ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

母のことを想うと

2025年03月07日 | 家族とわたし
退院する、と自分で決めた母は、わたしにその気持ちを伝えたのですが、その前に担当医の先生や看護師さんに相談していたわけではなかったようです。
わたしだけではどうにもならないので、大阪の弟に連絡をしました。
すると、弟から、こんな返事をもらいました。

午後2時ごろ、病院のコーディネーターさんから電話があった。
お母さんが昨日の夜くらいから退院すると言い出した。
旦那さんはそのことに反対している(わたしには義父も賛成していると母は言っていたのですが…)。
転院することになっているリハビリ病院には、うまく行けば2〜3週間後に転院できるかもしれない。
今から退院手続きをしても、自宅の設備(手すりやベッド歩行器などを揃えるべくプランを組み工事をしてもらう)が整うまでは、担当医から退院の承諾が出ない。多分それだけで2週間はかかる。
何よりも、今退院してしまうと、この病院の先生からの紹介で転院するのだから、次の病院への転院の話は全て失くなる。
とのこと。

午後4時半ごろ、今度は主治医から電話があった。
パーキンソン病は今もなお、薬を投与しながら様子を観ている状態。
全体的な動きが緩慢で、ベッドから起き上がるのにも難儀している。
筋力も低下しているので、自宅からの通院治療は難しい。
訪問介護やデイサービスは、毎日受けることができない。
尻もちなどで骨折する、という事態が起こることも十分あり得る。
予定通りここで毎日リハビリを行い、少しでも体力と筋力を回復してからの転院が良いと思う。
というような内容を、母にも話をしたところ、母は「先生にお任せします」と答えたらしい。


弟とも言っていたのですが、こんなに丁寧な対応をしてくれる病院と医師、それから病院のスタッフさんたちに恵まれて、母は幸運だったと思います。
そして2週間から3週間かかると言われていた退院が、来週の火曜日に叶うことになり、またまた病院から大阪の弟に、退院と転院の手続きをしに来て欲しいとの連絡があったようです。
彼の仕事先で急な移動があり、今はとても大変な時なのに休んだりしても大丈夫なのかと聞くと、なんと奇跡的にその日だけが休みだったそうです。

先日、母とLINE電話で話をしていると、転院先のコーディネーターさんが部屋に入って来られて、母にいろいろと話を聞かせてくださいとおっしゃるので、わたしもその輪の中に入れてもらうことにしました。
母の受け答えする様子を聞いていると、やはり入院前の面影はなく、かなりぼんやりしています。
そして記憶違いもあちこちに見られるので、わたしが時々横から訂正を入れながら、話は進んでいきました。

それからというもの、母は見るからに気落ちして、またいつもの悲観的な思いが心の中いっぱいに広がってしまいました。
そしてどんどん呂律が怪しくなってきたのです。
昨日の夜中に目が覚めて、そういうタイミングで考え事をするのは良くないと思いつつ、ついつい母のことを考えてしまいました。
果たして、このまま母を病院の中に閉じ込めておくことは、本当に良いことなんだろうかと。
確かに母は、救急車で運ばれる日の前日の、夕方散歩の時から急に、足や手に問題が生じました。
翌日の朝に、薬を飲もうとして誤嚥し、激しい咳き込みから嘔吐に至り、それから徐々に意識が朦朧とし初めました。
ちょうどその真っ最中にわたしが電話をかけ、母の呂律が回らないことに気がついて、すぐにでも救急車で病院に行って欲しいと伝えたのでした。
病院では詳しい検査を受けましたが、小さな血栓が二つ見つかっただけで、他は何も異常がなく、全て良い数値が出てきました。
けれども、体幹がぶれて一人では歩けないこと、手に震えが生じていることなどから、パーキンソン病の疑いがあると診断されて、今の入院に至ったわけです。
入院してから1ヶ月以上が経ち、わたしは毎日朝の10時過ぎに電話をかけるのですが、母はいつも寝起きのような声で出て、しばらくは呂律も怪しい状態で、けれども30分も話していると少しずつ言葉がはっきりとしてきます。
ベッドに寝た瞬間に眠ってしまうと言うので、もしかしたら薬の副作用なのかもしれないと思うのですが、そのことを担当医に聞いてみたら?と言っても、いつも忘れてしまいます。
体力も筋力もみるみる落ちて、今はベッドから起き上がることすら億劫だと言います。
あれほど嫌がっていたポータブルトイレでの排便も、今はなんとも思わなくなったと言います。
母があれほどしっかりしていたのは、朝から晩まで義父のやることなすことに目を光らせ、その都度文句を言いまくっていたからだと思います。
なのにその関係性がスッパリと消えてしまいました。
母にも義父にも日頃から付き合いのある友人は無く、彼らはいつも二人だけで、小さな家の中に居るか、近くのスーパーに買い物に行くかのどちらかしかない、とても小さな世界で生きていました。
とても和やかなどとは言えない、義父にとっては何をやっても非難される、母からすると何かとイライラさせられる、それこそ側から見たらこの二人はなぜ一緒にいるのだろうと首を傾げざるを得ないような関係でしたが、こうやって家と病院にそれぞれ独りにされた彼らを見ていると、どういう形であれ、過ごしてきた年月と繋がりの深さを感じさせられます。

母がいつか家に戻り、朝から晩まで義父を怒鳴りつけるようになったら、また元の彼女に戻れるのでしょうか。
大のお気に入りの全自動のウォシュレットを使い、湯船の中で簡単な体操ができるようになったら、自分で歩くということに意欲を持てるようになるのでしょうか。
それとも今回のこの選択は、彼女の人生の終末に、後悔と共に思い出されることになるのでしょうか。
その人にとってどれを選ぶことが正解なのか、それを見極めることができないことはわかっています。
できないならできないで、最良の選択をしたいと思うけれども、それもまたとても難しい。
母は11日に退院し、その足で転院先に運ばれることになりました。
その病院から家に戻れるのか、そのことについても考え始めなければなりません。
今日の電話中に、初めて母が、「わたしはもう、このまま家には戻れへんようになるかもしれんなあ」とポツリと言いました。
その言葉に何も応えることができない自分が申し訳なかったです。
こんな遠くに行ってしまってごめんね。
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「わたし、退院するわ」

2025年03月02日 | 家族とわたし
なにやら日本もこのところ天候が激しく変わり、雪が降ったり雨が降ったり、気温がグッと上がったかと思ったら真冬のような寒さになったりしているそうですが、こちらも負けていません、20℃以上の気温の上下が頻繁に起こっています。
天候不順は健康にも影響するのでしょうか、今年の冬は例年よりも咳に悩まされている人が多く、それも1週間から3週間も続く長期戦で、ビデオレッスンに切り替えている生徒が何人もいます。

