昨日からずっと、シリア情勢について調べてた。
その間に、ニューヨーカーに掲載されてた、とても良い記事を旦那が見つけ、わたしに教えてくれた。
そこには、イラクに戦争を仕掛けたいがために、ありとあらゆる手を使い、大ウソまでついて、イラクの街や人をズタズタに破壊したアメリカという国に暮らす市民の、この場合は、二通りの見解が、会話方式で書かれていた。
シリア政府の、市民に向けた毒ガス使用は、絶対に許されるべきことではない。
制裁が必要。
その制裁は、我々が担うべき。
正義は貫かなければならない。
わたしももちろん、あの、小さな子どもたちが横たわったビデオを観て、胸が押しつぶされそうな思いがした。
あの子たちの親御さんにとって、そしてあの子たち本人にとって、これ以上の地獄はないと思た。
ミサイルを打った人間の非道を呪い、その人間こそが、子どもたちが被った痛みよりもっとひどい痛みを受けさせてやりたいと呪た。
けども、こんなことは、今に始まったことではなく、世界のあちこちで、いろんな兵器で、子どもたちは殺されてる。
そのあちこちに、いちいちアメリカやイギリスが、今回の件と同じように反応して、制裁を加えに出かけて行ってるんやろか?
んなこと全くあらへんよね。
イギリスもアメリカも、シリアやからやんね。
ずっとずっと前から、攻撃したい気満々のとこやもんね。
もうアホらしてかなんわ。
わたしはこんなこと言うて、パソコンの前で愚痴ってたらええだけやけど、
空から爆弾降ってくるシリアの住民の人たちにとったら、愚痴ってる場合やなくて、イラクの二の舞になる恐怖で、吐き気がしそうなぐらい心配してはるやろ。
調べてるうちに、このビデオを見つけた。
『プロジェクト112-知られざる米軍化学兵器開発』
米軍に限らず、どこの国でも、兵器の開発には躍起になってて、その過程で、人間を使て実験をしてる。
それは日本でも同じ。
米国はその中でもタチが悪い。
なんせ、世界一の軍事力ってのを持ってるらしいから。
原爆も化学兵器も、当時、一番拮抗してる相手国(原発の場合はドイツ、化学兵器の場合はロシア)が、自分らより進んでるらしい、とかいう情報に振り回されて、
焦りまくり、恐がり、勝ちたい一心で、時間と人間をガンガン注ぎ込んで作り上げた。
だってな、◯◯◯が先に作ってしもたらヤバかったさかいに、そやから急いで作って使てみてん。
ほんでな、作る時に実験せなあかんかったさかいに、自分とこの兵士を騙くらかして使てん。
もちろん、捕虜とかいる時は、そいつら使うけどな。
こんな言い訳が通るんやさかいに、どんだけ狂ってる世界かわかる。
そんな兵器を使たことで、いったいどんだけの人間が殺され、どんだけの自然が破壊されてしもたか。
なんでそんなことが許されてんの?
半日がかりで文字起こししてて、気がついてん。
こんなもんを作ってる人間を、なんで世界は、わたしらは、罰することができひんのか?
なんで、こんなもんを作らせんようにできひんのか?
そやろ?
ひとり殺したら懲役◯年で、ふたり殺したら死刑で、何百人何千人何万人何十万人殺したら……誰も罪に問われへん。
なんで?
っていうか、そんなもんを作ってる人、誰?
そんなことを仕事にして、なんで兵器、いや、平気で生きてられるわけ?
いや、ボクも、ワタシも、生きていかなあきませんからって、
なんぼなんでも、そんなことを生業にして生きていったらあかんのとちゃう?
