土曜日の朝、急遽カナダに飛んで、ルエルに会いに行った。
ルエルはその二日前の木曜日に、家の中で転倒したまま起き上がることができなくなったが、最愛の妻イライザと家族の大奮闘が実を結び、ユダヤ系のホスピスに入院した。
その知らせを聞いて、すぐにでも駆けつけたかったのだけど、週明けの月曜日の夜には、義父の長年における芸術振興への支援活動が認められ、その功績に対する受賞を祝う会が控えていた。
わたしたち家族は、ただ祝いに行けばいいだけなのだけど、全米から選ばれた5人とあって、錚々たるメンバーや客がやって来る。
だからタキシードだのドレスだの、わたしたちの日常には全く関係のないものが必要となってしまい、慣れないことに右往左往していた。
そんなこともあってぐずぐずと考えあぐねているうちに、あっという間に金曜日が過ぎて、土曜日の午後になってしまった。
夫は何も言ってこない。
どうしたいんだろう?どうしようと思っているんだろう?
それとも今は考えたく無いのだろうか、それとも今週末は無理だと思っているんだろうか。
それを見極めようと様子を見ていたが、さっぱりわからない。
とうとうたまらなくなって声をかけてみた。
「なあ、もう今日は無理やけど、明日の朝、わたしはカナダに行こうと思う。どうせ行くなら、お葬式より会いに行きたい。どう思う?」
夫は最初、キョトンとした顔でわたしを見ていたけれど、みるみるうちに心が瞳に戻ってきた。
それを見てすぐに、ああ、この人は思考停止になってたんだ、とわかった。
それからバタバタと飛行機のチケットを買い、ホテルの予約をして(夫はその間何度も、パソコンに向かって罵声を浴びせていた)、混乱しているイライザの代わりに連絡係になってくれたルエルの弟ロビンにそのことを伝えた。
ルエルとイライザに会いに、これまで何度もカナダに行ったけど、いつも車だったので飛行機に乗るのはこれが初めて。
こんなにちっちゃいんだ…と、乗り込む時にかなりビビった。
一列だけの、前から2番目のわたしの席からは、コックピットがすぐそこ…。
風力発電があちこちに見られた。
別の飛行機が作った筋雲。
モントリオール近辺は、紅葉と畑がとてもきれいだった。
ルエルの父親のテリーが、空港まで迎えに来てくれるのを待っていたら、面白い車が目の前に現れた。
ゾウさんみたいな掃除機車?!
ルエルは、入院してからずっと、こんこんと眠っていた。
病室に入ると、ルエルとイライザの寝室にあった、真っ赤な掛け布団が真っ先に目に入った。
眠っていても声は聞こえる。
イライザに続いて夫が呼びかけると、ルエルの両目がパッと開いた。
イライザの声を聞いて、ニッと笑う彼に、みんながああよかったと、喜びと安堵が混じった息をはぁーっと吐いた。
喉の奥に居座った痰が気になるのか、何度も何度も咳出そうとするのだけれど、うまく行かない。
だからといって飲み物をゴクリと飲むと、体力が相当に弱ってしまっているので、気管に入って肺炎を起こす可能性が大きい。
イライザは、痰を薄める薬を溶いた水を、ほんの少しずつスプーンで与えてはキス、また与えてはキス。
彼らは知り合ってからこれまでずっと、ずっとずっと、本当に愛し合ってきた。
こんなに深く、強く、愛し合っている夫婦を、わたしは他に知らない。
3日ぶりに意識がはっきりしてきたので、食事を勧めてみると、食べたいという意思表示。
よし!とばかりに、イライザがせっせと口に運ぶ。
それを見守るルエルの両親のテリーとリンダ、弟夫婦のロビンとステファニー、そしてわたしたち。
病室の中がパッと明るくなった。
やっぱりここでもイライザのキスの嵐。
あーんと口を開いているのに、食べ物じゃなくてキスだったりすると、顔をしかめるルエル。
いいぞいいぞー!その食欲!
夫は、痰を切るツボと、食べたものをうまくこなせるツボを、イライザに伝えた。
イライザはそれを手帳に書き込む。
わたしも手のひらマッサージをする。
ちっちゃい頃からずっと、夏休みになると湖畔の家に集まり、家族ぐるみで過ごしてきたルエルと夫には、二人だけの秘密や思い出がいっぱいある。
だから夫は、言葉はとても少ないけれど、みんなが気がつかないでいるルエルが欲しいものを、さらっと口に出す。
「この部屋には、ルエルの大好きな音楽が無いね」
病室は相部屋なので、大きな音を出すことはできない。
だから、携帯電話でルエルの好きなアーティストの音楽を選び、それをイヤフォンで聞かせた。
すると、彼の頬がふわりと緩み、体全体がリラックスしたように見えた。
その後、何度も体をひねって横向きになろうとするので、体の向きを変えたいのかと思い、あれこれみんなで手を貸していると、
どうやら座りたいのだなということがわかり、ベッドの高さを調整したり、ずり落ちていた体をよっこらしょと上げたりして、やっと座ることができた。
ふう〜よかったよかった、気持ちいい?などと聞いているそばから、今度は足をベッドの縁に持っていこうとする。
え?なに?
夫がまた、そんなルエルを見て、ポツンと言った。
「立ちたいのか」
小さく頷くルエル。
週末で医者がおらず、看護師も少ない。
そんな時に、わたしたちだけでそんなことをさせていいのか?