それでもやはり3月は3月。枯れ色の中から顔を覗かせる緑に春を感じます。
なぜか一年草のシラントロが越冬しました。

それと隣町からここに一緒に越してきたこの子も、例年より元気で葉をいっぱい増やしています。


母が救急車で運ばれ、入院してから早一ヶ月が経ちました。
毎回病院食が不味いという文句を聞きながら、その声から感じ取ることができる彼女の体調を見守るしかないわたしは、日に日にストレスが溜まり、よく眠れない日が続いています。
入院してからずっと「しんどくてたまらん」と言い続けているのですが、パーキンソン病の治療薬の副作用かもしれないし、これほど長くベッドの上で寝ているのですから、体全体の筋力も落ち、同時に体力も無くなってきているのでしょう、ここ数日は電話で話すだけでも疲れるので、長くて20分ほどで「もう疲れた、寝る」と言って切ってしまいます。
声もだんだん低くなり、たまに呂律が怪しくなったりもします。
自由な行動が取れなくなり、好きな報道番組を観ようにも1枚1000円のカードを入れないと観られないので億劫になり、病院関係者が入室してくる時間以外はほとんど眠ってしまうと言います。
なぜだかわからないが、とにかく眠くて眠くて仕方がないのだと。
個室であるからこそのプライベートの尊重は、裏返してみると完全な孤立です。
母は別に手術を受けたわけでもなく、入院の発端であった脳梗塞の血栓は今すぐ治療が必要な状況ではなく様子を見ていこうということだし、パーキンソン病の初期症状が見られるということで、これもまた彼女に合う薬とその量を投薬しながら様子を見ている状態です。
それならば、家で暮らしながら定期的に病院に通えばいいのではないかと思い、それを母に伝えようとしたら、母が、「あんな、昨日の夜にな、えらいことが起こってん」と言うではありませんか。
夜はいつもベッドの脇に置いてあるポータブルトイレで用を足すようにしていたのですが、その日はなぜか歩行器を使ってトイレまで行こうと思ったそうで、その歩行器の取手を掴もうとした際に手が滑り、そのまま部屋の中のテーブルなどをなぎ倒しながら床に倒れたのだそうです。
ものすごい音がしたからか、すぐに看護師さんたちが駆けつけてくれましたが、側頭部を強打していたことからCTスキャンで詳しい検査をしてくれたようです。
その夜の当直医が脳外科であったことも幸いでした。
母はこれまでにも、家の中や散歩中に何度も転倒していて、その度に頭や膝や太ももを強打しているのですが、ありがたいことに一度も骨折までには至っていません。
今回も血腫はなく、大きなたんこぶができただけで、吐き気も頭痛もなかったと言います。
母に電話をしている最中に、バイタルサインを測りに来る看護師さんや、リハビリに連れて行ってくれる介護士さんが入ってきて、母に話しかけてくれるのを聞くことがよくあるのですが、どの方もとても優しく親切で、転倒後の母の様子をすごく気にかけてくれているのがありがたくて、やはり退院は急がない方がいいのかなあと、心は大きく揺れ動いていました。

そして昨日、母が突然、「わたし、退院しようと思ってんねん」と言い出しました。
前にもお話ししたように、母はベッドの上に寝るのは夜の10時半以降のみで、その他の時間は何が何でも服を着て起きていなければならないという掟を頑なに守ってきた人です。
なので、1ヶ月にもわたる今の入院生活は、彼女にとっては掟破りの30日間なのでした。
この1ヶ月の間に失われた体力や筋力、そして生きる気力を、いったいどうやって取り戻すことができるのか、いや、そんなふうには考えていないでしょう、多分、もう戻せないと悲嘆しているに違いありません。
彼女は極めて悲観的な性格の持ち主ですから。
わたしは毎晩彼女に電話をして、なんとか元気になって欲しいと願ってきましたが、入院する数ヶ月前ごろから全く口にしなくなっていた「なんでこんな歳まで生きてんのやろ、死んだ方がマシや、死にたい」という台詞がそっくりそのまま戻ってきてしまいました。

「退院、あんたはどう思う?」と聞かれたので、「わたしは賛成やよ」と答えました。
母は義父にその気持ちをもう伝えてあるらしく、それを聞いた時の彼はかなり動揺していたそうです。
そりゃそうでしょう、母に何かあったら、その場で対処しなければならないのは彼一人なんですから。
そして彼は難聴で、かなり大きな音がしても気がつくことができないし、食事の世話もスーパーの惣菜やお弁当を買ってくることしかできません。
それを思うと心配がゾワゾワとわき上がってくるのですが、長年住み慣れた家で暮らすことが、母にとっては一番の励みになると信じて、母の無事を祈ろうと思います。
退院の話を何度も繰り返す母の声に張りが戻ってくるのを感じながら、「じゃあまた明日」と言って電話を切りました。

おまけ
バレンタインデーに夫と行ったインド料理店の写真です。







おあいそはこちらで😌
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母の入院

2025年02月13日 | 家族とわたし
90歳になる母に、いつものご機嫌伺いの電話をかけたところ、電話に出た母の声がおかしいのです。
どうしたん、しんどいの?と聞くと、しんどい…と答えます。
なんかあったん?と聞くと、朝ごはん食べて、いつものようにお薬飲もうと思ったら、変なとこに入って激しく咳いて、咳いてるうちに半分ぐらい戻した、と言います。
誤嚥か?とヒヤリとしましたが、もう少し詳しく話せるようだったので、続きを聞くことにしました。
前日の、いつもの夕方散歩の帰り道で、急に足が動きにくくなったらしいのですが、とりあえず無事に家に戻り、いつも通りに食事を済ませ、お風呂も自分で入れたと言います。
なのに今、急にこういうことが起こって、とにかく体がだるくて仕方がないし、指が震えてiPadのキーがちゃんと押せない、と言うのです。
話を聞いている間に、母の呂律がどんどん回らなくなってきたのでそれを夫に伝えると、とにかく今すぐ病院に行くように言え、と言うので、そう母に伝えました。
義父から後で聞いたところによると、母は頑として行かないと言ったようですが、彼が押し切って救急車を呼んだのだそうです。
救急で検査してもらったところ、脳にも血管にも問題は無く大丈夫だと思われるが、症状と年齢からパーキンソン病の疑いがあるので、神経内科で受診するようにと言われ、そこで翌日の朝に、同じ病院の神経内科で詳しい検査を受けたのですが、今のところ問題視する必要のない血栓が一つ見つかったのと、パーキンソン病の有無を確認したいからということで、即日入院ということになりました。
遠く離れた所で気を揉むことしかできないわたしとしては、入院してくれたことは本当にありがたく、それまで心配でろくに眠れなかった夜が続いたので、その日はやっと普通に眠ることができました。

最初の数日間は相部屋でしたが、特別個室という部屋が空いたので、そこに入れてもらうこともできて喜んでいると思いきや、自分だけではもはや一歩も歩くことはできなくなったので、部屋付きのトイレもシャワーも使えないと言います。
だからトイレはベッドのすぐ横に置いてもらったポータブルトイレを使わざるを得ないと不満気に言うので、病院に歩行器を部屋に置いてもらうように頼んでみたら?と話しました。
母が入院してから以降、毎日電話をかけて話をしているのですが、聞こえてくる声はガラガラでさも苦しそうです。
部屋に加湿器を置いてくれてあるのかと聞くと、そんなものは無いと言うので、義父に持って行ってもらうよう頼みました。
義父が持ち込んでくれたのは20年も前の年代物の加湿器で、使ってもあまり意味がないような代物でしたが、お水の補給をする必要があったので、それを看護師さんか義父に頼めないだろうかと聞くと、そんな医療行為でもないことを頼めると思うか、80歳にもなろうという私に、いくら近いからといっても再三水換えに行けとは何事か!とすっかりおかんむりです。
わたしも考えが浅かったことを反省し、何でもかんでも頼めると思っていた甘えがあったと謝ったのですが、ずっと溜め込んでいた不満が噴き出したようで、義父との仲はあまり芳しくありません😅。

入院が1週間に差し掛かった頃に、母が急に、担当医から退院をせがまれたと言い出しました。
あなたのような患者をいつまでも入院させておくと上からお叱りを受ける。
退院に際してかなりの枚数の書類に目を通し、サインなどをしてもらう必要があるので、息子さんか娘さんに病院に来てもらうよう伝えて欲しい。
あなたの夫は、耳が聞こえにくいからか話が通じないところがあるし、受付の方からもクレームが出ているので、この作業を任せることはできない。
というようなことを言われたと言うのです。
これはえらいこっちゃということで、弟にその話を伝えたところ、ちょうど12日が休日なので、その日だったら行けるとのこと。
弟も母から直接電話がかかってきて、同じような話を聞いたそうで、行くつもりでいたようです。
そこでわたしたちは、いろいろと作戦を立てました。
もう25年も前の話になりますが、父がステージ4の胃がんで入院した大阪の成人がんセンターの担当医から、横柄で心無い言葉を何度も投げつけられた弟にとっては、今回のことはあの悪夢の再来かと思えたのでしょう。
医者の心象を悪くしないように、かといって向こうの態度次第ではきっちりとこちらの要望も通すように、そして病院から無碍にされている義父がそのことに気づかないように、そんなこんなについて話し合いました。
そして昨日、弟は大阪から病院に、車で駆けつけてくれたわけですが、なんと、母の話が全くの妄想であったことがわかったのです。
12日の朝に、担当医の方から電話がかかってくる。
担当医からは、あなたのような患者を入院させておくと上から叱られると言われた。
退院に際しての書類作りは、あなたの夫には無理なので、息子さんにお願いしたいと言われた。
書類は受付から受け取るようにと言っていた。
退院後にリハビリ専門の病院が3つほどあるので、そこから選んで移ればよいと言っていた。