辞めて欲しい。
そういう仕事してる人、今すぐ辞めて欲しい。
兵器を作る人がおらんようになったら、兵器を使おうにも使えんようになって、そしたら戦争屋も派手に人殺しできひんからつまらんようになって、
子どもだましみたいなこと言うなって思う人いるやろけど、
これが案外、真理ちゃうんやろか。
↓以下、文字起こししました。
ビデオは、下記の紫色の文字をクリックしてください。例によって例のごとく、ここに載せることができません。すんません。
プロジェクト112 知られざる米軍化学兵器開発
2013年8月13日
http://www.dailymotion.com/video/x135aa4_プロジェクト112-知られざる米軍化学兵器開発_news
この夏、一つの裁判の判決を心待ちにしている、アメリカ軍の元兵士がいます。
退役して50年になるこの元兵士の身心は、いくつもの病に冒されています。
うつ病、視野狭窄、そして呼吸器の障害
健康を損なった原因は軍隊時代に経験したある特殊な任務が原因だと言います。
その補償を求めて国を訴えているのです。
「国を信じて尽くしたのに、私たちをぼろ布のように使い捨てにするなんて許せません。
今私にできる事は海辺を歩いてリハビリをすることぐらいです」
彼らが問題としている特殊な任務とは、陸軍に入隊した直後に医療のためだと言われ、参加した実験です。
1960年代、アメリカ軍は、総力を挙げて、毒ガスなどの化学兵器の開発に取り組んでいました。
彼らは、そのための身体実験に使われたのです。
ソビエトとの冷戦時代。
自国の兵士たちに、犠牲を強いてまでも行われていた化学兵器の開発とは、いかがなものなのか。
これまで、ほとんど知られなかった全貌が、明らかになってきました。
化学兵器開発の計画を示した、アメリカ政府の極秘文書。
計画はコードネーム、プロジェクト112と呼ばれ、陸軍、海軍、空軍、海兵隊と、
軍の総力を挙げた巨大なものでした。
そして
その拠点は、アメリカ国内だけでなく沖縄にも置かれていました。
60年代、沖縄は、ベトナム戦争にのめり込んで行くアメリカの、後方基地でもありました。
基地の弾薬庫に運ばれた毒ガスは、1万3000トン。
アジア最大の、化学兵器の備蓄基地と化していたのです。
その存在は、本土復帰直前の沖縄を揺り動かしました。
沖縄在住市民:
「これはもう、到底だまっておられないと、いうようなことで、ほんとに必死でしたね」
身近に保存されていた、大量の毒ガス。
2年がかりで撤去はされたものの、今なお、沖縄の人々に、深い傷跡を残しています。
冷戦下、ひそかに進行していた、アメリカ軍の化学兵器開発。
それはいかなるもので、今、私たちに何を問いかけるのか?
2万ページに及ぶ資料と、当事者たちの証言をもとに、見つめていきます。
プロジェクト112
~知られざる米軍化学兵器開発~
アメリカ西海岸のサンフランシスコ。
この街で今、冷戦時代のアメリカ軍の、知られざる実態を明るみに出そうとする裁判が起きています。(原告弁護団 ベン・パターソン氏)
この日は、公判に向けて、弁護士たちの打ち合わせが行われていました。
原告は、アメリカ軍の元兵士たち。
いずれも、1960年代、軍の化学兵器開発のための、人体実験に参加した人々です。
半世紀近くを経て、自らの体の異常が、その人体実験に由るものだと、声を上げ始めたのです。
パターソン弁護士:
誰もこんな事実を知らなかったんです。
人体実験に、自国の兵士を使うなんて……本当に、驚くべき事を、軍はやったんです。
・訴状
元兵士たちが、国に要求しているのは、主にふたつ。
自分たちが受けた実験の、詳しい情報を開示すること(実験の詳細な情報を告知)、
そして、今抱えている病気に対する治療と、補償です(医療補償の提供)。
国を相手に声を上げ始めた元兵士たちは、いったいいかなる経験をしたのか。
ノースカロライナ州(ジャクソンビル)に住む、原告のひとりを訪ねました。
フランクリン・ロシェルさん、65才。
高校卒業後、2年間、陸軍に在籍していました。
問題の特殊な任務に就いていたのは、20才の時でした。
これは、私がエッジウッド基地にいた証明書です。
1968年9月3日から、10月31日までいました。
