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わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

お茶の話24(片桐石州)

2011-12-01 22:18:15 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
小堀遠州の後を継ぎ、将軍家の茶の指導者と成ったのは、片桐石州(かたぎりせきしゅう)でした。

大名茶の完成は、遠州と石州によって、新たな大名茶が構築されたとみられます。

幕藩体制の爛熟期に、石州の茶は柳営茶湯と称されるに至ります。(柳営とは徳川幕府をさします。)

片桐石州(1605~1673年)は、大和小泉藩(一万四千六百石)初代藩主片桐貞隆の長男として

摂津茨木(現、大阪府茨木市)で生まれます。

① 石州の茶の湯

 ) 利休の子、千道安の弟子の桑山宗仙(そうせん)に茶道を学んだといわれています。

   30歳の頃からは、小堀遠州ともよく茶席を共にしています。但し、遠州から直接指導を受けた様子は

   無く、織部や遠州の「茶の湯」と異なり、より利休の流れを汲む、「侘び茶」の色彩の濃い物と

   成っています。

 ) 1633年、京都知恩院の再建を、幕府より命じられ、約8年間京都に屋敷を構えます。

    この間に千宗旦や遠州と知り合い、本格的に「茶の湯」に取り組んだとされています。

 ) 知恩院再建後、郡奉行や普請奉行の傍(かたわ)ら、二百回余りの茶会を開いています。

   この茶会で使われた道具類は、利休創案の黒楽茶碗や、黒高麗茶碗、信楽水指、茶杓には、紹鷗、

   利休、道安、宗仙作が多く使われています。

   石州も自ら、碗形の赤楽茶碗(銘野狐)や、筒型の赤楽茶碗を作っています。

  ・ 当時大名茶道では、楽茶碗はほとんど姿を見せていませんでした。

 ) 1648年、将軍徳川家光の命により柳営御物(りゅうえいぎょぶつ)の分類整理を行います。

   注: 柳営御物とは、徳川将軍家に伝わる、名物茶道具類の事です。家康の遺物を基として、

      それ以降数々の名物が集まってきます。東山御物を始め、珠光所持の墨跡、定家小倉色紙、

      初花肩衝茶入、古銅鶴の一声花入、青磁吉野山花入、利休所持の大霰(あられ)釜など、

      千点余り有ったと言われています。尚、柳営とは一般に、徳川幕府を指します。

 ) 境内全体が一つの茶席として造られた、奈良に慈光院を創建。

    1663年、父の菩提の為に慈光院を創立します。この寺は境内全体が一つの茶席として造られ、

    表の門や建物までの道や、座敷、庭園、露地を通って小間の席へと、必要な場所ひと揃え全部が、

    作られています。尚、庭園は1934年に国の史跡及び名勝に指定され、1944年には書院と茶室

   (高林庵)が当時の国宝に指定されていました。(1950年の文化財保護法により重要文化財となる)

 ) 茶人として注目を浴びるのは、四代将軍、徳川家綱の為に「茶道軌範」を作り、更に1665年

   11月に、江戸城黒書院で将軍家綱や、老中たちに点茶し、茶の作法を披露しています。

   指南書である「茶湯三百ヶ条」はこの時に上進したものと伝えられています。

   その後、家綱の茶道指南役となり、石州の名を不動のものとしました。

  ・ 諸国の大名達も、石州の茶を、積極に受け入れます。徳川光圀、保科正之、松浦鎮信らは、

    茶道における石州の門弟です。

  ) 1661年12月[石州佗びの文]を書き、「茶湯さびたるは吉、さばしたるは悪敷と申事」と

    述べたことは有名です。この意味は、「茶の湯において、自然と古び良い味と成った物こそ良く、

    意図してその様に作った物は良くない」という事で、「人為的侘び」でなく、「天作の侘び」を

    求めるのが良いと説いています。

 ◎ 利休、織部、遠州、石州らは、その時代にふさわしい「茶の湯」のスタイルを作り上げた事が、

  彼らに課せられた使命であったかも知れません。単に上手にお茶が点てられると言う、技術面だけ

  出なく、それらの使命を果たす事によって、後世まで名を残す結果に成ったと思われます。

 以下次回に続きます。
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お茶の話23(小堀遠州)

2011-11-30 21:14:15 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
古田織部亡き後、織部に茶の湯を学んだ、小堀遠州が第一人者として活躍します。

遠州守小堀正一(小堀遠州)の父は浅井長政に仕える武将で、後に秀長(秀吉の弟)、秀吉、家康に

従いました。父の跡を継いで家康に使え、作事奉行として、駿府城、名古屋城天守、伏見城本丸書院、

大阪城本丸、二条城、水口城などの造営に力を発揮します。茶人 、建築家、造園家でもあり、大徳寺

孤篷庵、南禅寺金地院、江戸城西の丸庭園などは、代表的な庭園です。

備中松山藩二代藩主、後に近江小室藩(一万二千石)の初代藩主と成ります。

 ① 遠州(1579~1647年)の茶の湯

  茶の湯は、古田織部に習い、利休とも一度会っている様です。

  織部に続いで、茶道の本流を受け継ぎ、徳川将軍家の茶道指南役となります。

  生涯に四百回余りの茶会を開き、大名、公家、旗本、町人などあらゆる階層の人々で、延べ人数は

  二千人に及ぶそうです。(遠州茶会記集成)