…という話を鵜呑みにしたわたしから伝言で聞いた弟は、病院に着いた後、真っ先に受付に直行し、書類のことを尋ねたところ、そんなものは存在しないと言われたそうです。
それで母の病室に上がり、担当医に連絡をとってもらったのですが、担当医も弟が来ることなんて全く知らないわけですから、普段通りの外来診察を行なっていたので、彼の診察が終わるまで待たなくてはなりませんでした。
そして夕方の5時に、4時間の待ち時間を経て、やっとのことで話し合いが始まりました。
母はわたしに、話し合いに混じるなんて以ての外や、絶対に無理と言っていましたが、歩行器を使ってスタスタと歩き、担当医の長い病状説明もちゃんと聞けたそうです。
その場にはケースワーカーさんも加わり、退院後の移転先や、さらにリハビリ病院以降の暮らしをどうするかまでに至る説明もしてくださったのだそうで、結局病院側は母を退院させる気など全くなく、見つかった血栓は今の症状とは関わりがなく治療の必要もないことから、パーキンソン病の投薬を試して様子を見ている最中である、ということがわかりました。
母も義父も、今回のことをケアマネさんに連絡をしていなかったことも判明し、弟がそれではダメだと言ってくれたようです。

母は夢でも見たのかもしれません。
入院してからの母は、入院前後のことをほとんど覚えていないし、言ったこともやったこともすぐに忘れてしまいます。
ご機嫌伺いの電話では、世間話や苦情聞きはもちろん、母がハマっている脳トレパズルのわからない答をわたしが代わりに回答するというのもやっているのですが、彼女自身の解答力が日に日に落ち込んでいることは薄々感じていました。
でも、この記憶のモヤモヤの広がりは初めてのことですし、誰も言っていないことをさも聞いたように話す、というようなことも初めてです。
わたしはとにかく物理的に役立たずなので、オロオロと心配することしかできません。
けれども弟は介護職の要人で、弟のパートナーは介護職のエキスパートさんです。
どちらもそれぞれに重責を背負っているし、だから本当に忙しい人たちなのに、わたしとしては頼らせてもらうしかないので、とても申し訳ない気持ちでいっぱいです。
本当にありがとう。そしてごめんね!

冒頭の写真は、去年の12月、今からほんの2ヶ月前に、お気に入りの宿のミニゴルフを楽しんでいる母を写したものです。
もうやれないだろうと諦めていたのに、やってみたら案外できたと、本当に嬉しそうでした。
その嬉しさをバネに、それ以降、ほんの数日前まで、毎日散歩に出かけ、部屋の中ではストレッチをし、日に日に足腰がしっかりしてきた矢先の入院騒動でした。
彼女が高齢になってから、一番やる気が出て、気分も明るくなっていたところだったので、このことがきっかけで気持ちが落ち込んでしまわないかと心配しています。
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2025年、新年のごあいさつ

2025年01月02日 | 家族とわたし
あけましておめでとうございます。
2025年が始まりました。

というところでいきなりですが、ちょっとお見苦しい写真をば。


地下室の味噌壺置きの近くを通るたびに、なんとも言えない嫌〜な臭いがしてたのですが、その原因がコレでした。
いつから始まっていたのか全く知らないのですが、味噌の納豆化と言えばいいのかなあ、見た目も臭いも強烈です。
慌てて重しの塩を取り外し、中を確かめてみました。

色はほぼ黒に近い焦茶ですが、カビ一つ無く、5年間じっくり熟成した美味しそうなお味噌になっていました。
うちには4つの、同じサイズの壺があるのですが、この壺以外は空っぽです。
今月のうちにお味噌を仕込まねばなりません。

年末の30日は、長男夫婦の引っ越しの手伝いに行ってきました。
前日まで雨降りが続いていたのに、いきなりの快晴☀️しかも春先みたいな暖かさです。

彼らがこれまで住んでいたアパートは、セントラルパークのすぐ横にあり、買い物や通勤には便利なのですが、建物がとても古いのでゴキブリの巣窟になっていました。
長男は虫が大の苦手で、ゴキブリはその中でも特別級。
それに加え、なぜか隣近所で工事が頻繁に行われ、その騒音で不眠症になったりと、心身ともにストレスマックス。
それでエイっと決心して、引っ越すことにしたようです。

引っ越した先のアパートメントはいわゆるタワマンと呼ばれる新築ビルで、20階の角部屋の部屋一面の窓の向こうに、空が表情を刻々と変えていくのを見ることができます。


お疲れさん会に連れて行ってもらったホットポットのレストランで、お腹いっぱいいただきました。



翌日の大晦日の夜に、椅子の組み立てを始めました。

これまで愛用していた、まだ就職して間もない息子たちが共同で買ってくれた椅子を、とうとう決心して捨てることにしました。

なんでこんな悲惨な姿になったかというと、一時期、猫たちの爪研ぎ場になってしまったからです。
姿はこんなですが、なにしろ座り心地がとても良く、しかも息子たちからのプレゼントだったので、15年もの間、どうしても捨てきれなかったのでした。
ずっと布を被せて誤魔化してきましたが、とうとうお別れです。
長い間ありがとう。

そして今日は2025年の元旦。
25年前に亡くなった父、2年半前に亡くなった義父、そして1年前に亡くなった伯母に、お祝いのお裾分け。

大晦日の夜中に、餅つき機さんについてもらったお餅を焼いて、黒豆をゴリゴリと押し込み、焼き海苔に包んでいただきました。

お昼からは久しぶりに映画館に行ってきました。
ティモシー・シャラメがボブ・ディラン役を演じた映画『名もなき者 / A Complete Unknown』です。
いやあもう、本当にいい映画でした。
なんかこう、観ている最中も、観終わってからもずっと、映画と現実の狭間から動きたくないような、なんとも言えない余韻が心の中に漂っていました。
ティモシーのディランはもちろんのこと、ミュージシャン役を演じた役者さんたちの演技と演奏がもう素晴らしくて、いやあ、役者さんってほんとすごいなあと、しみじみ感心したのでした。
夫は家に戻ってから長い時間、デュランの昔のインタビュー動画を観たり、自分でギターを演奏しながら歌ったり、浸る浸る、それを見てわたしはギターってやっぱりいいなあ、手軽で、などと僻んだり…。😊
みなさんにも是非是非、ほんとにおすすめの映画です。

街中では、ニューオリンズで起こった事件を悼んでか、新年を祝う国旗が半旗になっていました。
1月6日からはトランプ政権が発足します。
気を引き締めて、けれども平常心を保ってコツコツと、毎日の暮らしを積み上げていきたいと思います。
今年もどうぞよろしくお願いします!
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信じがたいのですが、今年も残すところあとわずかとなりました。来年もどうぞよろしくお願いします!

2024年12月27日 | 家族とわたし
クリスマス前はすんごい寒さが続きました。

最高でも零下8℃、夜中は零下18℃にまで下がるような日が続き、家の暖房勢がいくら頑張っても冷え冷えとした空気がそこらかしこに居座っていました。
そんな厳しい寒さが少し和らいできたと思ったら雪になり、クリスマスイヴにはうっすらと雪が積もりました。

今年のクリスマスもペンシルバニア在住の夫の姉の家で行ったのですが、今回はイヴィディナーから全員が集まることはせずに各自で過ごそうということになりました。
そうなると、義姉の家から1時間ばかり離れた、同じくペンシルバニア州の家に住んでいるお義母さんは、独りぼっちでクリスマスイヴを過ごさねばなりません。
夫とわたしは彼女の家に行って、イヴディナーを一緒に食べることにしました。

家に着き、まずはイヴのお祝いに、お義母さんとわたしは彼女が作ってくれたカクテルのマンハッタンを、夫はワインを注いで乾杯です。
マンハッタンの最後に、グラスの底に静かに佇んでいる、このチェリーが逸品でした。


