あれれ、気がついたらもう3月になっている。
今年の冬は雪が積もらなかったなあ、などと言っていたら、急に降ってきて6センチほど積もった。
雪を見るのは、お昼間より夜の方が好きだ。
音もなく空から降りてくる雪が、道路や家の屋根や木の枝を、少しずつ白くしていくその時間の静けさが好きだ。
先週の土曜日、マンハッタンのミッドタウンとダウンタウンの間にあるドイツの教会の聖堂で行われたコンサートが、無事に終わった。
ギリギリのギリギリまで、助っ人の演奏者が来るか来ないかとヤキモキしたり、読みやすい楽譜に換えてほしいと言われて慣れない楽譜アプリと奮闘したりして、まさに怒涛の忙しさが数ヶ月続いていた。
65年生きてきたことを思い知らされる疲れの抜けにくさに狼狽え、君の体はここに居るけど心は居ない(だから『忙』なのだと講釈を垂れたかったが我慢した)嘆く夫を横目に、自身の練習はもちろん、新たに始まったピアノレッスンの練習もし、仕事もフルにしていたから、本番前は言葉通りのフラフラだった。
でも、聖堂に一歩足を踏み入れた途端に、そんなこんなの負のエネルギーがぶっ飛んでしまった。
首席指揮者クリストファーのリハーサルが始まり、
わたしはその演奏を聴きながら握り飯を食らう。
そしてわたしの番。
助っ人の一人が来なかったり、楽譜を持ってこなかった人がいたり、ピアノの調律がちゃんとできてなかったり、大なり小なりのトラブルはあったけど、オーケストラのメンバーはまたまたここ1番の演奏をしてくれて、長い時間にもかかわらず、お客さんたちには最後まで楽しんで聴いてもらえたと思う。
演奏会の録音は、そういうことを生業にしているオケのメンバーが本格的にやってくれた。
デジタルで録音された演奏は、残酷なぐらいにカチカチと、それぞれの音を捕まえていたので、聞いた時はうわぁ〜となってしまった。
どこの誰が、どの部分で、どういうふうに他の人たちとズレていたか、そんなことまでが克明に聴こえてくる。
生々しい現実に唖然とし、練習中の録音を怠ったことを大いに反省したが、あの大聖堂の、内にいる者全てを抱擁してくれる温かさと重厚さに包まれて、いつもとは違う響きを発していた演奏も本物だと思う。
いつもなら、演奏会後の夜は終わった終わった〜と安堵して、ちょっとだけ羽目を外し、日曜日は寝坊して、顔も洗わずにだらだらゴロゴロと時間を過ごし、気がついたら夜だった、みたいなふうになるのだけど、如何せん、月曜日の朝にピアノのレッスンを控えていたわたしには、そんなだらだらゴロゴロは許されなかった。
ボーボーの頭をこんこん叩きながら、宿題に出されていた曲の練習を何回かに分けてやり(最近は長時間の集中ができない)、それでも間に合いそうになかったので、翌日のレッスン時間ギリギリまで焦りまくって練習した。
生徒たちの気持ちがしみじみとわかる。
次のレッスンまでに出された宿題の多さに仰天して、いやそれはいくらなんでも…と言おうとしたが、この際ちょっくらチャレンジしてみっかと思い直して、その1時間後には思い直したことを激しく後悔した。
ジュリー先生は、コンサート旅行や録音の合間を縫ってレッスンをしているような人だから、わたしが宿題曲の多さにビビっているのがよくわからないみたいだ。
でも、彼女の感性や構成力にとても共感するし、高度なテクニックや体全体の使い方をたくさん学びたいので、ここは一つ頑張ろうではないかと思っている。
ピアノは肩甲骨はもちろん、背骨や丹田、太ももや骨盤、そして足の裏に至るまで、全てが一つ一つの音につながっている。
そういう肉体的な運動と、耳で聴く、心で歌う、先を見通す、頭で構成するという精神的かつ機械的な働きが、どうやったらうまく共存できるのか。
ピアノはもちろん、多分どんな楽器でもどんな音楽でも、そして個人的に言えば指揮棒を振ることも、学ぼうとすると本当にキリがない。
わくわくするなあ。