  織部の歪んだ(ヘウケモノ)美はすっかり姿を消し、新しい安定した時代にふさわしい

  優美で均衡のとれた、「きれいさび」と言われる茶の湯を創造します。

  ・ 「綺麗(きれい)さび」とは、さびた中にも、華やぎのある風情を指します。

  王朝文化の理念と茶道を結びつけ、独自の美意識で「書院茶の湯」など茶の湯の和風化を、

  完成させ、遠州流茶道の開祖となります。

 ② 「中興名物」の選定

  小堀遠州の鑑識によって選ばれた茶道具は、一般に「中興名物」と称しています。

  形の整った優美で品格の高い物を好み、茶入その他の銘に、優雅な古歌を歌銘として選びました。

  和歌や藤原定家の書を学び、王朝文化の美意識を茶の湯に取り入れ、彼の選定した茶道具は

  和歌や歌枕の地名、伊勢物語や源氏物語といった古典から取った銘 が多いです。

 ③ 遠州七窯:(遠州七窯という名称が江戸後期ごろ道具商により言われ始めます。)

  志戸呂焼(しどろ)、近江膳所焼(ぜぜ)、豊前上野焼(あがの)、筑前高取焼、山城朝日焼

  摂津古曾部焼(こそべ) 、大和赤膚焼(あかはだ)の七窯を、遠州好み七窯と呼びました。

  (他説には遠州七窯に、古曾部焼のかわりに伊賀焼を含める人もいます。)

  その他、高取、丹波、信楽、伊賀など、国焼の茶陶の指導にも当たっています。

  茶陶の指導に当たり、自らの意匠による茶道具の注文を行なっています。

  それは遠州切形と呼ばれ、型、色、陶土質まで細やかな指導がされていました。

  遠州好みを代表するものとして、面取、瓢箪、耳付、前押、七宝文、菱、箆どり等が挙げられ、

  茶入、茶碗はもとより、茶道具全般の多岐に渡り作らせています。

  ・ 利休が「黒」を好んだのに対し、遠州は「白」を好んで使用します。特に「鳥の子手」と

    呼ばれる、細かい貫入のある白磁の茶碗や食籠(じきろう)を、茶会で使います。

  また、祥瑞(しょんずい)や染付け磁器類を、中国に注文しています。

 ④ 遠州の茶室

  利休は二畳、三畳という小間(こま)の茶室を最上としましたが、遠州は十畳以上の茶室を

  作っています。遠州の菩提寺大徳寺孤篷庵(こほうあん)に作った茶室、「忘筌 ぼうせん)」は、

  書院風の茶室で、侘びた様子ではなく、面取りされた柱や、長押(なげし)などがあり、出入り口も、

  「躙口(にじりぐち) 」ではなく、縁側に明るい障子を用いています。

  大名の社交や 文化の場として書院あるいは「鎖の間」の明るい気分を加えました。

  注: 「鎖の間」とは、書院風の飾りを茶室に取り入れた座敷で、茶の湯を行う座敷と繋がった

    座敷の一種です。

 こうした織部と遠州という大名茶の系譜は、後に片桐石州に受け継がれ、武家方の茶道として

 江戸時代を通じて継承されています。

 小堀遠州の美意識は華道の世界にも反映され、ひとつの流儀として確立され、江戸時代の後期に

 特に栄えます。 その流儀は、正風流・日本橋流・浅草流の三大流派によって確立されました。

以下次回に続きます。
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お茶の話22(織部焼)

2011-11-28 21:39:50 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
織部焼: 極端に変形され、緑釉などが掛けられた、斬新なデザインの茶陶で、自由奔放な趣ある

焼き物が、織部焼です。「織部」の名前の付く器が、最初に記録に出るのは、1642年頃の茶会記から

です。これは、織部切腹後半世紀以上経ってからの事です。

 ① 「ヘウケモノ」の茶碗。 (ひょうきんもの、おどけるの意味)