お義母さんはわたしたちのために美味しい夕食を用意してくれていました。

翌日の朝、「こんなによく眠れたのは久しぶりだわ、やっぱり誰かが家に居てくれるだけで気分が違うのかもね」と言うお義母さん。
60年以上も連れ添った夫を2年前に亡くし、だだっ広い家で独り住まいをしながら、サービス付きのシニア向け住居の空きが出るのを待っているお義母さん。
車の運転やインターネットの操作もガンガン熟し、陶芸家としてマッサージ師としてその分野の勉強を続け、料理や運動にも手を抜かないスーパーシニアのお義母さん。
彼女は先日85歳になりました。

クリスマスの朝、義姉の家に到着。
家の前の公園の池の氷が、半分くらい溶け始めていました。
あの強烈に寒かった頃はきっと全部凍って、近所の子どもたちがスケートをしに来ていたと思います。


小さな子どもがいなくなった今は、プレゼントの数もずいぶん減りました。

クリスマスディナーの準備をしながら、夫が持ってきたボードゲームに挑戦するわたしたち。


やり方を理解して楽しめるまでにけっこう時間がかかりました😅。

クリスマスツリーはやっぱり夜がいいですね。

見た目はイマイチですが、どれもこれもとても美味しかったです。


さあ、今度はお正月!
今日は食材を買いに出かけました。
平日の昼間だというのに、人出が多くてびっくり!
今年の年末年始はこの家には誰も来ません。
夫と二人だけの年越しと元旦なので、おせち料理もいつにも増してなんちゃっておせちになりそうです。
一応黒豆と数の子、伊達巻のためのはんぺんと昆布巻のための昆布と鮭とニシン、そして筑前煮のための根野菜とこんにゃく、栗きんとんの材料を買い、明日からは餅つき機にも登場してもらい、ぼちぼちと準備を始めようと思います。

みなさま、良いお年をお迎えください!
そして来年もまた、ちょこちょことではありますが書き続けていこうと思っていますので、どうぞよろしくお願いします!
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90歳おめでとう!

2024年12月13日 | 家族とわたし
今年90歳になる母の誕生日を、特別な形でお祝いしたい。
ただそれだけがわたしの望みでした。
母は温泉に浸かるのが好きだったけれど、体がふらついて思うように歩けなくなってからは、従姉妹のKちゃんとわたしが両側から支えて入ったりしていました。
ちなみにKちゃんは母方の従姉妹で、遠くに行ってしまったわたしの代わりにあれこれと母たちを気遣って、一緒に3人でいろんなところに旅行に行っては、何かと不自由な後期高齢者たちの面倒を見てくれている人です。
だから母にとっては娘同然なんですが、ここ最近は、そんなKちゃんやわたしであっても、世話になってまで入りたくないと言って、温泉に行っても大浴場はもちろんのこと、部屋のお風呂にも家と同じような手すりが無いからと入らずに、一人でポツンと部屋で過ごすようになっていました。
そんな母を温泉の湯にゆっくり浸からせてあげられないだろうか。
ということで、客室のお風呂に温泉が出てくる宿を探しました。
ただし、母の家から車で1時間以内のところにある宿でないと、運転する義父に負担がかかるので、見つけるのはなかなか大変でした。
やっと見つけたのが榊原温泉の湯元館でした。
しかもその温泉は1500年も前から湯ごりの地として存在する日本三名泉!
清少納言の枕草子にも詠われた「七栗の湯」!
バリアフリーで手すりがあちこちに設置された、館の中で唯一ベッドが置かれている部屋で、客室のお風呂の蛇口からもその「七栗の湯」が出てくると聞き、ここだ!と思いました。
さらに、要予約ですが貸し切りの露天風呂が3ヶ所あって、そのうちの一つが要介護の人も入ることができるお風呂もあります。
これなら母も喜んでくれるかもしれない。
お風呂の話をしても、「わたしは絶対に入らない」と頑なに断られていたのですが、現地に行って自分の目で見たら気が変わるかもしれないと思い、大阪の弟に頼んで予約を入れてもらいました。
気が利く弟は、誕生日ケーキの注文も済ませてくれて、これでいよいよ本番を待つのみです。

今回の帰省は、母の90歳のお祝いをするために計画した旅でした。
そこに、たまたま同時期に日本を旅することになった次男くんとEちゃん、弟夫婦、そしてKちゃんも合流して、総勢9人が集うお祝いになりました。
母の性格からすると、さらりと、みんなで祝ってくれてありがとう、というわけにはいかないだろうとは思っていましたが、結果は想像していたのより何倍も、悲しく辛いものとなってしまいました。
原因は、まず第一に、わたしが主になって祝ったことです。
母はこれまでにも、わたしがお金を出すことを異常に嫌い、わたしが彼女の家に居る間は、わたし個人の買い物以外の費用のほとんどを彼女が払っていました。
随分前に一度、母が、「わたしはまだ子どもだったあなたたちを置いて家を出て苦労させてしまった。だからその罪滅ぼしとしてお金はわたしが全部払う」と言ったことがあります。
わたしはだから、かなり慎重に、丁寧に、今回のお祝いは特別なお祝いだから、今回だけはわたしに祝わせてほしいとずっとお願いしてきたのでした。
といっても、わたしが払うと言っているのは母と義父、Kちゃん、そして夫とわたしの分だけで、弟夫婦と次男くんカップルは自腹です。
それなのに宿泊直前まで「わたしが払う」、「いや、わたしが払う」と、母娘で譲らなかったのですが、嫌々でも取り合えず納得してくれたと思っていました。
温泉行きの前日に、居間のカーペットの汚れがひどく、あちこちが劣化してして破けているので買い替えようと言うと(これも今回の旅の目標でした)、「汚くて嫌なら出ていけばいい、わたしはこのカーペットがいいんだから絶対に替えない」と、母は烈火の如く怒り出し、それからはものすごく陰険な雰囲気に…ああ大失敗…。
当日の朝は初っ端からご機嫌斜め…行きの道中も遠いだのしんどいだの道が悪いだの、こんなところに来たくなかっただのと、文句が延々と続きます。
それでもまあ、大阪の弟夫婦は次男くんとEちゃんを車に乗せて、夫とKちゃんは同じく大阪から電車で、そして母とわたしは義父の車で、湯元館に集合しました。
それぞれが各部屋に入り、お土産の交換などをして、それでは夕飯までに温泉に浸かろうということになり、Kちゃんとわたしとで何とかして母を露天風呂まで連れて行こうとしましたが、これまた失敗。

仕方がないので、Kちゃんとわたしだけで浸かりに行くことにしました。

日本屈指の「美肌の湯」、浸かった瞬間にわかりました!

ああ、この気持ちよさと景色の美しさを、母にも感じさせてあげたかった…。



ここのお湯は本当に素晴らしいです。
源泉そのものの湯船もあって、けれども湯の温度は31℃ぐらいで、浸かっていても温まらないような気がするのですが、嘘だと思って15分浸かってみてくださいとおかみさんに言われて試してみると、何か不思議な波動のようなものが体の芯に感じられ、体全体がふわりと浮くような気がしました。
湯量は豊かで、湯船からいつも溢れ出ています。
温泉には19時間の間に3回も浸かったのですが、数日後まで肌がツルツルとして気持ちが良かったです。
めっちゃお勧めです!

