発事故が起きないことを、祈るばかりです。

簡単ですけれども、このような印象を持ちました。


24:25


おしどりマコ:
ありがとうございます。
私、少し、補足の紹介をしておきます。

通訳の辰巳雅子さんは、17年、ベラルーシに住んでおられ、
チェルノブイリの事故後、ご自身でも、子どもたちの保養の支援や、健康被害の聞き取り、ヒアリングなどをされていて、
語学に堪能なだけでなく、今回、素晴らしい能力を発揮して下さっています。
そして、記者の皆様方に、この英文の資料を配布しているのですが、

これは、17日に、ネステレンコさんが、福島で講演をされた時の、講演会の資料です。
今回、記者会見を、急に要請をいたしましたので、この資料を、追加資料として、皆様にお配りさせていただきました。
了承して下さって、ありがとうございます。

それではこれから、質疑応答に移ります。


「二分する被ばくへの対処方と、エートスと決別の理由」上杉隆氏10/20 アレクセイ・ネステレンコ所長記者会見 (質疑応答後半・内容書き出し)


アレクセイ・ネステレンコ所長記者会見 ・質疑応答より
二分される被ばくへの対応、ベラルーシでは?
ベルラド研究所がエートスと決別した理由




1:10:05

上杉隆:
今、日本では、民間が主ですが、たとえば『球美(くみ)の里』という、沖縄がさきほどありましたが、
療養を進めているグループ、それを実践するグループ
があります。
一方で、福島に戻ってそこで生活しよう、というグループ
たとえば『福島版エートス』
ですとか、あるいは、これは、プロジェクトが途中で中断になっていますが、
『ピーチプロジェクト』といって、大阪の小学生を福島に連れていって、桃を食べて、除染センターを見るという事をしているグループもあります。
どちらも同じく、被ばくに対しての対応なんですが、こういうふうに、はっきりと二分されていると。
これで福島、もしくは、日本の世論が分断しているのですが、
事故、当初のベラルーシは、どのような状況だったのか?
そして、今のベラルーシはどうなのか?
さらに、『エートス』というグループがありますが、それは、ベラルーシにもあると伺ったんですが、
どうされているのかを教えて下さい。


ネステレンコ:
まず、ちょっとお話を伺って、その『ピーチプロジェクト』についてちょっと言いたいんですけれども、
今年、福島に住んでいる子どもたちが、ベラルーシに、保養のためにやってきました。
ベラルーシ側が、日本人が今、とても辛くて大変な状況である、という事を理解して、
ベラルーシ人が日本人を助けるという立場に、ちょっと変わったわけですよね。

つまり、桃の話に戻るんですけれども、
それはつまり、福島の子供たちが、ベラルーシのような遠いところまで、わざわざ保養に行っているのに、
大阪に住んでいる子ども、要するに、安全と言われている地域の子どもを、
わざわざ福島まで連れていって、桃を食べさせる事は、ちょっとおかしい
んじゃないかと、
暗に、言いたいわけですね。

ネステレンコ:
『エートス』の事についてなんですけれども、
ベラルーシにおける『エートス』の活動についていえば、プラスの面もありますし、マイナスの面も両方ありました。

ベラルーシの『エートス』の活動についてなんですけれども、
ベルラド研究所も一時、その『エートス』と、協力関係にありました。
『エートス』との協力のもと、ホールボディーカウンターを搭載して、
巡回車で、ゴメリ州にあるグラミール地区というところに行きまして、子どもの測定をした事もあります。
しかし、その『エートス』がやっている活動の内容を、よく見たり、一緒に働いているうちに、
協力関係を結び続けるのはちょっとやめておこう、という事になり、たもとを分かちました。


そういうわけで、
『エートス』の活動について、日本人のみなさんに、広くあまり紹介しない方がいいのではないか、と思っています。

皆さんに、唯一アドバイスができるというのは、
そういった福島のみなさん達のために、いろんな団体とかがやってきて、
「こういうプロジェクトをしましょう」とか、「こういう事をやりましょう」「みなさんのためです」と、
いろんな事を言ったりとか、いろんなプロジェクトを提示してきたりする、と思うんですけれども、
一緒に働き始める前にですね、その人たちが提示したものをよくよく見て、
本当に、自分たちのためになるのかどうかを、良く調べて、良く考えてから、
その人たちと協力関係を持つのかどうか、決めた方がいいです。


上杉:
で、ベラルーシの分断、というのはどうなっているのか?
今現在、26年後のその活動ですね、現状ベラルーシは、どちらの方へ動いたのか?
そして、ベルラド研究所が、『エートス』と関係を解消するにあたった具体的な理由を、一点でもお聞かせ願えないでしょうか?