   「織部焼」は慶長年間(1595~1615年)に出現した、斬新なデザインの茶道具(茶陶)です。

    茶碗、茶入、香合、向付等の他、蜀台や煙管(きせる)まで、多肢に渡っています。

 ② これらの焼き物は、岐阜県土岐市の元屋敷窯の、連房式の登窯で大量に焼かれたものと、

   言われています。この期間は20~30年で終了しますが、短期間に多くのデザインが着けられ、

   京都、大阪、江戸などの消費地に運ばれます。

   古田織部が直接指示して、作らせたと言う事実は明白ではありませんが、織部が世に出た頃と

   時期が一致している為、織部の関与が考えられています。

 ③ 織部焼きには以下の種類があります。

  ) 織部黒: 全体に鉄釉を掛け、瀬戸黒同様の「引き出し黒」の焼成によります。

     多くは、轆轤成型ですが、口縁を歪ませ左右非対称で、沓茶碗になっています。

  ) 黒織部: 一部分窓抜きにし、その部分に鉄釉で文様を描き、更に透明釉(白釉)を掛けた

      物です。絵文様は身近な自然風景や、幾何学文様が一般的です。

   ) 総織部: 器全体に、銅緑釉が掛けられた物で、変形ものは少なく単純な皿や鉢類が多い。

   ) 青織部:  一部に織部釉を掛け、残りの部分に鉄釉(鬼板など)で絵を描き、更に白釉

      (透明系の釉)を掛けた物。織部釉は銅を加えた釉で、酸化焼成します。還元では辰砂に

      成り、赤や赤紫に成ってしまいます。青織部の青はブルーでなく、グリーンの意味です。

      絵模様は、抽象や具象的て、非対称に描かれている物が多いです。
   
      型抜き成型がほとんどで、様々な形状が見られ、環足、半環足と呼ばれる足が付くのも

      特徴です。 主に鉢、向付などの食器が多いです。

  ) 鳴海(なるみ)織部: 釉薬、文様は青織部と同じ技法ですが、素地に収縮率の近い

      白土と赤土を張り合わせて成型します。

  ) 赤鳴海織部: 赤土を素地に使い、鉄絵文様や白化粧土で装飾されていす。
 
      主に平向付、平向付型の茶碗、皿、鉢などに多くみられます。

  ) 志野織部 :  大窯で焼かれた志野(古志野)に対して、登り窯で焼かれた志野を

      志野織部と呼びます。薄作りで焼成時間も短縮され、釉下の鉄絵が鮮明に浮び、繊細な

      線で表現する様になります。ロクロ成型から、型抜き成型が主になって行きます。
 
  ) 唐津織部:  織部の窯で焼かれた唐津風の焼き物です。唐津よりも柔らかい雰囲気です。

      主に、向付などの食器が多く焼かれました。

以上の様に、多種類の織部焼があり、現在でも作られ、人気のある焼物ですが、「織部」と言うと、

青織部と、総織部がほとんどです。

以下次回に続きます。    
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お茶の話21(古田織部)

2011-11-27 22:06:26 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
吉田織部(1544~1615年): 美濃の茶人、織部流茶道の開祖

 信長の美濃平定により、信長に従い本能寺の変後は秀吉に仕え、山城西岡に三万五千石を与えられ、

 更に、秀吉没後には徳川家に茶人として仕える事に成ります。

 ① 利休との出会い

   1582年頃、利休と知り合い、利休が没する直前までの10年間を、門下生(弟子)として、

   密接な関係を保ち、茶の湯を学びます。この10年間は利休が「新しい茶の湯」作り上げた

   時期でもあります。

 ② 茶の湯の名人(多門院日記)

   織部の名前が世に高まるのは、利休没後で1599年には、「茶の湯の名人」と称される様に成ります。

   又、駿府で徳川家康に、点茶する事により、「千利休宗易が貫首弟子」で「点茶の技、当時其の

   右に出る者なし」と、「徳川実記」に記されています。

   1610年には、二代将軍秀忠に茶法を伝授しています。

 ③ 織部のお茶

  ) 将軍や諸大名などの武家を対象とした、茶の湯と考えられます。

    江戸初期の頃は、茶の湯が大名達の必須の教養とみなされ、武家儀礼の一つとされていました。  

  ) 「数奇屋御成」の様式を作り出します。

    従来、御成門(正門)から、茶室に招き入れていましたが、新たに「数奇屋(茶室)門」を設け、

    飛び石伝いに、庭を通り直接茶室に入り、茶が供された後「給仕口」から出て、「鎖の間」で、

    饗応(飲み食い)が行われ、終了後は「数奇屋門」から帰る様式にします。この様式の利点は、

   a) 大勢のお供(家来)等を必要とせず、「お忍び」の形が取れる事です。

     それ故、度々訪問する事が出来た点です。

   b) 迎える亭主も、負担の軽減が計られます。

  ) 利休好みとの決別

   a) 織部は利休と趣の異なる茶室を作ります。利休が究極の「侘び」を追求したのに対し、

    より明るい茶を追求して行きます。即ち、利休の茶室「待庵(たいあん)」が窓を少なくし、

    光の入るのを制限したのに対し、織部の茶室の「八窓庵」では、窓を多く取り、光を多く

    取り入れ、明るい茶室にしています。

   b) 更に、茶室に相伴席(しょうばんせき)を設け、身分や秩序を重んじる、配慮もしています。

   c) 利休の懐石では、質素な一汁三菜が基本でしたが、織部は品数を増やし、更に見た目も

     華やかな食や、食器(向付など)を使用しています。

 ④ 織部の切腹

   1615年4月、織部の重臣木村宗喜が、京都で捕らえられます。罪状は家康、秀忠の暗殺を

   企てた事とされています。この企てに加わっていたとして、織部に切腹の命が下されます。

   織部は何ら申し開きをせず、京の木幡の屋敷で、切腹して果てます。享年73歳でした。

   実際に織部が暗殺を企てたかどうかは、不明ですが、家臣の引き起こした事件の責任を取ら

   されたのかも知れません。

 尚、次回は「織部焼」についてお話する予定です。
   
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お茶の話20(千利休七哲と織田有楽)