お祝いのお料理とケーキ。


部屋のすぐ横を流れている小川。

朝ご飯も美味しかったです。


結果から言うと、このお祝い旅行は大失敗に終わってしまいました。
ただし、母以外の参加者はみな、お湯もお料理も最高だったと言って、とても喜んでくれたので、わたしにとってはそれだけが救いになりました。
母が自室のお風呂に入る時、Kちゃんとわたしが待機しているのが嫌で、一人にしてくれと言い張るので、仕方なく部屋を出たのですが、結局湯船から出ることができなくて大変な思いをしたようです。
浴槽周りに取り付けられていた取手の位置が彼女に合わなかったのと、耳がよく聞こえない義父が酔って寝てしまっていたのとで、足のあちこちに打ち身を作るほどもがいていたのでした。
きっとかなりショックだっただろうし、そんな自分にがっかりしたんだろうと思いますが、彼女の機嫌はますます悪くなっていきました。
その勢いで、チェックアウトのカウンターのところで、「誰が払ったのだ」と大きな声で聞き質し始めた母に、「今回のお祝いの企画と清算はわたしではなく全て次男くんが引き受けたから」と言うと、ようやく静かになったのでした。
家に戻ってからも、旅館の料理のこと、ベッドのこと、そしてもちろんお風呂のことで、文句を言い続ける母と、それをそうかそうかと聞く義父の声を聞きながら、わたしはどんどん落ち込んでしまいました。
あまりに悲しく、あまりに虚しかったので、友人にその気持ちを漏らすと、言葉を尽くして励ましてくれました。
夫と弟にも何度も愚痴りましたが、その都度慰めてくれました。
その3人が共通して言ってくれた言葉があります。
「あなたは彼女の感情を引き受ける義務はない。あなたの価値は彼女を満足させることができるかどうかではない」
「自分をしっかり守りなさい。自分をもっと大切にしなさい」

確かにわたしは、彼女に喜んでもらいたいと思う気持ちと同時に、そういうことができるようになった自分の満足のためにこの計画を立て、費用を払おうとしました。
彼女が最初から賛成していなかったのに、それは現地に行けばなんとかなるだろう、みんなの顔を見れば気が変わるだろうとたかを括っていました。
考えが甘かったのですね。

さて、夫とKちゃんを送って行った榊原温泉口という近鉄沿線の駅のすぐ近くに、おもしろい場所を見つけました。
名前が『ルーブル彫刻美術館』!



いきなり三つの立像、サモトラケのニケ、ミロのヴィーナス、自由の女神像が目に入ります。
なんだなんだなんだ?!この寄せ集めは?!
怪しさ100%の気分でよくよく見てみると、「世界的に有名なパリのルーブル美術館から公式に許可を得て運営している由緒正しい美術館」なんだそうです。
次回はぜひ中に入ってみたいと思います。

その美術館の駐車場の周りには、たくさんのカエルさんたちが。



大観音寺への入り口。



そして少し離れたところには、高さ33メートルの純金大観音「南無開運寶珠大観世音菩薩」さまが。

すっかり沈んでいた気持ちが、ふわりと浮かんだ時間でした。

母たちの家で過ごした日数は小旅行を除くと2週間。
朝に目を開けてから夜に目を閉じる直前まで、母と義父とわたしは同じ部屋で一緒に過ごしました。
朝と昼は彼らのいつものルーティーンを守り、夜はわたしが料理を担当しました。
わたしがいる間は、部屋の掃除と食事の後片付けは任せて欲しいとお願いして、好きなようにやらせてもらいました。
母は朝起きて顔を洗い、朝食を食べ、iPadでシニア用の脳トレゲームをし、新聞を読み、お昼ご飯を食べ、足漕ぎ運動をし、膝から下をマッサージ機で揉みながら新聞を読み、ベッドに寝転がってAmazonタブレットでお気に入りの映画を鑑賞し、おやつを食べ、録画しておいたニュース番組を聴きながらマッサージ器具で目をマッサージし、日が暮れる寸前に散歩に出かけ、夕飯を食べ、お風呂に入り、痛みや痺れを感じる部分をマッサージしたりクリームを塗ったりしてから布団に入り、若い頃から大ファンの森進一の曲を3曲聴いてから眠ります。
料理も洗濯干しも掃除も、一切しなくなりました。
そんな彼女の横にいつもいて、母の言うことを聞き逃しては怒鳴られている義父。
確かに、補聴器をつけていても聞こえない人に、同じことを2度3度と言っている間に怒鳴りつけたくなる気持ちはわからないでもないのですが、これでは双方ともに良くないことは明らかで、この問題の解決が次のわたしのテーマになりそうです。

今回の帰省の最後に、この旅行があったのは幸いでした。
この温泉は母のお気に入りで、車で40分ほどのところにあるやっぽんぽんの湯です。
ここはゴルフを楽しむ人、とろりとしたお湯の温泉を目当てに来る人、美味しい日本料理を食べに来る人に人気があります。

部屋からの夕焼けと朝焼けが絶景でした。
夕焼け編



朝焼け編



ここに来ると母の機嫌はいつも良くなり、お天気や体調が良かったら、彼女の大好きなグランドゴルフもできるコースもあります。
幸いにしてお天気も良く、母の体調もまずまずだったので、コースに出てみました。

朝に回った時は足元がおぼつかず、バランスを崩して倒れてしまいましたが、それにもめげずにお昼からも一回りした母。
満足できたようで嬉しそうでした。

足腰を鍛えたい。そうしてこれからもグランドゴルフをできるようになりたい。
そんな願いがわき上がってきたようです。
これから気温がどんどん下がって寒くなりますが、無理のない範囲で、毎日散歩を続けると決心した母。

二人の平安と健康を祈ります。

おまけ写真。
某ファミレスで会ったロボットくん。

日本最後のご馳走、絶品うなぎ。

今回の旅の最後の最後は、ただただ一人になりたくて、羽田空港近くのホテルに泊まりました。
初めて乗った近鉄の特急『ひのとり』。

品川はいつも人でいっぱい。

疲れ過ぎて間違って行ってしまった羽田空港内のホテル。

わたしが予約したホテルは、羽田空港を川向こうに見るホテルでした😅。

ポンポン船がのんびりと。

地産地消の野菜をたっぷり使った朝ごはんがとても美味しかったです。


わたしがいない間、わたしの机の下にある足炬燵の上でずっと眠っていた海ちゃん。

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アメリカンな『母の日』とジャパニーズな『土作り』

2024年05月14日 | 家族とわたし
保育園児だった頃の息子たちから、母の日を祝ってもらえるようになったのは、今から34年前のことだ。
まあ、保育園時代の彼らは、『母の日』の意味などわからないまま、先生に言われた通りに鍋敷きを作ったり絵を描いたりして、それらの裏側に先生が「おかあさんありがとう」という言葉と一緒に彼らの名前を書き込んでくれた。
今やコンピューターエンジニアとして中堅の働き手となった彼らから、今年はお小遣いをもらった。
ありがたや〜。

どこもかしこも母の日を祝う家族でいっぱいだったが、エチオピア料理のレストランで予約が取れたので、ランチを食べに行った。


タイトルの写真は、帰り際にいただいた一輪のバラ。
レストランに来た女性は全員、このバラを渡されるみたい。

こちらでは『母の日』はめちゃくちゃ大騒ぎになる。
1週間前にもなると、出かける先々で、ちょっとした知り合いからでも「Happy Mother's Day!!」と声をかけられる。
楽しい母の日になりますように、という感じなんだけど、それはそれでいいことなんだけど、たまにう〜ん…と考えてしまうことがある。
だって、この世はほんと、人それぞれだから。
わたしはたまたま、ありがたいことにこの歳になって、理不尽なことや不幸なことから遠ざかることができて、これまでもずっとなんのこともなく普通に生きてきたみたいな顔をして暮らしている。
そして息子たちはどちらも、はちゃめちゃな親の行為に巻き込まれ、それはそれは大変な人生を送らざるを得なくなったのにも関わらず、グレもせず立派な大人になってくれた。
だから、誰から「Happy Mother's Day!!」と声をかけられても、自然に笑みがわいてきて、「Happy Mather's Day to you, too!!」と返事する。

でもね、例えばわたしは、母親になってからでもとてつもなく大変で辛かった時があって、そんな時の無邪気な「Happy Mothar's Day!!」には落ち込んだなあ。
それに、こんなふうに誰彼なく挨拶がわりに言っちゃってたら、中には母親になることを選択しなかった、あるいはなりたくてもなれなかった、もっと言えば、母親だったけど、いろんな事情で別れたり死別するというような、とんでもなく悲しいことが起こった人には辛い挨拶になるんじゃないかな。
でもまあ、お国柄というのか、成人したと見受けられる女性には、その人に子どもがいようがいまいが、言っちゃってる。
冒頭に言ったように、レストランなんかだと、成人女性全員に一輪の花がプレゼントされる。
あんまり難しく考えない方がいいのかなあ…。