皮肉にも、素晴らしい成果だったと書いています。
ロシェル氏:
エッジウッドの任務は2ヵ月間で、特に厳しくはなく、週休3日ということでした。
その時の私には、とても魅力的に感じられたのです。
当時、陸軍に入隊したばかりのロシェルさんは、ある日、兵舎で、ボランティア募集のフィルムを観せられました。
ボランティア募集のPRフィルムより
『どのような実験でも、合い言葉は「安全」です』
フィルムには、任務の説明はほとんど無く、休暇にでもでかけるような、楽し気な誘い文句が、散りばめられていました。
『休日は、ボルティモアで、アメリカンフットボールを観戦しませんか?もし行きたければね』
『大平洋のビーチで、くつろいでみませんか?もしやりたいならね』
しかし、基地で待っていたのは、予想だにしない任務でした。
ロシェル氏:
実験室で、このサルと同じような吸入器を付けさせられました。
そして、バルブが開けられると、ガスのようなものが出てきて、それを、胸の奥まで入るように、深く吸わされたのです。
そして、ベッドに寝かされている時、突然人の声が聞こえ出し、腕の中で、虫が動き回り始めたのです。
わたしは必死に、剃刀で切って取り出そうとしました。
この直後から、ロシェルさんは、幻覚や精神の不安に悩まされ続けています。
自分は、どんな物質を投与されたのか。
不安の中で、陸軍に問い合わせをしたこともありました。
しかし、返ってきたのは、意味不明な記号(Agent:EA 2233-2)が記された書類だけでした。
ロシェル氏:
これは、うつ病の薬です。
薬漬けになっているんです。
うつ病、慢性皮膚炎、視角や呼吸器の障害、いずれの病状も、年々悪化しています。
人体実験戸の因果関係をあきらかにするためには、裁判に踏み切るしかなかったのです。
兵士たちが経験した実験とは、いったいなんだったのか。
彼らが集められた、陸軍のエッジウッド基地(化学・生物センター・メリーランド州)。
1960年代、ここは、ある特殊な目的のための、研究施設でした。
それは、毒ガスなどの、化学兵器の研究開発です。
当時の様子を記録したフィルムが、残されていました。
ここでは、基礎的な研究から、毒ガスの生産、そして、戦場で使用するための、兵器の開発も行われていました。
そうした開発のプロセスで、欠くことのできないのが、毒物の効果の確認です。
兵士たちは、自らの体で、それを実験させられていたのです。
マックヘンリー
化学兵器開発のための人体実験とは、いかなるものか。
今回、裁判を起こした原告の中に、その詳細を知る、元兵士がいます。
ティム・ジョゼフズさん、63才。マックヘンリー(エッジウッド近郊の町)在住。
脳の神経細胞の異常で手足が震える、パーキンソン病を患っています。
妻のミシェルさんの手助けがないと、日常生活もままなりません。
ジョゼフズさんがパーキンソン病と診断されたのは、15年前。
やはり疑ったのは、18才の時に参加した、人体実験の影響でした。
エッジウッドの実験(1968年1月1日~2月28日)に参加した兵士たち
エッジウッドで、自分は何をされたのか。
情報公開法を使って、自分の記録を手に入れ、探り続けています。
ジョゼフズ氏:
実験は、グループごとに、何種類も行われていました。
白衣を着た人間が、注射器を持ってやってきました。
彼らも、軍に所属する医師だったことがわかりました。
当時、エッジウッドには、巨大な病院のような、研究棟が設けられていました。
兵士たちは、いくつかのグループに分けられ、テストする物質によって、心身の状態を細かく観察されていました。
ジョゼフズさんが受けたものと同様の実験の、記録映像です。
実験記録映像より:
隔離された部屋で、4人の兵士が、72時間の実験を受けます。
安全な化学物質を、皮下に注射します。
この実験は、4人の兵士に、濃度の違う化学物質を与え、その効果を比較しています。
物質の名称は明らかにしていませんが、幻覚作用を起こすものです。
実験記録映像より:
化学物質の影響は、4~6時間後に現れました。
敵から毒ガス攻撃を受けたという設定で、ガスマスクをすばやく着けるテストです。
一番濃度の高い物質を注射された兵士は、朦朧とした状態が続いています。