2011-11-26 22:16:20 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
豊臣秀吉が没した後、関が原の戦い(1600年)に勝利した徳川家康は、征夷大将軍として江戸幕府を

開きます。(1603年)

次いで大坂冬の陣、夏の陣を経て、1615年豊臣氏は滅亡してしまいます。

利休は、秀吉の茶頭であると伴に、全国の大名達にも「茶の湯」の師匠として、君臨していました。

利休の死後、それらの弟子達によって「利休の茶の湯」は引き継がれて行きます。

所謂(いわゆる)「利休七哲」「七人衆」「台子七人衆」などと呼ばれた人々です。

メンバーに若干の相違がありますが、以下の人々を指します。

1) 利休七哲: 蒲生氏郷(がもううじさと)、高山右近、細川忠興(三斎)、古田織部、牧村兵部、

   柴(芝)山監物(けんもつ)、瀬田掃部(かもん)といわれていますが、瀬田に代わり、

   前田利長(としなが)を挙げる事もあります。

  ① 蒲生氏郷: 信長、秀吉に使え小田原征伐後は、会津若松城主に成ります。

     京を追放された、利休の娘婿の千少庵をかくまい、千家復興に尽力します。

  ② 高山右近: キリシタン大名で、信長、秀吉に仕えますが、秀吉の禁教令に反し、国外追放になり

    マニラで没します。

  ③ 細川忠興: 利休の最も忠実な弟子で、後継者とも言われる人です。

    関が原の戦い後は、豊前小倉藩40万石の城主で、和歌や能などに秀でていました。

    古田織部と伴に、利休が堺に送られる時、禁を犯して淀川の港で見送ります。

  ④ 古田織部: 信長、秀吉、家康に仕えた武将で、駿府城で家康に献茶し、江戸城内では、

    二代秀忠に茶の湯を伝授しています。 織部に付いては後日、詳細をお話します。

  ⑤ 牧村兵部: キリシタン大名、信長、秀吉に仕え岩手城主に成ります。

    「ゆがんだ茶碗」を最初に使用した人と言われています。

  ⑥ 柴(芝)山監物: 始め石山本願寺に属し、後に信長、秀吉に仕えます。 

  ⑦ 瀬田掃部: 秀吉に仕え、近江に領地がありました。

  尚、時代を経るに従い、織田有楽(うらく)、千道安(どうあん)、荒木村重、佐久間不干斎、
 
  有馬玄蕃などの名前が、挙がってきます。

2) 織田有楽(おだうらく): 織田 長益(おだながます)、有樂齋如庵と号す。

  織田信長には、12人の兄弟がいたとされます(有楽は11男)。しかしながら天寿を全うした人物は

  少なく、信長を始め、非業な最後を遂げた方が多かったです。

  その中でも信長の実弟、有楽(1547~1621年)は、戦国乱世の中を生き抜きます。それは、戦より

  茶の湯などの文芸を好んだ事と、何よりも危険な場所から逃げた事とされています。
 
  例えば本能寺の変、信長の嫡男の信忠と本能寺に駆け付けますが、すでに遅くやむなく二条城に

  向かいますが、明智光秀の軍に破れます。その際忠信は自刃しますが、有楽は逃げのびます。

  ① 有楽の茶の湯

   有楽は最初無楽と称しますが、秀吉より無楽では侘しいので、有楽を名乗る様に命じられたと

    言われています。

   ) 武野招鷗(たけのじょうおう)の流れを汲む茶の湯

     利休の弟子では有りますが、利休の侘び茶よりも、招鷗の茶に心引かれた様です。

     招鷗のお茶は、おおらかさが有り、伸びやかな明るさの有る茶で、有楽が愛した有楽茶碗は、

     利休の黒一色の楽茶碗より、厳しさがありません。

   ) 「御成(おなり)」と有楽

     「御成」とは、足利将軍家の公式行事で、幕府の寝殿で行われますが、当時は茶の湯は、

      公式行事に入っていませんでした。その後、秀吉も「前田邸御成」や「三好邸御成」を

      行っていますが、本格的には徳川二代将軍秀忠の頃に、盛んに行われる様に成り、

      茶の湯が正式に執り行われる様に成ります。

      目的は、主従関係の確認でしたが、後には儀礼的行事に成った様です。

     ・ 有楽は、「御成」と言う武家の礼式に、茶の湯を組み込み、定型化して行きます。

     ・ 1618年に客殿・庫裡・書院とともに、国宝の茶室「如庵(じょあん)」を建てています。

       「如庵」はその後、移転を繰り返し現在は、愛知県犬山市の有楽苑に移築されています。
     
     ・ 有楽の茶話は、抹茶は「有楽流」、煎茶は「織田流」として現代に伝えられています。

     ・ 蛇足ですが、東京の有楽町(ゆうらくちょう)の地名は、織田有楽に由来しているとの

      事です。

 以下次回に続きます。
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お茶の話19(利休後の千家)