母の日は家事をしない。
そういう決まりになっているんだけど、菜園の土作りだけはどうしても終わらせておきたかったので、渋る夫にお願いして手伝ってもらった。
師匠は日本野菜専門の農場主、鈴木さんである。
彼は毎年4月末から3週間、週末の土曜日に、デラウェア州からフェリーに乗って野菜の苗を売りに来てくれるのだが、わたしは毎年その苗を買うのが楽しみで、買いに行くと必ず鈴木さんにあれやこれやの質問をする。
鈴木さんはそのいちいちに丁寧に答えてくれる。
一昨年から発生したランタンフライの被害について話すと、どうやら鈴木さんの農場にはまだ現れていないらしい。
あれがひとたび発生してしまうと、胡瓜に大きい被害が出ると思うので、デラウェアまで広がらないことを祈っている。
そんなことを話していると、じゃあ今回は思い切って、土を一から作り直しませんか?と言ってくれた。
教えてもらったことを実行してみた。

まずは土起こしをしたところに、おからの粉、窒素とマグネシウムとカルシウムの粉、そして自家製の枯葉をよく混ぜ、



そこに水をこれでもか!というほど大量にまき、黒いビニールですっぽり覆って2週間待つ。


この間に土の中はかなり高温になるので、害虫の卵は死滅する。
その後、土の中にどんどん良い菌が繁殖し、野菜がよく育つ環境が整うのだそうだ。
さて、うまくいきますかどうか、ワクワクドキドキの2週間なのである。
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この夏の最初で最後の休暇旅行「レーニア山&シアトル再び編」

2023年09月19日 | 家族とわたし
レーニア山。日系の人たちが、タコマ富士と呼んだ山。
シアトルの街からもこんなふうに見えるらしい。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%B1%B1

レーニア山はカスケード山脈の最高峰、成層火山群の一つで、セント・ヘレンズ山とは兄弟関係にある。
ちなみにセント・ヘレンズ山は、1980年に大噴火を起こしたことで有名な活火山だ。
レーニア山の高さは4392メートル。
標高1800m以上は氷河に覆われているので山頂に着くまでに2 - 3日かかり、登頂は難易度が高い。
我々が目指すのはもちろん、ウォーキングシューズでてくてく歩ける場所のハイキングなので、難しいことは何も考えなくて良い。
ということで、ワシントン州での最後の観光は「レーニア山国立公園」を訪ねることにした。

山がどんどん近づいてくる。

でも、ここにも渇水の影響が。

レーニア山の裾野に入る。

入り口。
入場料は自動車1台につき$30、歩行者・自転車は$15、いずれも7日間有効で、公園内の駐車は無料だから、1週間かけて散策するような人にとってはめちゃくちゃお得。

しばらくすると霧がたち込めてきた。

標高1645メートルに位置するパラダイス・インの駐車場に車を停めて、いざいざ出発!



たくさんのトレイルから選んだのはもちろん、一番簡単そうなコース😅
今回の旅では毎日長距離(わたしにとっては永遠とも思われる)を歩き続けたので、そこが国立公園であろうがどこであろうが、とにかく一番楽なコースを選びたかった。

ああそれなのに、滝があるんだって!と聞くともう大変。
見える場所までひたすら上り、下り、時には四つん這いになって目指してしまう自分が…。

こんなところにチップモンクが!(家の庭のと全く同じなのだけど、場所が違うと感慨深い😅)

鹿も庭で普通に見られるのに、やっぱりちょっと違う。

ここでちょっとしたハプニングが。
木の枝がガサガサと揺れているのを目敏く見つけた夫が指差す方を見ると、確かに何かいる。
スマホのカメラで撮ろうと近づいていくわたしの服の裾をギュッと掴んで、またバカなことをと叱る夫。
こういう時は後退りするべきで、近づくのは愚かな者がすることだと、さらに後ろに引っ張ろうとする。
「クマだ」と夫。
「あ、ほんまや」とわたし。
こんなチャンスは2度と無い。
クマは近距離にいるものの、茂みは道の脇を降りたところだし、びっくりして襲ってきたとしても、まずはこの段差を飛び上がらないといけない。
多分大丈夫だろうと、引っ張る夫をずるずると引きずりながらカメラを構えた。
子熊ちゃん、木の実を食す

水分が潤っているからか、今回の旅行で初めて活き活きとした草木を見た。





こちらがパラダイス・イン。
霧がたち込めている中にパラダイスという名前が目に入ると、なんだか妙な気分に。

今回の旅で一番美しかった滝。

一体何があったの?

どこから転がってきたの?

この滝もとても綺麗だったけど、滝の両側の断層がすごく興味深かった。

帰り道、レーニア山の頭頂が見える場所に寄って30分ばかり雲が切れるのを待ったのだけど…またのお楽しみに。

レーニア山の紹介。

静けさに惑わされる景色。
ここは力強くダイナミックな山なのだ。
500,000年の間に、何千もの噴火による溶岩が流れ、冷えて現在の火山を築いた。
それらの溶岩流は、灰色や赤みを帯びた岩石として見ることができる。
これらの噴火の際には、現在よりもはるかに大きな氷河がレーニア山を包んでいた。
それらは火山の力と協調して地形を形成した。
現在の尾根は、溶けた物質が氷河の間にたまり、溶岩流が厚い氷の両側に流れた結果である。
あなたが立っているのは、まだ熱いうちに氷河の端にぶつかった溶岩流のつま先である。

ふむふむ、つま先ね…。恐るべしレーニア山。

溶岩が流れた跡。

また来るね、レーニア山。

国立公園からシアトルに戻り、ホテルに一泊して、飛行機が飛ぶ夜の9時半までの時間をどこで過ごすかを検討した。
わたしより8年3ヶ月も若く(といってももう58歳だけど)、歩くのが大好きな夫でさえも、もうあまりたくさん歩く場所には行きたくないと言う。
それで、まずは近所を軽く散策してから、北の端にある海辺公園に車で行くことにした。

相変わらず天気が良い。今回の旅は本当に良い天気に恵まれた。

夫が見つけたガラス工房。

トイレがハンパなく素敵!


ここで30分ほども居れば、作品が出来上がると聞いて、近所に住む次男くんたちに伝えた。

簡単に周れるだろうと思っていた公園だったのだけど…。

ちょっと嫌な予感が…。

我々が歩く森のすぐ左側にはずっと海が続いているのだが…。

なんかすごい木を見つけた。


歩いても歩いても、たまにぽっかりと海が見えるスポットがあるだけで、終点はなかなか近づいてこない。
なので途中で引き返すことにした。
同じ道を引き返さずに、ショートカットのコースを選んだのだけど、それは延々と続く傾斜がめちゃくちゃきつい上り坂だった。
後悔先に立たず。
いやもう、なにこれ、ふ、ふふ、ふふふ、ふふふふ!
人は、極限に達すると、それが何であれ、笑いが込み上げてくるものだと知った一瞬だった。
いきなりヘラヘラ笑い出すわたしを気味悪そうに見る夫。
所々に設置されているベンチに座ってくたばっていると、その急な坂道を小走りで下ってくる男性がいた。
その男性が、また別のベンチに座っているわたしたちの前に再び現れて、同じく坂道を下ってきたのには驚いた。
下るには上らないといけないわけで、時間も10分くらいしか経っていない。
我々は幻を見ているのか?それとも彼が超人なのか?双子か?しばらく二人で思案したけど、足が疲れ過ぎてどうでもよくなった。

青空にはどんなものも似合う。

飛行機だって撮りたくなる。

どことなくフォート・リーの街並みを思い出させる風景。

シアトルはほんとにいい街だ。

最終日のブランチを次男くんとEちゃんが再び付き合ってくれて、シアトル生まれのシアトル育ちのEちゃんお薦めのレストランで、最後の暴食パンケーキを食べる。

そしてこの旅の最後のご馳走はちょっと奮発して、ここ、SHIRO SUSHIでいただくことにした。

カウンター席は予約が詰まっていたので取れたかったのだけど、4人の寿司職人さんたちが面白おかしく話しながら寿司を握ってくれる。

テーブル席の我々も、黙々と、シアトルならではの新鮮な寿司をいただく。






このほうじ茶ムースはマジで絶品。

いっぱい食べていっぱい歩いた。
本当に楽しい旅になったとしみじみ喜びながら空港に。

そして機内に向かう廊下を歩いている時に、自分のスーツケースを見下ろしてハッと気づいたのだった。
セキュリティチェックを受けた際に、スーツケースから取り出したiPadとAmazon Fireを、カゴの中に置きっ放しにしたことを…。
こんなことは初めてで、頭の中が真っ白になったのだけど、もう引き返すことはできないのだから空港に連絡をするしかない。
8ドル払ってインターネットを機内で使えるようにして、空港と次男くんに連絡を取った。
夫からは、こんなことで次男くんを煩わせるなと言われたけど、彼はきっと助けたいと思ってくれるはずで、申し訳なかったけど巻き込むことにした。
次男くんから続々と、空港内で物を失くした場合の解決法が送られてくる。
彼もトーナメントや出張などでいろんな国を周っていて、置き忘れたり盗られたりして大変な思いをした経験があるからと、同情して慰めてくれた。
Appleの製品同士でできる位置検索で、iPadが空港に留まっていることがわかったので、盗まれている可能性が低くなった。
空港の忘れ物課もとても親切で、合計4人の係員と話したのだけど、どの人も親身になって届けを読んでくれたり探してくれたりした。