実験記録映像より:
9時間後、精神状態が不安定になりました。
彼は、36時間も眠らずにいました。
一晩中、出口を探していました。
パニックになるので、継続的に監視をします。
ジョゼフズさんの場合には、実験後の影響は、さらに深刻だったといいます。
ジョゼフズ氏:
得体の知れない化学物質を、体内に入れられ、数日間、意識を失いました。
起きた時、ひどい震えで、手足に痺れと、刺すような痛みがありました。
とても気持ち悪く、不快な気分でした。
ジョゼフズさんは、情報公開法で手に入れた自分のカルテを調べて、驚きました。
そこにあったのは、毒ガスとして使われる
サリンの、解毒剤の名前(pyridine-2-aldoxime)でした。
無色無臭で、中枢神経を破壊し、極めて高い致死性を持つサリン。
それは、アメリカが、力を入れて開発実験をくり返してきた化学兵器でした。
敵に気づかれずに、建物の中にも入り込むため、局地戦に有効だと考えられていたのです。
ヤギを使ったサリンガス実験の映像より:
建物内のヤギは、1分以内に症状が現れ、4分以内で死にました。
ジョゼフズさんは、自分にも、このサリンが投与されたのではないかと、疑っているのです。
ジョゼフズ氏:
許せないことですが、
ヤギを使って試した薬物を、私たちにも投与したんです。
20頭のヤギで実験した結果、半分が死んだ。
そんな薬を、6人の兵士に投与したと、記録されていました。
そしてその実験は、半ば強制に近いものでした。
ジョゼフズさんが1968年2月に、三日間に渡り受けた、実験の観察記録です。
『2月20日、8時35分、化学物質を投与』
何の薬剤かは、わかっていません。
『同日10時30分、異常に神経質になり、不安な様子を見せる』
『同日11時35分、化学物質を再び投与』
『同日13時30分、手足のしびれが起こり、「すごく気分が悪い」「早く終ってほしい」と訴える』
『同日14時15分と15時、落ち着きが無い。「もう嫌だ」「実験はやりたくない」と訴える』
『翌21日、8時45分、顔の半分がけいれんする。とても不安で、悲惨な気分だと言う』
記録によると、ジョゼフズさんは、三日間の実験中に、3度、中止を願い出ています。
しかしそれは、聞き入れられませんでした。
ジョゼフズ氏:
実験に抗議をしたら、
おまえ、嫌ならベトナム行きだ。もしくは刑務所行きだ、と言われました。
とても怖くて、言うことをきくしかありませんでした。
毎食後、妻のミシェルさんは、ジョゼフズさんの体調に合わせて、10種類近い薬を用意します。
薬代は、毎月2000ドルを超えます。
大学病院の診断によると、病気の原因は、若い時に摂取した、大量の化学物質だとされています。
ミシェルさん:
薬を飲み過ぎると、体のコントロールが効かなくなるの。
少量だと効かないし、難しいのよね。
ジョゼフズ氏:
飛び跳ねたこともあるよ。
ミシェルさん:
この2~3年で、15キロも痩せたわ。
60年代に行われた、アメリカ軍の化学兵器開発。
それに関わった兵士の数は、10万人とも言われています。
なぜ、かくも大掛かりな計画が、実行されたのでしょうか。
私たちは、その全容を伺い知ることができる文書を、入手しました。
スタンフォード大学のフーバー研究所。
ここには、8千万ページを超える、安全保障に関連した機密文書が、保管されています。
フーバー研究所職員:
これが、
アメリカ陸軍の、化学部隊の概要を記した文書です。
1961年から1962年のものです。
プロジェクト112。
そう名付けられた計画は、アメリカの軍事戦略の、新たな柱となるものでした。
『核兵器に匹敵する大量破壊兵器として、開発すべきもの』
それを、化学(・生物)兵器だとしたのです。
計画の立案者は、ロバート・マクナマラ(Robert S. McNamara)でした。
ケネディ大統領により、国防長官に抜擢されたマクナマラは、アメリカ軍の立て直しを任されました。
当時、冷戦下での核軍拡に対して、国際世論の厳しさが増す一方で、アジアでは、熱い戦いが続いていました。
停戦状態の朝鮮戦争と、ベトナム戦への介入。
局地戦が予想されるアジアの戦場では、
核よりも化学兵器が有効だ、と考えたのです。