2011-11-25 22:03:31 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
1) 千家一族の追放

 利休が切腹させられた事により、千家の家屋敷、財産など全てが没収されてしまいます。

 利休一家は離散の憂き目に会います。

 ① 利休には二人の後継者がいました。一人は長男道安(どうあん)です。追放処分を受けた道安は、

  飛騨高山の高森長近(ながちか)を頼り、身を隠しますが、跡継ぎの無いまま病没してしまいます。

 ② もう一人後継者は、利休の後妻(宗恩)の連れ子で、利休の娘のお亀の婿になる小庵です。

  小庵(1546~1614年)は利休とは血の繋がりはありませんでしたが、息子の道安同様に遇せられて

  いました。小庵は京を追われた後、「利休七哲」の一人蒲生氏郷(会津藩主)の下に身を寄せます。

  小庵の子宗旦(1578~1658年)は、大徳寺で僧侶として、修行していましたので追放を免れます。

2) 秀吉の千家赦免と千家の復興

 ① 利休切腹の三年後の1595年頃に、秀吉は突然千家を赦免します。宗旦17才の時です。

  「茶話指月集」(久須美疎安著)によると、秀吉より、長持ち三竿分の茶道具が小庵と宗旦に

   返されたと記されています。小庵は、京に戻り千家として「茶の湯」の活動を再開します。

  ・ 千家の復権に尽力したのは、利休の教えを受けた、徳川家康や蒲生氏郷などの

    実力のある大名達でした。

 ② 小庵は京都本法寺門前に住み、茶の湯を指導しますが、やがて、利休の血を引く、子の宗旦に

   跡を継がせます。宗旦は大徳寺の僧であったが還俗します。

   父小庵の元、「茶の湯」を学び、23才の若さで、千家の家督を相続します。

3) 宗旦の「茶の湯」

 ① 家督を相続した宗旦の元には、多くの大名から「茶の湯」の師匠として、声がかかりますが、

  そうした招きに対し、ことごとく断ります。政治的に深入りし過ぎた、祖父利休の悲劇があった為と

  思われます。但し、当時は大名に仕えないと、経済的にも貧窮しますが、秘蔵の掛け軸などを売り

  費用に当てています。清貧の中で、利休の茶を追い求めます。

  ・ 宗旦は又公家や僧侶達とも交流を深めて行きます。即ち、近衛家の人々や、金閣寺の住職

    (鳳林承章)、柳生宗矩(むねのり)、片桐石州、本阿弥光悦など多彩な交流を繰り広げます。

 ② 唐物からの脱却

   茶の湯は唐物(輸入品)中心の茶道具類を使用する事から、始まります。即ち、茶碗、茶入、

   花生け、軸(掛け軸)などを崇拝、鑑賞する事から始まりますが、次第に和物を尊ぶ用に成ります、

   利休の時代では、和漢折衷の感がありましたが、宗旦は完全に和物中心の茶道具に成ります。

   その背景には、鎖国政策により、唐物が入らなくなった結果、和物を使わざるを得なかった事も

   関係していると思われます。

  ・ 宗旦は特に飛来一閑(ひきいっかん)に、棗(なつめ)、香合、食籠(じきろう)などを

    作らせ、一閑張(いっかんばり)を最上の物と考えました。

   注: 飛来一閑(1578~1657年)京都の江戸前期の漆工。「明」から日本に帰化。

     一閑張: 器胎に糊で紙を貼り重ね、漆を塗て棗や香合などの茶道具を作る方法。

     一閑張は和紙の風合の残る膚に、柔らかな姿など雅味が豊かで、千家十職の一つとり成ります。

 ③ 宗旦の茶室

  宗旦の作ったと言われる代表的な茶室は、裏千家一畳台目の「今日庵(こんにちあん)」と四畳半の

  「又隠(ゆういん)」が著名です。

4) 表千家、裏千家、武者小路千家

  宗旦は自らの信念に基づき、生涯仕官はしませんでした。

  しかし、子供や弟子に対しては、積極的に仕官の手助けをした様です。

  宗旦の家督を相続した三男宗左(そうさ)は、紆余曲折を受けた後、紀州徳川家の茶頭になり、

  表千家の開祖に成ります。 四男宗室は、加賀蕃前田家の茶頭になり、裏千家の開祖に成ります。

  次男宗守は、讃岐高松の松平家に仕える様になり、武者小路千家を起こします。

  (長男宗拙、次男宗守は、大徳寺修行中の15~16歳頃に、名も定かではない女性との間に誕生します)

 以下次回に続きます。

  参考文献:「茶の湯事件簿」火坂雅志著 淡交社
  
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お茶の話18(秀吉と千利休3)

2011-11-24 21:41:13 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
3) 千利休(宗易)の茶の湯