4人目の人が、長い時間をかけてあちこちに問い合わせてくれて、とうとう見つかったので、次男くんに空港まで取りに行ってもらった。
最後の最後で大失敗をしたのだけど、そのことも含めて今回の旅は、とても思い出深いものになった。
いろいろお世話になりました!みんな、ありがとう!
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この夏の最初で最後の休暇旅行「オリンピア編」

2023年09月18日 | 家族とわたし
シアトルから車で1時間ぐらいのところにあるオリンピア、そこに夫の弟Jと彼の息子のAが暮らしている。
Jは東海岸と都会が嫌いで、大学卒業後からずっと西海岸に居着いているので、同じ国にいてもたまにしか会えない人だ。
今回とうとう西海岸への小旅行を決めたのは、次男くんたちがシアトルに引っ越したこと、Eちゃんのご両親もシアトル近辺におられること、そして厳しい闘病を終え、晴れてサバイバーとなったJに会いたかったから。
というわけで、オリンピアに到着したその日、Jの案内でここに来た。


空は快晴、見渡すかぎり枯れ草の小山だ。
夫が、韓国ドラマでよく見るお墓みたいだと言う。まさに。



これはなんのシンボルなんだろうかと寄って行ったら、蜂がブンブン飛び交っていたので慌てて逃げた。

写真だけだとわからないのだけど、容赦無く照りかかる直射日光がジリジリと皮膚を焦がしていく中を、延々と歩き続けた。

渇水状態でも苔は蔓延っている。

お次は家から歩いて数分の、サウンド(スペルもSound/音と同じだけど、意味は海峡とか湾のこと)の端っこに行った。


ほぼ湖に見える。


苔に侵食されて弱ったのか、弱ったから苔に覆われてしまったのか。

Jの家。手前の建物は彼の木工作業場。

オリンピア第2日目。
今度は車で20分ほど離れている、これまたサウンドの端っこにある湿地帯をテクテク歩くの巻。
木材で作られた道を、再び延々と歩く。



道の両側は、森や湿地やサウンドがかわるがわる顔を見せる。




今は使われてないっぽい巨大な倉庫。

木がどれもこれも境内の御神木並みにでかい。

オリンピア三日目。
今度はサウンドの上を延々と歩く。

ここがほんとにほんとのサウンドの終点。塩っ辛いかどうか降りて行って舐めてみたかったけど、地面が足を取られそうだったのでやめた。少しは大人になったのかも。

いよいよ海上の道に入る。

引き潮時だったので、いろんなものが露出していた。


終点が遥か彼方に。道はまだまだ続く。


海鵜の集団。

アサリがおっきなバケツ百杯ほど獲れそう。

まだまだ続く。

この気怠そ〜な鳥さんたちは誰だろう?風が四方からビュンビュン吹き荒れている中、揺れながら足はびくとも動かないのだった。


こんもりとした森。

風の渦に飲み込まれてしまったみたいな音に包まれながらこんな景色を見ていると、なんだか世紀末の世界に迷い込んだような気になる。

ここにもサウンドの尾っぽが。

途中の休憩所で一休み。

我々はここ(赤い矢印)にいるらしい。

終点まで行きたいのかと途中で聞かれ、もちろん!と答えてしまう自分を心の中でバカバカバカ!と罵るもう一人のわたし…でも頑張りました、はい。

サウンドから離れて駐車場に戻る道すがら、トトロが隠れていそうな穴を見つけた。
頭を突っ込もうとするわたしに、熊がいたらどうする!と叱る夫。いや、おらんて😅

ここの森も弱った木がいっぱい。




真ん中の木は、海鵜の糞被害に遭って枯れてしまったそうだ。



帰り道にもう1箇所、サウンド見学。
ここで聞こえてきたのが…。
不気味な鳴き声

ここは少し前までコウモリの棲家になっていたらしい。彼らはここからシアトルに通っていたそうな。
けれども何やら問題があって、数はかなり減ったらしい。ちゃんと話してくれたのにすっかり忘れてしまった😭。

ここも枯れ野原だったけど、珍しく花を見つけた。

鬱蒼とした森の中を歩く。


Jは優れたコンピュータープログラマーで、木工を趣味にしているのだけど、わたしからすると趣味の域はとお〜に超えているように思える。

彼の作品が家のあちこちで息づいている。




彼は釘を一切使わない。
石谷夏樹さんという、日本人の家具デザイナー&制作家の大ファンで、彼と同じく金具を使わずに木組みで作る。
ISHITANI - Making Amiisu Chairs with Paper cord seat

Jの木組みはどんどん複雑化していって、それらをうまくはめ込むことだけでもとても難しい。


この椅子は中でも最高に難しかったらしい。




経過の苦労と手間を聞いているだけでも深いため息が出るのだけど、実物を見て、手で触って、椅子に座ったり、引き出しを開けたり閉めたりしているだけで、生まれ変わった木の幸せそうな顔が思い浮かんできて、こっちまで幸せな気分になる。

何年分?

Jも息子のAも料理が得意。しかも手の込んだものを作る。
滞在中の食事は全部、彼らの手作り料理で、こちらのベーベキューコンロと中華鍋用の強烈強火コンロが大活躍。


うちのカエデの爺さんと同じく、この家の主。

ダーツ好きのJはここでも遊ぶ。けれどもこれは家の壁を傷つけないためにゴム製なので、的を狙うのはかなり難しい。

Googleで検索すると、この家の周りだけ森になっていて、屋根が全く見えない。



カエルがよくハスの葉っぱの上にいるらしい。



ブドウの木もある。

こんなガレージ、いいなあ…。

前の家主が猫好きだったみたいで、遊び場がいっぱい。

玄関前の敷石

そのすぐ横に、なぜか巨大なピンクの水晶岩がゴロンと置かれている。

朝晩は肌寒いので、薪ストーブに火が入った。


観光案内から食事の世話まで何もかもしてもらったおじゃま虫は、これで退散いたします。

次は最後のレーニア山&シアトル再び編
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この夏の最初で最後の休暇旅行「シアトル編」

2023年09月16日 | 家族とわたし
シアトルから戻ってからというもの、あまりにバタバタしていて、パソコンの前に座るという時間がほぼ持てなかった。
時差はたったの3時間というものの、やはり時差は時差であって、その微妙なズレが頭と体にやんわりと居座っている。
大陸の東の端から西の端まで飛行機で6時間と聞いていたが、実際は5時間ちょっとで着いた。
帰りはさらに短くて、4時間半で戻ってきた。
こちらでは、車で3時間は序の口、4〜5時間は別に大したことがないという感覚なので、それからするとこの飛行時間は、費用の問題さえなかったらちょくちょく行ってもいいかも、という気にさせられる。

アラスカ航空は初めてだったのだけど、尾っぽに先住民の顔がシンボルとして描かれているのが気に入った。

旅に出た日からすでに2週間以上も経っていて、細かいことは忘却の彼方に飛び散ってしまったので、写真を見ながら思い出していこうと思う。

シアトルに着いたのが夜の9時半。
次男くんに空港まで迎えに来てもらい、彼のアパートメントのすぐ近くにあるホテルまで送ってもらった。
朝起きたら曇り空で涼しかったので、朝っぱらから散歩することに。
そして、歩いてみてすぐに気がついたのだった…シアトルの街は坂道だらけだということに…。
まあよい、今回はしっかり歩ける靴を二足も持参してきたのだ。覚悟はできている。