辰巳:
どのように分断されているのかを?

上杉:
被曝の対処法については、二つありますよね?
一つは、被ばくのリスクを減らすために避難、避難というか、いったん何処かへ行くと、1か月ほど。
もうひとつは、今申し上げたように、福島の中で生活して対応すると。
この二つが今、現在ベラルーシでは、どうなっているのか?ということと、
ベルラド研究所が、『エートス』と解消した具体的な理由を、一つでも、
申しあげにくかったらいいんですが、具体的な理由として、何か教えていただけたらと思います

辰巳:
はい

ネステレンコ:
まず、避難する、あるいは移住する、あるいは、その場に残るといった、分断についてなんですけれども、
現在のベラルーシの状況といえば、もう事故が起きてからだいぶ時間が、26年も経っておりますので
移住したいと思った人は、もうとうの昔に移住しているわけですね。
というわけで、結局、移住したい人が移住してしまった後で、
じゃあこれから、そういった地域でどうやって生活していくか、という事を考える人の方が多いです。

他に、このような問題が、ベラルーシにありました。
チェルノブイリの事故の後、人々が避難、あるいは移住をしてしまって、その村が無人になっていますよね。
だけども、家はそのまま残っている訳で、ようするに、住もうと思えば住めるわけです。
ちょうど、90年代の初めの頃に、内戦がいろいろなところでありまして、
例えばアゼルバイジャン、アルべニア、アルバ、チェチェン、と言ったところで、難民になってしまった人が、
自分たちの家がもうなくなってしまったので、汚染地域に残っていた無人の家に、勝手に引っ越してきて、勝手に住む
、というケースもあります。

で、その人たちに言わせれば、爆弾や弾に当たって死ぬよりも、放射能の方が安全、という事ですね。

ベラルーシでは、国が、プロパガンダというものを、積極的にやっておりまして、
そのベラルーシが言っている、国のプロバガンダというのは、
「安全である」
「放射能は危険ではない」
「住民は住むことができる」
「安心していい」

そういった事ばかりを、よく言っていますので、それについていろいろと聞いて、やっぱり信じる人と、信じない人がいます。
人によっていろいろです。


それから、『エートス』との問題についてなんですけれども、
いろいろなことがあったんですけれども、たもとを分かつ一番の理由になったこと、というのは、
測定はする。
けれども、その結果について、「被ばくをしている子どもに対しての、対策はしちゃダメ」
と、『エートス』の方から言われました。
ベルラド研究所としては、ペクチンサプリを子どもたちに渡して、被ばく量を減らそうと、「そういうふうにした方がいい」と言ったのに、
『エートス』は、「そのようなものはあげなくていい」「そんなことは我々はしない」と言われたので、
それで我々は、『エートス』から離れることにしました。

↑以上、転載おわり




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今年5月に配られていた、異様な、教員向け『放射線等に関する副読本』

2012年10月21日 | 日本とわたし
『みんなのカルテ 保管庫便り』というブログの、2012年5月8日火曜日に書かれていた記事、
配布されている異様な教員向け放射線等に関する副読本に、本当に異様な写真が掲載されていました。

↓これです。






指導上の留意点

100ミリシーベルト以下の低い放射線量と病気との関係については、明確な証拠はないことを理解できるようにする。
放射線から身を守る情報について理解できるようにする。
◎がんの発生には、色いろな原因があることを理解できるようにする。


学習のポイント

◎平常時においても、様々な方法で地域の放射線が測定・管理されていることを学ぶ。
◎事故後しばらくたつと、それまでの対策を取り続けなくてもよくなることを学ぶ。


指導上の留意点

◎事故後しばらくたつと、放射性物質が地面に落下することから、それまでの対策を取らなくてもよくなることを理解できるようにする。


著作・編集

放射線等に関する副読本作成委員会(肩書略、敬称無用)

【委員長】中村尚司
【副委員長】熊野善介
【委員】飯本武志、大野和子、甲斐倫明、高田太樹、長野祥夫、野村貴美、藤本登、諸岡浩、安川礼子、米原英典、渡邊美智子



これはいったいなんでしょうか?
もう、だいぶ時間が経ってるので、あの副読本は間違いでした。申し訳ありませんでしたの謝罪文とともに、
正しい副読本が配布されてたりするんでしょうか?

この、上記の人達は、この副読本を教員に配り、読ませ、その内容をそのまま子ども達に教育せよと、本気で思っているのでしょうか?
そうやとしたら、これはもう、違反なんとちゃいますか?
なんに対しての違反?
大人として、教育に関係してる者として、子どもの健康と命に関わる言葉を伝える立場の人間として。
この人ら、訴えられてもええのとちゃいますか?
訴えなあかんのとちゃいますか?
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