 ④ 利休の茶の湯は、1582年頃から、次第に従来の茶の湯から変化して行きます。

  ) 茶室の草庵化に伴い、茶道具にも変化が現れます。

  a) 楽茶碗の使用: 陶工長次郎(?~1589年)に命じて楽茶碗を作らせ、茶の湯に初めて使用

    しました。室町時代には、青磁や天目茶碗を使うのが慣わしで、侘び茶の流行に伴い

    高麗茶碗が使われ、更に、利休の頃には、楽茶碗が使われる様に成ります。

    1587年秀吉は、京の内野の地に「聚楽第」を築城します。天守閣を持ち二重の堀を巡らせた

    城郭が完成し、その周囲には諸大名の屋敷が立ち並び、利休の屋敷もその北西にありました。

    長次郎の茶碗の「聚楽焼」(楽焼)もこの「聚楽第」にちなんで付けられました。    

  b) 「竹の花入」の使用: 当時は茶会には、唐物の「焼き物の花入」が一般に使われていました。

    又、竹中節(たけなかぶし)茶杓や竹蓋置など、竹製の茶道具が、茶会に登場する様に

    成ります。竹茶杓と竹蓋置の使用は、利休が最初ではありませんが、利休の使用後は、

    一般化していきます。

  c)  利休の禅の師、大徳寺の古渓宗陳の墨蹟(ぼくせき)を茶会に使用します。

    「茶禅一味(さぜんいちみ)」: 禅から起こった茶道は、求める処は禅と同一であるの意味。

     これらの控えめな趣は、利休の美意識の表れであると同時に、今までの茶道具を鑑賞する茶会

     よりも、出席する人物を重視する「一座建立」を強く主張するものと、成っています。

   ・ 一座建立(いちざこんりゅう): 主客に一体感を生ずるほどに、充実した茶会となる事。

     茶会の目的の一つとされ、「一期一会(いちごいちえ)」も同じ意味があります。

   ・ 一期は一生、一会はただ 一度の出会いです。 茶席で、たとえ何度同じ人々が会するとしても、

     今日の茶会はただ 一度限りの茶会であり、 亭主も客も伴に思いやりを持って、取り組む

     べきと教えています。

 ⑤ 利休の切腹

  秀吉の怒りを買った利休は、切腹を仰せ付けられます。

  怒りの原因には色々説がある様ですが、定説はありません。

  1591年、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居(ちっきょ)を命じられます。

  前田利家 や利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが、助命は適わず、

  京都に呼び戻された利休は、聚楽屋敷内で切腹を命じられます。享年70才でした。

  秀吉と利休との蜜月は、1585年の「北野大茶の湯」の頃がピークで有ったと思われます。

4) 秀吉の死: 1598年に京都伏見城で没します。

   五大老筆頭の徳川家康や、秀頼の護り役の前田利家に後の事を託して、胃がんの為没しす。

   享年62歳で、秀吉の死を契機に、慶長の役(二度目の朝鮮出兵)は終了します。

 以下次回に続きます。
      
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お茶の話17(秀吉と千利休2)

2011-11-23 22:27:57 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
秀吉に仕えた茶人は、主に堺の商人達でした。中でも「天下の三宗匠」と呼ばれた、千利休(宗易)、