夫が歩いて20分ぐらいのところにある公園まで行こうというので、まあそれぐらいならと歩き始めたが、平坦な道がほとんど無い。
坂道というのは上りと下りがあるわけで、すっかりひ弱になったわたしの足には、そのどちらもがきつい。
旅行の2週間前から始めたYMCA通いだが、水中で運動しているので自分の体重がほとんどかかっていなかったことを痛感した。
平坦な道なら鼻歌級に楽々だった靴が、なぜだか坂道になると不安定というか、いちいちズレるというか、どうにも履き心地が悪く歩きにくくて仕方がない。
これは困った。延々と続くアスファルトの坂道を想定していなかった。思いっきり後の祭りである。

てくてく歩き続けるのが辛いので、写真を撮るふり(いや、実際に撮りたいから撮っているのだけど)をしてこまめに休憩をとる。
わけがわからない不気味なものが…真ん中の背の低い鉄柱?をよ〜くご覧あれ。


シアトルのビルディングは風変わりなのが多い。ビルディングフェチのわたしにはとても魅惑的な街である。

街の端っこにこんな風景があるっていいな。

当然後ろを振り向くと、

個人所有のボート置き場


突如、水上飛行機がやってきた!

ワシントン州は環境問題への取り組み方が半端じゃないと言われていて、だから公共交通機関の乗り物のほとんどは電気。




通りのあちらこちらに乗り捨てられている電動キックボード。
スマホで料金を払い、行きたいところまで使ったらそのまま放置。
シアトルはこのキックボードはもちろん、電動自転車のライドシェアが徹底していて、所定のラックに戻さなくても良いのですごく便利。

晴れているとなんでもかんでも撮りたくなる。


辛いことだけど、ホームレスの人たちが多い。コロナ禍以降、ぐんと増えたのだそうだ。


今年の夏は渇水がひどく、街中の緑もこんなことに。

これはなんでしょか?


イチローはもういないというのに…マリナーズの試合の応援に向かうファンカップル。

モノレール、写真をとうとう取り損なった。


シアトル版、丸ビルツイン。

ランチを一緒に食べようということで、ホテルにやって来た次男くん。
お、Lime(電動キックボード)に乗ってきたではないか。

ホテルから徒歩15分というところにあるギリシャレストランで、なぜかそこで一番美味しいらしいパンケーキとフレンチトーストのどちらにしようかと歯をギシギシ言わせるぐらい悩んで選んだのがこれ。
グルテンフリーを背負い投げして追い払い、ふつふつと湧き上がってくる幸福感と共に食した絶品。

我々が来るからと仕事を2日休んでくれた次男くんと一緒に、観光名所の市場に行った。

スタバ第一号店。

行列が…。コーヒーをやめてから全く足が向かなくなったスタバ。


観光客がいっぱい、と思いきや、結構スカスカ。次男くん曰く、週末になると歩きにくくなるほどギュウギュウに混むらしい。



この魚屋は、客が陳列棚から魚を選ぶと、その魚を陳列棚の奥にいる人に放り投げるパフォーマンスを見せてくれるので有名。
シアトル市場の魚屋さん




こちらは一番美味しいスモークサーモンを売っているという噂の魚屋。

市場の出口近くに巨大なブタの貯金箱が。


市場から出て、次男くんのガールフレンドEちゃんとの待ち合わせ場所に向かう。

ゲゲッ!ここはもしかして…。

はっきり言ってグロテスクな、噛んだ後のチューインガムをベタベタと貼り付けた壁に挟まれた通りである。
辺り一面甘い香りが漂い、汚いんだけど綺麗な気もして…感覚が大混乱すること必至な全長約15メートルの世界。


新たにくっつけたい人たちのために。

彼らのアパートメントに向かう。
シアトルの中心街の新しいビルディングのほとんどがガラス張り。カラフルなビルディングも多い。


彼らのアパートメントはもはやホテル?

ジムやプールがあって、他にもいろんな施設が整っているらしい。


見晴らしが良すぎる部屋からの風景。朝日と夕陽が超きれいだそうだ。



ニードルタワーもよく見える。

ガラス張りのベランダは怖過ぎて、端には寄れない。


夕食は海鮮!だけどまたまた延々と坂道なのが辛すぎる。



きゃ〜!




翌朝、ホテルの部屋で食べた朝食(市場で次男くんが買ってくれたスモークサーモンとスモークスカロプ)。爆ウマ!

シアトル2日目。1日目に歩き過ぎて疲れたので、朝からはゆっくりして、夕方からまた、コリアンバーベキューを食べにテクテク(一部、手すりが必要なほど急な上り坂があったが)歩いて行く。

なぜか広島の街を思い出した。

なんじゃこの高さは!4リットルがこの値段?ニュージャージー州より2ドルも高い!
でもこれも、環境悪化を防ぐためのものだとか…う〜ん、ニュージャージー、いや他の全州も見習うべきなんじゃないのか?

洒落っ気たっぷりのコリアンバーベキュー店。


すでに美味しそう。

食欲がどんどん増してくる。



さすがは食通コリアンアメリカンのEちゃんのイチオシ店。すっごく美味しかった。

虹の横断歩道

アートな壁

シアトルにたった一本しかない地下鉄の駅。


夫とわたしはこれに乗ってシアトル空港近くのレンタルカー屋に行く。

これが切符なのだけど、改札口も何もない。

来た!

中はけっこう混んでいて、空調があまりよくない。

自転車置きがあちこちにある。

空港からバスに乗ってレンタルカー屋に到着。


シアトル三日目。
夜はEちゃんの親御さんたちと会食をする予定になっていて、ホテルもチェックアウトしなければならなかったので、それまでの時間を水族館で潰すことにした。

こじんまりとして可愛いのである。
けれども中に入ってみると、なんとも興味深いものだらけなのである。

波がザブンザブンと押し寄せる水槽。


ヒトデやイソギンチャクやウニに直接触る。





ストレスになるんじゃないかと尋ねたら、触れられることは嬉しいのだそうだ。ほんまかいな?

クラゲさん。

昼寝中のタコさん。

だれ?

ナマコさん。

えっと…。

フグさん。


きれいすぎ!




ニモ〜!

この方はあまりに奇抜すぎて、しばらく見惚れてしまった。


ちびクラゲちゃんたち。

タツノオトシゴさん。

ウルトラQに出てきそうな方々。



ロンリーかもめ。

ここに鮭が実際に帰ってくるらしい。





ヒトデさんの裏側を初めて見た。

キノコとしか見えない。

再びナマコさん。

これもイソギンチャクなのかな?

この方は?


水族館から街を見る。



ラッコもオットセイもいたけど、なんかのんびり休憩してて、無理やり芸とかさせられてなくて、いい感じだった。

ちょっと乗ってみたかった観覧車。

シアトルの横断歩道に必ず設置されている歩行者用のボタン。

水族館まではウーバーで行った。
ずっと下り坂だったので、これをもし歩いていたら…と思うだけでゾッとした。
帰り道、ウーバーが見つけやすい場所までの坂道を、だらだら上って行くよりは階段の方がマシだと思った。
シアトルに住んだらきっと、足腰が強くなるんだろうな。


このけったいなブツは一体…。

会食の場所に早く着いたので、ご近所をちょいと散策。
やはりここも海が近い、シアトルの郊外の町。

野外市場が開かれていた。

タンポポという名前のお店。

ミニコンサートも。

お互いに平気なふりをしていたが、実は夫もわたしも超緊張して入った、待ち合わせ場所のタイレストラン。


Eちゃんのご両親はとても気さくな楽しい人たちで、偶然にもうちの近くに友人が居るらしく、今度はニュージャージーで会いましょうということになった。
こんな親同士の付き合いが、Eちゃんと次男くんのプレッシャーにならないことを願いつつ、でもやっぱりいつかは家族になれたらいいな〜という気持ちもある。
いずれにせよ、若い二人が健康に気をつけて幸せに暮らしてくれることを心から祈りつつ、再会を楽しみにしながらみんなと別れた。

次はオリンピア編。
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