マクナマラは、陸軍、海軍、空軍、および、海兵隊の4軍が協力して、開発に当たることを指示。
そして、当時の日本の防衛費に匹敵する、
巨額の予算(約1418億円”当時”)を投入しました。
マクナマラの指示のもと、世界の10を超える拠点で、一斉に開発が始まったのです。
プロジェクト112が実施された国と地域
国家をあげて動き出した、プロジェクト112。
フォーチュナ
それは、
核軍拡の陰で起きていた、もうひとつの軍拡競争だった、と指摘する人がいます。
ジャック・アルダーソンさん、1964年から3年間、プロジェクト112の、海上実験を指揮していました。
アルダーソンさんは今、自分の行ってきた実験とはなんだったのか、あらためて見つめ直しています。
『海上実験で使用した生物化学物質の、健康への影響』
アルダーソン氏:
ここにあるのは、海軍の実験資料です。
これが、プロジェクト112におついて、退役軍人の雑誌に書いた記事です。
強引に進めた化学兵器の開発。
その実態は、
ソ連の陰に脅える、アメリカの暴走だったと、アルダーソンさんは指摘します。
アルダーソン氏:
アメリカは、ソ連に対抗するために、化学兵器は不可欠だと考えていました。
ケネディ政権は、ソ連がすでに、大量の化学兵器を所有していると思い込み、同じだけの兵器を持たなければ、対等な外交はできないと考えていたのです。
1962年、CIAが、衝撃的な報告を行いました。
ソビエトが、毒ガスを空中散布する装置を開発、アメリカの艦船が、毒ガスで攻撃される恐れがある、というのです。
アルダーソンさんの手元に、ソビエトの動きに対抗すべく行われた、プロジェクト112の実験の映像が残されていました。
艦船が、ソビエト軍からサリンの攻撃を受けた、と想定しての実験です。
空軍が、上空からガスを噴霧。
中の水兵たちに、どんな影響があるのかを調査します。
実験は急ピッチで進められました。
アルダーソン氏:
やっと実験が終了し、水兵が引きあげかけた時です。
上官がまた、海に出ろと言ってきました。
水兵たちは休むことなく、実験をくり返しました。
本物の毒ガスを使っての実験では、水兵たちに健康被害が出ることも、少なくなかったといいます。
アルダーソン氏:
フィルターが機能せず、船内に漏れてきたこともありました。
その時受けていたワクチンが、未承認のものだったと、後で知りました。
ネズミだよ、実験用の。
過密なスケジュールで行われた、一連の海上実験。
健康に被害の出た水兵の数は、6千人を超えるといいます。
アルダーソン氏:
罪悪感があります。
ですから、生きているメンバーのためにも、その家族のためにも、今なにができるのか、考えていかなければならないのです。
50年前に行われていた、軍の人体実験。
健康に障害が出た、元兵士たちに対して、今、国はどう向き合おうとしているのでしょうか。
3年前、退役軍人会の働きかけで、海上の実験の関係者については、医療補償の申請窓口が設けられました。
しかしその申請も、来年まで。
その他の、
大多数の兵士については、手つかずのままです。
パーキンソン病を患う、元兵士ジョゼフズさん。
大学病院で、病気の原因は、かつての人体実験とみられるとの診断を受けて、これまで、軍に対して、何度も医療補償を求めてきました。
しかしその門は、かたく閉ざされたままです。
ジョゼフズ氏:
体調が安定する日などありません。
一刻も早く、事実を認めてほしいのです。
こんなことをした軍に、医療の補償をしてもらいたいのです。
50年の時を経て、明るみに出てきた、アメリカ軍の化学兵器開発の実態。
その中で、
開発に並んで重要な計画とされていたのが、
毒ガス、サリンの貯蔵です。
その一翼を担ったのが、沖縄でした。
1963年(5月)、プロジェクト112が発動してから1年後、一隻の舟が、沖縄のホワイトビーチへ入港しました。
船が積んでいたのは、アメリカのエッジウッド基地からの荷物、毒ガスの弾頭でした。
その
量は1万3000トン、1億人分の致死量に当たります。
当時沖縄は、アメリカの施政権下にあり、停戦したばかりの朝鮮戦争や、激しくなりつつあったベトナム戦争の補給基地として、重要な役割を課せられていました。
アメリカ軍の嘉手納基地。