今井宗久、津田宗及が挙げられます。これら三人は、信長から秀吉の時代にかけて活躍しています。

1) 今井宗久

   武野紹鷗に師事し、茶の湯を学び、後に女婿に成ります。紹鷗没後に、家財と秘蔵の茶道具を

   譲り受けます。 茶人であると伴に、「薬屋宗久」と呼ばれ、鉄砲の火薬を扱う商人でもありました。

   信長が上洛した際には、「紹鷗茄子」や「松島茶壺」を献上し、信長が堺を接収した際には、

   三好家が握っていた、権益(塩座、魚塩座んど)を与えられ、堺五ヶ所の代官を任ぜられ、

   鋳物師を集めて鉄砲の製造も始め、更に、信長の命により生野銀山(但馬=兵庫県)を経営します。

  ・ 信長時代には、茶人や政商として、重要な任についていましたが、秀吉の頃には、やや冷遇された

    様で、「北野社の大茶の湯」では、利休、宗及に次いで三番目と成っています。

2) 津田宗及

  堺の新興商人の天王寺宗達の子として生まれます。家業は廻船や、海外貿易を行っていました。

  ・ 祖父宗柏、父宗達と受け継がれてきた、村田珠光の茶の湯の代表的人物です。

  ・ 信長、秀吉の時代には茶頭、政商として活躍します。特に秀吉の九州征伐の彩には、九州豊後に

    商取引が有った為、博多商人との仲介役として、重用されます。

3) 千利休(宗易)の茶の湯

 ① 堺に生まれた、若き日の利休(1522~1591年)は、茶を北向道陳(どうちん)や、武野紹鷗などに

   学び、更に禅を大林宗套(だいりんそうとう)に学び、頭角を現します。

 ② 信長に仕える茶頭に成ったのは、1575年頃、津田宗及との関係からと見られています。

   信長没後、そのまま秀吉の茶頭を務めます。 

 ③ 大徳寺大茶の湯(1585年)、禁中献茶(11585年)、北野大茶の湯(158年)などの大茶会では、

   茶頭(さどう)として、指導的役目を果たしています。

   茶頭とは、将軍家や大名に仕えた茶の師匠の事で、茶道(さどう)とも称されます。

   茶の事を司る茶人の頭( かしら)の意味との事です。又、亭主に代わって茶を点てる事もあります。

 ④ 利休の茶の湯は、1582年頃から、次第に従来の茶の湯から変化して行きます。

  ) 二畳の茶室を作る

    従来、四畳半(村田珠光の創案)又は三畳であった茶室を、思い切って二畳敷の茶室を造ります。

    (尚、利休は一畳半の茶室を作ったとも言われています。)

   ・ 利点として、狭い空間の中で主客が一層親しみを深めたり、名物の道具類を間近で鑑賞する

     ことができると言う事の様です。

   ・ これは現在「待庵(たいあん)」と呼ばれる、茶室の原型と見られます。

    注: 待庵は柿葺(こけらぶき)切妻造の屋根で、二畳敷の茶室です。     
  
  ) この狭い空間に、「室床」と「躙口(にじりぐち)」を造ります。

    注: 「室床」とは、床の間の一種で、杉材の床柱に三方の壁は土塀で作り、天井は竹材を使い

      立体的な構成となっています。

     「躙口」とは茶室特有の小さな出入り口で、客が部屋に入る時に、にじりながら入る様に、

     したもので、狭い茶室に入るのに、身をかがめて入らなければならず、入った時部屋を

     大きく見せ、床へ眼が向くという効果があるとの事です。

     一説には、茶室に大刀を持ち込めない様にした為とも言われています。

     尚、躙口は客の為のもので、身分の高い人の為には貴人口があります。

   飛び石伝いに、躙口から茶室に入る様式は、後の草庵茶室のモデルとなっています。

 以下次回に続きます。

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お茶の話16(秀吉と千利休1)

2011-11-22 22:07:12 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
3) 黄金の「桃山文化」と茶の湯

 ④ 御所での献茶(禁中茶会)

   1585年10月に、秀吉は正親町(おおぎまち)天皇の御所で、天皇や親王を招いて茶会を開きます。

   名目は関白任官の返礼とされています。天皇を初め皇太子や親王など六人を招いています。

   この席には、利休居士の号を与えられた、宗易が座敷の隅で、公卿や門跡らに茶を点て勧めて

   います。天皇、親王以外ににも多くの殿上人が参席した様です。

   尚、天皇が公式の「茶の湯」に、参加したのは初めての事と言われています。

   翌年にも、秀吉が作らせた組み立て式の「黄金の茶室」を御所に持ち込み、天皇達と茶の湯が

   行われます。

  ・ 武将や僧侶、堺の商人達の茶の湯が、公家達に広がる切っ掛けとなります。

 ⑤ 北野の大茶会(1587年10月1日)

   京都、北野社で大茶の湯が催されます。大徳寺の茶会を上回る規模で、基本的には、大徳寺の

   茶会の様式(やり方)を踏襲しています。 拝殿中央に前出の「黄金の茶室」(組み立て式)を

   運び込みます。その左右には、「平三畳の茶室」が作られ、数々の名物茶道具が飾れていました。

   更に、その南側には、四つの茶室が設けられ、秀吉、利休、津田宗及、今井宗久が、秀吉所持の

   茶道具類(五十種以上)で、茶を点てています。二畳敷の茶室が、800程建ち並び、北野の森を

   覆い尽くしたと「北野大茶会記」は伝えています。

  ・ 北野社は、学問や芸能の神でもある、菅原道真を祭る神社で、民衆も自由参拝できる所で、

   ここを茶会の地とした事も、貴賎の上下無く、誰でも参加できる様にした為と思われます。

  ・ 大徳寺の茶会を大きく上回る規模で、7月には、この茶会の参加を呼びかける高札が、京都、奈良、

    堺などに、掲げられたとの事です。

  ・ この茶会では、利休が大きな役割を果たした様です。利休自身も、堺衆に参加を呼びかける

    手紙を送っています。

  ・ これら大きな茶会の意図するものは、「名物茶道具」を並べこれを誇示する事もありますが、

    「茶の湯」を新しい文化の一環と捕らえ、その保護者として、又広く一般民衆に普及させる

    事により、天下人として、秀吉の権威付けを狙っていたのかも知れません。

 ⑥ 肥前名護屋城の茶会

   朝鮮への侵攻の前線基地である、肥前(佐賀県)名護屋城で、秀吉は諸国の大名と伴に、能や

   茶会を開催しています。15892年、例の「黄金の茶室」が名護屋城に持ち込まれ、茶会に42人の

   客が招かれました。茶道具も風炉、釜、水指、柄杓立、建水、蓋置、井戸茶碗、棗(なつめ)