みんなが戸惑っていたのだけど、立ちたい!という気持ちを全身で伝えている彼を無視して、再度寝かしつけたい者は一人もいなかった。
よし、やるぞ。
尿管の尿が逆流しないように、尿袋をあちこちに移動させながら、彼のやせ細ってしまった両足をベッドの縁に降ろし、両脇をロビンと夫とで支えながら、なんとか彼を立たせてあげることができた。
彼の両足はブルブルと震えていたけれど、そのあとベッドに戻ったルエルの顔には、大きな仕事をやり終えた人のような、なんとも満足そうな表情が浮かんでいた。
ホスピスの中庭には大きな池があり、立派な鯉が何匹も優雅に泳いでいた。
今頃のカナダはとっくに寒々しい天候になっているはずなのに、気温はなんと20℃?!
なので数人の患者さんたちが、本を読んだり瞑想したり、陽だまりの中で思い思いに過ごしていた。
テリーとリンダ、ロビンとステファニー、そしてわたしたちの6人は、お互いの近況を尋ねたり、趣味の話をしたりした。
最愛の息子、そして兄を喪おうとしている人たち。
けれども、その悲しみに埋もれて自分自身を失うべきではない。
みんなそれぞれの方法で、このとても辛い現実に向き合っていた。
そんな彼らの気持ちを思うと、わたしはただただ、強く抱きしめるだけしかできない自分が歯がゆくて仕方がなかった。
イライザは、わたしと二人きりになるとすぐに、おいおいと泣き出した。
家族の前では涙を見せず、ルエルには笑顔しか見せたくないとばかりに、ずっとずっと微笑みかけている彼女は、
だから本当は、大声を出して、地団駄を踏んで、この世に馬鹿野郎!と叫んで、号泣したいのだ。
その気持ちが腹の底からわかるわたしは、彼女にその機会をなるだけたくさん与えたかった。
全身を震わせて泣く彼女を抱き、肩や背中や頭を撫でて、ルエルにとって彼女がどんなに素晴らしい存在なのかを、
そして、ルエルはもうすぐ死んでしまうけれど、こんなに愛されて、痛みに苦しむこともないまま逝けるのは、彼にとっては不幸中の幸いだと、何度も何度も繰り返して話した。
彼女は愛そのものなのだ。
それも、とてつもなく大きな愛だ。
だから何もしなくてもいい。ただただ側にいてあげるだけでいい。
ルエルの人生に彼女が現れたことは、ルエルにとって人生最高の出来事だったのだから。
そのことはこの夏に、彼本人から、この公園のハンモック吊りの前で聞いた。
彼は同時に、混濁する記憶と闘いながら、こんなことを独り言のように呟いていた。
「僕は死ぬんだろうか。
いつ死ぬんだろうか。
イライザは死ぬんだろうか。
イライザは、僕が見送ってやりたい。
両親も、僕が見送ってやりたい。
僕は何歳まで生きられるんだろうか。
60歳、いや、70歳かな」
くそったれの腫瘍が、彼の脳を食い荒らしていても尚、自分は見守る立場にいたいと願うルエルの優しい心が、わたしたちを包む夕闇の中に溶けていった。
去年の夏は、いつもの湖畔に一緒に行った。
レストランで急に倒れ、ドクターヘリで搬送され、病院をいくつか変えた後に大きな手術を受け、そんなこんなのカオスがやっと落ち着いた頃だった。
カヌーに乗りたいと言い出したルエル。大丈夫かなと心配しつつ、明るく「もちろん!」と答えるイライザ。
そしてなんとこの日、ルエルは泳いだのだった!
一緒に、こんなふうに、毎年夏になるとここで過ごしてきたわたしたち。
来年の夏もここに来られたらいいね。
そう言ってたけど、今年の夏はやはり、湖畔まで行くのは難しくなり、モントリオールの彼らのアパートメントで過ごした。
音楽好きの二人。
いろんなところに散歩に出かけた。
足元がおぼつかない彼は、ついつい遅れをとるのだけど、いつだってこんなふうに、それより遅れて来るわたしのことを心配して、振り向いてくれるのだった。
ちょっとかしこまって。
キス魔イライザ。
彼女はもう、ルエルのことが愛おしくて愛おしくて、その気持ちが溢れ出てしまうのだ。
滞在中もせっせと折って仕上げた千羽鶴に、ルエルが苦しむことなく、この世での生を終えられますようにと祈りを込めた。
ルエルは、今日の1時に、この世を卒業した。
わたしはなぜか、その時間に、ルエルにさよならを言った。
カナダからとんぼ返りをして、義父の祝賀会に駆けつけ、帰りが夜中になり、心身共にクタクタだったのに、その時間まで起きていなければならない気がした。
ルエルは、眠りながら逝った。
イライザからのメッセージにそう書いてあった。
ありがとうねルエル。
わたしたちが行くまで待っていてくれて、わたしたちが来たことをちゃんとわかってくれて、わたしたちが後悔しないように、寂しい思いをしないようにしてくれた。
目を開いて、わたしたちを見て、ちょっぴり微笑んでくれた。
夫の声を聞いて、コクリと頷いてくれた。
口を何回も開いて、食べ物を食べるところを見せてくれた。
座りたい、立ちたい気持ちをわたしたちに訴えて、実際に座ったり立ったりして見せてくれた。
すごく嬉しかった。
とても興奮した。
最期の最期まで、ルエルだったね。
体はもうおしまいになったけど、ルエルの魂は今や自由の身になったから、あちこち飛び回れるね。
ルエル、これからもずっと愛してる。
言うだけ無駄だけど、イライザのこと、見守ってあげてね。
わたしたちも頑張るからね。
またいつか会おうね。