その奥の広大な森の中に、弾薬庫が点在しています。
知花弾薬庫です。
ホワイトビーチに到着した毒ガスは、次々と、この弾薬庫に運び込まれました。
そして、毒ガスの貯蔵管理のために、プロジェクト112直轄の、専門の部隊が編成されました。
267th CHEMICAL COMPANY(米陸軍267化学中隊)、指揮官は、ウィリアム・ゴーフォース中佐でした。
沖縄の基地の中で、彼らはどんな活動をしていたのか。
部隊を指揮していたゴーフォース(74才)さんは、メリーランド州に健在でした。
ゴーフォースさんは、沖縄に3年の間駐留、その後はずっと、エッジウッド基地に勤務していたといいます。
ゴーフォース氏:
これは、科学技術部隊にいた時に、かぶっていた帽子です。
267部隊の最大の任務は、毒ガスの安全管理です。
もちろん、事故が発生した場合には、速やかに対応する訓練も受けていましたよ。
VXガス、サリン、マスタードガス、どれも万が一漏れ出したら大惨事です。
うさぎを探知機として使っていました。
当時の毒ガスの貯蔵庫の、詳細な地図が残されていました。
ゴーフォース氏:
ここがメインゲートです。
知花弾薬庫全体は、フェンスで囲まれていましたが、毒ガスが貯蔵してあった場所だけは、特に2重になっていました。
何かあったら困るからね。
ゴーフォースさんの証言で、
沖縄の毒ガス貯蔵の実態が、明らかになりました。
知花弾薬庫の奥にある、レッドハットエリアと呼ばれる一角、そこに
70もの毒ガス専用の貯蔵庫が、建設されていました。
レッドハットエリアは、基地の中であるにも関わらず、高さ2.5メートルの2重フェンスで囲まれていました。
その間を、267部隊が絶えず巡回し、警備に当たっていたのです。
屋根を芝生で覆い、上空からでは分かりにくいよう、カモフラージュした貯蔵庫。
屋上には、換気口が設けられていました。
コンクリートの壁は、大型爆弾の攻撃にも耐える、厚さ50センチ。
中には、
即座に使用できる状態で、毒ガスミサイルが並んでいます。
60年代、沖縄はアジアで最大の、化学兵器の備蓄基地だったのです。
ゴーフォース氏:
ここに、155ミリロケット砲がありますね。
これは、3000ポンド爆弾です、サリンのね。
1969年7月(8日)、この貯蔵庫で、沖縄を震撼させる事故が起きました。
267部隊の兵士が、爆弾をメンテナンスしている最中に、操作を誤り、サリンが漏れ出してしまったのです。
この事故で、26人の兵士が入院しました。
ゴーフォース氏:
爆弾の修理のため、表面の塗装を落とす処理をしていた時に、作業を誤って爆発して、毒ガスが漏れ出しました。
サリン、それも、
3000ポンド爆弾のサリンです。
探知機代わりのウサギの目が、収縮をしました。
それは、私たちにとってはあってはならないこと、緊急事態が起きたことを意味したのです。
この事故を最初に報じたのは、アメリカの新聞でした。
ワシントン発の情報として、沖縄に、毒ガスが存在していることが伝えられました。
『沖縄の事故が、化学兵器の海外貯蔵を暴露』
1969年7月18日ウォールストリート・ジャーナル
突然、しかも外電を通じて突き付けられた、毒ガスの存在。
それは、本土復帰を前にしていた沖縄の人々にとって、自分たちの尊厳に関わる問題でした。
島をあげて盛り上がった、毒ガス撤去の運動。
その中で、沖縄の人々が、さらに怒りを新たにする出来事がありました。
当時、中学の教師をしていた、仲宗根正雄(73)さん。
今でもその時のことを、忘れたことはない、と言います。
仲宗根氏:
せめてその、子どもたちの学び舎っていうようなものを守りたいと、みんなが力を合わせて守ったという、場所だと思います。
それは、ようやく始まった、アメリカ軍による、毒ガス撤去作業の初日(1971年1月13日)に起きました。
テレビニュース:
かなり大きく『毒』と書きましたトレーラーが、第一台が、私たちの目の前を通過し、ニ台目が通過いたしました。
毒ガスを積んだトラックが、小学校の前を通過することになったのです。
学校の教室の黒板
『毒ガス移送は、13日(水)に決まりました。
時間は、
第一回、午前十時
第二回、正午
お父さん、お母さんのお話もよくきいて行動しましょう』