   茶杓、瓢(ふきべ)の炭斗(すみとり)まで、全て金製品であったと言われています。

   秀吉だけでなく、名護屋城に陣を構えた諸大名や、堺の商人達も、各々茶会を開いています。

   前田利家、徳川家康、織田有楽(うらく、信長の弟)、浅野長政、高山右近、堺の商人の津田宗凡、

   住吉屋宗無などの面々で、各々自前の茶道具を使い、茶会を開いています。

 ・ 名護屋城は、本丸、二の丸、山里丸を備えた、本格的な城郭で、15992年の「文禄の役」では16万の

   軍勢を、ここから朝鮮に出兵させています。

   名護屋城の発掘調査で、能舞台、茶室、飛石などの他、染付、瀬戸天目茶碗、高麗茶碗などが

   見つかっています。ある時期、桃山文化の中心が、名護屋に集まった感があります。   

 以下次回に続きます。
  
 
 参考文献: 「日本史から見た茶道」谷端昭夫著 (淡交社)
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お茶の話15(秀吉と茶の湯)

2011-11-21 22:36:26 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
1) 本能寺の変(1582年6月2日未明)

 毛利攻めの為、信長は京の本能寺に入ります。6月1日彼の収集した50点余りの名物茶器を披露する

 茶会が開催されています。公家衆や僧侶、堺の商人など総勢40人程度が参集したそうです。

 その為、信長は多くの名物茶道具を、本能寺に持ち込みます。総数は38種と「仙茶集」に記載されて

 います。但し、ここに持ち込まれたのは、信長所持の名物の一部と言われています。

 6月2日未明、明智光秀(1528~1582年)の軍が、本能寺を急襲し、信長は自刃します。

 本能寺に持ち込まれた名物茶道具は、灰燼に帰します。例えば、「九十九(つくも)茄子」茶入、

 千鳥香炉、釣花入などが有った様です。

2) 秀吉の天下統一

 毛利攻めに出兵していた、秀吉は毛利と和睦し急遽京に戻ります。山崎の合戦で、明智光秀を撃った後、

 越前の柴田勝家を滅ぼす等、各地の敵対する武将を、屈服滅亡させ、更に1585年に関白に、

 翌年には太政大臣に就任します。天皇の権威を利用し、自分に刃向かう者を「逆賊」と見なし、

 関東の北条氏などを屈服させ、全国統一を果たします。

3) 黄金の「桃山文化」と茶の湯

  秀吉は、佐渡金山、石見銀山、生野銀山(兵庫)などの鉱山を直轄地にし、伏見、大阪、堺、長崎など

  主要な要所を支配し、更に、全国的に「太閤検地」を行います。その結果、膨大な金銀が秀吉の下に

  集まります。この財力により、「桃山文化」が華開きます。

 ① 秀吉に関する茶の湯の記述は、1576年に安土城に移った信長が、築城を命じられた丹羽長秀に、

   功として「珠光茶碗」を与え、秀吉には、宋の牧谿(もっけい)の「洞庭秋月(月の絵)」の

   大軸が下賜されます、翌年には、但馬、播磨攻略の功績により、信長より「乙御前の釜」を

   拝領しています。(信長公記)以上の事から、この頃には、「茶の湯」に勤しんでいた可能性が

   あります。1581年末に、安土城で信長より、「茶の湯道具十二種の御名物」を拝領します。

 ② 大坂城での茶会

   1583年大坂に、新しい城(大阪城)を築き、ここで秀吉は、「道具そろえ」と茶会を開きます。

   集まった客は、松井友閑(ゆうかん)、荒木村重、千宗易、万代屋(もずや)宗安、津田宗及の

   五人でした。各々茶道具を持ち寄り、展覧と茶会を行います。

   持ち寄った数は四十点で、秀吉は「四十石」「松花(しょうか)」「捨子」など茶壷五点、その他

   「初花肩付」「松本茄子」「打曇大海(うちぐもりたいかい)」「月の絵」「蕪無し花入」など

    十六点であったそうです。尚、秀吉は、茶道具類を収集するに当たり、信長の様に強制購入の

    手段(召し上げる)を採らなかった様です。

 ③ 大徳寺大茶の湯

   1585年秀吉は、信長の菩提寺として、新たに大徳寺内に「総見院」を建立し、法要と同時に茶会が

   開かれます。参加者は、秀吉の家来の他、僧侶、京、大坂、堺の茶人約150人で、一番目の席入は、

   大徳寺の僧侶達、二番目は由緒ある家柄の武将、三番目に堺の商人達、四番目以降は自由に席入

   出来たようです。最終的には400人を超えた可能性があります。

   尚、ここでは、宗易、宗及の他、秀吉自らも、茶を点てています。

  ) この茶会の特徴は、今までの少人数の集まりではなく、大勢の参加者がいた事です。

  ) 身分の枠を取り除いて、各界の人物が一堂に会した茶会であった事です。

  ) 従来の茶室や城内ではなく、大徳寺と言う人が集まりやすい場所で、茶会を開いた事です。

 この結果、京や堺などの狭い茶人の範囲から、より広い人々に「茶の湯」が広がります。

 以下次回に続きます。
  
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