子どもたちは急きょ、自主非難を余儀なくされました。
自分たちの知らない間に、毒ガスを持ち込み、撤去する時には、子どもたちを危険に巻き込む。
これ以上、勝手なことは許さない。
仲宗根さんたちは、移送ルートの変更を求めて、声を上げ始めました。
仲宗根氏:
もうずっと、深夜まで、焚き火を焚きながら、非常に寒い日でしたけど、北見小学校での阻止っていうのを、最終確認をして退去すると。
お母さんたちが、子どもを守るためにも、このままではいかんじゃないかっていうような声は、非常に大きかったですね。
仲宗根さんたちは、アメリカ軍との交渉役である当時の琉球政府と、3ヵ月間に渡って、粘り強く交渉を行いました。
仲宗根氏:
屋良朝苗(琉球政府首席)
沖縄に貯蔵されている毒ガスを、一日も早く撤去すべきであるという点では、一致しているわけなんですよ。
ところが、毒ガス移送が、ほんとにもう、自分の村を通るというような形になった場合に、通すというわけにはいかんと、
体を張ってでも、コース変更を勝ち取るんだというようなことを決めて……。
この年(1971年7月15日~9月9日)の7月に始まった、本格的な撤去作業。
交渉の結果、輸送ルートから小学校が外されました。
のべ、1319台のトラックが、次々と毒ガスを運び出しました。
50日間に及んだ撤去作業は、沿線の住民に、大きな負担をかけるものでした。
店は休業状態、子どもとお年寄りは、疎開を余儀なくされたのです。
発覚してから2年、沖縄を揺り動かした、1万3000トンの毒ガスは、ハワイ沖の孤島、ジョンズトン島へと送り出されていきました。
本土復帰の直前に起きた、毒ガスの問題。
それは、復帰後も続く、沖縄の辛さの始まりでもありました。
この日仲宗根さんは、かつて徹夜でかがり火を焚き、守った小学校へ足を踏み入れました。
仲宗根氏:
なにか事件が起きた時に、事件や事故が起きた時に、そうだったんだ、ということを、事後に知らされるっていう状態が、ずっとこの、戦後61年と言われる今でも、ずっと続いていますね。
これはもう、ぜひ、僕らの子や孫たちの時代には、こういうことは引き継ぎたくないですね。
悔しいですよ……(涙が止まらず)……どうもすみません。
サンフランシスコ
7月の末、人体実験に参加した兵士たちが起こした裁判に、動きがありました。
裁判所が、事実上の一審判決を下したのです。
パターソン弁護士:
きのう、裁判所から、略式判決が出ました。
判事が、裁判の長期化を避けるため、証拠が充分そろっている、と判断したものとみられます。
しかし内容は、元兵士たちにとって、満足のいくものではありませんでした。
人体実験に関する情報の開示については、認められました。
しかし、最も重要視していた、医療の補償については、認められませんでした。
元兵士は、軍の病院を無料で利用できるから、というのが理由でした。
パターソン弁護士:
残念なことに、医療補償が認められませんでした。
これはとても重要な要求だったので、怒りを覚えます。
原告たちの健康状態は、刻々と悪化していっているのです。
パーキンソン病を患う元兵士、ジョゼフズ(63)さん。
この裁判は、生きる上での頼みの綱でした。
ジョゼフズ氏:
医療の補償もなくて、どうやって生きていけばいいのでしょうか。
私たちが、死ぬのを待っているのでしょうか。
人体実験が、国家にとって必要だったかどうかはわかりません。
少なくとも、わたしには必要の無いものでした。
半世紀前、多くの若い兵士たちを集めて始まった、プロジェクト112。
60年代末、アメリカ国内では、ベトナム戦争が泥沼化するにつれて、次第に、反戦運動の声が大きくなっていました。
国はこの時、プロジェクトに、事実上の終止符を打ちました。
リチャード・ニクソン大統領(当時):
化学兵器を、大量殺戮のために使用しないことを、宣言します。
記録と証言から浮かび上がってきた、アメリカ軍の化学兵器開発の実態。
冷戦の中で、国家を上げて進んだ、もうひとつの軍拡。
半世紀を経た今、それはいったい、私たちに、なにを残しているのでしょうか。
製造された数万発の化学兵器は、一度も使われることなく、今、大平洋の孤島、ジョンズトン島で眠っています。
↑以上、文字起こしおわり